第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている
この春(2024年)、日本で開催される芸術祭としては最も古いものの一つ「第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている」が四年ぶりに開催された。メイン会場の横浜美術館もしばらく改修工事で閉館していたので、会場のある”みなとみらい”へ行くのも随分久しぶりだったような気がする。あらためて考えてみると、芸術祭ってなんだろう?そう思って恐る恐る訪れた最初の芸術祭がこの横浜トリエンナーレだった。それが第何回だったのかはまるで覚えていないのだけれど、おそらく二千年代半ばから後半にかけてだったと思う。それ以来なんとなく日本各地の芸術祭を巡るようになり、気がつくといつの間にか、それが私のささやかな楽しみの一つになっていた。でも、自分でも意識しないうちに繰り返しているコトって、やっぱり何かが自分に合っているんだと思う。自分では結構気に入っていたつもりでも、いつの間にかやらなくなってしまっているコトも多い。
今回の横浜トリエンナーレは第8回ということで、その数字だけを見るとそれほど歴史あるイベントといった感じもしないけれども、最初に開催されたのが2001年で今年で二十四年目(トリエンナーレとはイタリア語で三年に一度の意味)。既に四半世紀続いている。01年アメリカ同時多発テロ、11年東日本大震災、そして20年からコロナ禍と、21世紀の激動といってもよい歴史とともに歩んできたのかと思うと、それなりの感慨も湧いてくる。今回の横浜トリエンナーレのタイトル「野草:いま、ここで生きている」もそういう困難な時代、状況を生きることを率直にテーマにしたものだった。
今回の横浜トリエンナーレは会場が広いエリアに点在していた事や、横浜という比較的通いやすい場所での開催ということもあって、パスポートチケットを買って何回かに分けて会場を巡ることに決めた。それで気持ちにも余裕があったので、気になった作品を繰り返し眺めたり、映像作品も時間をそれほど気にすることなく見ることができたのは本当に良かった。ちょっと贅沢な気がしなくもなかったが、地方の芸術祭ではまずこういうことはできないので、三年に一度の贅沢ということにした。
最初にメイン会場の横浜美術館を回ってとくに印象に残ったのは、戦前から戦後にかけて日本に住んでいた中国人の間に広がった版画運動の記録だった。彼らは異国にあって言葉が不自由であったために、版画つまり絵によって自分を表現する手段を手に入れる必要があった、というような説明だったとおもう。絵でなくて版画であったのは、複製して多くの人に見てもらえるという利便性と、デッサンみたいな技術力がなくてもそれなりの形になるという簡便さがあったからだ。それはそれで確かに面白いし、版画という表現のユニークさにも改めて気付かされたのだが、それにしても地味だなあ、というのが正直な感想だった。芸術祭とえば草間彌生の作品がドーンと展示されている、といったようなド派手な印象が少なからずあって、自分のなかでもどこかでそういう期待をしていたのだとおもう。
それから三、四回横浜へ通い、何度目かに、メインの”みなとみらい”からは少し離れた、黄金町というやや猥雑な繁華街近くに設けられたエリアに出掛けた。その一帯は小さな家が寄せ集まって路地を形成しているような不思議な街並みで、その小さな家一軒が丸ごと作品になっているような展示があったりと、それまでの会場とはどうも雰囲気が違っている。一体ここはどういう場所なんだろう?と気になって解説を詳しく読むと、そこはかつては売春街で、売春宿として使われていた建物を再利用し、現在はアーティストにアトリエや展示スペースとしてに開放する取り組みが行われている、ということだった。なるほどなと思って展示の目印のある家を一軒一軒巡っていると、ある一つの映像作品が目に止まった。
画面は白黒で場所はまさに展示会場のあるその街。時間は夜だ。そこに、かつてそうであったのだろうか、それともやや劇画的に誇張されているのだろうか、娼婦やポン引き風の男たちがたむろしている姿をカメラが捉える。すると彼女ら彼らはことごとくカメラ、つまりよそ者であり鑑賞者であるこちら側を鋭く睨みつけるのである。解説によれば、その映像は黒澤明の映画「天国と地獄」からインスピレーションを受けた作品ということだった。黄金町にあったその街は「天国と地獄」で描かれた貧民窟の舞台として設定されていた場所だったのだが、当時は状況が悪過ぎて実際には映画のロケが出来なかったという逸話が残っているらしい。映画「天国と地獄」を観たことのある人ならすぐにピンと来ると思うが、映画のなかで地獄側の場所として設定されていたのがそのエリアだったのだ。そう考えてみると、メイン会場となっている”みなとみらい”が天国側という皮肉にも思えなくはない。いずれにしても、その場所でその作品に出会ったことで「野草:いま、ここで生きている」というこの芸術祭のタイトルの意味が、なんだか霧が晴れるみたいに私の中でクリアになっていったのである。
実際に地べたに這いつくばうようにして生きているということとは別に、いろんな状況の中でそれぞれ生きている”みんな”がそれぞれの”野草”なのだ。私達の世界はいろんな草花が混じり合って生えている草むらそのものなのだ。そんな中、いま、作品に触れているまさにいま、生きている。そのことを確認するのが、アートに触れることの意味そのものなのだ。上手く言葉にするのが難しいのだが、なんだかそんなふうに声をかけられたような気がした。そしてその声を聞いた後、ふたたび名もなき中国人の版画や、その他”地味”に展示されていた作品の前に立ったとき、それはもう作品というよりも作者の分身としか思えず、自分がなぜそのような作品を観るためにわざわざ出掛ける気になるのか、その理由がすこし判ったような気がした。
「第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている」という芸術祭は、21世紀という困難な時代を生きる一本の野草として「俺達もがんばってるから、君も負けるなよ」とそんなふうに私を励ましてくれるような、そんな芸術祭だった。
なにも爆発だけが芸術じゃないんだな、岡本太郎にケンカを売る気などさらさら無いが、なんだかそんなことを思った。
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