コナン・ベディエ
コナン・ベディエ Konan Bédié | |
任期 | 1993年12月7日 – 1999年12月24日 (1995年10月22日まで暫定大統領) |
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首相 | アラサン・ワタラ ダニエル・カブラン・ダンカン |
任期 | 1980年12月2日 – 1993年12月7日 |
大統領 | フェリックス・ウフェ=ボワニ |
任期 | 1968年9月23日 – 1977年7月27日 |
大統領 | フェリックス・ウフェ=ボワニ |
出生 | 1934年5月5日 フランス領西アフリカ コートジボワール植民地 ダオクロ |
死去 | 2023年8月1日(89歳没) コートジボワール アビジャン |
政党 | コートジボワール民主党 |
受賞 | |
出身校 | ポワティエ大学 |
配偶者 | アンリエット・コナン・ベディエ(1957年 - 2023年) |
子女 | 4人 |
宗教 | キリスト教カトリック |
エーメ・アンリ・コナン・ベディエ(フランス語: Aimé Henri Konan Bédié, 1934年5月5日 - 2023年8月1日[1])は、コートジボワールの第2代大統領(在任:1993年 - 1999年)。
経歴
[編集]前任の「建国の父」フェリックス・ウフェ=ボワニが在任中に死去したため、憲法上の規定に従い国民会議(国会)議長から暫定大統領に就任。しかし、ウフェボワニの築き上げた体制を維持する力はベディエには無く、経済は停滞し、政府の統治能力及び求心力は減退していった。
このため1995年の大統領選挙は不利と見られていたが、有力対抗馬のアラサン・ワタラがブルキナファソ系であることに目をつけ、国籍法改正によりコートジボワール生まれの者だけが大統領選に出馬できるようにしたため、野党勢力のボイコットの中大統領選に勝利し、正式に第2代大統領となる。
また、ワタラ排除や経済社会状況打開のため、イヴォワリテ(コートジボワール人性)政策を採ってナショナリズムを煽った。ブルキナファソやガーナ、マリなどから来た移民の開拓した農地を認めず、南部の在来集団に有利な政策をとった。また、宗教的に差異のある北部(北部はイスラム教、南部はキリスト教)も、イヴォワリテ政策により冷遇されることとなった。
しかし、コートジボワールにおける移民の割合は26%にも達しており、コートジボワール経済の要であるカカオ生産を担っていたのは彼らであったため、この政策は加速度的に混乱を深めさせていくだけだった。さらに、北部はこの政策によって南部と対立を深め、後の内戦の重要な要因となった。
1999年12月24日、ロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、ベディエはフランスに亡命。しかしゲイが選挙に失敗し逃亡すると2001年に帰国し、2002年4月にコートジボワール民主党 (PDCI) の党首に再選された。
2010年コートジボワール大統領選挙にも出馬したが、第一回投票にてローラン・バグボ、アラサン・ワタラに次ぐ第3位の得票数で敗退した。
2021年11月、PDCIシンポジウムの終盤にPDCIはベディエを和解担当の特別顧問に任命することを約束した。彼の選択は、元プラトー市長で党の副党首であるノエル・アコッシ・ベンジョに委ねられた。
2023年8月1日、死去した。死因は不明[1]。89歳没。
脚注
[編集]- ^ a b “Décès du Président Henri Konan Bédié à la Pisam : La Côte d'Ivoire perd une figure politique” (フランス語). (2023年8月1日) 2023年8月2日閲覧。
公職 | ||
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先代 フェリックス・ウフェ=ボワニ |
コートジボワール共和国大統領 1993年 - 1995年は暫定大統領 第2代:1993年 – 1999年 |
次代 ロベール・ゲイ |
コートジボワール共和国経済財務大臣 第3代:1968年 – 1977年 |
次代 アブドゥライ・コネ | |
議会 | ||
先代 フィリップ・ヤセ |
コートジボワール共和国国民議会議長 第2代:1980年 –1993年 |
次代 チャールズ・ボーザ・ドンワイ |