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ヤニック・ノア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤニック・ノア
Yannick Noah
ヤニック・ノア
基本情報
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・スダン
生年月日 (1960-05-18) 1960年5月18日(64歳)
身長 193cm
体重 81kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 2005年
ツアー経歴
デビュー年 1976年
引退年 1996年
ツアー通算 39勝
シングルス 23勝
ダブルス 16勝
生涯通算成績 689勝319敗
シングルス 476勝210敗
ダブルス 213勝109敗
生涯獲得賞金 3,440,600 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1990)
全仏 優勝(1983)
全英 3回戦(1979・85)
全米 ベスト8(1983・85・89)
優勝回数 1(仏1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(1990)
全仏 優勝(1984)
全英 ベスト8(1987)
全米 準優勝(1985)
優勝回数 1(仏1)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 準優勝(1982)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 3位
ダブルス 1位

ヤニック・ノアYannick Noah, 1960年5月18日 - )は、フランススダン出身の歌手で、元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。身長193cm、体重81kg、右利き。

1983年全仏オープン男子シングルス優勝者で、フランス人の男子選手としては現時点で最後のグランドスラム大会シングルス優勝者である。

サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、華麗なパフォーマンスで高い人気を持っていた。

2015年9月よりデビスカップフランス代表監督に就任。

選手経歴

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ヤニック・ノアの父親はカメルーン出身で、フランスのCSスダン・アルデンヌで活躍していた元プロサッカー選手であり、母親はフランス人であった。父親は試合中の怪我によりサッカー選手を引退してカメルーンに帰国したため、ヤニックもカメルーンで育った。ヤニックが11歳の時、黒人テニス選手の先駆者として活躍したアーサー・アッシュがカメルーンを訪問した際、ヤニックの非凡な才能を見出し、アーサー・アッシュの全面支援の元で、南フランスのニースでテニス選手としてのキャリアをスタートさせた。子供の頃からジミ・ヘンドリックスなどの音楽に憧れたが、職業はテニス選手の道を選び、1980年にプロ入りする。1983年全仏オープン決勝で、ノアは大会2連覇を狙ったスウェーデンマッツ・ビランデルを 6-2, 7-5, 7-6 で破り、地元の大会で1946年マルセル・ベルナール1914年 - 1994年)以来37年ぶりのフランス人男子シングルス優勝者に輝いた。これを最後に、フランス人の男子テニス選手は4大大会のシングルス・タイトルを獲得できない状態が続いている。

1991年に現役を引退し、男子国別対抗戦・デビスカップや女子国別対抗戦・フェドカップの監督として、フランス・チームを優勝に導いた。デ杯の優勝は1991年1996年の2度達成し、フェド杯も1997年に初優勝を実現させている。2005年7月9日に国際テニス殿堂入りを果たした。現在はもうひとつの 夢であった歌手として世界的に活動している。また、自身の名を冠した基金を設立し、テニスを通じた若者への慈善事業も行っている。これは自らもまた、アーサー・アッシュの力添えで成長したことに拠るものである。

ヤニック・ノアはこれまでに2度結婚している。最初の夫人は1978年のミス・ユニバースのスウェーデン代表で、モデルとして活躍後に彫刻家に転向したセシリア・ロディ。なお彼女との間に生まれた子供の1人がNBAバスケットボールのシカゴ・ブルズに所属するジョアキム・ノアである。ジョアキムはNCAAトーナメントで、フロリダ大の中心選手として2連覇を達成した後、シカゴ・ブルズに入団した。また2番目の夫人は1980年代から1990年代初頭にかけて、スーパーモデルとして人気を博したイギリス出身のヘザー・スチュワート・ホワイトである。そして現在は音楽関係のビジネスに携わるイザベラ・カムズと暮らしている。

4大大会シングルス成績

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略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 SR W–L Win %
全豪オープン A/A 1R A 1R A A A A A NH QF 4R 1R SF 0 / 6 11–6 64.71
全仏オープン 1R 3R 2R 4R QF QF W QF 4R 4R QF 4R 1R 3R 1 / 14 40–13 75.47
ウィンブルドン A 2R 3R A 1R A A A 3R A 2R A A 1R 0 / 6 6–6 50.00
全米オープン A 1R 4R 4R 4R 4R QF A QF 3R A 2R QF 2R 0 / 11 28–11 71.79
Win–Loss 0–1 3–4 6–3 6–3 7–3 7–2 11–1 4–1 9–3 5–2 8–3 7–3 4–3 8–4 1 / 37 85–36 70.25

歌手経歴

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1990年からテニスキャリアと並行して歌手としての活動を始め、1998年以降は歌手活動に専念している。処女作である「Saga Africa」はアルバム「Black & What!」に収録され、1991年夏のヒット曲となった。1993年にはアルバム「Urban Tribu」をリリース、収録曲「Get On Back」で成功を収める。その後1998年にアルバム「Zam Zam」をリリースする。歌手デビューからしばらく大ヒット曲を生み出すことはなかったが、2000年にリリースした4枚目のアルバムである「Yannick Noah」が成功を収め、収録曲のひとつである「Simon Papa Tara」がヒット曲となった。さらに2003年リリースの「Pokhara」もヒットし、2006年リリースのアルバム「Charango」は115万枚以上を売り上げた。

2015~2018年の間は活動を休止し、フランス代表チームのデビスカップ及びフェドカップ(現ビリー・ジーン・キング・カップ)の監督を務めていた。2019年「Bonheur Indigo」で復帰し、現在も歌手活動を続けている。

慈善活動

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ヤニック・ノアは慈善活動にも積極的に取り組んでおり、1988年に母親のマリー・クレールが設立・運営している慈善団体「Enfants de la Terre」を支援している。また、彼は1996年に貧しい地域や郊外に住む恵まれない子供たちのためにテニスを通じて支援する慈善団体「Fête le Mur[1]を設立している。

外部リンク

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  1. ^ Fête le Mur - Le tennis contre l'exclusion | Fête le Mur” (フランス語). 2024年12月9日閲覧。
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