シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

455.歴代天皇に漢風諡号を名付けた淡海三船と唐大和上東征伝

歴代の天皇に漢風諡号を名付けたとされる淡海三船について。また、淡海三船が編纂したとされる唐大和上東征伝とは。次の流れで紹介していく。

淡海三船(おうみのみふね)
・大伴古慈斐
淡海三船の父・池辺王
弘文天皇
・大友村主
淡海三船の出家
・唐大和上東征伝
・唐大和上東征伝の成立過程
・琵琶三船びわさんせん)

淡海三船(おうみのみふね)
生没年は722年~785年。
始めは御船王を名乗っていたが、臣籍降下して淡海真人姓となったという。
弘文天皇の曽孫にあたるという。

歴代の天皇に漢風諡号を名付けたのは淡海三船とされる。

淡海三船神武天皇から41代・持統天皇を確実とし、46代・孝謙天皇あたりまでに漢風諡号をつけたのではないかと考えられている。

今回はこの淡海三船について、より深く知ることを目的とする。

↓は淡海三船を扱った回

shinnihon.hatenablog.com

次に、同じタイミングで禁固刑となったという大伴古慈斐について。

■大伴古慈斐

756年、藤原仲麻呂の誣告(ぶこく、事実を偽って告げること)を受けたため、大伴古慈斐は朝廷を誹謗したという。

同じく、淡海三船も朝廷を誹謗。
これにより、淡海三船は大伴古慈斐とともに禁固刑にされたという。

3日後には放免されたとされる。

しかし、古慈斐は今度は淡海三船の讒言(ざんげん)によって出雲守を解かれたという。

こののち、土佐守に赴任。

そして翌年の757年、橘奈良麻呂の乱連座し、そのまま赴任先の土佐国流罪となったという。

↓は橘奈良麻呂の乱を扱った回

shinnihon.hatenablog.com

大伴古慈斐は若い頃より才能がある人物で、諸記録にほぼ通じていたという。

そして、藤原不比等が大伴古慈斐の人物を見込んで娘を大伴古慈斐の妻としたという。
その妻とは藤原不比等の五女・殿刀自と考えられる。

さて、この大伴古慈斐と淡海三船のつながりとは。
人物関係から追ってみる。

まずは淡海三船について。

淡海三船の父・池辺王

淡海三船の父は池辺王(いけべのおおきみ)である。

池辺王は葛野王(かどののおう、かどののおおきみ)の子。
そして葛野王弘文天皇(在位:672年)の第一皇子である。

淡海三船弘文天皇の曽孫とされる。

弘文天皇
この弘文天皇大友皇子とも。

ちなみに、弘文天皇は即位していないとする説が有力であるという。
大友皇子弘文天皇とされたのは明治3年、1870年のこと。
弘文天皇の諱は大友あるいは伊賀とされる。

弘文天皇の母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)
大友とされるのは、大友村主が養育したためであるという。

以上、淡海三船は大伴とのつながりがある。
偶然、同じタイミングで禁固刑になったのではなく、大伴とのつながりが古慈斐との間にあるのだろう。

続いて、大友村主を養育したとされる大友村主について。

■大友村主
この大友村主の系統から、歌人大友黒主が出たという。

大友黒主六歌仙の一人。
六歌仙とは、古今和歌集の序文に記される、六人の歌人

続日本後紀(869年に完成)によれば、大友村主氏は諸蕃、渡来人の子孫で、後漢献帝の子孫とも。

献帝は、後漢(西暦25年~220年)の第14代、後漢の最後の皇帝という。

大伴氏は実際のところ、いつ頃日本に渡来したのだろう。
続日本後紀で示される、後漢が滅びた頃なのだろうか。

淡海三船に戻る。
淡海三船は出家をしている。

淡海三船の出家
淡海三船天平年間(729年~749年)の間に、唐の僧である道璿(どうせん)に従い、出家、元開と称したという。

道璿は702年~760年の人物。
鑑真に先だって736年に日本に招かれたという。

インド出身の僧である菩提僊那ベトナム出身の僧である仏哲とともに来日したという。

この淡海三船の師である道璿の弟子に"行表(722年~797年)"がいる。

この行表は最澄の師とされる。

そして、本題の唐大和上東征伝について。

■唐大和上東征伝

唐大和上東征伝は淡海真人三船(元開)が著した鑑真に関する伝記。
779年の成立。

唐大和上東征伝 蔵中進編によれば、その内容は鑑真の弟子である唐僧の「思託」が記した11年間に渡る渡日の計画をまとめたものという。

鑑真や唐招提寺に比べ、本書の知名度は低い。
この理由は全文が漢字で書かれており、当時は仮名文字がなく、結果、現代人にとってとっつきにくいことにあるという。
これにより、ガイドラインとなる手引書が作成されたり、出版されてこなかったことにあるという。

また、書名に「東征」の文字が入っている。
このことにより江戸幕府によって頒布が避けられた歴史があるという。

↓は唐招提寺

toshodaiji.jp

■唐大和上東征伝の成立過程

鑑真(生没年688年~763年)が死没した際のこと。
鑑真の唐の時代から含め、日本渡来以後も鑑真の世話をしていた弟子の「思託」が鑑真の伝記を3巻にまとめたという。

これを、鑑真の十七回忌にあたる779年、思託より淡海三船に対して一巻にまとめて撰述するよう依頼があったという。
それだけ、思託よりも淡海三船のほうが編纂する能力が高かったようだ。

現存する東征伝は諸本に、その巻末に

・元開(淡海三船)の詩序および詩二首

以下の人物の詩各一首

・思託
石上宅嗣
・法進
・藤原刷雄
・高鶴林

が掲載されているという。

ところで、淡海三船の淡海は琵琶湖を「淡海」指すと考えれらる。
すると、琵琶三船と同じとなる。

■琵琶三船びわさんせん)と三船の才

淡海三船との直接的な関係はないかもしれないが、淡海三船と同じ言葉になる「琵琶三船びわさんせん)」というものがある。

平安時代、公卿などが宴席で詩歌管弦のそれぞれの船を仕立て、各人の長さに応じて分乗させたという。
この三船より、漢詩、和歌、音楽の3つの才能を兼ね備えていることを「三船の才」という。

淡海三船のもともとの名は「御船王」であり、本来、「船」とも関係が深い人物なのだろうか。

<参考>
・唐大和上東征伝 蔵中進編 和泉書院
大伴古慈斐 - Wikipedia

池辺王 - Wikipedia
葛野王 - Wikipedia
弘文天皇 - Wikipedia

大友氏 (古代) - Wikipedia
大友黒主 - Wikipedia

献帝 (漢) - Wikipedia
六歌仙 - Wikipedia
道璿 - Wikipedia
行表 - Wikipedia
大伴氏 - Wikipedia

454.天智と天児~天児屋命と布刀玉命が鏡を差し出すシーンのナゾ~

天の岩戸の前で祝詞を奏上したとされる天児屋命アメノコヤネ天智天皇(てんじてんのう)の関係について。次の流れで紹介していく。

天智天皇
天智天皇の家族関係
舒明天皇の子女の名前について
天児屋命(あめのこやねのみこと)
古語拾遺の布刀玉命と天児屋命
天児屋命天智天皇の音韻
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
藤原不比等(ふじわらのふひと)
壬申の乱
藤原不比等の功績
乙巳の変大化の改新
藤原不比等の出自に関する異説
・天児と天智
・藤氏家伝(とうしかでん)
・まとめ

天智天皇
第38代の天皇
在位で668年~672年。
諱は葛城、即位前の名前は中大兄皇子として知られる。

続いて家族関係について。

天智天皇の家族関係
父は舒明天皇(諱は田村、別称は高市天皇
第二皇子にあたる。
母は皇極天皇
皇極天皇(在位642年~645年)は第35代、そして重祚したため第37代・斉明天皇(在位:655年~661年)でもある。

舒明天皇の子女には下記の5人がいる。
・古人大兄皇子
天智天皇
・間人皇(はしひとのひめみこ)
天武天皇
蚊屋皇子

人皇女のハシについて。

舒明天皇の子女の名前について

・間人皇(はしひとのひめみこ):
 第36代孝徳天皇(在位:645年~654年)の皇后。
 間人皇女の「間人(ハシ)」は波斯(ハシ)と同音である。
 「ハシ」に関連し、欽明天皇(在位:539年~571年)の第三皇女に穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)がいる。
この穴穂部間人皇女聖徳太子厩戸皇子)の生母である。

天武天皇:第40代天皇、在位:673年~686年。諱は大海人(おおあま)
 天智天皇、間人皇女とは両親を同じくする。

蚊屋皇子(かやのおうじ):
 蚊屋は伽耶(かや)を想起する名前である。
 母は蚊屋采女(かやのうねめ)

・古人大兄皇子:
人皇女の名前から推測すると、古人大兄皇子の「古人(ふるひと)」と読むが、「胡人」の可能性がある。

胡人は、中国において時代によって指す意味が変わるが西域の異民族を指す。前秦以前では匈奴を、シルクロードが発達すると西域の諸民族を、特にイラン人をさしたという。

天児屋命(あめのこやねのみこと)

中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)とされる。

古事記天児屋命
日本書紀天児屋根命
とされる。

古事記では、天児屋命天照大御神の岩戸隠れの際に登場。
岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を開いた際に、布刀玉命とともに鏡を差し出したという。
布刀玉命は忌部氏(のちの斎部氏)の祖という。

古語拾遺の布刀玉命と天児屋命
古語拾遺は807年に成立。
官人の斎部広成(いんべひろなり)が編さん。

もともとは忌部氏が祭祀を司っていたが、やがて藤原氏が台頭して祭祀を支配し、忌部氏の正当性を主張する。
この、布刀玉命忌部氏天児屋命藤原氏が同時に登場している。
記紀では天児屋命が重要な役割を果たし、一方で古語拾遺では布刀玉命のほうが重要な役割を果たしているという。

天児屋命天智天皇の音韻
天智天皇(てんじてんのう )の「テンジ」などの漢風諡号淡海三船(おうみのみふね)が名付けたものとされる。

淡海三船は奈良後期の文人
天智天皇の皇子である大友皇子の曾孫。

762年~764年頃、歴代天皇の漢風諡号を撰進した天皇に奉った)とされる。
↓は淡海三船が登場した回

shinnihon.hatenablog.com

古事記天武天皇の時に編纂の命を出され、元明天皇の時代に完成したという。

時系列的には

天智天皇(諱:葛城)の在位:668年~672年

天武天皇(諱は大海人、凡海氏にちなむ):在位:673年~686年

古事記の成立:712年。ただし、それ以前に古事記成立以前に帝紀旧辞などがあり、また諸家に伝わる記録、神話、伝承、歌謡に間違いや虚偽があるため、それを正すために編纂を命じたという。

淡海三船の漢風諡号:762年~764年頃

となる。

名称的に天児屋(アメノコヤ)の天児(テンジ)、と、天智(てんじ、テンジ)は関連があるものと思われる。

古事記における天児屋命アメノコヤネの天児から、諱を葛城とする天皇に対し、淡海三船が天智(テンジ)天皇と名付けたのではないか。

乙巳の変大化の改新

乙巳の変は645年に起きた政変。
中大兄皇子(後の天智天皇中臣鎌足蘇我入鹿を宮中で暗殺したとされる。

こののち、646年に改新の詔が出されたという。

大化の改新による政治改革が行われ、やがて豪族中心の政治から天皇中心の政治に移行していったという。

ただし、木簡などによって、天皇中心の政治への移行は推古天皇聖徳太子蘇我馬子などの頃から始まっており、日本書紀に描かれる内容が全て正しいわけではないという。

乙巳の変を始めとする大化の改新による改革には主に以下のようなものがある。

・薄葬令
 陵墓の作成の自由を制限、身分に応じた規定がなされた。
 これによりやがて古墳時代が終焉を迎える。

・大臣、大連の廃止
 大臣、大連を廃止し、太政官が置いた。
 左大臣・右大臣へと換わったという。

・冠位制度の改訂
 冠位十二階の改定がなされた。
 647年(大化3年):冠位十三階へ
 649年(大化5年):冠位十九階へ
 664年(天智3年):冠位二十六階
と変遷した。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

中臣鎌子(なかとみのかまこ)からその後鎌足(かまたり)に改名。
母は大伴智仙娘。
藤原氏の始祖。
藤原姓を賜ったの臨終の際に大織冠を賜ったときである。

阿武山古墳から冠帽が出土している。
被葬者は藤原鎌足と推定されている。
↓は日本の冠位制、阿武山古墳などを扱った回

shinnihon.hatenablog.com

藤原不比等(ふじわらのふひと)

名は史(ふひと)とも。
諡号淡海公(文忠公)
中臣鎌足の次男とされるが、異説がある。
11歳のときに父の鎌足が死去し、不比等が藤原姓を継承したとされる。

壬申の乱

672年に起こった大海人皇子・のちの天武天皇が起こした乱。

大海人皇子大友皇子を皇太子とする近江朝廷軍と戦って勝利した乱。

ちなみに、壬申の乱古事記を編纂した太安万侶との関連では

・↓は太安万侶墓誌とその同時代の奈良の墓誌
shinnihon.hatenablog.com

・↓多蒋敷(おおのこもしき)と扶余豊璋(ふよほうしょう)について

shinnihon.hatenablog.com

がある。

この壬申の乱の発生時、藤原不比等は何の関与もなかった(数え年で14歳であったため)なかったという。

それゆえ、近江朝の処罰の対象にもならなかったという。
しかし、中臣金(なかとみのかね)ら中臣氏の要人が処罰を受けるなど、中臣氏藤原氏は朝廷の中枢からは一掃されたという。

藤原不比等の功績
このような状況において、藤原不比等蘇我連子(そがのむらじこ、蘇我倉麻呂の五男)の娘である蘇我娼子(しょうし、まさこ)を嫡妻(ちゃくさい、不比等の最初の正室として迎えたという。

日本書紀における藤原不比等の初出は689年持統天皇3年)とされる。

持統天皇の子女である草壁皇子に仕えていた縁、法律、そして文筆の才能により判事に任命されたものと考えられている。

また、持統天皇の譲位と際、持統天皇とともに第42代・文武天皇もんむてんのう、在位:697年~707年)を擁立させる功績があったとされる。

大宝律令(701年)の制定に参画した。

710年の藤原京(あらましのみやこ、とも)から平城京への遷都に関わった。

↓は藤原京がかつて新益京と呼ばれていたことを紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

720年に完成の日本書紀の編纂にも関わったとされる。

そして同720年、62歳のときに病死する。
養老律令の編纂に取り掛かっていたという。

藤原不比等の出自に関する異説

不比等中臣鎌足の子とされるが、天智天皇落胤(らくいん、父親に認知されない庶子、私生児)であるとの説がある。

興福寺縁起
公卿補任
大鏡
・帝王編年記
尊卑分脈
にみられるという。

なぜ、天智天皇の子が、中臣鎌足の子であるのかについて。

歴史物語、大鏡の成立は11世紀後半、あるいは12世紀前半とみる説が多いという。

この「大鏡」において次の伝説が記されている。
その伝説とは、天智天皇が妊娠中の女御(にょうご)鎌足に下げ渡す際に、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったとされるもの。

興福寺縁起では、藤原不比等の母は鏡王女とされる。
最初に天智に召され、のち鎌足の正妻となったという。

この興福寺縁起が正しいとすれば、藤原不比等の実父は天智天皇天児屋命と関りがあり、天照大御神が岩戸を開いた際に、布刀玉命とともに「鏡」を差し出したという物語も両親をモデルとして神話化しなのではないかと考えることもできる。

また、「竹取物語」に出てくる5人の高官たちは文武天皇の時代の人物設定である。
うち、車持皇子(くらもちのみこ)は大納言の藤原不比等をモデルとしたのではないかとされる。その理由は不比等の母は車持氏であるため。

なお、藤原不比等興福寺のある人物である。
平城京への遷都の際、厩坂寺(うまやさかでら、興福寺の前身)を奈良に移転、興福寺と改名したという。

■天児と天智

以上から、藤原不比等日本書紀の編纂にも関わった人物。
天智天皇落胤説があり、父が天智天皇である可能性がある。
淡海三船も諱・葛城を天智(テンジ)とした。

興福寺縁起が正しければ母は鏡女王。

日本書紀では、天照大御神が岩戸の箇所で挿話を行った。
中臣氏藤原氏の祖を天児屋命アメノコヤネとした。
布刀玉命とともに「鏡(鏡女王の象徴か)」を差し出した。

以上のように推測できる。

■藤氏家伝(とうしかでん)

藤氏家伝は760年に成立。
藤原氏の初期の歴史が記された伝記である。
上巻の鎌足伝、貞慧伝と下巻の武智麻呂伝にわかれる。
上巻は恵美押勝藤原仲麻呂の著、下巻は僧の延慶による著とされる。

藤原不比等の条が別にあるとするが、現存していない。

貞慧の父は中臣鎌足藤原鎌足で、弟は藤原不比等とされる。
貞慧は653年、遣唐使と共に留学僧として唐へ渡ったという。
玄奘の弟子である神泰法師に師事したという。
665年に帰国した。

武智麻呂は藤原不比等の子。
恵美押勝藤原仲麻呂は武智麻呂の第二子である。

■まとめ

中臣鎌足が藤原姓を賜ったのは臨終の際に大織冠を賜ったとき

藤原不比等の父は、藤原鎌足中臣鎌足とされるが、おそらく育ての親

・実の父は天智天皇なのではないか

・これを補うものとしては、天児屋命天智天皇を神格化、天照大御神の天の岩戸のシーンに挿話したと考えられる

天照大御神が現れたとき、天児屋命太玉命とともに鏡を差し出したとするのは、鏡が鏡王女をイメージして挿話させたのではないか

太玉命忌部氏の祖、天児屋命藤原氏の祖

古語拾遺は祭祀に関し、藤原氏が独占していたため忌部氏の正当性を主張するために書かれたと思われるもの、807年の成立したもの

<参考>
・現代語訳 藤氏家伝 ちくま学芸文庫
古語拾遺 斎部広成撰 西宮一民校注 岩波文庫
天智天皇 - Wikipedia

古人大兄皇子 - Wikipedia
天児屋命 - Wikipedia
古語拾遺 - Wikipedia

中臣金 - Wikipedia
蘇我連子 - Wikipedia
蘇我娼子 - Wikipedia
公卿補任 - Wikipedia
定恵 - Wikipedia
延慶 (僧) - Wikipedia
鏡王女 - Wikipedia
興福寺 - Wikipedia
概要 - 法相宗大本山 興福寺

453.葛城一言主と事代主~琴と琵琶からサマルカンド出身の神を紐解く~

葛城一言主、事代主について。コトにまつわる事象や、賀茂氏に関連して役小角を取り上げる。この回にて円大臣(都夫良)の出身地がわかる。また底都久御魂と都夫多都御魂に込められた民族の謎に迫る。流れで紹介していく。

古事記と葛城一言主
伽耶(カヤグム)
・呉国の貴信と子孫の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)
福島県の原山1号墳の琴を弾く男子
茨城県桜川市出土の琴をひく男子
大阪府忍ヶ丘駅前遺跡の琴を弾く人物埴輪
・他の全国の琴の埴輪
・琵琶(ビワ)と眉輪(まよわ)
・スキタイとサカ
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわと五弦の琵琶の起源
日本書紀と一事主
続日本紀高知県と高鴨神一言主神)
日本霊異記と一語主一言主
事代主神(ことしろぬしのかみ)とコトとシロ
国之常立神
ウズベキスタンサマルカンドの物語に関する考察

古事記と葛城一言主

葛城一言主雄略天皇と関りがある神である。
古事記(712年に成立)を初出とする。

時代と共に地位の低下がみられる神であるという。

古事記では460年雄略天皇4年)に登場する。

天皇一行が葛城山にて鹿狩りを行う。
このとき、雄略天皇一行と同じ恰好をした一行が歩いているのを見つける。

雄略天皇が名前を問う。
すると、「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」

と答えたという。

この一言主について3つの疑問が残る。

まず、1点目、この善悪とは何を示しているのだろうか。
これはゾロアスター教と関連し、善悪二元論を象徴させている可能性がある。

2点目、同じ恰好をした一行が一言主であるとする。
しかし、これは雄略天皇たち自身の一族ではないか。それゆえに、時代と共に地位が低下していくのではないか。

3点目、この一言(ヒトコト)とは。
文中に悪事や善事を一言で言い表すシーンはない。
一言はイチゲン、”琴”や"弦"とひっかけているのではないか。

以下で、その根拠を示していく。

まずは琴について。いつの時代から存在していただろうか。

伽耶(カヤグム)

まず、雄略は在位で456年~479年頃ではないかとされる。

この時代は朝鮮半島では任那(4世紀~6世紀頃)という小国家群が存在していた頃である。

この任那という文字の初出は広開土王碑、414年に建立したものにみられる。

 正倉院には伽耶の琴が納められている。
新羅琴と呼ばれている。
しかし正しくは
伽耶琴である。

なお、琴自体は中国で春秋戦国時代頃より存在していたという。
↓は伽耶琴を取り上げた回

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■呉国の貴信と子孫の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)

日本書紀の雄略の時代に次の記述がある。

日本書紀の雄略の即位11年7月(秋)。
百済国から逃げてきた者がいる。
自ら名乗って貴信(くゐしん)と言う。
貴信は呉国の人だという。
磐余(いわれ)の呉の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)らはそののちの子孫である、とする。
↓は琴彈壃手屋形麻呂について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

以上より、雄略の時代(あるいはそれ以前)と琴の関係は深いと思われる。

続いて、考古学上、埴輪の琴が出土している古墳を取り上げる。

福島県の原山1号墳の琴を弾く男子

福島県泉崎村の原山1号墳では琴弾埴輪が出土する。
「琴を弾く男子」と名付けられている。

古墳形式は前方後円墳
大きさは22m。
築造年代は5世紀後半。

↓は文化遺産オンライン、原山1号墳

bunka.nii.ac.jp

茨城県桜川市出土の琴をひく男子
伝・茨城県桜川市出土とされる埴輪に、同じく「琴をひく男子」と名付けられた埴輪がある。

6世紀のものとされる。
↓は文化遺産オンライン、伝・茨城県桜川市出土の琴をひく男子

bunka.nii.ac.jp

大阪府忍ヶ丘駅前遺跡の琴を弾く人物埴輪
所在は大阪府四條畷市
形式は方墳。
大きさは一辺約30m。
この溝から琴を弾く人物埴輪が発見されたという。
時代は6世紀とされる。
↓は大阪府四條畷市、琴を弾く人物埴輪

www.city.shijonawate.lg.jp

■他の全国の琴の埴輪

全国で30数例発見されているという。

大阪府四條畷市(しじょうなわてし)によれば、
近畿地方では
天理市、森本寺山12号墳出土、5弦線刻(せんこく)埴輪、5世紀末頃
堺市、野々井古墳群出土、膝上に5弦線刻の琴を置いた埴輪、5世紀末
が知られているという。

他には、

本庄早稲田の杜ミュージアム所蔵:東五十子23号墳出土の埴輪、5世紀後半の古墳
・埼玉県立さきたま史跡の博物館所蔵:瓦塚古墳出土の埴輪、6世紀前半の古墳
・神奈川県横須賀市:蓼原古墳出土の埴輪、6世紀中ごろの古墳
群馬県伊勢崎市相川考古館所蔵、前橋市朝倉町出土、弾琴男子像(または埴輪男子倚像)、4弦、6世紀~7世紀頃
・埼玉県:伝・舟山古墳出土の埴輪、四絃線刻、古墳時代後期

などがあるという。

時代特定ができる範囲では、上記に示した琴の大半は5世紀後半~6世紀にかけてである。

■琵琶(ビワ)と眉輪(まよわ)
同じく、雄略の時代。

雄略と戦いで破れたとされる人物に

・円大臣
・坂合黒彦皇子
・眉輪王

がいる。

この、眉輪王について。
眉輪王は「まよわのおおきみ」とされる。

ただし、眉輪は「ビワ」とも読める。
可能性として、眉輪は「まよわ」ではなく、ビワと読むのが正しいのかもしれない。

琴と琵琶は異なる楽器ではあるが、類似する楽器である。

さらに、この円大臣について。

円大臣は葛城円臣、都夫良意富美とも。
不明~456年とされる人物。

眉輪王が父の大草香皇子の敵と安康天皇を暗殺。

そして、眉輪王とともに疑いをかけられた坂合黒彦皇子は円大臣のところに逃げたとされる。しかし、大泊瀬皇子(雄略天皇)によって焼き殺されたという。

この円大臣(えん)は都夫良つぶらともされる。

過去、底度久御魂(そこどくみたま)について紹介した回ではソグド人、ソグディアナ(ゾクトク)と結び付ける言葉に都夫(ツブ)が用いられていることを示した。

よって、この円大臣こと都夫良(ツブラ)はソグド人の可能性が高い。

出自を海の底(ゾクトク)、泡(粟特)、空気の粒(都夫)という3つの言葉に分けて、連想ゲームで解けるような物語に仕立てているのである。

さらに、このソグド人について。
「古代シルクロードの音楽」という書籍がある。

シルクロードを渡って来た音楽の歴史は文化とも通じる。

この書籍では、日本舞楽の「束毒」などは、たどっていけば日本舞楽の右舞、これが高句麗の退走禿(たいしゅとく)、進走禿(しんしゅとく)、宿徳(しゅくとく)などともつながるという。

これは旧ソ連中央アジアの一地方名のソグド(ソグディアナ、のちのサマルカンドを中心とする地域)とつながるという。

↓は底度久御魂(そこどくみたま)、ソグド人、ソグディアナの結びつきを紐解いた回

shinnihon.hatenablog.com

■スキタイとサカ

雄略に敗れた坂合黒彦皇子には「サカ」が入る。

また、「黒」といった肌の色を示すかのような名前にもなっている。

これはサカ人を示した可能性がある。
サカはイラン系民族とされるためだ。

スキタイはペルシア人からはサカ人と呼ばれていたという。
完全一致はしないとしても、おおよそスキタイ≒サカである。

世界史的には、紀元後の3世紀ごろに始まるゲルマン民族の移動により東ゴート人が勃興。

これによりスキタイが滅ぼされたという。

よって、一部が東に移動した可能性はありえる。
雄略天皇の回にて、眉輪王が登場した回

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過去、賀茂氏はスキタイであることを考察した。

この坂合黒彦皇子も、スキタイ≒サカを象徴させている人物であると推測する。

↓はアヂスキタカヒコネを考察した回で、賀茂氏はスキタイであったことを示した回

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ノヨン・オール遺跡は200を超える古墳群があるという。
匈奴の貴族の墓と判明している。

古墳群には大規模な方墳(日本の古墳形状でいう前方後円墳が多く含まれるという。
よって、日本の古墳時代以前に、古墳の文化を持つアジアの遺跡といえる。

古墳群全体として主な出土遺品には
・青銅製容器
・装身具
・玉器
・馬具
・車蓋
などがみられるという。

棺の下に敷いた毛氈(もうせん、羊など獣の毛を原料として作られたカーペット)は後期スキタイの動物文様を受け継ぐグリフィンを表現したものであるという。

壁飾りの装飾はスキタイ・サルマタイの文物の特徴を持つという。

スキタイは古代東イラン騎馬遊牧民である。
↓はノヨン・オール遺跡について取り上げた回

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螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわと五弦の琵琶の起源

正倉院に残る螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわは五弦である。

古代、琵琶には四弦と五弦が存在する。
その五弦の起源はインドとされる。
一方、四弦はペルシャを起源とする。

琵琶に関して言えば、ペルシャ、インドからの民族も渡来していると思われる。
新羅関連の石碑から、五弦の琵琶を取り上げた回

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琵琶から琴に戻る。

日本書紀と一事主

古事記では一言主日本書紀では一事主神に変わる。

同じヒトコトではあるが「一言」から変わっているが本質としては「コト」が重要なのだろうか。

古事記における雄略と一言主の描写について。
古事記では ヒトコトヌシ > 雄略天皇 の関係であったという。

しかし、日本書紀では「一事主」は「現人神」であるとし、天皇と対等の立場になっているという。

これは、古事記から日本書紀にかけて、ヒトコトヌシを象徴する民族の立場が低下したことを示すと考えられている。

そしてこの地位の低下は続日本紀日本霊異記にもみられ、時代とともに地位が下がるという傾向がある。

続日本紀高知県と高鴨神一言主神)

続日本紀は797年の成立。

続日本紀の巻25において、高鴨神一言主神)天皇と獲物を争い、天皇の怒りに触れ、土佐国に流されたとされる。

高知には西に秦氏に関連する幡多郡がみられる。

そして高知県の中央に、高知県高知市一宮にある土佐神社がみられる。

5世紀頃に朝鮮半島で作成された七星剣が、やがて土佐神社にまつられるようになる。

秦氏ユダヤ人の末裔と考えられる。
一方、一言主=高鴨神はアジスキタカヒコネが祖先とされる。

賀茂氏、そして一言主はスキタイの末裔であり、中央アジアに渡来していたイラン人の子孫で、朝鮮半島経由で日本にその一部が渡来したのではないか。

↓高知の波多国造や、土佐一宮にまつられたという七星剣について取り上げた回

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↓はアジスキタカヒコネ、騎馬民族である賀茂氏について考察した回

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日本霊異記と一語主一言主

日本霊異記の成立は822年説がある。

日本霊異記・第二十八 の話にて一語主が登場する。
これは一言主のことである。

日本霊異記によれば(やや意訳あり)、以下の通り。

役優婆塞(えんのうばそく、役小角で知られる)は出家しない在俗の僧であった。

賀茂の役公(えんのきみ)で、今(当時)の高賀茂朝臣(たかかものあそん)はこの系統の出身である。
仙術をみについていた。
そして鬼道を用いどんなことでも成すことができた。

文武天皇(在位:697年~707年)の御世。
葛城山の一語主の大神が人にのりうつり、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げたという。

天皇は役人を派遣、役優婆塞を捕まえようとしたがつかまわらなかったため、代りに優婆塞の母をつかまれることとした。

これに対し、優婆塞は自ら出て、とらわれたという。

そして朝廷は役優婆塞を伊豆に流したという。

この日本霊異記では、一語主一言主は役優婆塞に使役される神となっているという。

ただし、役優婆塞は賀茂氏であり、また賀茂氏一言主はひじょうに近い人物関係にある。

なお、この話は日本霊異記の成立した822年(説)からみて、日本書紀が成立した720年以前の文武天皇(在位:697年~707年)の話にさかのぼって話をしていることになる。

そして文武天皇の時代に大宝律令が完成する。

このことは、賀茂氏と大きく関係すると思われる。

なお、優婆塞はサンスクリット語でupasaka、在家の仏教信者のこととされる。

事代主神(ことしろぬしのかみ)とコトとシロ

事代主神賀茂氏と関係の深い人物である。

事はコト、琴とも関係があるのでは。
また、代(シロ)新羅と関係もあるのではないか。

先述の通り、新羅琴(実際は伽耶琴とされる)がある。

新羅の建国前の国名が斯盧(シロ)である。

大宝律令文武天皇の時代に完成する。
白村江の戦いを経て、百済高句麗は国が滅びる。

そして大和朝廷は親百済派であり、百済からみて新羅は国を滅ぼした人びとである。
実際、日本書紀では新羅を悪者扱いする論調になっている箇所が多々見られる。

のち、倭国とは新羅渤海(旧・高句麗などとも交易は続く。しかし日本書記には「新羅憎し」の論調も見られ、このことが一部勢力が身を潜めることと関係するのかもしれない。

↓は事代主と綏靖天皇の関係について示した回

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↓は古事記におけるアジスキタカヒコネ、そしてコトシロヌシについて示した回
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国之常立神
国底立尊とも。

古事記における神世七代の最初の神が国之常立神である。

 また独神(ひとりがみ)であるという。

国底立尊には底が入りる。

独神にはドクが入る。

よって、ソコ、ドク、ソグディアナを暗喩しているある。

国之常立之神は役小角(生没年:634年?~701年)の高次元における存在とされる。

ウズベキスタンサマルカンドの物語に関する考察
雄略の時代にいたとされる、先述の円大臣つぶらのおおおみ)の円(えん)と役(えん)は同音である。

過去記事より、賀茂氏の祖がサマルカンド出身と考えられる。

一方、円(都夫良)はツブを表し、底度久御魂(そこどくみたま)との関係性からソグド人、ソグディアナ(ゾクトク)であると考えられる。

この底度久御魂の物語の設定の構図は次の通りと考えられる。
海面の底(ソコ、ゾクトク、ソグド人)から渦(ウズ、のちのウズベキスタンのウズか)が発生。
そしてその渦から
・アワ(粟特)
・やツブ(都夫)
が生まれた。

よって、葛城と土地に関連する賀茂氏、そして都夫良(円臣)もソグディアナことサマルカンドを出自としているものとみられる。

<参考>
日本霊異記(上)全訳注 中田祝夫
・古代シルクロードの音楽 岸辺成雄

眉輪王 - Wikipedia
弾琴男子像 - Wikipedia
瓦塚古墳 - Wikipedia
役小角 - Wikipedia
国之常立神 - Wikipedia
葛城之一言主之大神 – 國學院大學 古典文化学事業

452.巨勢氏と雀(サザキ)と仁徳天皇

謎とされる古代豪族の一人、巨勢氏について。仁徳天皇とは巨勢氏を想定した人物ではないか。次の流れで紹介していく。

・巨勢氏(こせうじ)
許勢小柄宿禰
続日本紀、751年の2月の条
・巨勢男人(こせのおひと)
巨勢徳多(こせのとこた、とくだ、とこだこ)
・巨勢山古墳群
・條ウル神古墳
・巨勢比良夫(こせのひらぶ)
・雀部
仁徳天皇と大雀
新羅の初代王・赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)
・星河建彦宿禰
仁徳天皇に関する推測
平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードは何を意味しているのか
■巨勢氏(こせうじ)

現在の奈良県御所市古瀬(かつては大和国高市郡巨勢郷)を本拠とした豪族。

御所市(ごせし)の名前の由来はいくつかある。
しかし巨勢氏の「こせ」が転じたとみてよいのではないか。

許勢小柄宿禰

第8代・孝元天皇の子孫、武内宿禰には次の子らがいたとされる。

・羽田矢代宿禰
許勢小柄宿禰
・石川宿禰
平群木菟宿禰
・紀角宿禰
・久米能摩伊刀比売
・怒能伊呂比売
葛城襲津彦
・若子宿禰
である。

孝元天皇などは史実が欠落しており、全てがが史実ではないと考えられるが、何かしら古代の真実を埋め込んでいるように思う。

今回は許勢小柄宿禰、巨勢氏を扱う。

続日本紀、751年の2月の条

続日本紀によれば、巨勢氏は本来、雀部臣であったという。

続日本紀、751年天平勝宝三年)の二月条にて。

正六位下内膳司典膳であった雀部朝臣真人が次のことを訴える。

継体、安閑天皇の御世にて大臣として仕えた雀部朝臣男人について。

この雀部朝臣男人について、誤って「巨勢男人大臣」と記されている。

それを雀部大臣と改めたいと奏言。

そして代表者であった巨勢奈弖麻呂もこれを認めたという。

つまり、雀部=巨勢氏であることになる。

■巨勢男人(こせのおひと)

許勢男人とも。

巨勢氏の史料上の初見は、巨勢男人臣として登場。

男人は継体天皇元年に大臣となったという。
継体天皇の在位は507年~531年とされる。

よって、この頃、巨勢氏が登場した可能性も考えられる。

巨勢徳多(こせのとこた、とくだ、とこだこ)
生没年は不明~658年。

巨勢徳多は649年(大化5年)に阿倍内麻呂の死去すると、そののち空位となった左大臣に任命され、大紫に昇進したという。
そして、最終的には658年に死没、その際の官位は大繡であったとされる。

603年に冠位十二階制定後、647年(大化3年)には13階制となった。
この冠位十三階制のもとでは大織、小織、大繡、小繡の授与はなかったという。
その後の制度において下記の授与がみられる

・大繡に巨勢徳多(こせのとこた)
・織冠(大織または小織)百済・扶余豊璋(ふよほうしょう)
・大織に藤原鎌足
がみられるという。

よって、当時、巨勢徳多は相当高い地位の人物であったことがわかる。

↓は巨勢徳多の登場回

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■巨勢山古墳群

巨勢山丘陵全体が巨勢山古墳群の範囲と考えられ、総数約800基により構成される。
前方後円墳4基、たくさんの円墳、方墳から形成される。

5世紀前葉に室宮山古墳が築造されたことを契機とし、その背後の巨勢山丘陵に古墳が構築され始めたという。

六世紀前葉に横穴式石室を採用する支群が出現。
古墳築造のピークは六世紀中葉。

巨勢山408墳からはミニチュアの竈や鍋の土器が出土しているという。

↓は巨勢山古墳群について取り上げた回

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■條ウル神古墳

奈良県御所市條に所在。
築造は6世紀後半、最終末の前方後円墳とされる。

横穴式石室に特異な家形石棺がある。
被葬者は巨勢氏の盟主とされるが特定はできないとされる。

そのような中、巨勢比良夫(こせのひらぶ)は被葬者の候補の一人。

↓は條ウル神古墳について取り上げた回

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■巨勢比良夫(こせのひらぶ)

巨勢比良夫は日本書紀・587年用明天皇2年)に登場。

大連の物部守屋を滅ぼそうと、蘇我馬子宿禰が諸皇子(もろもろのみこたち)と群臣(まえつきみ)たちに勧めて連合を組んだとされる。

・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)
・竹田皇子(たけだのみこ)
厩戸皇子(うまやとのみこ)
難波皇子(なにはのみこ)
春日皇子(かすがのみこ)
蘇我馬子宿禰大臣(そがのうまこのすくねのおおおみ
・紀男麻呂宿禰(きのをまろすくね)
・巨勢臣比良夫(こせのおみひらぶ)
・膳臣賀拕夫(かしはでのおみかたぶ)
・葛城烏那羅(かつらぎのおみをなら)

また、下記の者たちが志紀郡から渋河郡の守屋の家に到ったという。
・大伴連噛(おおとものむらじくひ)
・阿倍臣人(あへのおみひと)
平群神手(へぐりのおみかむて)
・坂本糠手(さかもとおみあらて)
・春日臣(かすがのおみ)

上記の名前の一人に巨勢臣比良夫がいる。
巨勢臣比良夫はこの箇所以外に名前は見えないという。

■雀部

上記の通りで、続日本紀によれば巨勢氏は本来、雀部臣であったという。
古事記孝元天皇の段にて、許勢小柄宿禰が許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖とされる。

後裔に、雀部道奥(さざきべのみちのく)がいる。

↓の木簡にも名前が記載されている。
木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

また、雀部は神八井耳命とも関連がある。

日本書紀では神八井耳命について、多臣(多氏)の祖とされる。

一方、古事記では神八井耳命を以下、19氏の祖とする

・意富臣
・小子部連
・坂合部連
・火君
・大分君
阿蘇
・筑紫三家連
・雀部臣
・雀部造
・小長谷造
・都祁直
・伊余国造
・科野国
・道奥石城国
・常道仲国造
・長狭国造
・伊勢船木直
尾張丹羽臣
・嶋田臣

多氏と扶余豊璋(ふよほうしょう)は婚姻関係にある。
扶余豊璋は多蒋敷(おおのこもしき)の妹を妻とした。
古事記を編纂した太安万侶多氏の子孫。
多蒋敷や扶余豊璋を扱った回

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神八井耳命旧約聖書の「ヤイル」から名づけた可能性がある。
↓は神八井耳命がヤイルである説を扱った回

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仁徳天皇と大雀
仁徳天皇は大鷦鷯天皇とも呼ばれる。
↓は鷦鷯(さざき・ミソサザイについて扱った回

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このほか、古事記では大雀命(おほさざきのみこと)とも。

ちなみにミソサザイはスズメ目ミソサザイミソサザイ属。

「雀」の名から、仁徳天皇は巨勢氏の先祖であった可能性がある。

仁徳天皇には人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づき、3年間租税を免除したという竈に関するエピソードがある。

「煙」関連の話は、集安高句麗碑にもみられる。
集安高句麗碑の建立は414年以降とみられている。
↓は集安高句麗碑について取り上げた回、烟戸(えんこ)の文字がみられる

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一方、木菟と鷦鷯の名前交換エピソードが知られる。
仮に正しいとするこのエピソードは平群氏と鷦鷯(=雀、巨勢氏)との名前交換であったことになる。

なお、第25代・武烈天皇古事記では小長谷若雀命。

古事記神八井耳命の後裔の19氏のうち、
・雀部臣
・雀部造
・小長谷造
などと関連するか。

↓は木菟と鷦鷯の名前交換エピソードについて紹介した回

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■上石津ミサンザイ古墳

上石津ミサンザイ古墳のは今のところ履中天皇の墓と考えられている。

履中天皇仁徳天皇の子と考えられている。
「ミサンザイ」は陵(みささぎ)から来ていると考えられている。
よって、ミソサザイとも関連するのでは。

すると、履中天皇も雀と関連する可能性があり、仁徳天皇履中天皇武烈天皇が「雀」と関連があることになる。

なお、仁徳天皇関連の人物に鳥が使われるのは、ゾロアスター教の鳥葬文化のあった民族とも関連すると考える。これは機会があれば別途取り上げたい。

↓は上石津ミサンザイ古墳について扱った回

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新羅の初代王・赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)
音韻でいうと、朝鮮に「コセ」の入る人物がいる。
発音はヒョッコセ・ゴソガン。

斯蘆国の初代の王で、在位は紀元前57年頃~紀元後4年とされる。

可能性としてではあるが、巨勢氏とつながりがあるのかもしれない。

■星河建彦宿禰
新撰姓氏録に登場する人物で、許勢小柄宿禰(こせのおから)の子であるという。

新撰姓氏録は815年頃に編纂のため、星河建彦宿禰は後の時代に後付けで考えられた人物の可能性がある。

↓は新撰姓氏録とは何かについて取り上げた回

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名前に「星」の入る人物である。

許勢小柄は巨勢男韓などとも。
この男韓は「おから」と読むのだが、韓はハーン、居西干の「干」もカン、ガンのため、似た音韻である。

「星」について。
七星剣を扱った回で、星に関する信仰を取り上げた。
この信仰は倭国よりも高句麗で先行している。

この星河建彦宿禰は「星河」である。
星川皇子の乱を起こした「星川皇子」とは何らか関係はあるのだろうか。

星川皇子の乱は推定479年(雄略天皇23年)、ヤマト王権側の白髪皇子と吉備をはじめとする星川皇子の勢力との戦いである。

↓は七星剣と妙見信仰について扱った回で星の信仰や星川皇子の乱を扱った

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仁徳天皇に関する推測

仁徳天皇こと大鷦鷯、古事記のいう大雀命(おほさざきのみこと)について。
実際のところ、巨勢氏を想定した人物である可能性が高い。

先ほど示した、新羅の初代王・赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)は発音はヒョッコセ・ゴソガン。

音韻でいうと、朝鮮に「コセ」の入る人物。斯蘆国の初代の王で、在位は紀元前57年頃~紀元後4年とされる。

許勢小柄は巨勢男韓ともされ、「韓」が入り、巨勢氏とは何かしら関係があるとみる。

具体的にはその末裔で、400年代頃に倭国に渡って来たという可能性もあるのではないだろうか。

古事記のいう仁徳天皇の在位は甲午年~ 丁卯年とされ、394年~427年頃の時代ではないかと推定されている。

この年代が仮に正しい場合、広開土王、長寿王が建立した好太王碑、集安高句麗碑の年代と重なる。

ちなみに、百済で官僚になった倭人の中に巨勢氏もいる。
許勢哥麻(こせのかま)既酒臣(こせのおみ)である。
↓は百済倭人官僚を紹介した回

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平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードは何を意味しているのか

過去記事にて、平群氏はヒラクテリ、ヒラクトリと関連があり、ユダヤ系の人物と考えられることを示した。

一方で、大鷦鷯は雀部とつながり巨勢氏と関係がある。

巨勢氏は遅くて、400年頃、朝鮮から渡って来た人物ではないか。

武内宿禰の子孫と定義されているため、もっと早くから渡来しているかもしれない。

平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードは平群(旧来から渡来しているユダヤ人)から巨勢氏(主に400年頃朝鮮から渡来した民族、おそらく中央アジアの民族と混血しながら渡来した民族)へと権力が移ったことを象徴させたのだろう。
↓は平群木菟の考察回

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<参考>
巨勢山古墳群 | 御所市
巨勢山古墳群 文化遺産オンライン
巨勢山古墳群 - Wikipedia

巨勢男人 - Wikipedia
巨勢徳多 - Wikipedia
巨勢山古墳群 - 全国遺跡報告総覧
雀部道奥 - Wikipedia

神八井耳命 - Wikipedia
赫居世居西干 - Wikipedia
ミソサザイ - Wikipedia
好太王碑 - Wikipedia

451.朝鮮の始まり高句麗の美川王と倭の五王のネーミング、そして最後の遣使・502年とは?

前回に引き続き、今回も倭の五王関連の事項を扱い、古代の謎にせまる。次の流れで紹介していく。

倭の五王の遣使タイミングの分析
・賛珍斉興武とは何か
東ローマ帝国ビザンティン帝国
・美川王(びせんおう)
倭王武の上表文
渤海王の上表文
・扶余族
宮城県多賀城碑と靺鞨国
倭王武の最後の遣使、502年とは
武寧王
・ササン
バチカン
新羅とローマングラス
・隅田八幡鏡と503年

倭の五王の遣使タイミングの分析

前記事にて倭の五王の遣使は中国の三国時代・呉のエリアの王への遣使であることを紹介。

また、倭の五王の遣使タイミングの分析を行った。

そしてその始まりとは372年、百済東晋朝貢から始まり、倭の五王の遣使へとつながっている。

そして、この百済から始まり、そして倭国との高句麗とのつながりもみられる内容であることがわかった。

↓は前記事、倭の五王宋書を著した沈約(しんやく)

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■賛珍斉興武とは何か
賛・珍・斉・興・武とはなんだったか。

まず宋書を編纂した沈約しんやく)新約聖書の新約を想起する名前である

そしてこの賛、珍、斉、興、武は(ビ)ザンチン再興、武(帝)から名付けられているかもしれない。

では(ビ)ザンチンであるなら、ビに該当する人物は誰なのかという疑問が起こる。

この「ビ」を意識した人物とは高句麗の15代王、美川王(びせんおう)なのではないか。

今回、高句麗倭国とのつながり、そしてビザンティンと南朝・宋がつながっていく、その根拠を示していく。

東ローマ帝国ビザンティン帝国

東ローマ帝国ことビザンティンは395年~1453年。
395年ころ激動の時代があったのだろう。

過去記事にてとりあげた、エフェソス公会議が431年で、これをもってキリスト教ネストリウス派が追放された。
これより前に中国などに西方由来の人びとがきていたのだろう。

年代的に、ビザンティンが関連していることがありえなくはない時代であることがわかる。

↓ではエフェソス公会議を取り上げた回。4世紀~5世紀、キリスト教系に偉人生まれている

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つづいて、美川王について。

■美川王(びせんおう)

高句麗の第15代王。
在位で300年~331年にあたるという。

・姓:高
・諱:乙弗

とされる。

313年10月、楽浪郡に侵入し滅ぼしたという。
314年、帯方郡を滅ぼしたという。
この楽浪郡帯方郡について、中国視点では中国を破り、朝鮮視点では国の祖を築いた王となるだろうか。

倭の五王の人物名はどのようにネーミングしたか。

それは、この美川王の美をはじめとする。
そして、賛、珍、斉、興を設定。

さらに同僚である武帝の名前を設定している可能性がある。

なお帯方郡については240年、魏の使者が帯方郡からも訪れている。
さらにトヨの時代には既にペルシア・ササン朝226年~651年)からのイラン人が到来していたと考えられる。

倭王武の上表文
宋書倭国伝で倭の五王の遣使のうち、唯一、倭王武からの遣使の上表文が残る。

実際の遣使の際の上表文かどうかは不明だが、

少なくとも、宋の記録からみて、478年に倭王武が遣使。
そして、対馬海峡を渡り、南朝鮮の国々にまで倭国の力が及んでいることを示す内容が書かれている。

高句麗倭国のつながりは。
渤海王の上表文が手がかりとなる。

渤海王の上表文

渤海国はかつての高句麗にあたる。

続日本紀・753年、6月8日条にて

・日本と渤海は血族なら兄弟にあたる
・義の上では君臣の関係にあたる

との記述がみられる。

この続日本紀では、
まず、聖武(724年~749年)では上表があった。
しかし、今の代である孝謙朝では、渤海から上表が出されていないことを嘆く、
という記述がみられる。

少なくとも、天皇、ないしは王朝を運営する高官ベースでは、高句麗倭国との間には大いなる関係があるのだろう。

実際、扶余族は高句麗百済と関係がある。
↓では、渤海国と日本の交易を取り上げた回

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↓では、藤原仲麻呂渤海使と交易があったことを扱った

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では、扶余族について。

■扶余族
扶余は満州の辺境エリア「濊(わい)」にかつて存在していた国。
ここから南下していったとされる。

レビラト婚がみられる。
いつの時代か、ユダヤ人と混じった民族が、この濊の辺境エリアに到達していたのではないか。

↓は扶余族について紹介した回

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宮城県多賀城碑と靺鞨国

靺鞨国は中国の隋や唐時代に中国東北部沿海州に存在したツングース系農耕漁労民族。

靺鞨族が渤海国を建国している。
多賀城碑は8世紀頃、多賀城は724年に創建された城柵。
そして727年には出羽に渤海使が来航している。

この多賀城碑に靺鞨国の位置を示す記述がある。

多賀城碑は前半と後半にわかれる。

前半では、下記の国や地域から多賀城までの距離が記される。

・京(奈良の平城京
蝦夷国(えみしのくに、東北地方北半)
常陸国(ひたちのくに、茨城県
下野国(しもつけのくに、栃木県)
・靺鞨国(まつかつのくに、中国の東北部)

靺鞨国を相対的な位置の基準としているのは、やはり靺鞨国の末裔の人びとがいたからではないか。
↓は多賀城碑について紹介した回

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倭王武の最後の遣使、502年とは

なぜ502年で倭王武の遣使は途絶えたか。

まず、1つめ、502年の(502年~557年)武帝(在位:502年~549年)による王権ができたこと。
これに対する朝貢を意味するのだろう。

そして2つめ、沈約は生没年が441年~513年までであること。
なお、この武帝こと蕭衍(しょうえん)の生没年は464年~549年。
この沈約が没したため倭の五王の記録(作者?)がなくなってしまうことも一因ではないか。

そして3つめ、502年には百済で大きな出来事がある。
武寧王の即位である。

武寧王

百済武寧王は実在の人物。
在位は502年~523年、502年とは武寧王が即位した年。

即位は先代の東城王が501年に暗殺されたためとされる。

これで倭の五王の遣使は終わる。

これが遣使が途絶えた理由ではないか。

↓は武寧王陵の墓誌について紹介した回

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武寧王の父

武寧王の父は東城王とする説と、蓋鹵王の子とする説が日本書紀で提示されている。

日本書紀では武寧王について、

・諱は斯麻王
・昆支王の子
・末多王(東城王)の異母兄
とする。

しかし、「今考えるに」として訂正をする。

・島王は蓋鹵王の子
・末多王は昆支王の子
・これを異母兄というかは詳しくわからない

としている。

蓋鹵王について。
百済の第21代の王は蓋鹵王(がいろおう)、在位は455年~475年。
日本書紀では加須利君(かすりのきみ)とされる。
この加須利君はカソリックン、「カソリック」と読める。
また、蓋鹵王は「かふろおう」とも読むという。
エジプトのカフラー王に音韻が類似。
高句麗王の古墳はピラミッドタイプである。
また、日本の方墳はやや小型のピラミッドである。
↓はの加須利君について紹介した回

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↓ピラミッド型の古墳について取り上げた回

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江田船山古墳のある清原台地に位置するトンカラリンは考古学者によってエジプトのピラミッドと同じものでありエジプトのピラミッドとの共通点が指摘されている。
↓トンカラリンについて取り上げた回

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■ササン
新羅の官位にササンがみられる。
新羅においてササン朝ペルシアの人物などが高官となって制度をつくっていったのだろうか。
↓は日本の官位、新羅の官位を比較しながらササンを検証した回

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バチカン
新羅から倭国に来た薬師に、金波鎮漢紀武がいる。
この「波鎮漢」は「バチカン」を示すと思われる。
↓金波鎮漢紀武についての考察回

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新羅とローマングラス

新羅にわたってきたものが天馬塚古墳から出土している。
天馬塚古墳公園は韓国の慶州にある。
1973年公園に造成された。
3万8千坪の広さの中に23基ほどの陸墓が密集する。
このうち天馬塚(チョンマチョン)は500年前後の王墓とされる。
1973年4月6日から12月4日までにかけて発掘された。
11,500点余の副葬品が出土した。

グラス、王冠などがローマの影響を受けている。また、ペガサスとの関連性もみられる。

↓は天馬塚古墳を紹介し、新羅にローマ由来の人びとが到達していた

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■隅田八幡鏡と503年

隅田八幡神社から見つかった鏡に継体天皇武寧王と関係すると思われる記述がある。
その紀年から
・443年説
・503年説
の2つがある。

武寧王が実在の人物であり、武寧王陵の墓誌から503年が正しいと思われる。

隅田八幡鏡に示される男大迹(おほど)継体天皇(在位:507年~531年)と思われる。

この、登場人物、武寧王継体天皇以外に、隅田八幡鏡では「日十大王」がいる。
↓では隅田八幡鏡について紹介

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↓は継体天皇武寧王を追うとマナセ族が浮かび上がることを検証した回

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歴史的にみれば、纏向以外では、愛知や関東に、250年頃を境として古墳文化(四隅突出型古墳ではない)を持つ民族が到来、古墳築造を始めた。

そして九州、阿蘇付近では、ヤマト国出身のヤマトタケルが東征。
近畿、関東などに遠征し、平定していく。

また、今回は宋は南朝にあたる。
一方、北魏エリアでは、304年の漢の興起から439年の北魏による華北統一までが五胡十六国時代
五胡は匈奴鮮卑、羯、氐、羌の北方の異民族。
この羯に身体的特徴からイラン人ではないかとする説がみられる。

呉などは中国で工人を多く抱えていたのだと思われる。

そして500年頃、百済から現在の日本の皇族の祖となる血族の民族が渡来したと考えられる。

これらが、

宋書・沈約の倭の五王の遣使、倭王武・502年で最後
日本書紀倭の五王の遣使の記録は含まれない。ただし雄略の呉(宋)への遣使の記録は残る
・隅田八幡鏡の紀年は502年

など、502年頃に古代史を決定させた出来事が集中する理由ではないか。

やがて、589年、隋が南朝を滅ぼし、中国を再統一。
そして唐(618年~907年)と続く。
さらに663年、白村江の戦いなどがある。

古事記日本書紀成立時では。
中国の南朝は敗れ、唐が勝っていた時代となる。

<参考>
東ローマ帝国 - Wikipedia
上表文 - Wikipedia
濊 - Wikipedia
五胡 - Wikipedia

450.倭の五王と宋書を著した沈約(しんやく)

日本史の謎のひとつ、いわゆる倭の五王と呼ばれる中国への遣使の記録が記載されているのは宋書。この宋書を著したのは沈約とされる。この沈約について、次の流れで紹介していく。

・沈約しんやく)
・沈約以前の男系
・竟陵八友(きょうりょうはちゆう)
・沈約の男系
宋書
倭の五王の遣使の始まり
・なぜ倭の五王南朝・宋に遣使をしたのか
・413年の遣使の開始の理由は高句麗
宋書の記録とあわない雄略の遣使
・502年と2人の武
・身狭氏
・牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
・広島の呉
・ジンリン
・沈約の父・沈璞とあらたま
記紀における荒魂と和魂
・賛珍斉興武
倭の五王の遣使タイミングの分析

■沈約しんやく)
生没年は441年~513年。
沈璞(しんはく)の子。

南朝宋、斉(せい)、梁(りょう)の3朝に仕えたという。

中国の二十五史のひとつ、宋書を編纂した。
この宋書・夷蛮伝の中に倭の五王の遣使の記録が残る。

なお、沈約が仕えた3朝の建国と滅亡は、それぞれ
南朝宋:420年~479年
・斉:479年~502年
・梁:502年~557年
である。

沈約は竟陵八友(きょうりょうはちゆう)の一人とされる。

この沈約がシンヤク、新約とも読めることに注目したい。

時代的にはエフェソス公会議東ローマ帝国のテオドシウス2世の招集があったのがこれが431年。

沈約はそれより後の生まれである。

■沈約以前の男系
沈約以前の男系の父を遡ると、次の通りとなる。

・沈賀
 ↓
・沈警(しんけい、生年不明 - 399年)
 ↓

・沈穆夫(しんぼくふ/ 生年不明 ~ 399年)
 ↓
・沈林子(しんりんし / 387年~422年) 
 ↓
・沈璞(しんはく/ 416年 - 453年)
 ↓
・沈約しんやく/ 441年~513年)

なお、沈約の父の沈璞は南朝宋の第4代皇帝の孝武帝(こうぶてい)に殺されている。

■竟陵八友(きょうりょうはちゆう)
斉の文人のグループ。

武帝の第2子の竟陵王(きょうりょうおう)蕭子良(しょうしりょう)の周囲に集まった 8人の文人たち。

・蕭衍(しょうえん、のちの梁の武帝
・沈約
・謝朓
・王融
・蕭琛
・范雲
・任昉
・陸倕
の8人。

竟陵八友の発音は”Jing-ling ba-you”という。
つまり、竟陵で"Jing-ling"。

この"ジンリン"の発音については気になることがある。のちほど取り上げる。

宋書
南朝・斉(せい)武帝(ぶてい)の命により編纂。

南朝・宋のときに何承天(かしょうてん)、山謙之、蘇宝生、徐爰らが宋書を既に書き始め、沈約が斉の時代に入ってからそれらをもとに編纂したという。
構成は本紀、志、列伝にわかれる。

特に「志」は10年ほどの時間を要したという。

完成は488年とされる。
ただし、梁の時代に入ってからとする説も。

宋書北宋(ほくそう、960年~1127年)の時代までに欠落が多くなり、南史(659年成立)などによって補われているのではないかという。

宋書・夷蛮伝も早くに散逸され、10世紀頃に補われた可能性があるという。

よって、倭の王に関する記述は、当時のままのものであったか、定かではないということになる。

しかし、いくつかわかることから倭の五王とは何かを検証していく。

倭の五王の遣使の始まり

倭の五王の遣使は413年から始まる。
これはどのようなときであったか。

414年に高句麗の長寿王が好太王(こうたいおうひ)をたて、倭との戦いがあったことが示されている。

よって、倭の五王の遣使のきっかけは、高句麗との戦い、朝鮮半島をめぐる権益争いだろう。

■なぜ倭の五王南朝・宋に遣使をしたのか
なぜ倭の五王北魏ではなく、南朝・宋に遣使を行ったのだろうか。

単に朝鮮半島の覇権争いのための許可や援軍を求めるのであれば、北魏であるほうが合理的なはずである。

明確な答えはなく、推測となるが、呉と関係のある勢力が朝貢したのだろう。

宋は中国の三国時代(魏、呉、蜀)には呉のあったエリアである。

九州・熊本付近にあったヤマト国のヒミコ、そしてトヨは魏に対して遣使が行われたとみられる。

その一方、呉に対して遣使を行っていた勢力がいたことがわかっている。

まず、呉の238年、244年の紀年のある鏡が山梨や兵庫から出土している。

↓は呉の238年、244年の紀年のある鏡が出土していることについて紹介した回

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そして、築造が4世紀前半とされる山口県竹島御家老屋敷古墳より、劉氏作神人車馬画像鏡が出土しており、呉でつくられたものであるという。

かつて呉と交流をもっていた勢力が、5世紀代になって、高句麗との覇権争いから再び朝貢を開始したのだろうか。
↓は劉氏作神人車馬画像鏡について

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■413年の遣使の開始の理由は高句麗
高句麗倭国倭国使が東晋の安帝に朝貢したという。
倭国朝貢高句麗の特産品であったという。
倭国はなぜ高句麗の特産品を選んだのだろうか。

単に朝貢相手の気に入るものを送ったのか。

この年より前に高句麗から日本に渡来している人びとがいるためか。
倭国高句麗は共同で朝貢したのでは、という説もみられる。

宋書の記録とあわない雄略の遣使
また、雄略天皇は呉日本書紀での記述は呉だが、年代的には宋であるという)に対してたびたび遣使を行っている。

身狭青(むさのあお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)らを遣わしている。
464年(雄略8年)と468年(雄略12年)である。

しかし、この遣使の記録は宋書にはない。

倭の五王の遣使のうち、477年、478年、479年、502年は武、雄略の遣使とされる。
宋書・502年の朝貢も武とされる。

さらに雄略の没年は479年である。
古事記に従ったとしても、雄略の崩御は489年、これもあわない。

一般的に倭王武は雄略とされるが、おそらく502年の遣使は雄略ではない。

ではいったい、どういうことだろうか。

■502年と2人の武
502年は「倭王武」が最後に遣使した年である。

これは「梁の武帝」が王朝を樹立した年である。

梁の武帝倭王武を「征東大将軍」に進号したという。
これが502年の出来事である。

(りょう、502年~557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した国である。

そして梁の武帝は、さきほどの竟陵八友(きょうりょうはちゆう)のうちの蕭衍(しょうえん)である。

よって沈約とは仲間である。

また、倭王武の”武”と梁の"武帝"が同じく"武"である。

この倭王武は梁の「武帝」をもとに「倭王武」を名付けらた可能性が最も高い。

それでは、倭王武は誰なのか。
はっきりとするものではないが、ヤマト王権の大王が朝貢していたように誰しも思いがちであるが、手がかりを照合していくと、別の日本の中の一国が遣使していた可能性もあるのではないか。

つぎに日本書紀において呉(宋)朝貢した際に登場した人物をみる。

■身狭氏
雄略天皇が呉(宋)に遣使したという身狭青(むさのあお)と関連する身狭氏は呉国からの渡来人であるという。

新撰姓氏録、左京諸藩下に「牟佐村主」があり、呉の孫権の子孫であることが書かれているという。

なお、呉は孫権が222年に江南地方に建国、西暦280年まで続いた。

身狭氏は実在の人物なのか、文献上に記されただけの存在なのだろうか。

■牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
所在は奈良県橿原市見瀬町。

祭神は
高皇産霊神
孝元天皇
とされる。

創始は安康天皇(在位:453年~456年)の時代に渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりという。

身狭氏は実在の人物であり、呉と関連のある人物とみてよいだろう。

続いて、呉に関連して。

■広島の呉
(ゴ)は、漢字ではクレである。
広島の呉は中国の呉となんらか関係はあるのだろうか。
そこで、呉市の地名の由来を調べると、いくつか説がある。

ひとつは、呉一帯を囲む連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼んだ。
これがやがて訛り「くれ」と呼ぶようになったというもの。

ほかには、古代朝鮮半島出身の人々を「くれ人」と呼んでいて、それが呉(くれ)と呼ぶようになったという説がある。

呉市のHP「呉の歴史」によれば、

平安時代の11世紀末~12世紀初に
”呉浦の開発領主呉氏、呉浦の未開地を開発して「呉別符」とし、 雑公事部分を石清水八幡宮に寄進”

の記述がみられる。

よって、少なくとも平安時代には呉氏がいたことがわかる。

中国の呉と日本の位置関係、そして山口にて劉氏作神人車馬画像鏡が出土していることからも、早くから呉由来の民族が渡来していたのではないだろうか。
↓は呉市、呉の歴史

www.city.kure.lg.jp

■ジンリン
呉との交流がヒミコの時代頃から、卑弥呼とは別の勢力によって存在することがわかっている。

一方で、竟陵八友(きょうりょうはちゆう)の竟陵の中国語の読みは”Jing-ling”、ジンリンとである。

ジンリンといえば"塵輪鬼"がある。

塵輪(じんりん)という、新羅から送り込まれた悪鬼に仲哀が立ち向かって討伐するという伝承がある。

この戦いのさなかに流れ矢にあたり、仲哀天皇が亡くなったとされる。

また、仲哀天皇の皇后は神功皇后
そして仲哀天皇の父親はヤマトタケルとされる。

この、ヤマトタケル仲哀天皇神功皇后の頃の歴史はなんらか事実が後世の人によって書き換えられたのだろう。

↓は塵輪(ジンリン)を紹介した回

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沈約(シンヤク)が新約と読めること以外にも、沈約の父・沈璞(しんはく)には漢字について深い意味があるように思う。

■沈約の父・沈璞とあらたま

沈約の父は沈璞(しんはく)である。
沈璞は南朝宋の官僚。
字は道真。

この「道真」は「菅原道真」と同じ名前である。

また、この沈璞の「璞」は「あらたま」とも読む。

「あらたま」はまだ磨かれていない玉のこと。
そして、神道において荒魂(あらたま)、和魂(にきたま)という考えがあり、この「荒魂」と同じ読みであることになる。

いつごろから荒魂などの言葉はあったのか。江戸時代か、それとも古墳、奈良時代頃か。

記紀における荒魂と和魂

まず、日本書紀において。

神功皇后摂政前紀において、神功皇后新羅征討を行うに、
神功皇后に「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。
荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったされる。

また、神代に大国主命のもとに「吾(あ)は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとあるという。

そして古事記では。
神功皇后が「墨江大神の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀った、とあるという。

日本神道における、荒魂、和魂、幸魂、奇魂、いわゆる一霊四魂(いちれいしこん)という体系化されたのは幕末頃だが、記紀成立の時代に既にあった概念ということになる。

■賛珍斉興武

賛・珍・斉・興・武とはなんだったか。

突拍子もないものだが、沈約しんやく)キリスト教的な名前からして、
(ビ)ザンチン再興、武(帝)から名付けられているのかもしれない。

一方、(ビ)ザンチンなら、ビがないではないかとの疑問が起こる。

このビの名前を持つ王については別回にて。

倭の五王の遣使タイミングの分析

まず、東晋は317年~420年の国である。

372年に百済東晋朝貢する。
※371年:百済高句麗を攻撃し、高句麗の故国原王が戦死する
372年: 近肖古王倭王に七支刀を下賜
※372年は東晋の第8代皇帝、簡文帝(かんぶんてい)・司馬昱が亡くなった年。

386年に百済東晋朝貢する。
※385年:辰斯王(在位:385~392)
※385年に中国の東晋から百済に対して仏教が伝来
この百済の386年の朝貢は、仏教の伝来が関係するだろう。

412年:好太王が死去する
413年:長寿王が即位する

そして413年:高句麗倭国倭国使が東晋の安帝に朝貢する。
このとき、倭国朝貢高句麗の特産品であったという。
なお、東晋の皇帝は司馬氏である。

続いて南朝宋は420年~479年の国である。
南朝宋の皇帝は劉氏である。

421年:倭・賛が宋の武帝朝貢する
425年:倭・讃が司馬曹達を遣わし、宋・文帝に朝貢する。
この司馬曹達は中国系渡来人とされる。
よって、東晋の司馬氏の末裔の可能性がある。

430年:倭が宋に朝貢
438年:倭・珍が宋・文帝に朝貢
443年:倭・済が宋・文帝に朝貢
451年:倭・済が宋・文帝に朝貢
460年:倭が宋・孝武帝朝貢
462年:倭・興が宋・孝武帝朝貢
477年:倭・武?が宋・順帝に朝貢
478年:倭・武が宋・順帝に朝貢

続いて斉は479年~502年の国。
479年:倭・武が南斉・高帝に朝貢

そして梁は502年~557年の国。
502年:倭・武が梁・武帝朝貢

以上の倭の五王の遣使は、もとは百済東晋への遣使がトリガーとなる。
そして413年の長寿王の死のあと、高句麗倭国が共同で朝貢した可能性がある。

宋書を著した沈約しんやく)による記録のようだが、どこまでが真実か、史料批判も必要となる。

かなり倭国高句麗のつながりが深い。
深いがゆえの、好太王と争ったと好太王碑に残るのかもしれない。

別回にて、ビとは誰か。
そして、高句麗による313年・楽浪郡、314年帯方郡の攻撃頃の手がかりを推測していきたい。

<参考>
沈約 - Wikipedia
宋書 - Wikipedia

何承天 - Wikipedia
牟佐坐神社 - Wikipedia
簡文帝 (東晋) - Wikipedia
曹達 (倭) - Wikipedia
呉市 - Wikipedia
倭の五王 - Wikipedia
蕭子良 - Wikipedia

449.任那の牟婁、高知県の室戸、和歌山の牟婁郡、そして栃木との共通点とは

古代、任那の人びとの一部は日本に渡来したのではないだろうか。実際、百済の人はヤマト王権に近い、例えば大阪府枚方市百済寺があったという)新羅の人びとは王権から離された埼玉県の新座付近、そして高句麗の人びとは埼玉県日高市・高麗に住まわせたという。それならば、任那の人びとも一部は日本に渡来したのではないだろうか。今回、その候補地につき、高知の室戸や和歌山の牟婁をあげる。次の流れで紹介していく。

任那4県割譲
・大加羅の滅亡
新羅の昌寧碑(しょうねいひ)
・西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
中原高句麗碑における牟婁
高句麗王に仕えた牟頭婁(むとうる)
高知県の室戸(ムロト)
・和歌山の牟婁
補陀落渡海(ふだらくとかい)
補陀落サンスクリット語が語源
・星信仰と高知と栃木の関係
任那牟婁に住んでいた人びとに関する推測

任那4県割譲

日本書紀では継体天皇(在位:507年~531年)の治世とされる時代において512年、大連(おおむらじ)大伴金村百済からの要請を受け、任那の4県を割譲した。

その4県とは

・上哆唎(オコシタリ)
・下哆唎(アロシタリ)
・娑陀(サダ)
牟婁(ムロ)
の4県とされる。

↓は任那復興会議について紹介した回

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このうち「牟婁(ムロ)」にまつわる話を取り上げる。
古代の朝鮮半島情勢における任那関連の知識とともに紹介していく。

■大加羅の滅亡
任那は広開土王碑において文字として初出(正確には欠字部分がその状況から任那と推定されている)とされる。

そして562年に大加羅の滅亡によって倭人朝鮮半島での拠点を失ったとされる。

なお、倭の五王の遣使は413年頃に始まり、502年頃に終わる。
任那4県割譲はこの10年後にあたる。

なお、伽耶連盟の構成国は次の通り。
金官国・大加羅:伴跛。「魏志倭人伝」の狗邪(くや)韓国。製鉄。
②安羅加羅慶尚南道咸安郡 
③古寧加羅慶尚北道尚州市咸昌
④星山加羅慶尚北道星州郡
⑤小加羅慶尚南道固城郡
⑥それ以外の小国:多羅慶尚南道陜川郡)、卓淳慶尚南道昌原市、己汶全羅北道南原市)、滞沙

↓で伽耶連盟の構成国などを取り上げた

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加羅などは本当に存在していたのか。
考古学的に昌寧碑などによって存在が確認されている。

新羅の昌寧碑(しょうねいひ)
所在は大韓民国慶尚南道昌寧郡。

新羅が562年、第24代・真興王(在位:540年~576年)23年のときに大伽耶討伐に先立ってその前年に臣下と会盟した記念の碑であるという。

伽耶は昌寧に近い高霊加羅であるとされる。

続いて、この562年頃に時代が重なる百済の情勢について。

百済で官僚になった倭人たち
倭人たちが百済において官僚となって活躍していた時期がある。

その時期は540年代~580年代の間である。
物部系、斯那奴(しなの)系、許勢系、河内系、紀弥麻沙(きのみまさ)らがいる。

百済に割譲した4県、牟婁などは当時の百済に近い地域である。

星の信仰を考慮すれば、吉備は高句麗とも関係があったと考えられる。
そしてそれは高知とも関係がある。

さらには562年の大伽耶滅亡時の百済の官僚に紀弥麻沙(きのみまさ)がいる。
6世紀中頃の倭系百済人で官位は奈率。
紀臣(紀氏)が韓婦を娶って生まれた子。

百済に留まり、のち奈率となったとされる。

安羅の日本府と新羅が計を通じたと聞いた百済は、弥麻沙を前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木刕眯淳らとともに安羅へ遣わされたという。

↓は百済で官僚になった倭人たち

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なぜ仏教が日本に伝わったのか。
百済から日本に仏教が伝来してと思われる直接的な原因は以下と考えられる。

■西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
西暦535年または536年にクラカタウが、西暦536年にエルサルバドルで大規模な火山爆発がおきたとされる。
これにより、世界中で気候変動がおき、ペストが大流行したという。
特にローマ帝国では5000万人規模の死者が出たという。
当時の古代朝鮮でも人口の7~8割が死亡したと推測されている。

このことが538年の百済からの仏教公式伝来に影響していると推定される。
なお、公式ではない、民間のあいだの伝来としてはもう少し早かったようだ。
↓はクラカタウ、エルサルバドルでの火山の大噴火について取り上げた回

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そして、「牟婁」について。
まず、この牟婁という単語が高句麗中原高句麗碑にみられる。

■中原高句麗碑における牟婁
中原高句麗碑は忠州高句麗碑とも。
5世紀前半の石碑であるという。

大きさは高さ2.03m、幅0.55m。厚さは0.33m。

高句麗の長寿王が高句麗の代20代王、生没年:394年~491年、在位:413年~491年)が南下し、各地の城を攻略、開拓していく中で建てた記念碑ではないかと推定されている。

この石碑の、左側部分に
「伐城□□□古牟婁城守事下部大兄耶□」の「牟婁城」の文字が存在する。

任那牟婁と関係があったのかは定かではないものの、少なくとも当時の「柵」で囲うような人の集まる地域が朝鮮にあったことがわかる。
↓中原高句麗碑を取り上げた回

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この「牟」や「婁」は特徴的な字である。
おなじく、高句麗において、高句麗王に仕えた人物に「牟頭婁」がおり、この人物名に「牟」「婁」が入る。

牟婁城」と牟頭婁」は同じ高句麗のこともでもあり、なんらかつながりがあるかもしれない。

高句麗王に仕えた牟頭婁(むとうる)

牟頭婁塚は現在の中国吉林省、かつての高句麗好太王碑のある集安平野にあり、十数基の小土墳のうちのひとつ。

この前室の正面の上壁に、経巻を展開したかのような部分がある。
そして漆喰の壁面を渋色に塗って、そして罫線が引かれている。
そこに牟頭婁の墓誌が墨書きで記されているという。

牟頭婁の墓誌墓誌好太王の死去、まもなく作成されたと考えられ、5世紀前半とされる。

牟頭婁と婁を結び付けることは早急な話ではあるが、まずは同じ漢字としての当て字がみられる(音写の一部)ことを示した。
↓は牟頭婁塚墓誌(むとうるづかぼし)牟頭婁について取り上げた回

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そしてこの「牟」と「婁」を持つ地名がある
高知県、和歌山の近接エリアで紹介していく。

高知県の室戸(ムロト)
高知県の東南部に位置する市である。
弘法大師が悟りを開いたとされる御厨人窟(みくろど)がある。
これに地名が由来するという。

まず室戸市と和歌山は地理的に海洋ルートでつながっている。

土佐日記」の「紀貫之」の帰路のルートでは、奈半利である奈半泊(なはのとまり)、室戸室津・むろつ)などが登場する。

近畿への海洋ルートが存在し、室戸は航路上のルートの一部であった。

■和歌山の牟婁
和歌山に牟婁郡がある。
こちらにも「牟婁」の漢字が今も残る。
ヤマト王権と近いのは和歌山であるから、こちらのほうがまず受け入れやすいだろう。

牟婁郡の名の初出は孝徳天皇の在位中(645年~654年)であるという。

当初は紀伊国紀伊国造牟婁郡とされ、紀伊国の最南端、南は熊野国と接していたという。

よって、少なくとも645年以前に牟婁郡が存在していたことがわかる。

高知県の室戸と和歌山の牟婁郡のつながりは単に「ムロ」だけではない。
補陀落渡海」にも似た風習が残る。
これらは同じ民族が渡来していたことを示すのではないか。

補陀落渡海(ふだらくとかい)
補陀落渡海とは、観音菩薩の浄土である補陀落山への往生を願って海上へむけて船出する行為。

補陀落山は南にあると考えられた。
中世の熊野、土佐から出発した例が多いという。

最古の事例は868年貞観10年)紀伊国和歌山県熊野であるという。
ほか、高知県足摺岬室戸岬などの例がある。

日本では那智山、日光山(二荒山)室戸岬足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となったという。

補陀落渡海のピークは16世紀。
57件のうち27件が16世紀の発生という。

補陀落サンスクリット語が語源
補陀落」はサンスクリット語の「観音菩薩」が住むという「ポータラカ」に由来するとされる。

関連して、栃木の日光東照宮などの「日光」について。

「日光」は「ポータラカ」が「補陀落(ふだらく)」となり、ふだらくが「二荒(ふたあら)」となって、二荒が「日光」となったと考える説がある。

よって、栃木にも補陀落によるつながりが高知、和歌山とみられる。

■星信仰と高知と栃木の関係

星にまつわり、高句麗と七星剣の関連がみられた。
星神社は高知に多く、星宮神社は栃木に多かった。
ポータラカつながりでは、高知、和歌山、栃木などが関連する。

↓は七星剣と妙見信仰について取り上げた回

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任那牟婁に住んでいた人びとに関する推測

加羅の滅亡は562年。

和歌山の「牟婁郡」の初出が孝徳天皇の在位中(645年~654年)。
そして運命の決戦、白村江の戦いは663年天智天皇2年)である。

また、補陀落山は南にあると考えられた。

和歌山の牟婁郡、高知県の室戸との共通点は

・ムロ
・海洋ルートでの地理的近接性
補陀落渡海

がある。

また、
・高知の星神社の多さ
・栃木の星宮神社の多さ
は星に関する信仰を通したつながあり、高知と和歌山の関係同様、補陀落、つまりポータラカに対する信仰があったのではないかとみられる。

おそらく、歴史的には高句麗から任那に南下、これが任那牟婁郡となり、やがて日本に渡来、高知や和歌山、そして関東にも渡ったのだろう。

栃木には日光のほか、大谷磨崖仏なども存在する。

年表としては、

・西暦535年~西暦536年の世界規模の火山爆発
・538年:日本への仏教の公式伝来
・540年代~580年代:百済での倭人官僚の活躍
・562年:新羅の昌寧碑
・562年:大加羅の滅亡
・645年~654年:和歌山の牟婁郡の初出、孝徳天皇の在位中
・815年頃:空海が四国を行脚
・868年:補陀落渡海の最古の事例、紀伊国和歌山県)の熊野
・935年:紀貫之土佐日記を著す

となる。

<参考>
昌寧郡 - Wikipedia
任那 - Wikipedia
室戸市 - Wikipedia

牟婁郡 - Wikipedia

448.高知県の土佐一ノ宮の七星剣と波多国造

高知県の一宮神社の鉄剣、そして高知県西部の幡多郡を紹介し、日本の古代史をつないでいく。次の流れで紹介していく。

・七星剣
高知県の一宮神社の鉄剣
高知県の土佐一ノ宮、土佐神社
幡多郡
・波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)
・秦韓国
星川皇子の乱
・平田曽我山古墳
・高岡山古墳群

■七星剣
中国の道教思想に基づいて国家の鎮護や破邪の力を込めて北斗七星を刻んだ刀のこと。
七星剣自体は中国に起源があると考えられる。
日本では七星剣は数点見つかっている。

今回は高知県の一宮神社の七星剣を扱う。

↓にて、七星剣を紹介、妙見信仰との関りを示した

shinnihon.hatenablog.com

高知県の一宮神社の鉄剣
高知県の一宮神社の七星剣は現在、四万十市郷土博物館(旧:幡多郷土資料館)で展示されている。
形状と材質から5世紀頃に朝鮮半島で作られたものと見られている。

なお、四万十市郷土博物館の所在は高知県四万十市中村。

なぜ高知県に七星剣があるのだろうか。

↓は四万十市、七星剣が紹介されているページ

www.city.shimanto.lg.jp

高知県の土佐一ノ宮、土佐神社
高知県の一宮神社とは土佐一ノ宮、土佐神社のこと。
住所は高知県高知市一宮しなね。

創始は不明だが、5世紀とも言われている。

祭神は
味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
一言主(ひとことぬしのかみ)

であるという。

土佐神社によれば、祭神が当初は「土左大神」であったが、やがて変化したという。

日本書紀天武天皇四年(675年)三月に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」
日本書紀・朱鳥元年(686年)の八月に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされているという。

一方、「土佐国風土記逸文では、
「土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」

とあり、祭神の変化がみられるという。

結果、祭神が一言主尊、味鋤高彦根尊となっており、この二柱の神は古来より賀茂氏により大和の葛城の里における神であるという。

これらは、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地にまつられたとされる。

↓は土佐一ノ宮 土佐神社の御祭神のページ

tosajinja.com

過去記事にて賀茂氏騎馬民族中央アジアから渡来したスキタイを祖とする民族であると考察した。

一言主(ヒトコトヌシ)については別回にて考察していくが、事代主(コトシロヌシ)、一言主(ヒトコトヌシ)はおそらく350年~400年頃の人物だと推測する。

↓はアヂスキタカヒコネについて考察した回

shinnihon.hatenablog.com

ところで、高知の西部には幡多郡がある。この幡多は秦氏と関係がある。

幡多郡
高知県の西南部にある地域。
平城宮跡で出土した木簡に「播多郡嶋田里」の文字がみられるという。

国郡里制が施行されていた701年大宝元年から715年霊亀元年)のものであるとされる。

■波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)
後の令制国土佐国西部、現在の高知県西部を支配した国造。

先代旧事本紀の国造本紀(823年~936年頃)において、崇神天皇の御世に、天韓襲命(あめのからそのみこと)を神の教えにより国造に定めたという。

この頃の時期において、秦氏は韓国経由で来た神ととらえていたことがわかる。

なお、「国造本紀」には「都佐国造」もみられる。
「都佐国造」は「波多国造」より後の設置であるとされる。

律令制以前の南海道は、伊予から幡多郡を経て都佐国造の地に至り、土佐の中央部より先進地帯であったという。
よって、高知県の中央部より、西部のほうが先に栄えていた。
その理由は、やはり秦氏といわれる渡来民族が国土開発を行ったためだろう。

ここまでで、5世紀頃に朝鮮半島で作成された七星剣が、波多国造(秦国造)土佐国造に関わる地域に渡る。
やがて土佐神社にまつられるようになる。
そして現在は四万十市郷土博物館(旧:幡多郷土資料館)に保管されている。
以上のような歴史を持つ。

過去記事でもふれているが、秦韓国、星川皇子の乱などを改めて紹介。

■秦韓国
朝鮮の新羅付近に、秦韓国が存在していたことがわかっている。
倭の五王が称号を求めて中国に遣使した際の称号の支配を認める地域の国名のひとつに「秦韓国」がある。

少なくとも413年~513年頃までは存在していた。
秦韓は辰韓とも。
辰韓のうちの一国が斯盧国で、シロ国、のちの新羅である。

↓は秦韓国の実在を倭の五王の称号の記録から証明した回

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星川皇子の乱
七星剣に関連し、星にまつわる星川皇子または星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)の乱が日本書紀に残る。

星川稚宮皇子の生没年は生年不明~479年雄略天皇23年)とされる人物。
 雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子という。

星川稚宮皇子が吉備上道臣一族の支援の元に、天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変で、479年に起きたされる。

↓は星川皇子の乱を取り上げた回

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河内の平田古墳群・平田曽我山古墳は秦氏と関りがあったと推定されている。

■平田曽我山古墳
高知県西部、平田川左岸の標高約20mの丘陵端に築造された古墳。
所在は高知県宿毛市平田町戸内。

築造は5世紀前半(つまり400年前半)

出土品は
銅鏡:2面
鉄剣:数点
土師器:多数

現在では墳丘はほぼ失われている。
古墳形式は見解がわかれている。
宿毛(すくも)市の見解では前方後円墳
墳丘長は110m、または60mとされる。
前方後円墳だとすれば、ヤマト王権に対する服属が、高知県では西部からはじまったことになるとされる。
↓はwikipedia、平田曽我山古墳

ja.wikipedia.org

なお、平田川対岸には古墳時代前期の高岡山古墳群があるという。
平田曽我山古墳と高岡山古墳群で平田古墳群を構成するという。
平田古墳群としては高岡山1号墳、高岡山2号墳、曽我山古墳の築造順であるという。

続いて、高岡山古墳群についても確認する。

■高岡山古墳群

築造時期は曽我山古墳より早いという。

1号墳:形式は方墳、大きさは18m×19m
2号墳:形式は円墳、大きさは径18m

内部主体は1号墳、2号墳ともに粘土と礫(れき)による礫槨(れっかく)

出土品は
1号墳:
 ・筒形銅器:1、全長6cm
 ・銅舌:1、筒形銅器に伴うもの
 ・鉄刀:1、長さ30cm

    装身具
 ・勾玉:1
 ・管玉:13

2号墳:
 ・内行花文明光鏡(昭明鏡):1
 ・石釧:1
 ・勾玉:5
 ・管玉:14
 ・小玉:36

が発見されているという。

のちに波多国造や土佐国造が定められるエリアに住んでいた人々と吉備とは関りはあったのだろうか。
また、波多国造や土佐国造は奈良のヤマト王権とどれほどの関りだったのだろうか。

次回、任那と高知、和歌山との関係をつないでいく。

<参考>
土佐神社 - Wikipedia
幡多郡 - Wikipedia
辰韓 - Wikipedia

高岡山古墳群:
 県指定保護有形文化財 ≪美術工芸品 −考古資料−≫ −高知県教育委員会文化財課−
 高岡山古墳群出土遺物(宿毛歴史館蔵) | 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」

447.七星剣と妙見信仰

七星剣、妙見信仰について追うことで日本の古代、そして朝鮮半島中央アジアとのつながりを探っていく。インドから発した仏教が中央アジアを通って、中国で道教などと混じり、そして日本の西暦300年~700年頃に朝鮮半島や日本に民族がたどりつく様子のいったんがみてとれる。また、今回の「星関連」の内容から星川皇子の乱を扱うことで、日本の古代史をより理解できる。次の流れで紹介していく。

・七星剣(しちせいけん)
・①大刀契(たいとけい)の七星剣
・②四天王寺所蔵の七星剣
・③法隆寺の銅七星剣
・④正倉院の呉竹鞘御杖刀(くれたけさやのごじょうとう)
・⑤千葉県成田市の稲荷山遺跡の七星剣
・⑥高知県の一宮神社の鉄剣
・⑦長野県小海町松原の三寅剣 
高松塚古墳キトラ古墳
・装飾古墳
・朝鮮の徳興里古墳
高句麗壁画古墳
・妙見信仰と妙見菩薩
・星神社と星宮神社
・日本三大妙見
星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)星川皇子の乱

■七星剣(しちせいけん)
中国の道教思想に基づいて国家の鎮護や破邪の力を込めて北斗七星を刻んだ刀のこと。
七星剣自体は中国に起源があると考えられる。
日本では七星剣は数点見つかっている。

まず以下にて、wikipediaより7例を示す。
その上で高句麗との関連や、仏教の妙見信仰、神道の星神社などを取り上げる。

■①大刀契(たいとけい)の七星剣
現在は消失、南北朝時代に失われたとされる。
三種の神器のつぐ、皇位継承の際に歴代天皇に渡された宝物のひとつであるという。

もともとは百済からの伝来品とされる。
4世紀、百済王から倭王
・二振りの霊剣護身剣
・破敵剣
などが奉献された。
これらは七星文などの意匠があったという。

960年(天徳4年)に焼失、961年(応和元年)安倍晴明賀茂保憲らによって再鋳造された。
しかし、1094年(寛治8年)に焼失したとされる。

■②四天王寺所蔵の七星剣
国宝に指定されている。
長さ62.1cm。
切刃造りの鉄剣。
北斗七星、雲形文、三星文、竜頭、白虎などが描かれているという。

■③法隆寺の銅七星剣
かつては法隆寺金堂の持国天像の手にあったという銅剣。
聖徳太子の幼少期の守り刀であったと伝わっているという。

七星文銅太刀、七曜剣、七曜御剣とも呼ばれ、七星文、雲形文、日、月が描かれているという。

■④正倉院の呉竹鞘御杖刀(くれたけさやのごじょうとう)
七星文、雲形文、三星文が描かれているという。
竹で包んだ木鞘に納められた仕込み杖になっているという。

聖武天皇七七忌東大寺献物帳である国家珍宝帳に記載されているという。

かつて正倉院には呉竹鞘御杖刀を含め8本の七星剣が納められていたという。
しかし、北倉の100本あった国家珍宝帳記載品の刀剣のうち、藤原仲麻呂の乱恵美押勝の乱で持ち出されたとされる。

現存する呉竹鞘御杖刀は3本のみという。

■⑤千葉県成田市の稲荷山遺跡の七星剣
象眼跡の北斗七星が確認されている。
9世紀頃に火葬によって埋められたものとされる。
刀身自体はさらに古い時代のものとされる。

■⑥高知県の一宮神社の鉄剣
高知県四万十市郷土博物館(旧:幡多郷土資料館)で展示されているという。
形状と材質から5世紀頃に朝鮮半島で作られたものと見られている。

■⑦長野県小海町松原の三寅剣 
農家の畠山家に伝わっていたものであるという。

「三寅剣」(さんいんけん)と銘があり、七星文などの意匠があるとされる。
7世紀~8世紀頃のものとされる。

以上、剣を中心に紹介してきたが、続いて古墳の壁画に描かれた星座について。

高松塚古墳キトラ古墳

日本でも星座が描かれている古墳がある。
高松塚古墳キトラ古墳である。

高松塚古墳の所在は奈良県高市郡明日香村。
建造は694年~710年(藤原京期)と確定されている。
壁画は石室の東壁、西壁、北壁(奥壁)、天井の4面に存在する。
その題材は「人物像」「日月」「四方四神」「星辰(星座)」の4つ。

東壁では男子群像、四神の青龍、日(太陽)、女子群像が描かれている。
西壁では男子群像、四神の白虎、月、女子群像が描かれている。
奥の北壁では四神の玄武が描かれている。
天井では星辰が描かれている。

続いてキトラ古墳について。
キトラ古墳も所在は奈良県高市郡明日香村。
形式は円墳。
四神を描いた壁画があり高松塚古墳と類似する。
築造は遣唐使が日本に帰国した704年より前の7世紀末から8世紀初め頃ではないかとされる。

壁画について。
東、西、南、北の壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面人身像が描かれていると想定されている。しかしその発見は6体、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」「巳(み)」。

天文図について。
天井には三重の円同心(内規、赤道、外規)と黄道、その内側に北斗七星などの星座、傾斜部に西に月像が、東に日像が描かれた天文図があり、東アジア最古の天文図である。
277個の星が描かれているという。

↓は高松塚古墳キトラ古墳について取り上げた回

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■装飾古墳

日本において装飾古墳がみられたのは4世紀末頃から7世紀頃とされる。
装飾古墳は九州で56%以上を占める。

↓は装飾古墳とはなにかについて紹介した回

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■朝鮮の徳興里古墳

朝鮮の徳興里古墳の壁画は装飾古墳である。
所在は朝鮮民主主義人民共和国南浦特別市江西区域徳興里。

徳興里古墳の築造は408年頃。

牛をひく牽牛、そしてそれに対し別れを惜しみ涙する織女の姿が見えるという。

高句麗への仏教の渡来は372年とされる。
このころ、仏教の伝来を軸とした民族の移動が東アジアにあったのだろう。
↓は徳興里古墳について取り上げた回

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高句麗壁画古墳
参考に掲載した韓国の古代文化ー天文学を中心としてーによれば、
1986~1987年頃において、高句麗における壁画古墳は75基であったという。
このうち、星が描かれているものが21基。
高句麗の壁画古墳には
・星宿を描いたもの
・星座といくつかの星を描いたもの
があり、大部分は星宿図であるという。

星宿図が描かれた場所について。
・古墳の北のほうにだけ描く場合
・北と南
・東西南北
・壁と天井
・天上だけ
などのパターンがあるという。

方位について。
北には北斗七星が、
南には南斗七星が描かれているという。
そのほか、その方向の主な星宿が1~2座描かれているという。

星宿を一方にだけ描いているもの:

南浦市大安区域多井里の大安里1号墳(5世紀)
平安南道順川市北倉里の天主地神塚(5世紀中葉)
では北斗七星だけが描かれているという。

星宿を北と南に描いているもの:
平安南道大道郡徳花里の徳花里1号墳(6世紀)など。
北斗七星、南斗六星が描かれているという。

それ以上の星宿を描いたもの:
黄海南道安岳郡大楸の安岳1号墳(4世紀末)
吉林省集安県の舞踊塚(4世紀末)
4世紀から5世紀にかけては方位ごとに1~2の星宿が描かれているが、7世紀初頭の吉林省集安県の集安4号墳、5号墳では北斗七星だけが描かれているという。
6世紀頃では28個の星宿が全て描かれたようだ(たとえば徳花2号墳や真坡里4号墳など)。
これらの変遷は天文学の遅れ、進み具合ではなく、慣習によるものであるという。

■妙見信仰と妙見菩薩
妙見菩薩(みょうけんぼさつ)北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。

妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のこと。
高句麗百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられている。

■星神社と星宮神社
星神社は星に関連する神社である。
判別がつく限りでは高知県などで多い。

星宮神社について。
栃木県に最も多いのでは、とされる。
明治時代の廃仏毀釈神仏分離の影響で、星宮神社に改名があったのではという。

↓は廃仏毀釈について取り上げた回

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■日本三大妙見
福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見、熊本県八代市妙見町の八代神社(やつしろじんじゃ)の妙見宮が日本三大妙見であるという。

八代神社は妙見宮実紀(1730年に書かれたもの)によれば、795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀したとされる。
八代神社は古くからあったものと考えられる。

星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)星川皇子の乱
古代の人物に"星"、"宮"が入る人物がいる。
星に関する信仰を持った民族の象徴的人物だろうか。

生没年は生年不明~479年(雄略天皇23年)とされる人物。
日本書紀雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子とされる。

星川皇子の乱は推定479年(雄略天皇23年)、ヤマト王権側の白髪皇子と吉備をはじめとする星川皇子の勢力との戦い。

星川稚宮皇子が吉備上道臣一族の支援の元に、天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変とされる。

白髪皇子(のちの清寧天皇)は、新羅の象徴か、あるいは西方由来の日本に渡来していた民族の末裔のどちらかだろう。

↓は雄略天皇を取り上げた回にて星川皇子が登場した回

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■まとめ
七星剣をきっかけとし、星にまつわる装飾壁画や星宿図などを取り上げた。

おおよそ仏教をもたらした民族の文化であり、古代の高句麗、日本の装飾壁画古墳、飛鳥時代高松塚古墳キトラ古墳などが関連する。

300年代の熊本・ヤマトタケルが東征後ののち、星に関する信仰は高句麗百済から日本にもたらされた文化と考えられる。

高知県には幡多郡がある。
高知県の一宮神社でも七星剣がみられた。
どのような関係だろうか。

次回、秦氏との関係を改めて調査することで、日本史の謎を追っていく。

<参考>
七星剣 - Wikipedia
大刀契 - Wikipedia
・韓国の古代文化ー天文学を中心としてー
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1987/pdf/19870309.pdf
高松塚古墳 - Wikipedia
星宿 - Wikipedia
【全都道府県の『星神社』《77社》のすべてを調査
星神社 - Wikipedia
星宮神社 - Wikipedia
全国の星宮神社・星神社と星宮の地名 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市|武蔵野七福神(福禄寿)札所・銭洗い弁天・永代供養塔(永代供養墓)・墓地・ペット供養
八代神社 - Wikipedia

妙見山 (大阪府・兵庫県) - Wikipedia
相馬中村神社 - Wikipedia
星川稚宮皇子 - Wikipedia
星川皇子の乱 - Wikipedia

446.阿蘇の地名から蘇我氏の誕生へ

阿蘇の歴史と蘇我氏を追っていくと、蘇我氏ペルシャ人であったのではないかと考えられる。熊本とヤマト王権の関係をつなぎながら、阿蘇蘇我の謎を追う。次の流れで紹介していく。

卑弥呼や台与は熊本の人物
卑弥呼や台与の遣使
邪馬台国ことヤマト国は熊本
・弟橘姫と蘇我姫の関係
・熊本とヤマト王権との関係
・女性首長のあった地域
・日本に渡来していたペルシャ(イラン人)
・依羅と我孫子はイラン
阿蘇蘇我
・ゴソとトヨクニ
朝臣阿蘇
熊襲について

卑弥呼や台与は熊本の人物
卑弥呼は当て字である。
当時は日に向かうとして”ヒムカ”と呼ばれていた。
209年頃~247年頃の人物。

台与(トヨ)は12歳のときに巫女修行を開始。
そして卑弥呼は38歳の時に死亡したとみられる。

いったん、大日命(おおひのみこと)が卑弥呼の後を継いだ。

しかし、実力をもった男性たちにより国がまとまらなかった。

そこで、台与が男性たちに「力を貸して欲しい」と願い出た。

これより、台与は13歳のとき女王となった。

当時、台与には剣術の指導者がいたという。ペルシャ人であったのではないかと推測される。

邪馬台国とその人物について取り上げた回

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卑弥呼や台与の遣使
卑弥呼は中国、当時の魏に遣使を行った。

266年には台与が西晋の都、洛陽に朝貢した。

これは西晋の祖、武帝司馬炎:在位265年-290年)に対する朝貢であった。

なお、同じ時代、呉に対して朝貢を行ったとみられる勢力もある。

↓は卑弥呼の時代について取り上げた回

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↓は特にドルメンのある時代~古墳時代までを俯瞰して取り上げた回

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↓は魏の青龍三年・235年の方格規矩四神鏡が出土した京都・大田南5号墳と大阪・安満宮山古墳

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邪馬台国ことヤマト国は熊本
邪馬台国はどこにあったか。

有明海阿蘇山付近にあったとされる。

これに魏志倭人伝陳寿のルートをあてはめれば、熊本となる。

隋書に豊前国に秦王国があったことが示されている。

邪馬台国は熊本であることを紹介した回

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関連し、朝鮮には新羅付近に秦韓国があったことが示されている。

↓は倭の五王の称号などと同一の文献を用いて秦韓国の存在を証明した回

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■弟橘姫と蘇我姫の関係
ヤマトタケルの東征に弟橘姫らが同行した。

このとき、弟橘姫だけではなく、蘇我比咩らも従者として同行していたことがわかっている。

東征の帰路、走水・現在の浦賀水道にて抵抗勢力の恨みを買う。

その妨害によって急きょ悪天候となる。
その精霊たちの怒りを鎮めるために、弟橘らが入水した。

蘇我比咩は一命と取り留め、海岸に打ち上げられた。

それが現在の千葉市中央区蘇我あたりであったという。
蘇我比咩神社について取り上げた回

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■熊本とヤマト王権との関係

ヤマトタケルの東征後も熊本と各地の関係は深い。

これが熊本がヒミコやトヨ、ヤマトタケルらがいた王都であったことを示す手がかりとなる。

鉄剣に刻まれた名前が雄略(在位:456年~479年)に比定されている江田船山古墳出土の鉄剣、埼玉の稲荷山古墳出土鉄剣などがある。

東征後、関東の千葉、埼玉、群馬などに王権の実力者が配置された様子である。

↓は江田船山古墳出土の鉄剣について取り上げた回

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甲冑の出土地域である和歌山において九州阿蘇地域の凝灰岩が紀伊・和歌山に運ばれ石棺として用いられている。

5世紀末から6世紀はじめにみられる。

↓甲冑の出土を調べ、和歌山で阿蘇の石材が使われている

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阿蘇ピンク石が奈良県の植山古墳(うえやまこふん)で使われている。

被葬者は推古天皇、竹田皇子の合葬と推定されている。

推古天皇聖徳太子が何人の末裔であったかは次回以降で取り上げる。

↓は阿蘇ピンク石について取り上げた回

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■女性首長のあった地域

アマテラスを非実在の人物とする説がみられるが、アマテラスは実在の人物。

アマテラスより1000年ほど女性の時代が続いたとされる。

おおよそ、古墳時代の到来をもって女性の時代はほぼ終焉、男性による武人の時代を迎えることになる。

そのような中でも女性が葬られていることがわかっている10の古墳や遺跡を取り上げた。

その中で、熊本では熊本県宇土市の向野田古墳がある。

↓は女性首長を葬った10か所の古墳や遺跡を取り上げた回

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■日本に渡来していたペルシャ人(イラン人)

トルコやイラン人が古代日本に渡来していた。
トジコやイラツメといったその名前は西方由来の民族の子孫と考えられる。

また有明海といった「アリアケ」はアーリア人が渡来したことを示す地名と考えられる。

↓トジコ、イラツメについて紹介した回

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■依羅と我孫子はイラン
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は大阪府大阪市住吉区の神社

依羅(よさみ)はイラン人を示すイラであったと考えられる。

関係する人物に日本書紀において「依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)」という人物がいる。

「アビコ」の名前が入っている。
このアビコの当て字は「吾彦」である。

「吾」は「あ」とも読まれていた。

千葉にも我孫子の地名が残ることを考えれば、より一層、ヤマトタケルの東征と関東地方が関係があったことがわかる。
↓は我孫子の由来を紹介した回

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阿蘇蘇我

ヤマトタケルの東征と蘇我姫は関係がみられる。

ヤマトタケルは熊本の人物である。

上記の通りでイラと関わる人物であるアビコの当て字は「吾彦」で、「あ」は「吾」とも読まれていたことがわかる。

ここで、阿蘇山阿蘇の「アソ」の「あ」を「吾」とする。

そしてこのアソの「ア」を「吾」とする。
すると「吾蘇」となる。

そして吾は「我(われ)」でもある。

つまり、「阿蘇」は「我蘇」ともいい換えることができる。

この我蘇を反転すると「蘇我」となる。

■ゴソとトヨ
ここで、「吾蘇」はゴソとも読める。
比売語曽社(ひめごそのやしろ)大分県)に

関連する「語曽(ゴソ)」も、九州と関りがあり、豊国、トヨなどと関りがあったと考えられる。

熊本のトヨの影響力により、豊前国にあった秦王国とも関係があっただろう。

これがのちのヤマト国から出たヤマトタケルの東征に影響を与えただろう。
↓は比売語曽社について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

蘇我氏とは、熊本に渡来した勢力が、やがて東征とともに台頭、日本の文化、国土開発に貢献したものと考えられる。

朝臣阿蘇
朝臣は古くは「阿曽美(あそみ)」あるいは旦臣とも。

天武天皇13年(684)、八色の姓で制定されたもので、二番目に相当する姓という。

一番目の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたという。

よって皇族以外では最も上の地位にあたる。

古事記成立期以前に、朝臣に「阿蘇美」とのつながりがあったことがわかる。

熊襲について
熊襲は九州南部にあった襲国に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々という。

まず、熊は熊本付近の「クマ」、襲は曽於市などの鹿児島県曽於市に残る「ソ」とみてよい。

熊本はヒミコやトヨの出身地、鹿児島はアメノミナカヌシノカミ、そして南九州の王朝に召喚されたアマテラスの王朝のあった付近と考えられる。

これらの伝承の名残が熊襲、そして当時、抵抗勢力が存在したのだろう。

以上、蘇我氏卑弥呼や台与の遣使頃に渡来、あるいは遣使時に遭遇しその後日本帰化した民族と考えられる。

別回にて示す、蘇我氏推古天皇聖徳太子の関係性からして、蘇我氏ペルシャ人であったものと推定される。

※本年最後の投稿となります。今年もありがとうございました。

<参考>
熊襲 - Wikipedia
朝臣 - Wikipedia

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