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【総選挙2014】「自分の一票なんて無意味だ」と思い込んでいるあなたへ

  • 五野井郁夫 (政治学者)
  • 2014年12月14日


Photo by Pasu Au YeungCC BY 2.0

「自分が一票を投じても無意味だし、世の中は変えられない」と思い込んでいるあなたへ。大手新聞がこぞって「自民300議席超す勢い」と報じる。結構。だからなんだ。これから覆せばいいだけの話だろう。臆している場合ではない。

「どうせ誰か他の人が投票してくれるから、行かなくてもいいや」と思い込んでいるあなたへ。戦後を代表する保守政治家・吉田茂は「新聞はウソをつくからね」とつねに新聞報道を警戒していたことはご存知だろう。気を抜いてはいけない。

すこし思い出してほしい。つい先日の沖縄知事選の結果は、そして半年前の滋賀県知事選挙の結果はどうだっただろうか。


撮影:初沢亜利

無党派層が鍵を握る選挙

沖縄と滋賀、どちらの選挙も共通点は無党派層が勝敗の鍵を握っていたことだ。両選挙ともにNHKの報道によると出口調査結果は、きわめて興味深い数字である。

沖縄県知事選挙で普天間基地の移設計画反対は67%で賛成は33%、そのうち移設に反対する80%が翁長雄志氏(社民・共産・生活の3党、県連と沖縄社会大衆党などが推薦)に投票した。また無党派層の60%の票を獲得し、翁長氏が政府・自民も総がかりの支援があった仲井眞弘多氏(自民、次世代の党が推薦)に勝利したのだ。

滋賀県知事選挙では、支持政党はそれぞれ自民が41%、民主14%、維新3%、公明3%、みんな1%、共産4%、社民1%で、「支持なし」つまり無党派層は32%だった。そのうちの14%にすぎない民主支持層のほとんどと、無党派層のじつに60%もの票を得て、三日月大造氏が元経済産業省職員の小鑓隆史氏(自民、公明推薦)に勝利している。

そういえば、総選挙の公示前、こんな記事がにわかに世間を賑わせたことも思い出してほしい。

安倍首相を支えている大新聞は、低投票率にするために、わざと選挙前に「自民300議席へ」という記事を1面に掲げる予定だという。無党派層に「もう勝負はついた」「投票に行ってもムダだ」と諦めさせる狙いだそうだ。

やはり無党派層が重要であるようだ。たしかに、逢坂巌『日本政治とメディア』(中公新書、2014年)でも、1995年を境にして、諸政党ではなく無党派層が日本政治の「第一党」となるという、まったく新しい状況に突入したことを詳述している。

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」

でも、沖縄県知事選挙や滋賀県知事選挙で示された民意のことは、まるでなかったかのように解散総選挙に打って出た側は振る舞っているし、何よりもいまの我々はほんの1カ月ほど前のことでも忘れてしまう。

ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?

忘れるといえば「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」と述べたのは岡崎京子だ。その岡崎の同じ文章内には「ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?」というくだりもある。生きているといろいろと辛いので、忘れなければやっていられないこともあるけど、でも忘れちゃいけないこともあるし、忘れ去られてようとしていることに納得がいかないこともある。

たとえば、いま東京電力福島第一原発の汚染水はどうなったのだろうか。「完全にコントロールされている」と世界に向かって言い放った人がいた。鳴り物入りの凍土璧はダメだったらしい。この前の震災に関連して「原発事故によって死者は出ていない」と発言した人もいたそうだ。けれども震災関連死は1000人をゆうに越えた閣僚の不祥事で危うくなった政権をいったんリセットしたいとの魂胆が見え隠れする今回の総選挙に必要な700億円近くと、各候補が遊説やアピールに使う数千億円を、被災した方々の支援に回すことができたらどれほど復興は加速化しただろうか。そんなことを震災から3年と半年が過ぎた月命日に考えてしまう。

先般の震災事故のことなど何だかすべて忘れ去られてしまったのか、与党は原発再稼働に邁進する。安倍首相はいちいち言うことが変わるので、何のための総選挙なのかははっきりしないが、自民党の政権公約には大きく「アベノミクス」の字が記されているのに混じって、〈責任あるエネルギー政策を〉と称して、携帯電話や保険証券の契約書類でよく見る、あの消費者をごまかそうとしているかのような細かい文字列にも似た自民党の政権公約集の中に、さらりと原発再稼働の話も紛れ込んでいる。こういうことに納得できる有権者は与党の候補に、納得できない人はそうではない候補に投票すればよいだろう。

政治の「受け皿」と「底が抜けた皿」、白票と棄権

投票するにしても、今の与党以外に「受け皿」がないとの声もしばしば聞く。安倍首相によれば今回の選挙は「アベノミクス三本の矢を強力に進め」るための選挙だそうだ。だが過去2年間で悪化した国民生活の限りでは、「賃金・年金は実質目減り」している

安倍首相は今回の選挙を「アベノミクス選挙」と自称しているが、アベノミクスの成果をまだ実感できないあなたへは、麻生財務相から「利益出してない企業は運が悪いか能力ない」という有り難いメッセージが届いている。政府の失策を、利益の出ていない企業のせいにする与党こそ「受け皿」ならぬ「底の抜けた皿」ではないのか。そして2年も政権の座にいて一般有権者に実感を感じさせない政策しか打てずじまいだったことの責任転嫁を平気で行おうとする現政権という「底の抜けた皿」は、野党同様に「受け皿」ではないことは誰の目からも明らかだろう。

では「受け皿」となる投票先はないからといって棄権するのがよいのだろうか。投票へ行くか否かにつき、多くの人が選挙における投票だけが政治であるかのように思い込まされているという「政治の幅」の錯覚を目にする。けれども埴谷雄高に云わせれば「政治の幅は生活の幅より狭い」のだ。その意味で棄権への道徳的非難は政治的自由の否定であり、本来は議会政治のみを指すものではない「政治的なるもの」を狭く捉え過ぎている。政治的想像力は現行秩序と議会の正当性をも覆す可能性をつねに秘めている

現行秩序を変える手法として、一方の極に選挙と議会政治による制度変更があり、他方の極に大量の棄権による制度自体の無効化がある。白票は現行の選挙制度を認めた上で意中の候補者がいないという意味での「否」であり、他方で棄権とは現行の選挙制度そのものへの「否」である

だとすれば、どの程度の棄権が「否」としてインパクトを持つには必要だろうか。一般的に内閣の危険水域が20%台、退陣水域が10%台である。退陣水域か退陣水域すら切るような数字、つまり投票率が一桁台になる程度の投票率しかなければ、そもそも選挙制度自体への信任がなく、投票結果への民主的正統性もないと充分に云いうる。とまれ、これが可能になるためには議会政治をおよそ無視しても動く「議会外の議会」といったような「秩序の夢」の実現が必要となるだろう。これは、現状ではまだ困難である。

死票は死なず、大きな流れをつくる

高邁ではあるが実現可能性の低い「秩序の夢」を求める者を例外として、多くの人は「成功体験」は得たいわけで、勝ち馬に乗ることでそれを獲得したいと思うのが、ある種の性(さが)だとも云える。喜んで負ける人間は珍しい。その意味では、自分の一票(といっても小選挙区と比例とあるのでじつは我々は二票持っている)が無駄死にになるのがイヤなので、とりあえず勝てそうな候補に入れて、その当選すると自分も勝ったかのような気分に浸りたいという理由で、大政党に入れる有権者もいるだろう。

当選候補者の対抗馬候補への反対票が多ければ多いほど、当選候補者が好き放題できないようにするための抑止力となる

しかしながら落選候補への票である「死票」にも意味がないわけではない。ある候補が対立候補との僅差で当選した場合、次回の選挙では容易に議員の座から引きずり降ろされる可能性が高まるので、強引な政治運営はやりづらくなる。つまり当選候補者の対抗馬候補への反対票が多ければ多いほど、当選候補者が好き放題できないようにするための抑止力となるのだ。たとえ応援する候補が勝ちそうにないからといって、棄権や白票を投じるのでは、先に挙げた「秩序の夢」が達成されない限りは当選した対立候補の政治運営を傲慢で放埒なものにするだけだ。

五木寛之は『大河の一滴』で「私たちの生とは、大河の流れの一滴にすぎない」と説いた。その意味では「私たちの一票とは、選挙のなかの一票にすぎない」のかも知れないが、五木はこう続けるのだ、「しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、海へとくだってゆく」と。そうであるならば我々の一票も「無数の他の一票たちとともに大きな流れ」をなすこともできるのではないか。実際に組織票を持つ政党は、そうした「無数の他の一票たち」を束ねることで推す候補を当選させている。他方で沖縄県や滋賀県の民意が示したように、組織されざる「無数の他の一票たち」の力で候補を当選させることもできる。

今の政治に不満があるわれわれがいくら嘆いたところで、代議制民主主義の制度下では、選挙時に投票によって民意を可視化しなければ政治は変わらない。選挙以外の時は勉強会や抗議行動などを行うことで地道に周囲を説得して理解者を増やしつつ、選挙のさいには棄権せずに自分の考えに近い候補や政党に投票し続けるしかない。

民主主義の政治とは絶えざる陣地戦であり、しかも長期戦だ。でも、その民主主義の政治を変えるためにまずすべきは、投票所に赴いて、自分の一票によって未来をわれわれの側へとたぐり寄せることなのである。


Photo by OakleyOriginalsCC BY 2.0

著者プロフィール

五野井郁夫
ごのい・いくお

政治学者

政治学者/国際関係論研究者。1979年東京生まれ。高千穂大学経営学部准教授・国際基督教大学社会科学研究所研究員政治学者。専門は民主主義論。東京大学大学院文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了、博士(学術)。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て現職。著書に『「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義』(NHK出版)、『国際政治哲学』(ナカニシヤ出版)、訳書にウィリアム・コノリー 『プルーラリズム』(岩波書店)、イェンス・バーテルソン『国家論のクリティーク』(岩波書店)など多数。

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