梅地庸之丞
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梅地 庸之丞(うめち ようのすけ、1853年1月13日(嘉永5年12月4日[1]) - 1925年(大正14年)6月5日[2])は、幕末の徳山藩士。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は正四位勲三等功四級[2]。
経歴
[編集]徳山藩士・梅地央の子[3]。1868年(明治元年9月)徳山藩献功隊1番小隊に属し戊辰戦争に従軍[2]。奥羽征討軍に属し秋田藩土崎に上陸し大館、矢立峠、碇ヶ関を経て、箱館戦争にも加わった[2]。奇兵隊の脱隊騒動の平定にも関与し1870年(明治3年)陸軍に出仕した[2]。1874年(明治7年)5月、陸軍歩兵少尉に任官し[4]、名古屋鎮台文庫主管、歩兵第6連隊小隊長、同連隊第2大隊第1中隊第4小隊長、名古屋鎮台軍法会議判士、総務局勤務を経て、1886年(明治19年)5月、大尉に進む[2]。
ついで第1師団軍法会議判士、歩兵第1連隊中隊長、横浜大隊区副官、麻布大隊区副官、第1師団副官、留守第1師団副官、陸軍大臣副官、陸軍省副官を経て、1899年(明治32年)3月、中佐に昇り、総務局課員、靖国神社臨時大祭委員を経て[2]、1903年(明治36年)1月、大佐に進級と同時に本郷連隊区司令官に任じた[4]。日露戦争では後備第2師団隷下で動員され、1905年(明治38年)1月、後備歩兵第3連隊長に任じた[1]。1907年(明治40年)5月、陸軍少将に進級と同時に臨時建築部本部高級部員に補され、1910年(明治43年)12月、後備役編入となり[1][4]、1915年(大正4年)4月、退役した[2]。大正14年6月5日卒。墓所は豪徳寺。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 妻木忠太『木戸松菊公逸話 : 史実参照』有朋堂書店、1935年 。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。