朝鮮の徳興里古墳について。前回は冬寿や佟利を紹介、西暦357年頃の高句麗に起きていたことを示した。今回は徳興里古墳の墓誌から仏教が高句麗に伝わっている。東アジアの歴史研究において極めて重要な手がかりとされる。次の流れで紹介していく。
・徳興里古墳(とくこうりこふん)
・徳興里古墳墨書墓誌の内容
・鎮
・参考:倭の5王の遣使
・徳興里古墳の壁画
・参考:足は白い、手は白い
■徳興里古墳(とくこうりこふん)
所在は朝鮮民主主義人民共和国、南浦特別市江西区域徳興里。
南浦市徳興里は平攘の西郊にあるという。
徳興里古墳は壁画古墳。
築造は永楽18年。
永楽は好太王(在位:391年~412年)が用いた年号とされる。
永楽18年は408年と考えられている。
前室北壁の天井部に墓誌銘が発見されている。
被葬者は鎮。
高句麗に亡命した中国の高官貴族の墓とされる。
ただし、鎮を中国人ではなく高句麗人とみる説もみられる。
■徳興里古墳墨書墓誌の内容
14行154文字で墨書で書かれた墓誌である。
永楽18年(408年)の紀年がある。※文献によっては409年
「□□郡 新都縣 都鄕 □甘里」
と鎮はこの地域の出身であるという。
また、
「建威将軍、国小大兄、左将軍、竜驤将軍、遼東大守、使持節、東夷校尉、幽州刺史」
という官職が記されている。
さらに、
「釈迦文仏弟子□□氏鎮」
と鎮の名前、そして仏教の信者であったことがわかる。
釈迦文仏は釈迦牟尼仏の異なる訳であるという。
■鎮
生没年は不明~408年。
姓は不明、名は鎮。
墨書に現在の河北省である幽州、そして現在の北京である薊(けい)の地名がみられるという。
中国人であったか、高句麗人であったかによって見方がかわるものの、少なくとも一時的に幽州、そして高句麗を統治した人物と考えられている。
■参考:倭の5王の遣使
参考:倭の5王の遣使は413年、東晋の安帝に対してから始まる。
東晋は317年~420年までの国である。
東晋が滅びると、倭の五王の次の遣使は421年、宋の武帝に対してである。
宋は420年~479年までの国、中国南北朝時代における南朝側の国にあたる。
■徳興里古墳の壁画
その墓室の壁面には、そのほぼ全面に壁画が描かれているという。
墓室は前室と玄室(後室)の2室から成り、次の絵が描かれる。
前室:出行図、官吏伺候図など、被葬者の生前の公的生活を表わすという
後室:家居宴飲図、供養図、流鏑馬図などの私的な生活が描かれているという
前室と玄室(奥の部屋)をつなぐ通路の壁に牛車、そして牛車に従う女性が描かれているという。
牛の手綱をとる二人の女性。
牛車に付き添う二人の女官。
この二人の女官に対して傘をさしかる一人の女官。
二人の女官は赤と黄色のひだのあるスカートをはくという。
これは高松塚古墳の婦人像の衣装と類似するとされる。
また、牛をひく牽牛、そしてそれに対し別れを惜しみ涙する織女の姿が見えるという。
※織姫と彦星の世界を表していることになる
高松塚古墳の築造は694年~710年。
一方、徳興里古墳の築造は408年頃。
高句麗滅亡は668年である。
高句麗滅亡後、高句麗の一部の人びとが日本に渡来。
埼玉県日高市に定住した。
高麗若光は高句麗の最後の第28代王・寶臧王の息子。
高句麗への仏教の渡来は372年とされる。
高松塚古墳より、約300年ほども前に徳興里古墳(408年築造)には仏教が渡来していたことを示している。
徳興里古墳は、中国の五胡十六国時代(304年~439年)、韓国の三国時代(日本でいう4世紀~7世紀、韓国でいう紀元前1世紀~7世紀)、東アジアに何があったのか、その手がかりを知る貴重な資料となっている。
↓は高松塚古墳について取り上げた回
■釈迦文仏と釈迦牟尼仏
先述の通りで、徳興里古墳墨書墓誌に記された「釈迦文仏」は「釈迦牟尼仏」であるという。
詳細は不明だが、高句麗にどのように仏教が伝わったか。
以下のようなことはありえると推測されている。
384年、曇摩難提、竺仏念(じくぶつねん)が訳出、さらに道安が修正した。
そして385年、長安において「弥勒下生」を訳出される。
396年には、海東高僧伝(高麗にて1215年、覚訓が撰述)にみえる曇始(どんし、生没年不詳)により高句麗にもたらされる。
曇始の布教もこの弥勒下生経(みろくげしょうきょう)によるものではないか。
そして鎮のような信仰熱心な人物を生んだのではないか。
以上のように推測されている。
■参考:足は白い、手は白い
曇始は「白足和尚」と呼ばれ、足の裏が顔より白く、泥を踏んでも染みがつかないとの伝承が残る。
海東高僧伝によれば、関中(渭河平原(いがへいげん)、渭水盆地あたり)の人。
396年頃、経律数十部をもたらし遼東に至る。
そして405年頃、関中に帰ったという。
曇始に「足」が白いとの伝承が残るが、日本には「手」は白いと名前に残る人物がいる。
継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)である。
古事記では手白髪郎女。
父は仁賢天皇(諱は大脚、または大為)、母は春日大娘皇女。
507年、継体天皇の皇后となった。
手白香皇女の生没年は不明であるが、いつごろだろうか。
その父の仁賢天皇は生没年で449年~498年。
在位年で488年~498年とされる。
手白香皇女はこの仁賢天皇の在位2年目にあたる489年以前の誕生と考えられている。
<参考>
・東アジアにおける仏教の伝来と受容
・徳興里古墳 - Wikipedia
・鎮 (高句麗) - Wikipedia
・永楽 (高句麗) - Wikipedia
・東晋 - Wikipedia
・宋 (南朝) - Wikipedia
・高麗若光 - Wikipedia
・曇始 - Wikipedia
・弥勒下生経 - Wikipedia
・関中 - Wikipedia