足鹿覚
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足鹿 覚 あしか かく | |
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生年月日 | 1904年12月28日 |
出生地 | 鳥取県米子市 |
没年月日 | 1988年5月16日(83歳没) |
出身校 | 東京帝国大学セツルメント労働学校 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 |
従三位 勲二等旭日重光章 米子市名誉市民 |
選挙区 | 鳥取県全県区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1949年1月23日 - 1966年12月27日 |
選挙区 | 鳥取県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1968年7月8日 - 1974年7月7日 |
足鹿 覚(足鹿 覺[1]、あしか かく、1904年(明治37年)12月28日[2] – 1988年(昭和63年)5月16日[2])は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。全日本農民組合連合会長。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]生家は半農半漁で家計は苦しく、そうした環境が彼に労働者としての自覚を促した[3]。
農民運動
[編集]東京帝国大学セツルメント労働学校を終えた後、帰郷して農民運動をする[2]。1926年(大正15年)労働農民党の創立に参加し、労働組合運動にも参加[2]。
政治家として
[編集]1931年(昭和6年)米子市会議員、1935年(昭和10年)鳥取県会議員を経て、戦後は日本社会党に入り、1949年(昭和24年)から衆議院議員に7期当選[2]。1968年(昭和43年)から参議院議員1期[2]。農政を中心とする思想・見識は国民の共感を得た[3]。
1955年(昭和30年)秋、ソ連訪問、欧州各国を視察、1957年(昭和32年)日本農業技術団副団長として新中国を訪問、両国の国交調整を図った[4]
1975年(昭和50年)から1984年(昭和59年)まで全日農会長をつとめた[2]。
1988年(昭和63年)5月16日死去、83歳。死没日をもって従三位に叙される[1]。
人物
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年。
- 『政治家人名事典』編集・発行 - 日外アソシエーツ、1990年。
外部リンク
[編集]議会 | ||
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先代 森元治郎 |
参議院決算委員長 1971年 - 1972年 |
次代 成瀬幡治 |
先代 秋山長造 |
参議院災害対策特別委員長 | 次代 西村関一 |
先代 山本幸一 |
衆議院大蔵委員長 1957年 - 1958年 |
次代 早川崇 |