平凡な街にも“絵になるもの”はある――堀込泰行が語る、埼玉・坂戸への愛と「エイリアンズ」に刻まれた原風景

取材・構成: かなめゆき 編集: 小沢あや(ピース株式会社) 撮影: なかむらしんたろう

都心までわずか1時間という利便性と、落ち着いた雰囲気を兼ね備える埼玉県坂戸市。この街で生まれ育ったアーティストが堀込泰行さんです。キリンジ時代の名曲「エイリアンズ」にも、坂戸の風景が溶け込んでいるのだそう。
身近な都会だった川越、近くて遠い東京、そして原風景としての坂戸……美しい音楽を生み出す堀込さんにとって、街はどんな魅力を持つのでしょうか。街が創作に与えるインスピレーションについても、お話を伺いました。

地元も東京もバランスよく楽しめる埼玉県坂戸市

―― 埼玉県坂戸市は、好アクセスのわりに、家賃も手ごろですよね。

堀込:たしかに。埼玉出身ではない友だちのミュージシャンにも、坂戸に隣接した鳩山に居を構えている人がいます。

―― 堀込さんは、いつまで坂戸市にお住まいでしたか。

堀込:僕はインディーズデビューした24、25歳のころまで暮らしていました。高校は狭山で、大学時代は東京まで通学していて。

―― 大人になるまで、坂戸で音楽の才能を磨かれていたんですね。少年時代、埼玉でどんなふうに音楽に触れていましたか?

堀込:貸しレコード屋の「友&愛」によく通っていました。「坂戸市中央図書館」でもCDを借りることができて、ジャズや古いイージーリスニング、定番中の定番のような音楽はそこで触れていましたね。
それから、今はなくなってしまった「イトーヨーカドー坂戸店」も大きな存在でした。CDショップの「新星堂」や書店が入っていて。坂戸のお店でいちばん通ったのが、この新星堂だと思います。
ヨーカドーの屋上には大きなトランポリンやモグラ叩きなんかがある遊戯場があって、小さなころは、母親が食材を買っている間はそこで遊んで待って……残念ながら2016年に閉館してしまったんですけど、「最後の営業日に立ち会えばよかったな」と思うくらい愛着が残っています。

―― 坂戸の近くだけでも充実した日々を送れたのだなと伝わってきましたが、遠出して遊ぶときはどこへ行っていましたか?

堀込:中学生ぐらいになると、みんなちょっとオシャレに気を使うようになって、いちばん近い都会ということで、まずは川越へ買い出しに行きました。大きな商店街があるので、そこで服を買って。もう少し大きくなると、池袋に行く感じですね。西武百貨店とか、「あそこに行けばなんでも揃うぞ」と。

地元では置いていないレコードも、池袋で手に入れていました。大学生のころ、60~70年代のレコード音源が再販されるブームがあったんですよ。渋谷系の流行ともリンクしていたと思うんですけど、音楽好きの間で「あれ聴いたか?」と話題になるような。そういったものは、池袋にあった「オンステージ・ヤマノ」という山野楽器がやっていたマニアックなレコード屋さんまで買いに行っていました。

―― 坂戸駅から池袋までは電車で約45分なので、気軽に行けますよね。

堀込:狭山の高校はみんな地元がバラバラだったので、集まるときはだいたい池袋でしたね。「ロサ会館」でボウリングやカラオケをするとか、夜中の公園でキャッチボールをするとか……秩父から来た奴がなぜかグローブを持参していたんですよ(笑)。そういう感じで、池袋は東京の中でも遊びに行くハードルが低かった。新宿もなんとなく行く気になるんですけど、渋谷はちょっと敷居が高かったですね。「タワーレコードがあるから行ってみようぜ!」みたいな感じで、行くこと自体が目的のような街でした。

―― 池袋は、埼玉のあらゆる場所からやってくる人を受け止めるハブとなっていたのですね。大学時代は、東京のどこまで通学を?

堀込:武蔵境です。坂戸からだと1時間40分くらいで、下宿できないことを学生時代は悔しく思っていました。

ただ、実家から通えるからこそ、都内でアルバイトをしていた時期もあります。大学を出て2年後くらいにキリンジとしてインディーズデビューしたころに、恵比寿の「ウルトラ・ヴァイヴ」という音楽系の会社でバイトをしていて輸入レコードを全国のレコード店に卸す仕事で、音楽好きが仲良くわいわい働いていて楽しかったです。そんなこんなで池袋や新宿以外の東京にも慣れていきました。

くすぶっていた時期、坂戸の街から吸収した大切なこと

―― 大学卒業のタイミングでは上京されなかったんですね。

堀込:「ミュージシャンになりたいから」と就職活動をしなかったので、その間は独り立ちせず、週4ぐらいで実家の近所の古本屋でバイトして、空いた時間にデモテープをつくる生活をしていました。
振り返ると、卒業と同時に上京して、さっき言ったレコードの卸のような音楽関係のバイトをしながら楽曲制作に打ち込むという選択肢もあったな、とは思います。ただ、もしそうしていたら、それで満足しちゃったかもしれない。きっと楽しいから。

―― キリンジとしてインディーズデビューするまでの2年間は、どのように過ごしていたんですか?

堀込:曲づくりや、好きなミュージシャンのコード進行のコピーをよくしていましたが、レコード会社にデモを送るとか、「本当にプロになるために必要な活動」はあんまりマメじゃなかったんです。レコード会社のディレクターとは繋がっていたけど、自分が心から納得する曲ができるまで送っていなくて、半年に3曲とか……。

だから、漠然と「プロになりたい」「なれる気がする」と思っているだけの、ダメダメな状態でした。今考えると、親もよくそんな甘ったれた生活を許してくれたなと。たまたま兄とキリンジを結成してデビューできたからよかったけど、漫然とくすぶっていましたね。ただ、音楽をつくるうえで、大切なことを吸収できた時期でもあります。

―― たとえばどんな?

堀込:古本屋のバイトは音楽を自分で選べたから、モダンジャズをけっこう大きい音で流して……とにかく自由が利く環境だったことが大きいですね。眠れなかった日は明け方に近所の河川敷に行って、朝日が昇る中を散歩したりしていました。夕日が落ちていくのを眺めつつ、音楽を聴きながら川べりを歩くことも。実際、あのころ見ていたものが原風景になっている曲も多いんです。

―― 坂戸市は6つの河川が流れています。堀込さんにとっても川が身近だったんですね。

堀込:そうですね。子どものころも夏は川遊びが定番でした。幼いころから親しんでいた川と、デビュー前のくすぶっていた時期に通っていた川、どちらも同じ川なんです。冬になると、朝日が霜を照らして枯れた草木がキラキラしている様子に目を奪われたり、夕暮れの赤さに日によって違った感情を覚えたり……そういう、日常で感じる美しさが音楽をつくるときの原点になっている気がします。

プロになってからはなかなか帰省できない時期もあったけど、最近は毎年、帰るようにしています。その際は、昔よく歩いていた散歩のコース……川べりとか、図書館までの道とかを、もう一度歩くんです。自分の原点を振り返るというか。「今は運よくプロとして音楽をやれているだけ、いつだって簡単にくすぶっていたあのころに戻っちまうぞ!」と。初心に立ち返る機会になっています。

―― 東京に拠点を移されたのはメジャーデビューのタイミングですか。

堀込:はい。西武新宿線には馴染みがあったので、新井薬師に移りました。あとは大学の頃にちょっとだけ付き合っていた子が隣駅の沼袋に住んでいたという過去もあって、なんとなく住むことが想像できる場所だったというか(笑)。

引越してしばらくは、仕事で会う人以外に友だちと呼べるような人がいなかったんですけど、 そこから3年ほど経った30手前ぐらいになると交友関係が広がって、「友だちがDJをやるから、とりあえず行ってみるか」みたいな感じで、いろんなところに出かけるようになりました。

―― 東京の街からはどんなインスピレーションを得ましたか?

堀込:東京に馴染んだことで、街の見え方も変わってきました。そのくらいの時期から、自分の曲の中にも、東京で暮らしている感覚や、東京の街の雰囲気みたいなものを込めるようになったと思います。たとえば、「自分は大きな街の中で生きている、ちっぽけな存在だな」と感じながらも、 「でもこの大きな街を嫌いじゃないな」という気分が曲に反映されていた時期がありましたね。今はもうだいぶ東京に慣れちゃったので、そういう感覚とはまた違いますけども。

平凡な風景の中にも「絵になるもの」は探せる

―― 堀込さんの楽曲は、光の具合や温度感も含めて情景が浮かんでくると感じるので、街の見え方のお話はすごく納得感がありました。街の具体的な描写としては、「エイリアンズ」には「公団」が、「五月病」には「ニュータウン」が出てきますが、これは坂戸の風景ですか?

堀込:北坂戸まで行くと、公団がたくさんあるんです。中学のときにサッカー部だったから、北坂戸中学校と試合するときに自転車で遠征していたんですけど、そのとき見た風景ですね。「こんなにたくさんの同じ形の巨大な建物が並んでいて、番号が振られている」という光景が強烈に印象に残っていて。

「五月病」は、まさにデビュー前のくすぶっていた時期によく通った散歩コースがモチーフになっています。地元の人しか通らない細い道にあるやけに小さな信号などに、どこか侘び寂びめいたものを感じていました。

―― 街のディテールに美しさを見出すのですね。

堀込:埼玉って、特別「絵になる風景」が少ないんですよね。 海もないし、山も奥のほうにしかないから、いわゆる絶景と呼べるような景色は少ない。

でも、どこを切り取るか、どう焦点を当てるか次第で、見慣れた風景の中にもちゃんと「絵になるもの」を見つけられる。

とくに歌詞には、そういう感覚が反映されているんじゃないかなと思います。ものすごく大自然に囲まれた場所や海が近いところではなく、平凡な街で育ったからこそ、平凡なもののなかに物語性を見出す癖がついたと思います。

―― 歌詞を書くときは、具体的な風景を言葉に変えていくのでしょうか。

堀込:最初は抽象的ですね。メロディーを先につくるので、「森の中を歩いてる感じがするな」とか「あたたかい雰囲気がある」とか、音そのものから受けるイメージを広げて言葉を紡いでいきます。いろいろと試行錯誤して最終的に「この曲は、真夜中の街を恋人同士がさまよっている感じにしよう」と固まっていく感じです。

―― 五感が大切だと。堀込さんの歌詞は「引き算の美学」を感じるというか、研ぎ澄まされている印象があり、「エイリアンアズ」の歌い出しも淡々と街の様子が描写されています。これは意図的ですか?

堀込:そこは、日本語で音楽をやるうえでの制約に対する、クリエイターとしての向き合い方が関係しています。一つのメロディーに対して日本語は入れられる情報量が英語に比べて圧倒的に少ないから、限られた言葉で広がりをもたせるしかない。極端にいえば、単語の羅列だけでも、何か意味が形づくられていけばいいなと思っています。

あんまり説明的に書くと表現できることが減ってしまうし、僕の美意識としては音楽的ではなくなってしまうんですよね。デビュー当時はとくに、「どうやって日本語を洋楽的なメロディーに乗せて、かっこよく聴かせるか」ばかり考えていました。

―― 歌唱も、日本語の響きが美しく聴こえます。「英語っぽく歌う」こともできると思いますが、あえてそうしているのでしょうか?

堀込:日本語って、イントネーションを無視しても、ちゃんと意味は伝わるんですよ。でも、メロディーと歌詞のイントネーションを合わせることで、日本語の音楽はよりスムーズな聴こえ方になると僕は思うんです。
これはもう習慣として身についているところがあって、イントネーションが極端に違うものは自分の中で自然に出てこないですね。だから歌い方も結果的にそうなるのだと思います。

東京に慣れるほど、逆に埼玉愛が強まっていく

―― 東京に住むようになって、地元への思いは変化しましたか?

堀込:東京に慣れるほど、逆に埼玉愛が強まっていく感じがします。埼玉といっても、 浦和や大宮はまだピンとこなくて、坂戸や狭山、川越、所沢といった、自分の過ごした場所への愛着ですね。

このあいだも、お正月に帰省する前に川越に一泊してみたんですよ。川越って、いまや観光地として大成功しているから、「どれくらい変わったのかな?」と。僕が子どものころから蔵造りの街並みはありましたけど、当時はまだわざわざ遠くから人がやってくるという感じではなかったので。

実際に行ってみたら、「もしかして吉祥寺より街としての規模が大きいんじゃない?」と思うくらいで……なぜ突然、吉祥寺と比較したかというと、僕が好きだからなんですけど(笑)、川越も昔ながらの商店街も変わらず残っているし、賑わっていました。

―― 2024年には、地元の坂戸市文化会館「ふれあ」でお笑いライブをご覧になったとSNSで書かれていましたね。

堀込:大御所の芸人さんが勢揃いしていて、楽しめました。坂戸の人に合わせたネタをやってくれて。実はこのホールはキリンジ時代にお声がけをいただいたんですけど、お断りしてしまったんです。「客席から中学時代のあだ名とかで呼ばれたら恥ずかしいなぁ」みたいな理由で……(笑)。今思うと、親戚とかにも見に来てもらえるし、やっておけばよかったな。

―― もしかすると、堀込さんがソロとしてのライブを行う日がくるかもしれませんね。そのときのために坂戸の見どころを教えてください。

堀込:僕が住んでいた時代とは人の集まるエリアが変わり、坂戸の駅前が落ち着いてきてしまったことに寂しさを感じているんですが……毎年5月5日に行われる「釈尊降誕祭」は残っています。「坂戸のお釈迦さま」とも呼ばれるんですけど、全国から屋台が集まって、街の中心にある永源寺へと続く道沿いに並ぶんです。僕の知人はわざわざ帰省して親戚の子と一緒に足を運んでいるくらい賑わうお祭りです。

―― 話題のスポットや、気になるスポットはありますか?

堀込:有名なところだと、「丸長 坂戸店」という、つけそばのお店があります。今は閉店してしまった、東京・荻窪の名店「丸長 中華そば店」から暖簾分けしたお店です。荻窪のほうは何回か行きましたが、たしかに「病みつきになる人がいるのはわかるな」というおいしさでした。坂戸の店舗も、近くに住む友人によると毎日行列ができているそうです。あと、坂戸市には「餃子の満州」の工場があるので、もしかすると他地域の店舗よりもおいしいかもしれない(笑)。
アクセス面でいうと、副都心線が延びたことで横浜方面まで直通で行けるようになりましたよね。昔を知る者からすると「めちゃくちゃ遠かったのに、1本の電車で行けるのか!」という驚きを感じます。そう考えると、これから川越や坂戸に住むのもありなんじゃないかと思いますね。

お話を伺った人:堀込泰行

1972年生まれ、埼玉県坂戸市出身。1997年に「キリンジ」としてデビュー。2013年からはソロアーティストとして活動。4月には東京と神戸でプラネタリウムで行うライブ『堀込泰行 LIVE in the DARK tour 2025』を開催予定

編集:ピース株式会社

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