望月一頼
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名前 | ||||||
カタカナ | モチヅキ カズヨリ | |||||
ラテン文字 | MOCHIZUKI Kazuyori | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1961年11月20日(62歳) | |||||
出身地 | 静岡県静岡市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
1977-1979 | 清水東高校 | |||||
1980-1983 | 筑波大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1988 | マツダSC | 0 | (0) | |||
1992-1994 | サンフレッチェ広島 | 0 | (0) | |||
通算 | 0 | (0) | ||||
監督歴 | ||||||
1988-1990 | マツダSCアシスタントコーチ | |||||
1991-1992 | マツダSCコーチ兼GKコーチ | |||||
1992-1996 | 広島トップチームGKコーチ | |||||
1997-1998 | 広島トップチームコーチ | |||||
1998-2001 | 日本GKコーチ | |||||
2001-2006 | 広島トップチームGKコーチ | |||||
2006 | 広島監督 | |||||
2006-2011 | 広島トップチームGKコーチ | |||||
2012 | 広島ユースダイレクター | |||||
2013-2014 | 広島ユース監督 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手 (GK)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。筑波大学卒業。
来歴
[編集]清水東高出身。同期に大木武、二年先輩に内山篤、一年後輩に内田一夫、二年後輩に反町康治や望月達也・沢入重雄らがいる[1]。1977年高1時、高校では控え選手だったが偶然松本育夫日本ユース代表監督の目にとまり、地元開催の1979 FIFAワールドユース選手権に出場するユース日本代表に選出されるも、最終的には本選出場選手に選ばれなかった[2]。
高校卒業後、筑波大学に進学した[3]。一年先輩に松田浩、同期に風間八宏・鈴木淳、一年後輩に小野剛がいる。4年時にはキャプテンも務めた。[4]
大学を卒業後、1984年にマツダへ入社、マツダSCでゴールキーパーとして入団する[3]。1986年のディド・ハーフナーの加入のため結局レギュラーになれず、公式戦出場はまったくなかった。1988年に現役引退[3]。
その後は同チームやサンフレッチェ広島のGKコーチを歴任する[3]。
既にコーチになっていたJリーグ初期の1992年から1994年、GKの層が薄かった関係で選手登録された。ちなみに、ベンチ入りメンバーに入ったことがあるが、出場はない。また、このころにJFA 公認S級コーチライセンスを取得。1997年、エディ・トムソンに監督が変わるとコーチに就任し、トム・セルマーニと共にトムソン監督の参謀となった。
1998年11月、フィリップ・トルシエ監督率いるサッカー日本代表にGKコーチとしてスタッフ入りし[3]、ワールドユースナイジェリア大会やシドニーオリンピック、アジアカップ2000などの試合でチームを支えた[5]。
2001年、サンフレッチェ広島フロントの強い要望により、広島GKコーチに復帰する[5]。
GKコーチとして働いていた2006年4月に、チームの成績不振による小野剛監督の辞任に伴い、ドイツW杯開催によるJリーグ中断期間までの監督に就任する[6][7]。たった2ヶ月間で劇的に立て直す時間はないとの判断から、5バックと中盤2人が常時自陣深くに引いて敵の攻撃を跳ね返し、自チームの攻撃は中盤を省略したロングボール一辺倒という、超守備的なサッカーを展開。その4試合すべてで先制点を挙げ、しかも2勝1分1敗で勝ち点7あげたことにより残留争いに優位に立った。当初「つまらないサッカー」との批判を浴びていたが、短期間でチームを立て直したことから、2006年の影の功労者として評価されている[8][9]。
その後ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任に伴いGKコーチに復帰する。
2012年からトップチームを離れ高橋真一郎の後任としてユースダイレクターに就任し、2013年から森山佳郎の後任としてユース監督に就任した[10]。2014年末を持って退任し、アカデミー所属コーチとなった[11]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1984 | マツダ | JSL2部 | 0 | 0 | |||||||
1985 | 0 | 0 | |||||||||
1986-87 | JSL1部 | 0 | 0 | ||||||||
1987-88 | 0 | 0 | |||||||||
1992 | 広島 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1993 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1994 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
通算 | 日本 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本 | JSL1部 | 0 | 0 | ||||||||
日本 | JSL2部 | 0 | 0 | ||||||||
総通算 | 0 | 0 |
監督成績
[編集]- 第1種
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2006 | J1 | 広島 | - | 4 | 7 | 2 | 1 | 1 | - | - |
- 第2種
脚注
[編集]- ^ “サッカー部 OBの活躍”. 清水東高サッカー部. 2013年8月17日閲覧。
- ^ “ヴァンフォーレ甲府に続き、がんばれサンフレッチェ広島”. 桜えび・磯料理「くらさわや」(同級生のブログ) (2006年4月20日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ a b c d e “サンフレッチェ広島の 望月 一頼 コーチが残念ながら退団することになりました。”. サンフレッチェ広島公式 (1998年11月13日). 2001年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
- ^ “「内側から見た日本サッカー協会」”. サポティスタ (1999年1月19日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ a b “日本代表GKコーチの望月、3年ぶり復帰”. 中国新聞 (2001年1月28日). 2001年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
- ^ “望月一頼監督の就任記者会見”. 広島サッカー向上委員会 (2006年4月18日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ “下.立て直しの方策”. 中国新聞 (2006年4月20日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ “ピンポイント 手堅い望月流「合格」”. 中国新聞 (2006年5月6日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ “ピンポイント 監督に感謝のMVP”. 中国新聞 (2006年11月18日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ “次期監督には望月氏就任へ”. 中国新聞 (2012年12月17日). 2013年8月17日閲覧。
- ^ “広島ユースの監督に沢田氏”. 中国新聞 (2015年1月9日). 2015年1月16日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 望月一頼 - WorldFootball.net
- 望月一頼 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 望月一頼 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 望月一頼 - J.League Data Siteによる監督データ