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中東、そもそもの歴史から見つめ直すと言うこと、
植民地世界を成立させたのは、植民者と被植民者、両者の接点は暴力である.
脱植民地化の過程においては、植民者とのあいだで、交渉や平和的協定と言うのはありえない、
文明人はヨーロッパ人だけか?
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現在のシリア・イラクやその周辺諸国の問題、また西洋諸国で相次ぐテロについて、古代オリエントからさかのぼり、その「オリエント」について概説し、現代社会が抱える問題の根本を探る。
オリエントの誕生、興隆、そして、“産業革命”以降のオリエント社会の衰亡を、各章ごとに説明する。
一貫しているのは、オスマントルコ帝国に代表される、オリエント世界の「寛容さ」である。
「寛容さ」があった時代(国家)と「寛容さ」を失いつつある現代(多くの国家)を痛感する。
現代の欧州の文化の基礎となっているのは、優れたオリエントの文明を享受したからである。
そして、戦乱時には、ギリシアやハンガリーなどの国々から、時にユダヤ人、キリスト教徒も、その「寛容さ」で受け入れ、宗教歴、人種的な差別もなく支援した。
果てして、現代世界はどうか?
いろいろ多くのことを知る本となった。
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[緩やかなモデルの崩壊]「イスラム国」やシリア内戦,リビアやイエメンにおける危機など,多くの困難を抱えているオリエント地域。「寛容」によって秩序が保たれていた同地域の歴史を振り返りながら,処方箋を考えていく作品です。著者は,静岡大学で教鞭を取られていた宮田律。
古代から現代まで,オリエント地域の歴史を概観するのに適した作品。他方,今日の中東が抱える問題の原因を,欧米やロシアの政策という点に落とし込み,解決策は「寛容」(というぼんやりとしたキーワード)にあるとしか言えないところに,中東の問題の根の深さを逆に感じました。
〜イスラム世界と欧米が共存していくには,この両者の関係における「よかった過去」を思い起こすことが必要だ。もちろん「よかった過去」もあれば,「よくなかった過去」もある。いずれもが,人類がやって来たことであり,もはや否定することは出来ない。だからこそ求められるのは,そう「寛容」なのである。〜
日本の中東研究を研究する上でも良い一冊かと☆5つ
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英仏などの策略の数々でぐちゃぐちゃにされたオスマン帝国.ミレット制という宗教の自由を標榜する国は寛容の精神を持った素晴らしい国だった.中東の歴史をあらためて学び直せる好著だが,何とか読破した.簡単にまとめることはできないが,1916年のサイクス=ピコ協定とレーガン時代の米国のイラン・コントラ事件が現在の混沌とした情勢を生み出した原因だと思った.
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中東・イスラム地域の通史だが、特にオスマン帝国の末期以降は詳しく書かれている。
ゾロアスター教は、紀元前1000年頃、イラン高原東北部(あるいはカザフスタン)で生まれた。最初に天と水が、そして世界は水の上に創造された。創造主であり全能の神アフラ・マズダーと、それと対立する破壊霊アンラ・マンユが存在する善悪二元論。善悪の判断は各自に委ねられるが、最終的には神によって裁かれる。背景にはメソポタミアの混乱があったと考えられ、多彩な民族、宗教が衝突する争いを、善行という最低限の価値観のみを掲げることによって安定に導くことに気づいたのだろう。これが、その後のアケメネス朝の寛容の精神を生み出した。
善悪二元論と寛容の倫理は、ほぼ原形をとどめたままイスラムに継承されている。イスラムが拡大していく過程でアラブ・イスラム軍が求めたのは、イスラムに改宗するか、改宗せずに税を払うか、イスラムと戦うかという選択だったが、信仰を拡大したのは、キリスト教世界にあった階級的な価値観を否定し、神の前の平等を唱えたことが大きい。
16世紀にポルトガルがインドへの航路を開拓した後も、オスマン帝国とインドやスマトラ島との通商関係は維持され、イエメン産のコーヒーがヨーロッパで人気が高まると交易は盛り返した。しかし、イギリスとオランダがインドと東インドに植民地をつくって香料貿易に直接参入すると、オスマン帝国の輸入は国内消費のみを対象とするようになり、ヨーロッパの国々は1625年に陸路で輸送する香料貿易を断った。
ヨーロッパの産業革命によって、地理的に近いオリエントはさらなる原料と新たな市場を求められた。エジプトとシリアからは綿が、アナトリアとイランからはタバコ、レバノンからは絹がヨーロッパに送り込まれ、ヨーロッパで加工された商品はオリエントに輸出された。1825〜52年の間にイギリスからオスマン帝国への輸出額は8倍になり、オスマン帝国からイギリスへの輸出額の4倍になった。オリエントの貿易収支は悪化し、伝統的産業も壊滅していった。オスマン帝国は、ヨーロッパと肩を並べて経済を回復するために、軍隊や官僚機構の近代化を図り、鉄道、港湾、道路などを建設し、灌漑施設も整備したが、すでに400年続いていた統治機構は疲弊・腐敗していたため、投資はそのまま負債となり、1875年に元利償還不能に陥って財政破綻した。債権国は、1881年に帝国の債務管理局をつくって各種の税を直接徴収するようになり、国家の主権は奪われた。
黒海から地中海に抜けるボスポラス海峡の支配を悲願とするロシアは、19世紀に入るとキリスト教徒の保護という大義でオスマン帝国のバルカン地域に進出した。ロシアは、1812年にバッサラビアを併合し、モルダビアやワラキア、セルビアを保護下において自立させ、1832年にはギリシアも独立させた。オスマン帝国の親交国であったフランスが普仏戦争で敗れると、ロシアの工作によってバルカン半島各地で暴動が発生し、1878年にセルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立し、ブルガリアも事実上ロシアの支配下となった。
1908年、青年トルコ党が��兵してスルタンを退位させ、立憲君主制の軍事政権を立ち上げた。この混乱を衝いてイタリアがトリポリやキレナイカ(リビア)を占領し、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアが宣戦布告した。青年トルコ党は、国家の近代化を求めて軍事面ではドイツに頼り、この関係が第一次世界大戦へとつながっていった。オスマン帝国はドイツと同盟して戦い敗れたが、最後まで連合軍に食い下がって苦しめた。イギリスは、トルコ民族主義を苦々しく思うメッカのアミール(総督)であったフサイン・イブン・アリーと密約(フサイン=マクマホン協定)を交わし、1916年にオスマン帝国に対して反乱を起こさせた。同時に、イギリスとフランス、ロシアはオスマン帝国を分割する秘密条約(サイクス=ピコ協定)を交わし、イギリスはパレスチナとヨルダン、イラク南部を、フランスはイラク北部、シリア、レバノンを獲得した。ロシアはトルコ東部、イスタンブールとボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を支配することになっていたが、翌年の革命により実現しなかった。イギリスは、アメリカとロシアのユダヤ人世論の支持を得るために、1917年にバルフォア宣言を出して、パレスチナのユダヤ人民族郷土を建設する約束をした。
第二次世界大戦の莫大な戦費によって財政難に直面し、次々に植民地を放棄していったイギリスに代わって、アメリカはソ連などの社会主義陣営に対抗するため、オリエントに自由と民主主義をもたらすという理念を掲げて介入していった。トルーマン大統領は、共産主義の脅威を強調して、ギリシア、トルコに対する経済・軍事援助を求めるトルーマン・ドクトリンを表明し、19世紀の孤立主義から転換した。
イランは1953年の王政以降、アメリカの信頼を得て軍事予算を増額し、アメリカの武器の最大の輸出先となった。ケネディ政権の圧力を受けて、1960年代に婦人参政権の導入や農地改革などの非イスラム的な改革を断行し、これを非難する聖職者を弾圧した。1970年代には、原油価格の乱高下によって経済が翻弄されたため、増税やインフレによって社会の不満が膨れ上がり、1979年のホメイニによる革命が起きた。
1980年、イラクはアラブ系住民の多いフゼスタンの石油獲得を目指してイランに侵攻した。レーガン政権は、イラクのフセイン政権と友好関係を結んだ。イランは、王政時代に大量に購入したアメリカ製の武器に使用できる弾薬やスペアパーツを入手するために、イスラエルとの石油取引に応じた。1982年には、パレスチナ難民の流入によって混乱していたレバノン南部にイスラエルが侵攻し、シーア派武装集団によるゲリラ活動を引き起こして、事態は泥沼化した。中米のニカラグアでは、1979年にサンディニスタ左翼政権による革命が起きていた。レーガン政権はイラクの支援をしながらも、国会の承認なしにイランにも武器を売却し、その代金をニカラグアの極右武装集団コントラに与えていた(イラン・コントラ事件)。一方、アフガニスタンに共産党政権が成立し、イスラム教徒のムジャヒディンが反乱を起こすと、ソ連は1979年に軍事介入した。レーガン政権は、ムジャヒディンに対して軍事援助と軍事訓練を行ったが、その中にオサマ・ビンラディンがいた。サダム・フセインもオサマ・ビンラディンもアメリカが生み育てた。
イラク戦争後にアメリカが作り上げたシーア派主体の政府は権威主義的方策をとったため、スンニ派の人々がイスラム国を支持する背景になった。
タイトルの問いに答えるならば、オスマン帝国は、近世のヨーロッパの海路開拓によって衰退し、近代の産業革命によって食い物にされ、それでも第一次世界大戦では最後まで食い下がって苦しめたために、イギリスとフランスによって分割されてしまった。戦後は、ソ連の共産主義への対抗政策をとったアメリカによって、イラン、イラク、アフガニスタンが次々に軍事的介入を受け、過激派を育てて戦場になってしまった。ゾロアスター教やイスラム教が育んだ寛容の精神が、西洋によって無残にも壊されてしまったことを嘆かずにいられない。
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紀元前より、オリエントでは、アケメネス朝のサトラップによる支配、シルクロードや砂漠での交易による文化の融合や共存システムの確立、イスラームの誕生、オスマン帝国のミッレト制、というように、繰り返す戦争の中で、必ず「寛容」というひとつの答えを導き出し、民族や国家、宗教の垣根を越えた文明を生み育んできた。
しかし、欧米の国家システムや価値観の流入によって新たな対立軸が作られ、現在その寛容の精神はもはや見いだせなくなった。
歴史というものは人間が作るものであり、作らずにおくことも、書き直すことも可能だ。(サイード)
自らの利益だけを追求するのでは無く、忘れ去られた「寛容」の精神を振り返り、それに則って歴史を書き直すことで、現在中東に留まらず様々な対立は解決の道を辿れるはずだと思う。
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オリエントは古来より高い文明を築き上げてきた。アケメネス朝のペルシア文化はセレウコス朝シリア、パルティア、ササン朝ペルシアと引き継がれた。そしてササン朝とビザンツ帝国が繰り返す戦争のさなかにイスラム教が生まれてきた。ウマイヤ朝、アッバース朝と勢力を拡大してきたイスラム圏は、11世紀にセルジューク朝がアナトリアをイスラム化したことで、ヨーロッパ圏とぶつかることになる。よって始まったのが十字軍だが、その十字軍が終わるころに台頭してきたのがオスマン帝国だった。本書のキーはオスマン帝国にあると言っていいだろう。オスマン帝国は異教徒をミッレトに組織し、自治を認める寛容な政策をとっていた。これはオリエント世界がアケメネス朝の頃から生み出してきた知恵である。
だが、大航海時代を経て産業革命が始まると、オスマン帝国は原料をヨーロッパに輸出し、安価な製品を仕入れる、いわばヨーロッパのマーケットになってしまった。アナトリアが地中海からインドの方へ出て行くところにあった、というのがオスマン帝国の運命を決めてしまったと言ってもいいのではないだろうか。各国はアジアへの入り口を抑えたがり、オスマン帝国は特に英仏露に翻弄される。
WWIを経てオスマン帝国は消滅し、複数の国ができて英仏の管理下に置かれた。さらにWWII後、英仏は財政悪化のためにこれらの地域を手放すことになる。ソ連の進出を抑えるために、アメリカが中東政策に関与するようになった。アメリカではユダヤ人コミュニティが非常に強いため、アメリカはイスラエルを支援し、湾岸戦争、イラク戦争などイスラエルの敵国を押さえ込んできた。そのことが2015年頃のイスラム国の台頭を招いている。
もはやオリエントには、オスマン帝国時代に見られた寛容の精神が失われてしまったことを筆者は強調している。
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1. オリエントの歴史的背景と文化的多様性
オリエントは多様な民族、文化、宗教が共存してきた地域であり、古代から続く交易や文化交流が重要な要素とされてきた。歴史的には、オスマン帝国の時代に見られた平和(パックス・オスマニカ)が特に強調される。この時代の平和と繁栄は、現在の混乱とは対照的であり、過去の共存の重要性が再評価されている。
2. 現代におけるオリエントの問題
現代のオリエント地域は、紛争や暴力が続いており、特にイスラエルとパレスチナの問題は国際的な注目を浴びている。これに対するヨーロッパ諸国の態度も変化しており、フランスやスウェーデンなどがパレスチナ国家の承認を進めていることが挙げられる。これは、過去の歴史的な罪に対する反省から来ているとも考えられる。
3. クルド人の問題
クルド人は、サイクス・ピコ協定において無視された民族であり、彼らの国家を持たないことが大きな問題となっている。第一次世界大戦後、クルド人は独立国家を求めるようになり、様々な国際的な協定が彼らの希望を一時的に支えたが、実現には至っていない。
4. イスラムと西洋の関係
イスラム世界と西洋の関係は、共存の歴史がある一方で、対立も続いてきた。サイードの言葉を借りると、西洋が抱える「反ユダヤ主義」と「ホロコースト」の問題が、イスラエルによるパレスチナ人への抑圧の正当化に使われている。これに対する国際的な反応として、ヨーロッパ各国の政策が見直されている。
5. 共存の必要性
最終章では、オリエントの地域が持つ歴史的な共存の価値を再評価し、未来に向けての「寛容」が求められている。過去の良い面や悪い面を理解し、互いに受け入れることが、和平への道であると強調されている。特に、イスラム文化と西洋文化の相互理解が重要であり、これに基づく新たな関係構築が期待されている。