5月16日付拙記事にて傍聴の呼びかけを転載した鈴鹿大学裁判第3回期日(5月18日津地裁)は、私自身も傍聴に行った。ただしこれまでの提訴~第2回期日と同様、裁判戦略というものがあるため支援者が個々に情報発信するのは慎むべきだと判断している。第3回期日に関しては速報のメールニュースが発行されているので、たぶん次の次くらいの拙エントリーに転載する予定。
代わりにというのも変だが、これまでは津市各所の散策記事をアップしてきた。第2回期日の折の記事はこちらで、ここから過去記事をたどることができる。
上掲の拙記事中に、江戸時代の斎藤拙堂という文人の墓が津市内の四天王寺にあるという説明書きが出てくる。四天王寺は大阪のが有名だが、三重県内ではときどき津市の四天王寺の名を見かける。
マップで調べたところ、津駅から近いじゃないか! ということで今回はここを傍聴後の散策・参詣先にしてみた。
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あとで公式HPを参照すると最寄りバス停は津駅前ではなく県庁前だったが、津駅前からじゅうぶん歩ける距離だった。
津駅方面からのとっつきにあった説明書き。
弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。改行位置、変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。
重要文化財
彫刻 木造 薬師如来坐像 1躯 平安時代 大正2年8月20日指定
昭和20年の空襲で薬師堂が焼失した時、難を逃れて残った仏像です。檜材の一本造で、胎内の文書から承保4年(1077)に造られたことがわかっています。抑揚の少ない目鼻立ち、強く張った両肩、小さい膝、硬質な衣文など、凝集するような造形に特色があります。また、大衣の終端を右胸前に垂らす特殊な服制は他に例がありません。古文書 紙本墨書民部田所勘注状外古文書4通 1巻
平安時代 明治39年4月4日指定
「勘注四天王寺領田畠事」と題された勘注状、施主及び結縁者名を記した貢進状、これに続けて齊藤拙堂(津藩校有造館の督学)の跋文(あとがき)をのせ表装して1巻としています。
勘注状は康平5年(1062)5月13日の銘があり、四天王寺の寺領を民部省が調査した時のもので、垂水、渋見、忍田など地名を多く記しており、津市付近の条里を研究するには非常に重要なものとなっています。これら古文書類は先出の薬師如来坐像の胎内に鏡、櫛等と共に納められていたものです。絵画絹本著色 聖徳太子像 1幅 鎌倉時代 大正7年4月8日指定
聖徳太子孝養の図といわれるもので、両手で金色の病香炉を持って立っており、父用明天皇の病気の快復を太子が祈願する姿と伝えられています。顔はふっくらとし、髪が両耳の上で赤い紐でみずらに結い、唇には朱がさされて描かれています。全体に渋みのある彩色を用いていますが、袈裟などの文様は金や赤で描かれていて画面を引き立てています。絵画 絹本著色 藤堂高虎像 附同夫人像 各1幅
江戸時代 明治39年4月14日指定
高虎像は上畳に斜め右向きに座って、右手に笏を持ち太刀をさげています。眼光強く、鼻と囗が大きく威風堂々としていて戦国時代の風貌をよく表しています。夫人像は、上畳に斜め左向きに座り、桃山時代の葡萄や柳に桜などの華やかな模様の打ち掛けを肩からかけています。
2幅の画像は津藩2代藩主藤堂高次の寄進と伝えられています。津市指定有形文化財
建造物 山門 1棟 江戸時代 昭和60年5月7日指定
山門は四天王寺の総門にあたります。四脚門という形式からなり、2本の丸柱を親柱とし、その前後に各2本の角柱を控柱として立て、切妻造の屋根をのせています。棟木の下に打ち付けられていた棟札によって寛永18年(1641)に建立されたものを天明8年(1788)に修理し、その時に当初の棟札の記事を写したものと考えられます。
先走って書いてしまうと、これらのうち古文書以外は実物を見ることができた!
説明書きの背後にあった芭蕉翁史塚。
芭蕉翁文塚
文塚は句碑に先行する芭蕉の追善碑。全国的にも文塚は希少であり、四天王寺のものは全国十八番目の古さと言う。元文二年(1737)津を代表する俳人二日坊が建立。
安濃津ガイド会
津観光ガイドネット
5月12日付拙記事に書いた愛知県の無量寿寺にも芭蕉句碑があったけど、東海地方はなぜか芭蕉好きだ。
これは山門ではなく鐘楼だった。ここから境内へは入れなかった。
津市指定文化財 工芸品
梵鐘 1口 附 半鐘 1口 雲版 1口
江戸時代 平成10年12月7日指定 総高 154cm 外径 90cm
この梵鐘の銘文によると、四天王寺は、津藩主藤堂家の保護を得てきたが、梵鐘がなかったので発願し、檀家の協力を得て梵鐘を作ったとある。また、延宝8年(1680)江戸時代初期の津の鋳物師辻越後守陳種によって作られたということも銘文に記されている。陳種の作品の中では、やや小ぶりであるが、最も油の乗りきった時期の代表的作品である。
四天王寺には、この梵鐘のほかにも、ほぼ同時期の陳種の作品である半鐘と雲版が所蔵されている。半鐘は、寺院または陣中火災の合図に打ち鳴らすのに用いられた。雲版は、長打して食事や法要の合図などに使用、そのために長板ともいう。
津市教育委員会
少し移動して、これが山門。中を覗くと二重に門があって、その先が本堂である。
本堂。ちゃんとお参りしました。
正面の張り紙に、ありがたいことが書いてあった。ありがたいというのはご利益のことではなく、SNSユーザーの一種であるブロガー(およびツイッタラー)としてありがたいという意味である。それもまたご利益なのかも知れないが。
右上の張り紙。張り紙といってもラップしてマグネットで留められていたけど。
本堂内の撮影SNSアップOK
ハッシュタグは #三重四天王寺
四天王寺 本堂の見どころポイント
①聖徳太子像
✓十七条憲法を制定
✓「和をもって貴しとなす」
✓父・用明天皇の病気平癒を祈る16歳の様子
②薬師如来像(重要文化財)
✓1,000年前、お姫様が病気平癒の願いを込めて造立
✓仏さまの体内からは、平安時代のくしや鏡が発見される
✓国指定の重要文化財
③三面大黒天
✓織田信長公も祈願
✓大黒天・毘沙門天・弁財天の3つのお顔で開運出世のご利益
✓境内の織田信長公のお墓もお参りください
④聖徳太子の観音さま
✓聖徳太子没後1400年を記念して2022年2月22日にお披露目
✓平安時代から続く聖徳太子は観音さまの化身という信仰を表現
✓世界平和への祈りを込めて、お参りください
そんなわけで、遠慮なくスマホ写真を撮らせていただきました。
ハッシュタグはブログタイトルに入れ、連携機能でツイッターに流します。
右下の張り紙。左上は順路を示した図なので文字起こしは省略します。
ご参拝の方へ
法要中以外は中に入ってお参りいただけます
どうぞお入りください
御朱印の方は先に納経所へお越しください
四天王寺
本来お寺の本堂は自由に中に入れるはずである。教会の礼拝堂やイスラム教のモスクも同じはず。はず、と繰り返すのは、一度だけどっかのお寺に入ろうとしたら寺男(?)から「出ていけ!」と怒鳴られた経験があるから。そういうところは例外だと思いたい。
本堂内部。
中央の本尊。左から阿弥陀如来像、釈迦如来像、馬頭観音像だそうだ。ちょっと変わった三尊の取り合わせである。三尊はオーソドックスな組み合わせあれど、わりとフリーダムなものだが。
本尊右側の薬師如来像。
本尊左側。三面大黒天像。
霊力最強、取扱注意。ここじゃないけどどっかで「潜在意識を読み取って、願ってないことまで叶えてしまう」というありがたいんだか物騒なんだかよくわからない説明書きを読んだうろ覚えの記憶がある。
三面大黒天像は善光寺仁王門にある高村光雲・米原雲海作も有名だが、そこでもなかったはず。どこだったっけ?
追記:
どうも記憶違いで三面大黒天ではなく聖天(歓喜天)だったらしい。ちなみに大黒さまはヒンズー教ではシヴァ神、お聖天さまはガネーシャ神だから父子である。
追記おわり
三面大黒天像の手前には、聖徳太子像。うって変わって2022年2月22日公開という新しいものである。
先ほどの張り紙に「世界平和への祈りを込めて、お参りください」と書いてあったので、機会あるたびに何度でも。
нет войне!
NO WAR!
戦争反対!
一刻も早い停戦を!
本堂天井に描かれていた「波龍円相図」〔はりゅうえんそうず〕。これも新しいものである。
「波龍円相図」
私達は今現在を、生きとし生けるもの全ての生命と時を共有しながら奇跡の惑星に生きています。地球誕生から46億年、人類が誕生してまだ約20万年そこそこなのですが、我々の御先祖様から考えれば壮絶な物語を経て、20万年もこの地球にお世話になっているのです。今回の作品は太陽系の中でも最も命の息吹が濃いこの地球とそれを守り続けてきた月との関係に焦点を当てて、多くの皆様にご理解していただけれぱと強く念じ制作致しました。
地球自転のスピードは現在でも約秒速600m、重力が存在しなければ全てが吹き飛ばされ、命の誕生などあり得ない程の状況です、地球が生まれて間も無く巨大な隕石が溶岩流に覆われた地球に激突し、その一部が飛び散り大きな塊となって、やがて月が誕生するのです。そして数十僮年かけて、地球と月が冷えて地球に海が誕生します。月は潮の満ち引きや重力をコントロールしながら地球誕生や生命の維持に無くてはならない尊い存在となりました。
本作品「波龍円相図」には二つの世界が混在します、一つは水を湛えた地球とそれを司る龍神の霊力の世界、もう一つは暗い宇宙に浮ぶ月の裏側のおびただしい数のクレーターの世界です。月の誕生から数十億年、月の裏側は地球に降り注ぐ無数の隕石を自から引き寄せ、その身に激突させて地球生命の維持と進化を守り続けてきました。
そんな大きな犠牲を秘めた月の裏側、そのクレーターひとつひとつに想像を馳せ巡らせてみると私達の存在も、その有り難い軌跡の瞬間の中に生きていることを実感することができます。この地球上の全ての生命や自然の営み、私達の出会いすらもその中に存在し、生かされ、沢山の物語を今も生み続けているのです。太古の人々はそれらの関係を知っているかの如く崇め続けながら、時の番人として役割を果たしてきたのです。いま一度、自分自身も含めそのような感覚を取り戻すことを念頭に今回の制作に取り組んでまいりました。
皆様がどこかで夜空の月を見上げる時に、この円相図に込められた生命の物語を思い出し、私達が生きるこの奇跡の惑星に感謝の念を捧げていただけたら有難く存じます。
2018年11月10日、平成最後の年に…
画家 塩澤文男
上の写真右側の新聞切り抜きを接写。
2019年(令和元年)11月13日(水) 朝日新聞
四天王寺にパワースポット?
龍と月浮かぶ天井絵
波と波がぶつかって龍神が生まれ、真ん中に月が浮かぶ――そんな様子が描かれている四天王寺(津市栄町1丁目)の天井絵「波龍円相図」が静かな話題を集めている。倉島隆行住職(42)によると、気力や体力がみなぎると同時に、心が安定して穏やかになる御利益があるという。
「波龍円相図」を手がけたのは、京都の寺のふすま絵などを制作する画家の塩沢文男さん(64)。絵は、昨年11月に曹洞宗大本山・総持寺(横浜市)であった仏教音楽祭で、舞台美術として飾られた。倉島住職からの「宗派を超えた祈りの場である音楽祭を象徴するような絵を描いてほしい」との依頼で生まれた。
音楽祭が終わった後。多くの人たちに見ててもらおうと、3月から四天王寺の本堂の天井に飾られている。縦3・24㍍、横2.24㍍。龍神が大きな「円相」(禅宗で、悟りの象徴として描く円)をつくり、ブラックライトで照らすと龍神の目が光って、月が現れる。月にはおびただしい数のクレーターが広がる。
地球に降り注ぐ無数の隕石を受け止めて生命を守ってくれている月の裏側を表したという。塩沢さんは「水をつかさどる龍神と月の二つの世界を描いて、人は一人で生きているわけではない、いろんなものに守られて生きていることを忘れないでという思いを込めた」と話す。
寺務所で声をかければ本堂に入れる。午前9半~午後4時で拝観無料。≪後略≫
私は声をかけなくても入れた。
本堂の右壁、薬師如来像の手前には隣の座敷につながる障子があり、こんな張り紙が掛けられてていた。
張り紙の反対側の柱に貼られていたポスター。
聖徳太子図
聖徳太子孝養の図といわれるもので、両手で金色の柄香炉を持って立っており、父・用明天皇の病気の快復を太子が祈願する姿と伝えられている。顔はふっくらとし、髪は両耳の上で赤い紐をみずらに結い、唇には朱がさされて描かれている。全休に渋みのある彩色を用いているが、袈裟などの文様は金や赤で描かれていて画面を引き立ててている。
鎌倉時代 絵画・絹本着色 重要文化財
藤堂高虎像 同夫人像
高高虎像は上畳に斜め右向きに座って、右手に笏を持ち太刀をさげている。眼光鋭く、鼻と口が大きく威風堂々としていて戦国時代の風貌をよく表している。夫人像は上畳に斜め左向きに座り、桃山時代好みの葡萄や柳に桜などの華やかな模様の打ち掛けを肩からかけている。3幅の絵画は二代藩主・藤堂高次の寄進と伝えられている。
江戸時代 絵画・絹本着色 重要文化財
「えっ、いいの?」と思うくらい間近で拝観できた。
聖徳太子孝養像。
藤堂高虎公像。
藤堂高虎夫人像。
この座敷スペースは、よくある法要のあとに精進落としの料理が振舞われる場所のように思われたが、それにしては貴重なものがいろいろと展示されていて驚いた。
15 重要文化財
薬師如来坐像および像内納入品
木造 漆箔
平安時代 承保四年(1077)
三重・四天王寺文書から制作年代とともに、「物部美沙尾」が像の造立を発願したことがわかる。納入品はいずれも当時の女性の日用品であり、手箱の内容物とも重なる。櫛や鏡などは像内納入品としてほかにも例があり、中国で副葬品となった奩(No.12)とともに、化粧道具の呪術性を物語るようだ。
物部美沙尾というのがお姫様の名前かな? 奩〔れん〕というのは、ぐぐると中国漢代の化粧品入れだそうだ。
説明書きが見当たらなかった展示物。
本堂内参拝後、境内を散策した。
まぶしい新緑の中の石仏たちが、とても新鮮な印象を与えてくれた。
逆に言うと、暗かったり寒かったりする時分だと怖いかも、といつもの一言多い悪癖。
十三重石塔。
石塔たもとの金属板には「報恩大授戒記念塔 平成三年四月四日啓建八日完成」と刻されていたが、個人名も多く刻まれていたので接写・文字起こしは遠慮した。
お地蔵さん。
上のお地蔵さんを背に山門のほうを見ると、「令和観音像」の「令和8年2月22日開眼法要」という大きな看板があった。
看板の右端あたりに立っていた立派な宝篋印塔。
「伊勢の津 七福神めぐり」。とりあえずこれで大黒さまにはお参りした。
宝篋印塔は山門の左右に一対で立っていて、その向こうに鐘楼があった。
最初のほうに貼った建物を内側から見ているのだな。
山門から出ようとしたら、この石碑に気づいた。
土俵人生
がぶり寄り
琴風豪規
元大関琴風の8代尾車親方は、ここ三重県津市の出身だった。
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