喜多壯一郎
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喜多 壯一郎 きた そういちろう | |
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生年月日 | 1894年2月24日 |
出生地 | 石川県 |
没年月日 | 1968年1月28日(73歳没) |
出身校 | 早稲田大学 |
前職 | 早稲田大学教授 |
所属政党 |
(立憲民政党) (翼賛政治体制協議会) 改進党 |
選挙区 | 石川県第2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1936年2月20日 - 1945年12月18日 1953年4月19日 - 1955年1月24日 |
喜多 壯一郎(きた そういちろう、1894年2月24日[1] - 1968年1月28日[2])は、日本の衆議院議員(立憲民政党→改進党→日本民主党)。法学者。専門は国際法。
経歴
[編集]石川県羽咋郡北大海村(現在の宝達志水町)出身[3]。1917年(大正6年)、早稲田大学英語政治科を卒業した後、アメリカ合衆国のノースカロライナ州立大学大学院、プリンストン大学、ジョンズ・ホプキンス大学、スイスのチューリッヒ大学に留学した[1]。1922年(大正11年)に帰国し、早稲田大学で講師として「新聞研究講座」を担当[1]。また第一早稲田高等学院教授を務めた[1]。1925年(大正14年)に再び留学し、アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスの大学を視察した[1]。1928年(昭和3年)に帰国後、早稲田大学新聞学会会長、同講演部長、教授に就任した。
1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。さらに第20回、第21回でも再選を果たし、米内内閣で商工参与官を務め、また国民精神総動員本部参与[2]、大政翼賛会国民生活指導部長[2]、商業報国会中央本部長[4]に就任した。
戦後、公職追放となり[5]、追放解除後の1953年(昭和28年)、第26回衆議院議員総選挙に当選して返り咲き、衆議院外務委員長に就任した[2]。
著書
[編集]単著
[編集]- 『米国学生生活』アルス、1922年9月。
- 『カフエー・コーヒー・タバコ』春陽堂、1929年8月。
- 『新聞展望台』春陽堂、1929年8月。
- 『暗殺・革命・動乱』武侠社〈近代犯罪科学全集 第6篇〉、1930年7月。
- 『暗殺・革命・動乱』クレス出版〈近代犯罪科学全集 第7巻〉、2008年10月。ISBN 978-4877334406。
- 『フランス革命前後のフランス新聞の動揺』新聞之新聞社〈新聞全集 第2巻〉、1931年7月。
- 『街頭政治学』木村書房、1931年12月。
- 『ジャーナリズムの理論と現象』千倉書房、1932年11月。
- 『政治の知識』非凡閣〈萬有知識文庫〉、1934年5月。
- 『英雄に何を学ぶか』今日の問題社、1936年。
- 『生活新体制の心構へ』大政翼賛会宣伝部〈大政翼賛叢書 第3輯〉、1940年12月。
- 『戯曲 北条時宗』欧文社、1943年10月。
- 『商報戦線に起ちて』翼賛図書刊行会、1943年。
- 『教科書はどうすればよくなるか 新しい教科書制度への一考察』教科書研究会、1956年1月。
- 『たばこ』知性社、1959年4月。
- 『母校早稲田 喜多壮一郎遺稿集』喜多壮一郎先生遺稿出版会、1970年3月。
翻訳
[編集]- エッチ・ティ・テリー 著、喜多壮一郎 訳『英法概論 第1分冊』稲門堂書店、1925年4月。
共著
[編集]- 中村万吉、喜多壮一郎『法学概論』稲門堂書店、1923年4月。
- 喜多壮一郎、尾佐竹猛『売淫、掏摸・賭博』武侠社〈近代犯罪科学全集 第9編〉、1929年11月。
- 喜多壮一郎、尾佐竹猛『売淫、掏摸・賭博』クレス出版〈近代犯罪科学全集 第6巻〉、2008年10月。ISBN 978-4877334390。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 早稲田大学紳士録 1939.
- ^ a b c d 議会制度百年史 1990.
- ^ 衆議院要覧 1942.
- ^ 人事興信録 1943.
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、255頁。NDLJP:1276156。
参考文献
[編集]- 早稲田大学紳士録刊行会編『昭和十五年版 早稲田大学紳士録』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
議会 | ||
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先代 上塚司 |
衆議院外務委員長 1954年 |
次代 植原悦二郎 |