ゲーム音楽はどこから来たのか - 田中 “hally” 治久

読んだ。

現代のビデオゲームにサウンドがともなうのは当たり前のことのようにおもえる。けれど、ほんとうに当たり前なのか。もしそうでないとすれば——というか、音ゲーのように直接メカニクスに組み込んでいるものを除けば当たり前とはいえないのだけれど——どうして「当たり前」とみなされるほどになったのか。このような問いに歴史と構造の両面からこたえていく……みたいな感じの本。

特徴

本書の特徴はいくつかある。まず、書名のキーワードが「ゲーム音楽」であるにもかかわらず、効果音なども含めたゲームサウンド全般を扱っていること。

また、複数の視点から歴史を追ってくれるのもおもしろい。第1章で(ビデオゲームだけではない)ゲームやスポーツ一般におけるサウンドのありかたをざっと整理したうえで、以降第2章から第4章までは現在のような状況がおおむね定着したといえる時期までの過程について、前史たるエレメカの時代からたどっていく。このあたりは、技術面や設置環境、商業的な要請、他メディアからの影響など、制作者側からみた歴史といえる。そのうえで、第5章ではゲーム音楽を独立して聴くような音盤化の歴史、第6章では受容・批評のされかたの歴史と、さらに別々の視点からも改めてその歴史がひもとかれている。

そしてもうひとつ、なにより最後の第7章で理論的な考察に踏み込んでいることが最大の特徴じゃないだろうか。「どうして当たり前とみなされるのか」という問いに答えるには歴史の考察のみでは不十分で、それが実際に必要とまで思われる理由=構造についても考えなければならないというわけ。ゲームスタディーズ周辺のゲームサウンド研究を紹介しつつ、独自の分析が試みられている。

個人的な興味の方向性もあって、この「構造」の分析について以下でもうすこし詳しくみていきたい。とはいえ細かな気配りをすっ飛ばしてるし自分の独自解釈みたいなところもあるので、疑問に思ったら実際の書籍をあたってほしいです。

情報と装飾

ポイントは、もし(メカニクスとして必須であるという特殊な事情のあるケースを除いて)プレイヤーがサウンドになんらかの価値を認めるのだとしたら、まずはプレイ行為そのものにおける機能性に端を発するであろうという点。

もちろん機能を持つサウンドとひとくちにいっても、ゲームの有利不利に強く影響するようなもの(強いシグナル)から、足音やジャンプ音のようにエージェンシーの感覚を強めるもの(自然なシグナル)や状況をそれとなく伝える環境音のようにプレイヤーの行動への関与の度合いが低いもの(弱いシグナル)までいろいろある。

このうち、強いシグナルに情報としての価値があるのはわかりやすい。また、ビデオゲームには「操作」がともなうことからして、プレイヤーはその操作がゲーム内に反映されているかどうかを自然と意識する(逆に言えば、なにか音が鳴ったときにそれが自分の操作によるものなのかを意識する)ことになる。そのとき、動作音などはプレイヤーの行動に対するフィードバックとして機能している。まずはこうしたプレイのために直接役立ったり身体性を強めたりといった機能があることで、プレイヤーはサウンドを聴取しようとする1

ただ、これだけではない。環境音やBGMなど弱いシグナルもゲームの世界に没入することにつながりうる2。とはいえ、このようなサウンドはじめのうちは「必須」ではないことに注意しよう。当初は上述のようなサウンドに対して副次的にのみ関与するものであり、ある程度プレイを続けるうちにようやく愛着が生まれ、没入に必須のものとなっていく。

つまり、ゲームのサウンドには、シグナル=プレイ行為に対する意味として捉えられる情報としてのサウンドと、ワールド要素=ゲーム世界における意味として捉えられる装飾としてのサウンドという2つの側面3があり、前者が先行しつつ後者にも価値が認められるようになるというわけ。

もちろん、ビデオゲームの多くがなんらかのシミュレーションである都合上、個々のサウンドが排他的にどちらかに分類されるというわけではない。多くの場合双方の側面を兼ね備えている。そのうえで、両方の目的を十全に実現できるとはかぎらず、時には(「わかりやすさとリアルさ」のような)トレードオフの関係があったりもする。

……と、おおよそこのような構造で「サウンドがあって当たり前」という状況が生じると主張されている、はず。


とまれ、こうした分析は本書のほんの一部でしかない。「ビデオの特性からなのかゲームの特性からなのか」とか、エレメカ時代のアーケードの音環境とか、インタラクティブミュージックの起源とか、「フィルムスコアリング志向か録り溜め志向か」という見立てとか、FM音源の受容のされかたとか、日本のゲーム音楽文化と海外のそれの違いとか、「独立した音楽として聴くのか記憶の再現装置として聴くのか」とか、「ふつうの音楽」に対するコンプレックスとか、とかとか、単純にビデオゲーム音楽史そのものに興味があるのであればふつうにおもしろい本なので、おすすめです!


  1. いちおう音自体の心地良さみたいな話もあるのだが、ゲームとの絡みという点でやや外れる(あるいは、ゲームと絡んだ時点で身体性のほうに回収できる)ので置いておく。
  2. 「没入」については以前 お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない で考えた。本書のなかでもSCIモデルが大きく援用されていてやっぱりそうやねとはなったのだけど、(一度こうやって自分で考えたことがあるせいか)「没入」の過程の掘り下げがちょっと手薄でもどかしく感じるところもあった。
  3. これに加えて、やや特殊であると位置付けられる「メカニクスとしてのサウンド」をあわせたのが第7章のタイトル「メカニクス/シグナル/ワールド」というわけ。

アカデミックな資源を活かしつつものを考えることについて

以下を読みつつ改めて感じた、「趣味として、アカデミックな資源、とくに論文としてものされたそれらをある程度活かしつつ(すくなくとも活かそうとしつつ)ものを考える」ことに際するさいきんの悩みについて書きます。

哲学の論文をタダで読もう:趣味としての哲学研究のすすめ - Lichtung

アカデミックな資源(とくに論文)を活かしつつものを考えるって、なに?

待って待って、「趣味として、アカデミックな資源、とくに論文としてものされたそれらをある程度活かしつつ(すくなくとも活かそうとしつつ)ものを考える」ってどんな営みなの? ってのは当然の疑問です。ここでもうすこし明確化しておくべきでしょう。

「考える」対象について

前からこのブログでもわめいているとおり、「フィクションってなんやろね、どうはたらいとるんやろね」だとか「言語による表現ってなんやろね、なにができるんやろね」だとか、興味の対象なんていくらでもあるわけだけど、なかでもここ数年来重きを置いているトピックとして、ビデオゲームにまつわるあれこれが挙げられるんじゃないだろうか。

ゲームをするのはそこそこ好きで、そのうえでいわば「表現の総合格闘技」としてのビデオゲームというのは考えがいがあっておもしろいなとずっとおもってはいるのです。だから以下ではいったんこの分野に絞ることにしておく。フィクション論についても言語表現についてもビデオゲームについても、それぞれに悩んでいる内容はちょっとずつ違うのだけれど、前掲記事にもっとも関連しそうなのはゲームまわりだってのもある。

「アカデミックな資源を活かす」について

ビデオゲームについて考えていくうちに、いつからだったか、ゲームスタディーズ(のうち、美学にちかいもの)を扱ったアカデミックな道具立てが使いやすいなと思うようになりました。まあ、そういう概念的な道具立てを考えるプロの仕事だからそれはそうである。そういういみで、そういった概念を足場に(資源として活かして)いろいろ考えるのだというのが「資源を活かす」ということになる。

もちろんべつだんゲームスタディーズ(のうち、美学にちかいもの)でなくたって、アカデミックな読み物でなくたって、いいっちゃいい。ただけっきょく(フィクション論だろうと言語表現だろうとゲームだろうと)じぶんの体験を言語化してみたいというのが根底にあるもののひとつではあり、そうなると社会学寄りだったり心理学寄りだったり情報科学寄りだっりよりも、美学に近いものを掘るのがしぜんではなかろうか(心理学〜認知科学も近いはずだが、道具としては使いづらい気持ちがまだあるとか、そのへんは長くなるのでまた)。ちなみに「批評」みたいなのは昔からよくわかんねえっす。

ついでの便だから、自分はべつに「研究」みたいなことをしたいわけではないこともここで断わっておきたい。そのような型を使って会話する(したがってこちらからもそのような型を使って発話する)ことのよさが当然にあることは認めつつ、やりたいことやっていることはうねうね「考える」ことであるという、いったんはそこにとどまっておきたい。というか、なによりきっととどまらざるをえない。そういうのが「アカデミックな資源を活かして考える」という言い回しによって意味したかったことです。

「とくに論文」について

あとは、なぜ論文なのか。先に限定したとおりゲームスタディーズ(のうち、美学にちかいもの)っぽい分野についていえば、なにより日本語の本が少ないことがまずもってある。似たものとしてゲームデザインの本とかならそれなりにあるわね。でも、それは作るための話であって、(重なりはあるとはいえ)ここで求めているものとちょっとズレている。小説という媒体においていっぱんにどういうことがなされているのか/なされうるのかについて考えたいとき、創作指南本だけを読んでもな、みたいなのと似たようなものだ。

そして、日本語の論文もあんまりない。すくなくとも専門のジャーナルみたいなものとなると『デジタルゲーム学研究』と『REPLAYING JAPAN』くらいだろうか。前者は扱う分野が広くて自分にとっての打率が低いし、後者はもうちょっと狭いが歴史が浅め/半分英語だ。もちろんいずれにだっておもしろいものはあるけれど、十分にあるとは言いがたい。

そうなると外国語でなにか……。自分が多少なりとも読める(つもりな)のは英語であって、幸いというべきかそうでないのか、ゲームスタディーズも英語のヘゲモニーのもとにあります。

でも、英語の本読むのって大変じゃないですか。べつに全部読まなくていいだろうって? そりゃあ、それこそ研究してるとか仕事にしてるならそうなんだろうけどさ、おれはそうじゃねえんだ。部分だけ読めるなんてのは、それなりに訓練を積むか、そうでなくとも慣れてる言語・領域でないとなかなかできひんつうね。あと単純に値段が高いし気が重い。

だってんで、英語の論文を探して読むかということになってくる。コンパクトで気が重くならないのはいい。そりゃ多少はまとまった本で問題意識や土地勘をインストールしておく必要はあるけど、読んで考えるだけならめちゃくちゃ慣れておく必要はたぶんなさそう。そしてなにより(ここでやっと前掲記事の話とつながるのだが)ありがたいことにある程度オープンアクセスにしてくれており、お金がかからない。ありがたいね。オープンであればDRMなしのデータがあり、しかもコンテキストウィンドウに収まりやすいという点で最近流行りのエーアイも使いやすいぜ。ビデオゲームなんて変化が激しいジャンルだから、古くて権威があることより新しさをある程度優先したいなんて事情もあるだろう。ありがたいね。

ペイウォールの壁の加わった迷路にまどう

というわけで、趣味として美学寄りのゲームスタディーズの論文を読んで考えるか〜となったわけですが、いや、これ、そんな、でもやっぱまあまあつらいなというのも感じるわけです。

結論からいえば、「オープンアクセスかどうか(そうでなければ著者がドラフトを公開してくれているかどうか)」に依存しすぎるのがまずしんどい。そして(なんとかなるとは言ったけれど、それでも)体系が雲を掴むようであって、もうすこし自信を持てるような先達がほしくなってくる。以下、これらについて1

そもそも、ゲームスタディーズをメインで扱うようなジャーナルはオープンアクセスにしてくれているものがけっこうある。現在それなりコンスタントに刊行されているっぽいものとしてはたとえば以下あたりがありそうだ2

これだけあって足りないのかっていうと……足りないのかもしれない、というか、なんか、これでいいのかよくわかんないんですよね。「ゲームスタディーズ」というといちおう「学際的でござい」ということになっているわけで、先にも言ったとおり社会学寄りだったり心理学寄りだったり情報科学寄りだったりなどなど、するものも多い。日本語でなら多少興味なくても読んでみるかでおもしろがれたりしてそれはよいことなんだけど、英語だとそこまでやるのはちょっとしんどい。だからアブスト舐めてくどころかタイトルだけで選別していくことになるし、それで残るものはそんなに多くない。そんななかからとりあえず読みはじめてみても、「これなんか違う気がするな……」となったりすることもあって、実際に興味とズレてるのかそもそも英語が読めてないのかとかも自信なくなってきたりもする。なにか見落してないか? おれは……。

じゃあ、だったらさ、ほかのジャーナルとかを見ようとするという手もあるだろうか。でもそんなん、ともっと大変よ。どれが名のあるジャーナルなのか知らんあやふやさのなかでゲームについての論文を抽出するなんてできると思う? しかもそのうえでオープンなものしか読めない。そりゃ苦しいでしょう。

参考文献を順次当たってくという、いまひとつのまっとうな方法にしても事情は似たようなもので、けっきょくオープンでない論文とか高っかい高っかい書籍を参照されてるとそこで止まっちゃう。

もちろんここで「すべからくオープンアクセスにすべし」だなんて言いたいわけじゃないんです。(大手の学術系出版社に対してであれば「ガメすぎだろ」みたいな批判があるとかそういうのは置いといて)そりゃ無料にできる事情できない事情があってすべきとかそんなことは言えないのはわかってるつもりではある。それでもしんどいというか、どこかでぴったり止まってしまうおかげで、なんか「これでいいのか?」がとくに解消されないままやってる感触がある。

いちおうほかの方法も試してみようとPhilpapersでドラフトが公開されてるのから見ていくのはどうか? というのもやりはじめたのですが、まだはじめたばかりでよくわからんです。以下のフィードを購読しつつ、遡ってみるかという気持ちはある。でも、先に言ったとおり鮮度が落ちてくるのが致命的なんじゃないかみたいな気もするし、(いくら名があるふたりとはいえ)キュレーターと趣味が合わないとつらいみたいなのもあるかもれない。

……というところで、なんかうまい方法ないんでしょうかね、やっぱ根性なんすかね。実際「おもしれ〜!」ってなったときのおもしろさはすごくあるから(だからなんか、このようにいかにも迷走してることを自覚しつつも続けてしまうのだから)、あとはやっぱ根性なんすかね。


  1. つまり「探し方」の話であって「読み方」の話ではない、というのは、いちおう読み方みたいなのはなんとなく把握しているつもりではあるからなんですが、突き詰められるとよくわからん、けどここでは無視します。
  2. 『メディア芸術・研究マッピング ゲーム研究の手引きⅡ』が参考になる。というかJPG以外はここから引っ張ってきた。

セーブメカニクスの8分類

以下を読んでた。

Geerts, F.L. (2017). Saving the Game is Shaping the Game: Defining and Understanding the Save Mechanic [Master's Thesis, Utrecht University]. UU Theses Repository. https://studenttheses.uu.nl/handle/20.500.12932/26038

著者の素性がよくわからないもののひとまずユトレヒト大学の修士論文らしく、ビデオゲームのセーブメカニクスをテーマとしています。おおざっぱには、「セーブ」機能を定義・分類し1、セーブメカニクスのありかたがどんなプレイをアフォードするか2(ないし、プレイ体験にどんな影響を与えるか)について考察したうえで、物語とセーブメカニクスが深く関係する事例として『Undertale』を分析する……という内容。

セーブは必ずしも透明であることを目指す必要はなく、強制セーブでハラハラさせるだとか、いろんな可能性の試行を促すだとか、物語と深く絡んだりすることだってあるとか、そういった、ゲームをある程度やっているなら「そうだよね」という話が書いてあるだけといえばそうなんだけど、こうやってまとまったものをあまり見たことがなかったのでおもしろく読みました。そのうえで、ここでなされている「分類」はもうちょっと整理できるんじゃないかとも感じたので、以下ちょっとまとめてみます。上掲論文で示されている分類自体はここでは特段示さないものの、当然影響を受けているため、まずはそちらを見ていただくのがよいです3

分類についての記述ってあんまりおもしろいもんじゃないけれど、とはいえやっぱり、なにか考えるときに手掛りとしてあると便利ですよね。

3つの分類軸

ここからはセーブメカニクスを「プレイヤーが進行状況を保存(セーブ)し、後で特定のゲーム状態に戻る(ロードする)ことを可能にするしくみ」であるととらえたうえで、現行のビデオゲーム作品において一般的であろう各種セーブメカニクスの分類軸として以下の3つを提案します。

  1. マニュアルかオートか
  2. 場所やタイミングに制限があるかないか
  3. セーブデータの数が1つか複数か

1. マニュアルかオートか

この軸の両極は以下のとおりです。

  • マニュアルセーブ型:メニューを開くなどしてプレイヤーがみずからセーブする
  • オートセーブ型:チェックポイントや経過時間などをもとにゲーム側が自動的にセーブする

もちろん、マニュアルといっても「わざわざ専用のメニューを開く必要がある」ものから「F5キーをポチっと押すだけ」のクイックセーブまで、かかる労力はいろいろでしょう。また、マニュアルだからといってただ面倒なだけではなく、「保存はしたくないが、ちょっと試したい」に応えてくれるというメリットもあることは念頭に置いておきたいところです。

そして、マニュアルセーブに度合いの問題があったように、オートセーブにだって、それをどの程度プレイヤーに明示的に伝えるかといったニュアンスの違いがありえます4

2. 場所やタイミングに制限があるかないか

この軸の両極は以下のとおりです。

  • 制限セーブ型:セーブポイントなど特定の場所やタイミングでのみセーブできる
  • 自由セーブ型:プレイアブルであればいつでも・どこでもセーブできる

この軸についてとくに注意すべきは、「マニュアルかオートか」に比べてもいっそうスペクトラムなものになるということでしょうか。おなじ「制限」といっても、「特定のセーブポイントでしかセーブできない」のと「戦闘中はセーブできないがフィールド上ではいつでもセーブできる」のとでは、プレイ体験も相当に異なってくるはずです。

3. セーブデータの数が1つかそれ以上か

この軸の両極は以下のとおりです。

  • シングルセーブデータ型:一つのセーブファイルのみが許可され、過去の状態に戻ることが制限される
  • 複数セーブデータ型:複数のセーブデータを作成できる

ここで問題にしているのは「キャラごと」などでセーブデータを作れるかどうかではなく、あくまで1つのプレイスルーのセーブを複数できるかどうかであることに注意してください。したがって、たとえば『エルデンリング』は(たしかに複数キャラで別々のデータを作ることはできるものの)この意味で「シングルセーブデータ型」に分類されます。

ほかの2つの軸と異なり、この軸についてはおおむね「1つかそれ以上か」の二分法ととらえてよさそうに考えています。もちろんまったく境界事例が考えられないわけでなく、上記の「制限セーブ」と合わさった「複数ではあるが実質的にはセーブデータ数の制限がきつい」ようなケースもあるかもしれません。「物語上の特定の分岐点の間のみ行き来できるアドベンチャーゲーム」みたいなイメージですね。

分類軸についての注意

まず、ここで示した分類軸はあくまで形式的な観点からのものであり、どこにどのように保存されるかといった技術的な観点についてはオミットしていることに注意してください。とはいえ形式的なものに限ってても、さらに別の軸があることを否定するものでもありません。ぱっと思いつくりでは、「セーブできる内容の範囲」5や「セーブにリスクやコストがともなうか」6あたりはありえそうです。とはいえこれ以上増えると収拾がつかなさそうなのでいったんこれだけにさせてください!

また、「ひとつのゲームが複数のセーブメカニクスを持ち合わせる」という事例はごくありふれていることにも注意。「シングルセーブ型のクイックセーブと複数セーブ型の通常セーブ」の両方を持ち合わせているゲームはなんら珍しくありませんし、(それこそ上掲論文でも触れられているとおり)Undertaleのようなちょっと込み入った例だってあります。あるいは「ほかの難易度では複数セーブファイルを認めるけど、この超難度モードではシングルだよ」といったケースもあるでしょう。

そして、上掲論文だとあまり区別されていないように見えるのですが、ここでは「あとでロードする」という目的のもとでの機能をメインとし、「死に戻りポイント」としてのセーブについてはいったん脇に置いているのもポイントです。とはいえ、デスルーラのような実践のあることを考えれば、これらを厳密に区別するのは難しいところもありそうですね。もしかすると、上記の「複数のセーブメカニクスの持ち合わせ」として考えるのがよいのかもしれません。また、「ロードできるタイミング」についても考慮していません。

セーブメカニクスの8分類

というわけで、(スペクトラムであるとはいえ)2×2×2=8分類ができることがわかりました。せっかくなので以下ざっと見てみます。自分で想定できいるゲームの幅があまり広がってないので、たぶんもっといろいろ考えられる気がします。

0. セーブなし

1つのプレイスルーを通しでやって終了、というもの。暇潰し系のゲームや、古典的なローグライクはこれか7

1. マニュアル×制限×シングルセーブデータ

これしかないと単に「あっ、セーブ忘れた!」が起こるだけなので、いまどき積極的には採用されないのではないか。とはいえスーファミ時代でさえ普通にあったし、そのあたりをオマージュしたものはそれこそUndertale(のゲーム内のほうのセーブ)をはじめふつうに生き残っているのかもしれない。

2. マニュアル×制限×複数セーブデータ

わざわざマニュアルでセーブさせるなら複数にしてほしいよね、というのがいまどきではあると思う。「4. マニュアル×自由×複数セーブデータ」との境目があいまい。

3. マニュアル×自由×シングルセーブデータ

いわゆる「中断セーブ」(一度ロードしたら消えてしまうセーブデータ)はおおむねこれに該当するか。「1. マニュアル×制限×シングルセーブデータ」かもしれないけど。

4. マニュアル×自由×複数セーブデータ

「戦闘中はセーブできないけどフィールドならいつでも」タイプも「自由」に数えるなら、シングルプレイヤーのRPGではこれが最大派閥なイメージがある。ノベルゲーの基本スタイルもこれだろうか。

5. オート×制限×シングルセーブデータ

チェックポイント制をとるアクションゲームやパズルゲームが思い浮かぶところ。それもあって、「死に戻りポイント」のイメージでもある。

6. オート×制限×複数セーブデータ

基本的にはできなさそうに感じる(オートと複数セーブデータの組み合わせは相性が悪い)。ややトリッキー例として、上述の「物語上の特定の分岐点の間のみ行き来できる」はこれにあたるか。

7. オート×自由×シングルセーブデータ

「常に最新の状態が強制的にセーブされてしまってやりなおせない」ような、実は「自由」からもっとも遠いメカニクスではないか。「自由」という呼び名がよくなくて、「常時」とかのほうが適していたのかも。とはいえ単純なスリープ機能もこの一種ではあり、別の組み合わせを持ち合わせたものも含め、採用例はかなり多い。

8. オート×自由×複数セーブデータ

これも基本的にはできない。進行状況のスナップショットを勝手にとりつづけていってくれるようなものが考えられなくはないかもしれない(実例は思い浮かばないのだが)。


こうしてみると、「制限-自由」の度合いがジャンル相対すぎて使いづらい気がしてきました。うーん。

以上です。

追記:2024-11-30

ちょっと読みづらかったので箇条書きをバラして見出しを増やすなどしました。


  1. あわせてシカールの「コアメカニクス」の定義を拡張してセーブもコアメカニクスだよみたいな話をしてるんだけど、意義があんまりわからなかった。
  2. ギブソンによる原義というよりノーマン的な意味合いでの「アフォーダンス」。このへんの言葉の使い方にはなんかいろいろあるらしいけど、よくわかっていないしここでは立ち入らないですませたい!
  3. まったく示さないのもなんだと思ったので追記。簡単に触れておくと、Manual Save, Autosave, Quick save, Single save fileという4つの大項目を立てたうえで、Manual Saveの小項目としてMenu SaveとSave Point、Autosaveの小項目としてCheckpointsに詳しく触れている感じ。書かれてあることに異論はないけれど、「分類」としてあまり網羅的とはいえないので気になった、という感じです。
  4. とはいえ「セーブ中にゲームを落とすとデータが壊れるから、このマークが出てるときは注意してね!」みたいなことを最低限言っておくのがいまどきは普通だろうか。スマートフォンのゲームだとそうでもないか。
  5. ビデオゲーム=デジタルゲームは文字通り離散的であり、したがって原理的には「完全な状態」を保存できるはず。とはいえ、技術的な制約はもとより、実際的にもマジモンの完全さが必要とされることはまずなく、ある程度「丸めた状態」で保存されることがふつうだと思われる。/場合によっては「制限-自由」の度合いと相関させることもできるだろうか。たとえば、「戦闘中は進行状況を保存できない」ことと、「戦闘中の状態は保存されない」は「同じ」といってもいい……かもしれない。
  6. セーブのために消費アイテムが必要といったゲーム内のレイヤだけじゃなく、「セーブ回数が記録されて表示される」といったメタレベルのものも含めていいのかもしれない。一方、「リスク」とはいったものの、「セーブ失敗!あなたは死ぬ!」みたいなことが起こりうるゲームはさすがにあんまりないだろうか。「セーブスカミングは統語論的時間を浪費するというコストを払っていてェ」とかは……さすがに言いすぎか。
  7. とはいえオリジナルのRogueからしていちおう「中断セーブ」みたいなのあったんでしたっけ?

『絵画の哲学』、あるいは描写の哲学の門前

清塚『絵画の哲学:絵とは何か、絵を見る経験とは何なのか』読んだ。

いわゆる「描写の哲学」における描写の本性、すなわち「絵や写真、動画などにおいて、なにかが描かれているとはどういうことか?」1についての議論をまとめた本、とひとまず言ってしまってもよいとおもいます。

ただ、この問いについて、むかしからいまいちピンときていませんでした。どうにも漠然としすぎているように感じてしまうのです。「まあなんか、たしかに不思議な気もするけど……そこまでか……?」みたいな。そのくらいの印象をもって読みはじめたところ、議論の歴史的な流れをおおまかに追う形でまとめられていたおかげでしょうか、「たしかに……不思議かもしれん……」みたいな気持ちになれたところがありました。以下、そのあたりを自分なりにまとめなおしてみることにします2


というわけで、ひとまず「なにかが描かれているとはどういうことか?」という表現自体をみてみましょう。まあ、さっきも言ったとおり、そんなこと言われてもという話なわけですが、これをもうすこし噛み砕くと、「画像を見るとき、そこにない(直面していない、なんならしばしば虚構の)対象を見ているように思われるが、これはどういうことか」くらいに言い換えられるでしょうか。

たとえば、パリの風景が「描かれた」絵葉書を見たときに、われわれは「パリの風景ってこんななんだな」と思える……ということはつまり、パリの風景のありさまをなんらかの形で「見ている」ように思われる。思われるものの……このとき、われわれはパリの風景に直面しているわけではけっしてありません。「そこにないものを見る」というのはたしかにちょっとヘンかもしれない。

これだけではまだピンとこないかもしれませんね。「いやだって、葉書に載ってる絵の具の配置とかが、パリの風景に似て見えるからに決まってんじゃん」みたいな応答が考えられるでしょうか。……ちょっと素朴すぎるように思われるかもしれませんが、漠然とそう思っているということにさせてください。そういうことにして。こうしたとらえかたこそ、(さすがにここまで素朴ではないにせよ、おおむね)「(古典的な)類似説」と呼ばれる発想です。

とはいえ、「素朴すぎるように思われるかも」と言ったとおり、ちょっと考えてみればおかしいことも、すぐにわかるはずです。

まず、なんたって、「パリの風景を描いた絵葉書(の表面)」は「パリの風景」に似ていません。「シマウマを描いた絵葉書(の表面)」のほうがよほど似ているのでは? 「葉書の表面」と「実際の都市」が「似ている」わけがないんです。より一般的にいえば、「絵の表面の形状」が「描かれている対象」に「似ている」とは……ふつう言えないんじゃないでしょうか。

どうも揚げ足とりに見えるでしょうか。「その絵に描かれている対象の像が、当の対象に似ている」ということが言いたかったような気がしますもんね。つまり、「描かれているパリの風景と実際のパリの風景が似てるっていう意味だよ」と答えるのはどうでしょうか。……いや、これもダメです。この時点ですでに、「描かれている」のが「パリの風景」であることが前提とされてしまっています。説明したいのはまさにこの「描かれている」とはどういうことかであったはずです。これではやはり説明になっていないのです。

どうでしょう、そろそろ不思議な気がしてきたでしょうか。

不思議な気がしてきたならもうそれで今回の記事の目的は達成しているので、あとはこれに対応するためにどういった戦略がありうる(と本書でされている)のかを簡単に紹介しておきます。

  1. そもそも類似とかまったくなくて、「イヌ」という文字列と実際のイヌとの対応のように恣意的なものだよとつっぱねる(記号説)
  2. あくまで「絵の表面の形状」と「描かれている(とされる)対象」とのあいだになんらかの類似があるという立場でがんばる(より洗練された類似説)3
  3. 「絵を見ること」という知覚(もしくは認知プロセスや現象的な経験)のありかたに着目する。具体的には「絵を見ること」の内実を「絵の表面を見ること」と「そのなかに対象の像を見ること」とにいったん分け、それらがなんらかの形で関係したものとして改めて「絵を見ること」をとらえる(知覚説)

結論からいえば、本書は3に近い立場をとっています。もちろんこれだけ見てもよくわかんねえなとなることでしょう。たしかにここまでの話を鑑みるに、画像を見るという経験のうちに、表面を見ることと像を見ることの二面性があるような気はしてきたかもしれません。でも、それらが各々どういうもので、どういうふうに絡んでいるのか、あるいはたんに錯覚であることと「これこれの対象が描かれている」と認めることとの違いはどこにあるのか等々についてはまだわからない状態です。

実際のところここまでの話は、(序章を含めた全6章構成のうち)第1章の内容の一部をかいつまんでみたにすぎません。本格的な話はここからということで、あとは『絵画の哲学』のほうを読むといいんじゃないでしょうか。まあその、もしこれで不思議に思ってもらえたのなら、なんですが……。


そのほかリソースなど。


  1. 本書でこの通りの表現をされているわけではないことに注意。
  2. もちろんあくまで自分の理解にもとづいたラフスケッチ(描写だけにな!)であり、いろいろ反論が可能なように見えるかもしれません。実際単純化のために簡略化しているところは多いですし、もちろんわたしが誤解しているせいかもしれません(これがいちばんありうる)。あるいは本書を実際に読めばしっかり検討してあることかもしれませんし、あるいは実際に見逃されていた視点なのかもしれません。そのあたりはいつもどおりそういうものということで、必要に応じてご指摘などいただけるとありがたいです。
  3. このまとめ方だとエイベルの立場が包含されない気がする。

Re: 奇想の在処――〈奇想〉とは何か? 試論

くじらいさんの以下の記事を読んで考えたことを書きます。

hanfpen.hatenablog.com


いきなりですが、本記事では以下を前提とします。まあまあ強めの仮定ではあるけれど、いったん飲み込んでください。

  • フィクション作品を鑑賞しているとき、われわれはそこから読み取れる情報を非可逆に圧縮しつづけながら「理解」している
    • 非可逆であるのは、たいていのフィクション作品は意味論的に稠密だからというのもあるけど、基本的には人間の認知・記憶資源1の問題によるもの
    • 具体的な圧縮手法としては、自然的/社会的な因果を利用した物語としての理解や、「作者のメッセージ」だったり典型的な関係性(「百合」とか)への落とし込み、描写される情景と現実の対応(指示。そのまま覚えなくとも参照関係だけ覚えていればよいので圧縮にはなる)の利用、論理による演繹、視覚的イメージの想像2などが挙げられる
    • 「ひとことでまとめられるなら作品なんて作っていない」という常套句はむろん正しいのだが、それはそれとして、われわれの限界としてそのように鑑賞するしかない。常に目の前に知覚されるものだけを味わう姿勢もあるが、直接相対しての鑑賞体験すべてをそれで尽くすのさえ難しい場合がほとんどであろうし、なんなら鑑賞が終わったあとの内省などについても説明できないとおもわれるため、ここでは措く

そのうえで本記事は、「奇想作品」を「特有の手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」と考えてみることを提案します。もちろん、ここでポイントとなるのは「特定の手法」がなにかということでしょう。この限定がない場合、「(なんらかの意味で)わかりづらい作品」というものがすべて「奇想」になってしまうからです(それでもいいというラディカルな姿勢もあるかもしれませんが、いったんやめておきましょう)。

というわけで以降では、この「特定の手法」がどんなものかということについて、前掲のくじらいさんの記事の助けも借りながら、自分の考えるところを言葉にできないか、やってみることにします。


まずは、前掲のくじらいさんの記事の内容のうち、本記事に関連のあるところだけまとめておきます。けっこうシンプル……なはずです(めちゃくちゃズレてたらすみません)。

  1. 奇想、つまり「奇妙な発想」とはどのような発想なのか
    • 日常において「当然とされていること」から離れた発想
  2. なぜ奇妙な発想がおもしろいのか
    • 日常において「当然とされていること」で割り切れない不合理さが日常に潜んでいることにわれわれは気付いており、不安にも思っているが、一方それに魅力を感じてしまう性向があるから。あるいは、その不合理という緊張が緩和されたときにおもしろみを感じる性向があるから
    • くじらい記事のおもしろさはこれを「狂気」とつなげて論じるところにあるのだけれど(なのでここに採り上げたポイントはおもしろさをあえて無視しているとさえいえるのだけど)、以降では採り上げない

シンプルではあるのですが、正直すこしもどかしさを感じることは否めません。それは記事末尾にもあるとおり、基準を設けることの権力性に配慮しているからこそなのでしょう。とはいえそれでも、たんに「日常からの逸脱」というだけでは、「奇想」のおもしろさをとらえるには網の目が粗すぎるように、どうしても感じてしまうのです。たとえば「殺人」ひとつとったって、世の中のそれなりに多数の人間(自分も含む)の日常にとっては「逸脱」に感じることでしょう。けれど、それだけではふつう「奇想」とはおもわない。

というわけでここでは、これらを修正するというよりは、新しい視点をつけくわえることを目指したいのです。より限定してみたいとなったときの一つの尺度の提案、といった温度感。もしこれを取り込むならば「奇想的な作品」の外延もくじらいさんのそれと異なってくることになるのですが、それはまあ、それでもいいんじゃないかな。

そして冒頭にも書いたとおり、その提案というのが「特有の手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」ととらえることなのでした。これは実際、「特有の手法」の制限を排してしまえば、くじらい記事における「奇想」の特徴づけから導かれることと言えるかもしれません。「当然とされていること」から離れていることにより、より理解が困難になるのはおおむね確かであろうと考えられるからです(もちろん逆に、「単にわかりづらいだけ」みたいなのを紛れ込ませてしまうという問題があることもすでに述べたとおりですが)。

とはいえやはり「特有の手法」について、仮にでも内実を与えようとしなければ意義が生まれませんね。これが難しいんだけど……ヒントも見えてきました。その手法はおそらく、「日常からの逸脱」となんらかの関係があるのだろうということです。

ではたとえば、こんなのはどうでしょうか。「日常にみられる自然的法則または論理的規則からの逸脱を示す手法」とか。つまり、「日常にみられる自然的法則または論理的規則からの逸脱を示す手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」。日常的な法則性を援用して情報を圧縮できないから理解もしづらい、けれどそれを理解しようとするのがおもしろい、そんな作品……というのは、どうでしょうか、なんだかイメージに合っていたりしませんか?

……いや、嘘やね。正直これではぜんぜん不満です。たとえば、あまりに多くのSFやファンタジー作品がここに含まれてしまう。SFやファンタジーってものはけっこうな割合で「日常にみられる自然的法則」から逸脱しているさまが描かれている。そういうのも好きなのだけど、ここで言いたいのはそのことじゃありません。論理法則からの逸脱についてもそう。あまりに野放図な不条理も含めてしまうことになりそうだけれど、それでよいのでしょうか。どうもよくない、ような気がします。

解決策を考えてみましょう。まず、前者の「SFやファンタジーのあまりに多くが含まれてしまう」という問題について。思い付くのは、SFにせよファンタジーにせよ、多くの場合ジャンルという準拠枠があることです。SFであればおそらく自然科学的なスタイルで説明できるであろう、ファンタジーであればおそらく過去に積み重ねられた神話等々で説明できるであろう、みたいな。そう考えれば、「情報の圧縮を困難にする」というほどのものではない3。どうにかこのへんのニュアンスを取り込めるとよさそうです。

後者の「あまりに野放図な不条理も含まれてしまう」という問題についてはどうでしょうか。こちらの場合は、そもそも(真の乱数列が圧縮できないのとおなじように)そもそも「圧縮して理解する」ことを拒むんだから、それは「難しくする」とは別だよ……という言い方ができるかもしれない。それこそ「常に目の前に知覚されるものだけを味わう姿勢」で挑む、あるいはフネスのように完全に記憶するしかないものでありそうだ。つまり、そもそも上記の記述にははじめから含まれていなかったと言っていいかもしれませんね。

では結局、そこにあるのはなんなのか。「作品に内在的なロジック」といってしまうとなんだか胡乱だし、これはこれでなんとでも取り扱えてしまう表現なのだけど……「これはどこか法則性がありそうではある、きっとある、けれど、既存の知識や法則や論理の応用だけではうまく説明できない」という状況をつくるような手法。なんなら、くじらい記事の「緊張の緩和」の話もここに取り込めるのかもしれません。ロジックはある、あるように見える、それを探求するのがおもしろいし、仮に答えを出してみて不合理にフタをしてみられれば緩和する。でもそれでいいのかな? いややっぱ不安もあるな……。そういう状況をつくりだす手法。

「日常にみられる法則性、および、それに対する二階の把握戦略からの逸脱」とか?うーん。

……というところで、時間がきてしまいました。「日常にみられる法則性、および、それに対する二階の把握戦略からの逸脱を示す手法により情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」。今日のところはこれでいいことにしますが、あんまりうまくありませんね……。


以下、盛り込めなかったトピックについて。

驚きが探求を生むんやでみたいなことを言った(らしい)パースにあやかるわけじゃないけれど、不安を埋めること、怖いものみたさといった消極的なとらえかただけじゃなく、縮減させてやろうという探求心と、縮減してみろやという制作者との戦い(そしてどうしても合理化できない残余のそれはそれでのおもしろさ)として積極的にみることができるのかもしれない。というか、そもそも「理解のおもしろさ」をピックアップしたことについて今回まったく説明していないのだが、基本的にはこのへんの発想がもとなので、むしろこっちを先に説明しようとしてみるべきだったかもしれない。

没論理についてももうちょっと踏み込みたい。たとえば、「四角い三角形」と書くことはかんたんだけど、それを想像するのはむずかしいこと。それでも「四角い三角形」と書くだけで、文字どおり「四角い三角形」を立ち現わさせてしまえること。これだけだと野放図な不条理ではあるけれど、そうならないものを組み立ててみることはできそうで、それは「奇想」になりそう。……というと言語表現を特権視しているようにみえるかもしれないが、逆もありえて、たとえばゲームならできる、映画ならできる奇想というものは似たようなかたちであるとおもう。言語の場合は良くも悪くも統語論的に分節化されてるってのはあるわけだし。

おわりです。


  1. かなりざっくりした意味合いで使ってる。ほんとはこのあたりはもうすこしちゃんとしたほうがいい。あと、「意味論的に稠密」というのはグッドマンのあれです。
  2. 場合によってはこれにより情報量が増えることも考えられるし、なんならそういった「想像を膨らませられること」が作品の評価につながりさえするのだけれど、今回の話とは関係ない。あるいは、圧縮による認知的な余裕ができるからこそそういうことができる、とは言えるかもしれない。
  3. もちろんいずれの場合もそうでない作品があることは承知していますが、なんならそれこそを「奇想」と呼んでもよいのではないか。そういういみではどうしてもジャンルに対して周縁的なものであらざるをえないのかもしれない。

セザンヌの犬 - 古谷利裕

『セザンヌの犬』についてなにか書いておきたいと思っていて、とはいえ(いつもどおり)どうもまとまらないので、とりとめなく置いておく。

(そのほかの認めかたもあろうが、すくなくとも自分にとっては)偽日記の古谷さんの連作が収められた小説集。書名としては収録作の一編を引いた『セザンヌの犬』なのだが、その連作じたいは「トポロジーと具体物」と題されているらしい。実際に読んでみるとわかるはずだけど、「トポロジーと具体物」というのがあまりにぴったりはまりすぎる1一冊だった。

ここで「トポロジー」として自分が(おそらく筆者も)イメージしているのは、いわゆる位相幾何学っぽい、たとえばもののつながりかたに注目してさまざまなものを同一視したり分類したり性質を理解しようとするようなアレのことだ。どっちかというとネットワークのトポロジーみたいな用例のほうが近いだろうか……まあ、どっちにしろ類比でしかないんだけど。ともあれだから、ここでは、へんなつながりかたをしたものたちが、いろいろ読める。いや、「つながり」といったって、象徴としての対応のあることではない。文字どおり、なにか(たち)となにか(たち)が、どこか(たち)とどこか(たち)が、いつか(たち)といつか(たち)が、つながったり、表裏が逆さになったりするようなさまが叙述されているということ。そのうえで「なぜつながっているか」「どのようにしてつながっているか」といったことに意味を見出す必要はひとまずなくて、なにはなくともつながっているものとする。もちろん注目したからといってへんなつながりかたをしなければならないわけでもないのだけれど、ありふれたつながりかただけ見ていてもいろんなつながりかたがありうることはなかなか見えてこないわけだし。

「具体物」のほうはどうか。こちらのほうが説明がややむつかしいため自分語りからはじめさせてください。大学生のときに設計実習(学部初年度の設計実習なんてカスみたいなもんや)をしていたときのこと。あなたはいま、これから作ろうという建物の柱や壁をどのように配置すべきか考えています。機能や構造の面ももちろん重要だけど、アプローチに際する美的な受けとられ方も考慮してね、なんて言われてもいます(われらウィトルウィウスの子なのでな)。このとき、両極端なプロセスがありうるとあなたは気づきました。A)なにか統制的な原理からずばっと配置を決めてしまう方法。B)ひとまず模型(コンピュータ上のシミュレーションでもよいのですが)として配置し、近くで眺めてみたりぐっと手で押してみたりして、それから位置を微調整したりしなかったりして……というのを繰り返して決める方法。実際にはこの両極端の間をとったり、行きつ戻りつしたりしながら決めていくことになるのでしょう。というかあれだな、だいたいの制作行為ってのはそういうものかもしれん。……と、なんのためにこの話をしたのかといえば、本書のつくりはかなりB寄りであるように感じたからだ。先述したつながりを、構造を先立たせずに、実地で確かめていくようなスタイルになっている(そして結果として「おおなんか構造っぽいものができたぞ」とはなるが、俯瞰で振り返ったりはしない)。へんなつながりを現実に作ることはできずイメージもしづらいけれど、局所的に叙述することならできるってのもあるだろう。そんなふうな、模型をつくって指でなぞってみるさまが「具体物」なのではないか。

別の喩え。本書の表紙(筆者の作品である)が紙を破って重ね合わせたものであることからの連想なんだろうけど、多次元の折り紙に対して、それを完成したスタティックなものとして鑑賞するのではなく、折っている(というか、自身もそこに巻き込まれ折られている)最中のおりおりをおもしろがるような感覚があるなとおもった。こことここが重なると(それが「なにか」に見えるからというわけでもなく)気持ちがよくて、おっと、むりやりでも重ねたおかげでここにこんな曲線や折り目も現れました、つって、その次の折りに進んだときにはまたぜんぜん別の光景がみえるような。

あっこれわかった、感覚的な話しかできねえからいつまでたってもまとまらないんだな2


  1. もうすこしいえば、「「ふたつの入り口」が与えられたとせよ」はかなり素に近い形でそのとおりで、そこから徐々に発散していき、「右利きと左利きの耳」でかなりわかりやすくまとまる形になっているのだけど、最後の「騙されない者は彷徨う」だけスタイルとロジックがちょっと違う気がする。それより前に収録された作品の論理は「夢」のそれとはことなっているはずだし、なんならラストだって、(一時的にであれ)「あなた」と「わたし」の間に主従のようなものができたりはせず、あくまで中空で相互に支え合うにとどまるのではないか。
  2. 恥ずかしいから脚注に書くけど、似たようなこと(ということにしておく)を自分がやろうとすると「点対」とか「不可侵条約」みたいになっちゃうんだよなっていう対比がおもしろかったところも正直ある。おこがましい。

『環境を批評する』と『東京ヴァナキュラー』と、あと自分語り

直近では『逆コーラップス』をやっています1。……ということとはまったく関係がなく、今日は最近読んだ本の話をする。青田『環境を批評する』とサンド『東京ヴァナキュラー』について。

『環境を批評する』を読んだきっかけは、日常美学への興味もありその入門として手にとった青田『「ふつうの暮らし」を美学する』がおもしろくて、じゃあ同著者の博論本もと考えたところにあり……というだけではないんだよ! 実際のところ近年のマイブームである美学的関心のなかで行為の美学みたいなのが盛り上がってるっぽいというのを知ったこともあるし2、ゲームプレイにおける感性のはたらきがそのへんと関わってきそうだとかもあるし3、さらには自分がむかし興味をもっていた「都市をどのように感じてどのようなイメージを生成するのか」みたいな話とも絡むじゃん、とかなんとか、そういういろいろによるところがありました。

というわけで、本書については以下のようにまとめられそうに思う。

本書はカールソンをスタート地点としつつも、環境(自然環境も人間環境も)を美的にとらえる際の課題を2つに分解する。ざっくりいえば「このときの鑑賞の対象ってなんなのか、どうやって決まるのか」というフレーミングの問題と、「価値判断を共有できる(つまり、客観的に批評できる)ものなのか」という規範性の問題。前者についてはバーリアントの参与の美学などを引いてマクロ/ミクロなフレームの重ね合わせなどフレーミングの変化のあることを示しつつ、フレーミングそれ自体も鑑賞の構成要素である(なんなら、このフレーミングの可塑性が発揮されるときこそ感性がよりつよくはたらくのではないか)とする。

で、そうなると可塑性のある対象の側で規範性を担保できないわけで、後者の問題はより解決困難になりそうにみえるが……これについてはシブリー-ブレイディを引きつつ知覚的証明というコミュニケーションの成立によって間主観性が担保されるとし(なので当然多元主義的となる)、かつほんらい無際限である環境をフレーミングするという実践だからこそ、それら多元的な批評者の間での協働が必要となる(このあたりはロペスのネットワーク理論が引かれている)と結ばれる。

もちろん、結論としてはあくまで穏当で、そこまでの論証というか、過去の環境美学との接続と組み合わせが本書のおもしろいところであるためここだけとり出してもあれなんだけども、これはかなり、根拠付けとしてしっかりしてくれているなという心強さを感じたのでした。

……というところなんだけど、読んでいる途中に思ったのが、考現学や路上観察みたいな実践って日本だけでなく海外にもあるんだろうかということ。きっと似たようなものはあるはずなんだけど、それをどうやって調べればいいかわからないなとも思った。そんな話をBlueskyでつぶやいていたところ、紹介してもらったのが『東京ヴァナキュラー』であった(鷲羽さんありがとうございます!)。

こちらもまとめると、以下のようになるだろうか(序章と終章はひととおり読みつつも間の事例の章はざっくり眺めただけだが)。

戦後なにもないところからはじまった東京の歴史保存への意識は、明確な運動を経ることもないまま発展してきたようにみえる。これはどういうことなのか。これに対して本書は、1969年の新宿西口地下広場占拠とその挫折を転回点としたうえで、その後のヴァナキュラーへの意識の事例として谷根千、路上観察、そして江戸東京博物館を採り上げる。ときにナショナリズムや商業主義を利用しあるいは利用されながら、あるいは緊張関係をはらみながら、ローカルな過去/現在の記憶や遺産をみずから掘り起こし規定していくさまの記述。言い換えれば、なにが/どこが、どのような根拠で、誰にとっての遺産であるのか(あるいは現在も含め、なにを/どこを、どのような根拠で、誰にとっての遺産「としていく」のか)についての既存の試みが提示される。

……という感じで、もともとの目的であった「路上観察みたいな実践って海外にもあるんだろうか」についてはわかるようなわからんような感じだった(ドゥヴォール-シチュアシオニストとの対比が出てきてて、たしかに共通するところと対照的なところとが際立っておもしろいとは思った4)のはともかくとして、同時に読んでいた『環境を批評する』とあわせて考えれば、「まさにこれじゃん!」となったんですよね。ここで記述されているのはフレーミングの取り組みであり、ひいてはそれを(部分的に政治的にであれ)共有しようとする営みであるという。遺産を規定するっていうのはそれこそ、批評的言説を発展させるっていうことなのだろう、と。

モニュメント/作品だけでなくヴァナキュラー/環境に目を向けるみたいな話じたいはもはや真新しくもなんともないわけだけど、じゃあそれはいったいどういう実践で、その実践にどういう根拠づけを与えられるのかってのはきっとまだふんわりとしか理解されていなくて、いやまあそんなんなくてもいいよという人もいるだろうけど、やっぱ気になるんじゃんね。というかだから、そこが自分にとって大事やったぽいなと思い返されたのでした。そういう感じで、これ自体おもしろい話だとは思いつつ、自分語りとして! 20年だか昔の興味感心が改めてここらで掘り返されてきたところに、同時にちょっと感じ入ってしまったという記録です。


  1. SRPGおじさんだからね。そしてSRPGおじさんとして、めちゃくちゃおもしろいんですよ、一戦一戦が重くて……。ひとつのマップに2時間とか3時間とかか平気でかかる。セーブしてリロードしてという繰り返しをストーリーの面で担保してくれているとはいえ、それにしたって重たい。でも(SRPGおじさんとして)この感覚を求めていたところはたしかにある。あんまりやっている人をみかけない(ドルフロファンの人でやっているのは見なくはないんだけど、おれはSRPGおじさんでやっている人をもっと見たいんだ!)ので、気が向いたらやってみてくれよな!
  2. このへんが、それへの疑義も含めて詳しい。
  3. こないだ読んだグェンの論文とか、Games: Agency as Art(こっちもヒィヒィ言いながらなんとか読んだ)とかでも触れられていた。
  4. シチュアシオニストの日常の扱い方についてはこれが参考になった。自分のイメージどおりなところとそうでもないところがあったというか。
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