織田長易
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政7年(1824年) |
死没 | 明治6年(1873年)1月31日 |
改名 | 友祝(初名)→長易 |
別名 | 通称:主水、弾正 |
墓所 | 泉岳寺 |
官位 | 従五位下・豊前守、摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 大和芝村藩主 |
氏族 | 苗木遠山氏→織田氏(長益系長政流) |
父母 | 父:遠山友寿、養父:織田長恭 |
兄弟 | 遠山友禄、加藤友訓、長易、久貝正章 |
妻 |
正室:織田長恭長女・勝子 はま |
子 |
長猷、渡会易簡、長純、遠山友悌、 森長寳、長表、鈴子ら8男2女 |
織田 長易(おだ ながやす)は、江戸時代後期の大名。大和国芝村藩11代藩主。維新後は芝村藩知事。通称は主水、弾正。官位は従五位下・豊前守、摂津守。長政流織田家11代。
生涯
[編集]美濃国苗木藩11代藩主・遠山友寿の五男として誕生した。初名は友祝。
嘉永4年(1851年)8月15日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永5年(1852年)3月13日、養父・織田長恭の隠居により家督を相続する。嘉永6年(1853年)11月7日、従五位下・豊前守に叙任する。慶応4年(1868年)1月24日、鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗退を受けて上洛、新政府から大和国内の旧幕府領の取締りを命令される。小大名であったためそれまでは主体的に動けず、日和見的な態度をしていた。
明治2年(1869年)6月24日、芝村藩知事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。
明治6年(1873年)1月31日死去、享年50。墓所は泉岳寺。
系譜
[編集]子女は8男2女。