本棚の上で、本と本が出会い、違った意味を持つ。あるいはより深い意味を持って感じられる。
そういうことがある。
ちょっと大げさな言い方だけれど、本棚は知と知が接続する場所だと思うのだ。
我が家の本棚には、「文章の書き方」にまつわる本が何冊かある。
夫も一時期、業務でブログ作成などを行っていたので、夫婦それぞれが持ち寄ったものが並んでいる。
なかでもわたしにとってある種の羅針盤になってくれているのが*1、雑誌「公募ガイド」の2018年4月号。
特集タイトルは、「テクニックで君の文章はもっと輝く!」。
この号を購入したのは、作家の町田康さんの文章術が掲載されているからだった。
町田康さんといえば、小説もエッセイも魅力的。文体も世界観も独特だ。
そんな町田さんが語る「文章術」は、決して表面的なものではない。たとえば、《格好いい言葉を使いたかったら、自分が格好よくなるしかない》。
格好いい生き方なんて無理だよ……と思いながら読み進めると、「自分が格好よくなる方法」もきちんとあげられている。
《格好いい言葉の背景にある意味をつかみ、自分の実感として理解できる言葉で書くためにも、小説を読むことです》。
地に足ついた内容に、「これならできそう」な気持ちになる。
そして、《町田さんが考える面白い文章とは?》の質問に対しては、《面白い文章ってないんですよ》と答える。
詳しくは「公募ガイド」電子書籍版を読んでほしいが、要約すると「それは文章ではなく在りようの問題である」というようなことを回答している。
わたしが感銘を受けたのは、《町田さんのような独特の文章を身につける術が知りたいです》に対する答え。
町田さんは、《誰にでも「私はこう思った」というものがあるはずです。それを表すのが文章なんです》と答える。
誌面ではさらに攻めた質問が続く。《文章がつまらないということは、その人のものの見方がつまらないということでしょうか》。
「おっしゃる通り」とそれを肯定しつつ、町田さんは、だからといってギャグの練習をすればいいものではないと言う。
《結局は、どんなふうに生きるかなんです》*2。
そして、「面白く生きる」の実践とは、ネガティブな感情も認めて生きていくこと……と、本質的な話が続く。
この「公募ガイド」は、Kindle Unlimited対象になっている。ぜひ読んでみてほしい。
わたしはこの町田さんの話を、自分なりに「面白く書くとは、面白く生きること」「面白く生きるとは、自分と向き合い、可能な限り真剣に生きること。はみ出す弱い部分、醜い部分を直視すること」と解釈している。
これを読んだ当時のわたしは、自分のものの見方が凡庸であることにぼんやりと気づきはじめていた。
その見方は自分の生き方の表れであり、それが文章に反映されていることも。
それから2~3年をかけ、「わたしは凡庸だ」と認めたうえで、「しかし、それでも書くことがやめられない」事実も直視し、「そうであればなるべくがんばって生きて、自分にできるものを書こう」と考えるようになった。
開き直りのきかっけのひとつが、この「公募ガイド」の町田康さんのインタビューだった。
町田さんのこの考えは、生きることを「ものを書く」視点で切り取った、とても根源的なものだと思っている。
それから4年が経った。
わたしはこの前、町田さんのインタビューと内容が重なる本に、本棚を通じて出会った。
それは夫が購入したフミコフミオさんの著作『神・文章術 圧倒的な世界観で多くの人を魅了する』。
フミコフミオさんは、いわずと知れたテキストの力で読ませる人気ブロガーだ。
わたしが同書を手に取ったのは、好奇心からだった。
フミコフミオさんの文章はたしかにおもしろいけれど、他の人にとって再現性があるとは思えない。何が書いてあるのだろう。
結論から言えば、同書は「こうすればフミコさんのように多くの人を楽しませる文章を書けますよ」といった直接的なマニュアル本ではない。
どこまでも《どう書くかより、何を書くか》*3についての話だ。
つまり、文章の中身をどう充実させるか。
しかも、その文章は「誰に強制されるでもなく書くもの」が前提となっている。
だから、ブログを書くことをおすすめしていても、SEO対策のことなどひと言も出てこない。
この本の前半部分は、フミコさんが「書き捨て」と呼ぶ行為とその効用、具体的なやり方についての話が占める。
「書き捨て」はおおざっぱに説明すると、もやもやした悩みを書き出し、細分化するというもの。「0秒思考」に近い行為だ。
著者はこれで仕事をはじめ、人生で向き合う多くの悩みを解決し、前向きに力強く生きられるようになったという。
では、それがなぜ面白い文章につながっていくのか。
書いては捨て、書いては捨てを通し、自分の思考を整理することで、己の「世界観」がはっきりするからだとフミコさんは書く。
この本における「世界観」とは、「自分を含めた世界のとらえ方」。
「書き捨て」をしていくうちに思考が整理され、物事と自分との位置関係、距離がはっきりし、それが自分独自の世界観の構築につながっていくというわけだ。
フミコさんの「世界観」は、町田さんの《誰にでもある「私はこう思った」というもの》*4。に近く、「書き捨て」は、町田さんのいう「最大限頑張って面白く生きる」のフミコさん流の具体的なやり方なのだな、とわたしは思った。
そこからさらに、「自分のために物語る」ことへと話が発展していく。そのパートで繰り返されるのは、《「物語」は自分サイズのものしか出てこない》こと。
その「自分サイズ」を充実させていくための方法が「書き捨て」であり、書き続けることなのだ。
そう書くと抽象的な話に思われるかもしれないが、「どう実践するか」の具体例も逐一書いてある。
と、両書の重なる点を書いてみたものの、実はわたしにとってこの2つの書の出会いはそれ以上の意味があった。
わたしはいままでいろいろな書き方本やブログの書き方本を読んできた。
ソフトな入口のものは、たいてい「書きたいことがない」が前提になっている。
もちろん、「特化ブログを作る」「今の知見をより広めるためにサイトを作る」など、「書きたいわけではないけれど、伝えたいことがあるから書く」「お金を稼ぐ手段としてブログを作りたい」といったシチュエーションは多々ある。
文章は伝達の手段なので、それは健康的なことだ。
しかし、それは「誰の得にもならないけど書きたい」意欲がある人間にとっては、前提からして異なるものとなる。
「書くためにはとにかく読めよバカ者が!」に近いことが書いてあるハードなものは、参考にはなる。
しかし、特大サイズの「書きたい」を持て余しているけれど、何もかもが足りていないといった状態については答えがない。
それはまあ、「あなたの問題でしょ」ってことで当然なのだけど。
『神・文章術』は、個人がごく個人的に文章を書くことを、人生を肯定的に転がす方法として推奨している。
そこには儲けも何も関係ない。
ブログで儲けることは悪ではない。ただ、わたしの……あえて言ってしまうと「わたしたち」の主たる動機はそこにはない。儲けが起点となった時点で、ノウハウはそれすなわちnot for meになってしまう。
「読者はあなたに興味があるのではありません。検索流入したお客さんに満足してもらえる文章を書きましょう」と説く本はあまたあれど、《読者が求めるのは文章の内容であり、書いている人とその世界観への興味である》と言い切る本はなかなかない。
「あなたがつまんないから、文章が読まれないんですよ」と事実を指摘する向きは多いけれど、この本は《あなたは自分が書いた文章が愛されなかったら、書くのをヤメてしまうのですか》と問いかける。
そうだ、わたしたちは書くのをやめられない。
PVにへこたれて、自分の文章がつまらなく感じて、「こんな文を垂れ流してどうなるんだろう」「世の中では『検索汚染』とか『迷惑です』とか言われてるぞオイ」と思いながらもやめられない。
『神・文章術』はそんな人にこそ読んでほしいし、そんな人に向けて書かれた本であると思う。
よりよく書くには、「小手先のテクニックより、どう生きるか」と教えてくれた4年前の町田康さんのインタビュー。それを羅針盤に突き進んでも、どこかで心が折れそうになる。
エンストしかけるハートを再び駆動してくれるのが、『神・文章術』なのだ。
ふたつの書が接続し、エンジンが駆動する。本棚はピットでもあるのかもしれない。
今週のお題「本棚の中身」
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