①工学系の研究者(複数)と話していて、驚くことがある。まず、文章に対する考え方。小保方さんの博士論文の序論のほとんどがコピペだったことは、人文社会科学の研究者にとっては有り得ない暴挙に見える。しかし、工学系では、「論文の文章なんてコピペ同然でもよくて、大事なのはデータ」らしい。
— modi operandi (@modi_operandi) 2014, 8月 28
②そもそも、工学系の研究者の多くには「文章の剽窃」の意味を理解するのが難しいようだ。一字一句同じであれば剽窃だと分かるけれど、表現を少し変えた場合には、剽窃だとは思えないという人が結構多いみたい。研究者でさえそういう様子なので、学生への文章作法の教育がかなり軽視されているのでは?
— modi operandi (@modi_operandi) 2014, 8月 28
③工学系に限らないけど、論文の元になる研究に関わっておらず、執筆にも関わっていないにもかかわらず、共著者として執筆者に名を連ねる慣習が一部の分野にはある。これは絶対におかしいのだけど、どうして当たり前と思われているのか。理屈を聞いてみると、論文には直接関わっていないものの、
— modi operandi (@modi_operandi) 2014, 8月 28
④「研究室の実験機材を貸してくれた」「研究会でコメントをくれた」などの間接的な貢献を当該論文に対して行ってくれている。それゆえに、何もしていなくても共著者に名を連ねるべき、という理屈。これはしかし、「著者」や「論文」の意味を大きく誤解しているし、その共著者は何の責任も取らない。
— modi operandi (@modi_operandi) 2014, 8月 28
これってどれぐらいの範囲で共有されている感覚なんだろう?
小保方氏の論文コピペ問題に対して、僕の観測範囲内では理工系の色々な分野から、かなり憤ってる声が出ていた(今も出ている)気がする*1。ごく小さい特定の研究領域で共有されているような感覚なのか、それとも研究室単位とかなのか。
「コピペでよい」までの距離はだいぶあると思うけれど、「文章(表現)よりデータが大事」というような考え方については、分野ごとに感覚が違うのではというのを感じることもある。ただし、これも「文理」みたいな単純な軸では切れない話かと思う。ちなみに僕は(生成文法が専門じゃない言語研究者からも)大学院で「主張や論理はどういうデータをどう出すかで語らせろ。表現はシンプルに。レトリックをこねるな」という教育を受けた。こういう方針については言語研究領域内でも意見が分かれるのではないかな。僕が書いた論文は、ものにもよるけど、「表現が稚拙」と評されたことも「表現がシンプルでわかりやすくて良い」と評されたこともある。