日本の土地が大変なことになっている。
所有者不明の土地が、なんと九州全土より広いのだ。
自分の土地や家をまだ持てない人達よ。
この事態は、にわかには信じがたいことだろう。でも、本当のことなのだ。
東京都内の新築マンション価格は、一戸1億円を超えた。
定年が過ぎるまでの多額のローンを組んでも、庶民は買うことはできない。
それなのに、全国では空き家が今も増え続けている。
所有者不明の土地問題の入り口は、この空き家問題なのだ。
瀬戸内海の離島に遊びに行ったとき、島のほとんどの家には雨戸が立てられていた。
若者はもう島には戻らず、親たちは死に、空き家が残されたままだった。
離島や限界集落だけのことではない。
全国どこでも、ぼくの住んでいる団地でも空き家はどんどん増えている。
東京の世田谷区でさえ、空き家は増え続けているという。
子ども達は、就職や結婚などで生まれ故郷を離れ、親元から巣立つ。
都会で暮らしている子どもたちは、盆正月以外は生家に戻ることはほとんどない。
両親が亡くなれば生家は古び、誰も住むことなく放置されるのだ。
生家が大都市の一等地だったら、子ども達は死闘を繰り返しながら相続するだろう。
でも、それほど資産価値がない家は、子ども達・親族の誰もが相続したがらない。
固定資産税は払い続けなければならず、今は取り壊しにも数百万円が要るからだ。
このような事態には、遺産相続に関する戦後の民法改正が大きく関係している。
戦前は親の相続は、次の戸主となる1人への家督相続だった。
早い話が、多くは長男のみへの相続だが、長男は家存続の面倒一切を負った。
戦後民法では、簡単に言えば、残された伴侶・兄弟皆へ分けて相続させる。
こうして、亡くなった親の不動産は、細分化して相続されることになった。
それは、「たわけ~!」と悪態で使う言葉を、どうしても思い起こさせる。
たわけは「田分け」から来ている。
田畑を子どもの人数で分割して相続していくと、田畑の面積は小さくなる。
どんどん代を重ねるごとに、収穫高も減って家系が衰退する。
そして、そのような愚かなことをする者を「たわけ者」と呼ぶようになった。
親の財産を平等に分けても、結局は誰もが食べていけなくなる。
そんなことはせずに、財産は家督を継ぐ長男にくれてやれということだ。
戦後の民法改正は、家族の中においても民主主義実現を推し進めた。
いかにも近代的で、相続の上でも人間平等の精神を具現化したようにも映る。
でも皮肉にもその帰結が、この九州全土よりも広い所有者不明の土地問題なのだ。
だから今の日本人を、ご先祖様たちは「たわけ~!」と一喝しているに違いない。