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清水峠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水峠
十五里尾根側から見た清水峠。小屋の奥に見えるのは朝日岳の稜線。
所在地 群馬県みなかみ町新潟県南魚沼市
座標
清水峠の位置(日本内)
清水峠
北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度 / 36.894444; 138.947500座標: 北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度 / 36.894444; 138.947500
標高 1,448 m
山系 谷川連峰
通過路 国道291号
関越自動車道関越トンネル
上越線清水トンネル・新清水トンネル)
上越新幹線(大清水トンネル)
プロジェクト 地形
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清水峠(しみずとうげ)は、群馬県みなかみ町新潟県南魚沼市県境上越国境)にある国道291号標高は1,448 m

概要

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中央分水嶺を構成する三国山脈越後山脈)・谷川連峰上にあり、上信越高原国立公園に含まれる。北の新潟県側は魚沼連峰県立自然公園に、南の群馬県側はみなかみユネスコエコパークの指定地域となっており、利根川水系湯檜曽川信濃川水系の登川の源流部分に相当する。中部北陸自然歩道「歴史街道・米の道」及び、ぐんま県境稜線トレイルスノーカントリートレイルのコースの一部。

歴史

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清水峠越えの道は、古くは「直越」(すぐごえ)・「直路」(すぐろ、じきろ)・「ゆのひそ越え」・「馬峠」[注 1]・「清水越」・「清水道」・「清水通」・「清水街道」・「清水往還」などと呼ばれ[1][2]志水峠とも書いた[3]

山道の区間は長いものの上野国越後国とを結ぶ最短ルートであることから、遠回りながら標高が低い西側の三国峠とともに、古来よりよく利用されてきた。この道は上野国水上(現・みなかみ町)から越後国清水(現・南魚沼市)までの距離に因んで「十五里尾根」と呼ばれ、また越後の戦国大名上杉謙信によって軍事利用されたことから「謙信尾根」とも呼ばれ[注 2]、現在も新潟県側の登山道に名を残している。新田義貞らが治めた鎌倉時代南北朝時代は越後口の清水から馬峠(朝日岳の北側の鞍部)を越え、宝川を通って粟沢の寺林砦に至るルートが主に使われ[6]、戦国時代になってからは湯檜曽川を通るルートが主に使われた。古くは丸ノ沢から大源太山に登る道[7]や、七ツ小屋山から蓬峠を経て白樺尾根を下ることのほか、シシゴヤノ頭から大源太川に下るルート(謙信ゆかりの道)もあった。

天文21年(1552年)には上杉憲政関東から越後に逃れる際に通った[8]後北条氏と対峙した謙信は、天文年間に登川の源流(志水谷)にある清水口(現・南魚沼市清水集落)に直路城(清水城・志水城)を築いて防備に当たらせた。永禄5年(1562年)の制札に「直路」の記載がある。謙信の死後に起きた天正6年(1578年)の御館の乱の際には、上杉景勝が長尾伊賀守景忠に命じて直路の守りを固めた[9]。天正10年(1582年)6月13日には滝川益重の守る沼田城での戦いに敗れた藤田能登守信吉が越えた[9]慶長の頃には坂戸藩主の堀直寄から上杉遺民一揆に乗じた農民の脱走を防ぐため清水越の通行を禁じ、これを破ったものを打ち取ったものにはその者の持つ財宝を与えるという禁令が清水村百姓に向けて送られた(清水越の名称の初出)[10]

江戸時代には三国峠越えの三国街道の整備と合わせて、江戸幕府寛永9年(1632年)に湯檜曽と清水に口留番所を設置して通行を禁じ[2][注 3]、沼田城主が真田信吉の頃より江戸時代を通じた200年以上にわたって清水峠は特別な許可を得た地元の住民以外にはほとんど利用されない期間が続いた。ただし、明暦3年(1657年)に江戸で起きた明暦の大火の影響を受けて、魚野川と利根川の水運を利用した物資の輸送のために高田藩によって峠道の状態の調査が行われたことがあるほか、文化14年(1817年)に作られた『越後全図並佐洲図』や天保13年(1842年)に作られた『越後国細見図』には清水越の記載があり、それぞれ「上州沼田に至る」「上州大穴村へ出る」とある。

江戸時代末期の天保の大飢饉のあと、当時津軽海峡関門海峡を通って江戸まで運ばれていた良質な年貢米である越後米の輸送(廻米)を陸路を通って短絡することで海路の危険を避け、品質を維持したまま流通させるため、勢多郡糸井村(現・利根郡昭和村)出身の石井与平治と出羽出身で江戸谷中の米商人・大川領平ら4名が天保15年(1844年)4月に清水峠の開削計画を奉行所に願い出た[11]。与平治らによって実地調査が行われ、その後も大川の氏である国学者の筧水翁による具体的な計画や費用の見積もり等を盛り込んだ嘉永4年(1851年)の願書などを含め、数度の願い出がなされたが、利益が相反する三国街道筋の宿場などから連名で反対意見が出されたこともあって沙汰止みになった。嘉永6年(1853年)には黒船来航による海上封鎖を危惧した粟沢、綱子、藤原、湯檜曽の四ヶ村から同様の嘆願が行われ、勘定方の直井倉之助ら5名が村筋の調査を行ったが、日米和親条約の締結を受けて海上封鎖の危機が去ったため、開発は勝手となった。安政6年(1859年)には大川の息子の顕蔵が父の志を継いで江戸から新潟湊までの詳細な距離や工事費を計算した願書を出したものの、資金拠出の裏付けが無かったために採用されなかった[12]。その後、一連の動きを受けて文久3年(1863年)には幕府老中らが現地検分を行い、流通させる米を限定することで開削が決まったものの、幕末期の内外の混乱もあって計画は実現しなかった[13]。また、1865年慶応元年)には、計画地域に領地を持つ会津藩より新道開削の指図願書が出されたが、採りあげられなかった[14]

明治時代に入り、1869年明治2年)1月20日の行政官布告によって関所が廃止されると(口留番所は前年の1868年慶応4年)5月17日の布告によって廃止済み)、清水峠越えの距離の短さが改めて注目され、江戸時代末期の開削運動が認知されていたこともあって、1870年(明治3年)には東京府の渡邊権大属らにより測量と一部工事が行われ、湯檜曽川沿いに歩道が作られた[15]。さらに、1872年(明治5年)に宿駅制度が廃止されると、翌1873年(明治6年)には熊谷県令の河瀬秀治により民間からの寄付金を財源として新道が計画され、1874年(明治7年)6月に着工し、同年10月に幅1間の新道が竣工した[3]。道の完成により旅客や荷物の取扱い個数量は数倍になったという。この工事は残された資料が乏しく詳細は不明であるが、わずか4カ月で作られた道ということで古道の改良と推測されており、この時点では登山道程度のものであった。維新以前の伝馬制度を引き継いだ陸運会社沼田分社によって真庭、上牧、小日向、湯原、湯檜曽に継立所が作られ、一ノ倉沢出合や武能沢出合、白樺尾根上部には休泊所が置かれた[4]1877年(明治10年)7月には、清水越往還が県道一等に指定された。

1878年(明治11年)、内務卿大久保利通が提唱した土木7大プロジェクトに唯一の陸路建設として清水越往還が取り上げられ、日本海側の国際貿易港として重要性を増した新潟港へ至る道として、馬車交通が可能な緩勾配・広幅員の道路に改修することが決定し、調査が開始された。1881年(明治14年)7月より工事が行われ、1885年(明治18年)8月に幅3の新道が完成した[3]。群馬県史によれば、工費は当時の価格で約35万円、隧道2ヵ所[注 4]、橋梁166ヵ所。この道路は完成前の1885年(明治18年)2月24日に内務省告示第6号「國道表」で国道8号「東京より新潟港に達する別路線」の指定を受けている[注 5]。開通1カ月後の1885年(明治18年)9月7日には、内務卿の山縣有朋、司法卿の山田顕義、皇族の北白川宮能久親王らも招いて湯檜曽で盛大な開通式が行われた後、実際に馬車で通行して、清水峠で小休止の後、六日町へ下った[3]。数千ないし数万の庶民が集まって開通を祝ったという[3]。しかし、その翌月の10月には長雨のため各所で土砂崩れが発生し、修復する間もなく降雪期の通行止期間を迎えた。日本有数の豪雪地帯である谷川連峰の酷しい気候にさらされた各所で雪崩が発生し、雪解け後にはすでに馬車の通れる状態ではなくなっていた。そのため長期にわたって通行止にせざるを得ず、数年間は全面開通を目指した修復が試みられた[注 6]ものの、1888年(明治21年)頃には実質通行不能となり、ついには放棄された[3][4]。なお、整備された時期によらず、単に清水峠の新道や清水新道、清水峠越新道と言った場合はこの明治時代の国道を指す[18]

国道が通行不能となった後もこの区間にまたがる旅客の需要は依然として存在していたが、国道以前に使われていた十五里尾根も荒廃していたため、1888年(明治21年)には六日町の商人・佐藤良太郎が新しい登山道の居坪坂(いつぼざか。井坪坂とも表記)の私費による伐開を計画し、1889年(明治22年)に着工、1890年(明治23年)に開通し、人2銭、牛馬3銭の賃取り道路(有料道路)として用いられた。しかし、1893年(明治26年)4月1日に信越本線が全通すると清水峠を通る旅客需要は激減し、居坪坂も1907年(明治40年)には有料道路としての運用を終了した。峠や兎平など道中にあった休泊所や茶屋なども1908年(明治41年)頃までには全て閉店・撤退した[4]

1920年大正9年)4月1日、旧道路法制定に伴い国道8号は府県道前橋新潟線に降格されたが、このころにはほとんど廃道のようになっていた。1959年昭和34年)に一般県道六日町水上線へ指定され、1970年(昭和45年)に新潟県内の県道と合わせて国道291号に再指定されたものの、茂倉岳直下を通る上越線1931年開通)や三国峠を通る国道17号1959年開通)、さらに上越新幹線1982年開通)や関越自動車道1985年開通)が出来たこともあって、峠付近の修復・改良は全く行われないまま現在に至る。

1939年(昭和14年)新潟県の中魚沼郡(現在の十日町市)にて信濃川発電所一期工事が完成。首都圏に向けた送電線が清水峠に敷設された[19]

1968年(昭和43年)、明治100年を記念して清水集落に「国道清水線開通記念碑」が建立された。

2007年平成19年)、清水峠越新道が土木学会選奨土木遺産に選ばれた。

現状

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国道291号のうち清水峠前後の約27 kmは自動車通行不能区間に指定されている[20]。車道としての再開通について自治体側は「利用率と需要率の向上が見込まれれば工事を行う事もある」と説明がなされているものの、2024年現在も再開通の動きはない。

群馬県側では崩落などが複数の箇所で発生しているものの、一部迂回路・短絡路を利用して清水峠まで徒歩で通行可能であり、道路としての機能は曲がりなりにも維持されている。ただし馬車通行を可能にするため勾配を緩和させる経路を取った結果、国道は著しく遠回りになっており、「新道」と呼ばれる急勾配ながら短距離の登山道が別にあるため、国道の利用者は皆無ではないが少ない。

新潟県側には、国道の他に前述の2本の登山道(十五里尾根、居坪坂)がある。新潟県側でも国道は著しく遠回りになっており、馬車交通が不能となった後は急坂ではあるが距離の短い登山道が専ら利用された結果、居坪坂によってバイパスされた区間である約12 kmが廃道状態になっている。清水側の居坪坂新道分岐から約3.4 kmのうち一部区間は、JR東日本送電線巡視路として活用されているものの、それ以外は森林化や複数箇所の崩壊により、道路形状や経路すら判然としないほどの状態になっており、途中1か所あったトンネルやいくつかの橋梁も全て埋没・流失している。そのため、法令上はれっきとした国道でありながらも、この区間の踏破は非常に困難であり、ロッククライミングといった高度な技術・経験のない者が立ち入ると遭難事故の危険性が極めて高い[21][注 7]

2007年(平成19年)、廃道研究家のフリーライター・平沼義之がロッククライミング経験者と共に現地調査した際には、13時間かけても廃道状態区間12 kmを踏破できず、清水側から8.9 km地点で進行不能な地形に遭遇し、撤退している[22]。調査の結果、地図表記の年代による揺らぎやミスが明らかになったほか、測量標が発見できなかった[23]。なおその翌年、清水峠側から前回の撤退地点まで逆向きに踏破を行い、全容を解明している[24]

交通

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鉄道や高速道路は、やはり距離の短さを重視したため清水越往還に近いルートを選び、長大トンネルで通過している。清水峠を越える道路は南魚沼市清水の集落に抜けるが、鉄道や高速道路は山1つ西の湯沢に抜けるようになっている[注 8]。トンネルの名称に「清水」と入っているものもあるが、清水峠の直下ではなく南西に少し離れた谷川岳の近傍を通る。

登山

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ルート

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送電線巡視路に注意

新潟県側

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  • 謙信尾根(十五里尾根):清水集落・清水バス停(六日町駅より南越後観光バス路線あり) - 通行止め箇所(一般車はここまで) - 追分(旧国道分岐) - 井坪坂・謙信尾根分岐 - 登川上流第2号砂防堰堤・林道終点 - 渡渉地点 - 登り口 - 清水峠
  • 井坪坂(居坪坂):井坪坂・謙信尾根分岐 - 工事用道路分岐 - 檜倉沢渡渉地点 - 兎平 - ナル水沢渡渉地点 - 本谷渡渉地点 - 登り口 - 国道合流地点 - 清水峠

群馬県側

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  • 旧道(明治国道):土合駅 - 土合橋 - 谷川岳ロープウェイベースプラザ(一般車はここまで) - 西黒尾根登山口 - 厳剛新道登山口 - マチガ沢出合 - 一ノ倉沢出合(舗装路はここまで) - 幽ノ沢出合 - 芝倉沢出合 - 武能沢 - 白樺避難小屋・新道合流地点 - 鉄砲尾根 - 七ツ小屋沢 - 清水峠・白崩避難小屋
  • 新道(一ノ倉沢トレッキングコース):土合駅 - 土合橋 - 新道入口 - 土合砂防堰堤(湯吹の滝) - マチガ沢分岐 - 一ノ倉沢分岐 - JR巡視小屋分岐・虹芝寮 - 白樺尾根 - 合流地点

県境稜線

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清水峠を扱った作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『新編会津風土記』では馬峠は大烏帽子山の項に出てくることから、朝日岳と大烏帽子山の鞍部を越えて宝川に抜ける道のこととする資料もある
  2. ^ 上杉謙信の行軍はすべて三国峠道が使われ、清水峠道は斥候部隊が利用した[4]。なお、高速軍用路としては機能していたとする説もあるが、同時に上杉軍が沼田城を確保している以上、謙信が難所である清水峠を越えて急ぐメリットはなく、彼自身は三国峠を通ったとも指摘されている[5]。なお「謙信尾根」の呼称は、昭和初期の上越線敷設に伴う送電線工事の関係者が呼び始めたものである[4]
  3. ^ 戦国時代以前を見ても清水越の事例は殆ど見られず、一方江戸時代において清水越よりも安全と思われる三国街道で遭難した事例も確認できることから、上杉謙信の時代がむしろ例外であったとも言える[5]
  4. ^ 1ヵ所は清水峠道にあって崩壊埋没した隧道であり、もう1ヵ所は群馬県利根郡(現在の沼田市岩本町)にあって上越線建設工事に伴い消滅した隧道である[16]
  5. ^ 「別路線」というのは、長野経由で新潟港に至る路線が国道5号に指定されたため。
  6. ^ フランス領事館職員のギュスターヴ・グダローが1886年8月21日に湯檜曽村から清水越を通過して長崎村まで通っている。[17]
  7. ^ 新潟県側の徒歩通行困難区間は廃道となってから100年以上経過した2008年発行の5万分の1地形図「越後湯沢」に登山道として掲載されているが、2015年発行の2万5千分の1地形図「茂倉岳」や、2018年時点の地理院地図には掲載されていない。
  8. ^ 登山道ならば蓬峠越えに相当する。

出典

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  1. ^ 清水峠(1,448m)”. 南魚沼市観光協会. 2023年11月22日閲覧。
  2. ^ a b 谷川岳に因む歴史情報”. 谷川岳エコツーリズム推進協議会. 2024年4月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 豊田英義、1931、「清水隧道と清水峠」、『地学雑誌』43巻9号、東京地学協会、ISSN 1884-0884doi:10.5026/jgeography.43.536NAID 130000985573 pp. 536-538
  4. ^ a b c d e 清水越道の歴史概略”. 谷川岳エコツーリズム推進協議会. 2024年4月27日閲覧。
  5. ^ a b 簗瀬大輔「上杉謙信の雪中越山」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P198-201.
  6. ^ 湯檜曽川沿いの新道(清水越新道)はいつから呼ばれるようになったか?”. 谷川岳エコツーリズム推進協議会. 2024年4月27日閲覧。
  7. ^ 藤島玄『越後の山旅』富士波出版社、1979年。 
  8. ^ 上杉謙信越山の地 蘇る戦国時代』雪国観光圏、2017年、7頁https://www.donco.jp/2018/sanken/20180401ue/uesugi.pdf 
  9. ^ a b 管窺武鑑”. wikisource. 2024年4月27日閲覧。
  10. ^ 木暮理太郎 (1923年5月). “利根川水源地の山々”. 青空文庫. 2024年4月27日閲覧。
  11. ^ 髙山正『利根沼田の人物伝』上毛新聞社 出版部、2018年4月10日。 
  12. ^ 『塩澤町史』塩沢町、2003年、277-279頁。 
  13. ^ 山岳ぐんま 第96号』群馬県山岳連盟、2011年10月12日、9-10頁https://www.gunmaken-sangakurenmei.net/document/sangakugunma/096.pdf 
  14. ^ 『塩澤町史』塩沢町、2003年、277-279頁。 
  15. ^ 小島一祐 (1932). “淸水峠及び三國峠に關する歴史的考察”. 山岳 (日本山岳会) 第27年1号: 22. https://jac.or.jp/sangakuhensyuu/1932optimisation_no1.pdf. 
  16. ^ 隧道レポート 清水国道の“利根郡内にあった隧道”
  17. ^ ギュスターヴ・グダロー 著、井上裕子 訳『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』まほろば書房、1987年、210頁。ISBN 978-4943974048  原著 GOUDAREAU, Gustave (1889). Excursions au Japon. Paris 
  18. ^ 清水峠越新道”. 公益社団法人土木学会. 2024年4月27日閲覧。
  19. ^ 信濃川発電所の一期工事終わる『東京日日新聞』(昭和14年12月3日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p564 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  20. ^ 佐藤健太郎 2014, p. 113.
  21. ^ “(みちのものがたり)酷道291号/新潟県、群馬県 雪と密林に埋もれた国家事業”. 『朝日新聞』朝刊別刷り. (2017年6月24日). https://www.asahi.com/articles/DA3S12999264.html 
  22. ^ 道路レポート 国道291号清水峠 (新潟側) 最終回
  23. ^ 道路レポート 国道291号清水峠 (新潟側) 第3回
  24. ^ 道路レポート 国道291号清水峠 (新潟側) 〈リベンジ編〉

参考文献

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  • 清水峠越往還』群馬県教育委員会〈群馬県歴史の道調査報告書〉、1981年3月(原著1981年3月)。doi:10.24484/sitereports.101972NCID BN12343043https://sitereports.nabunken.go.jp/101972 
  • 佐藤健太郎『ふしぎな国道』講談社〈講談社現代新書〉、2014年。ISBN 978-4-06-288282-8 
  • 平沼義之永冨謙『廃道本』 実業之日本社、2008年 ISBN 978-4-408-03004-3
  • みやま文庫31『三国街道』上毛新聞社、1968年
  • みやま文庫41『上州の諸街道』上毛新聞社、1971年
  • 阿部公一『上越国境を越える道』株式会社ネクスコ・エンジニアリング東北、2016年
  • 野村和正『峠の道路史』山海堂、1994年
  • 『上越国道史』建設省上越国道工事事務所、1974年
  • 桑原孝『三国の歴史 越後の表玄関』野島出版、1966年
  • 松波成行『国道の謎』祥伝社、2009年
  • 阿部恒久『「裏日本」はいかに作られたか』日本経済評論社、1997年
  • 『塩沢町史 通史編 下巻』塩沢町、2003年
  • 『新治村誌 通史編』みなかみ町教育委員会・新治村誌編纂委員会、2009年
  • ギュスターヴ・グダロー著 / 井上裕子訳『仏蘭西人の駆けある記』まほろば出版、1984年

関連項目

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外部リンク

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