日本史の謎のひとつ、いわゆる倭の五王と呼ばれる中国への遣使の記録が記載されているのは宋書。この宋書を著したのは沈約とされる。この沈約について、次の流れで紹介していく。
・沈約(しんやく)
・沈約以前の男系
・竟陵八友(きょうりょうはちゆう)
・沈約の男系
・宋書
・倭の五王の遣使の始まり
・なぜ倭の五王は南朝・宋に遣使をしたのか
・413年の遣使の開始の理由は高句麗
・宋書の記録とあわない雄略の遣使
・502年と2人の武
・身狭氏
・牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
・広島の呉
・ジンリン
・沈約の父・沈璞とあらたま
・記紀における荒魂と和魂
・賛珍斉興武
・倭の五王の遣使タイミングの分析
■沈約(しんやく)
生没年は441年~513年。
沈璞(しんはく)の子。
南朝宋、斉(せい)、梁(りょう)の3朝に仕えたという。
中国の二十五史のひとつ、宋書を編纂した。
この宋書・夷蛮伝の中に倭の五王の遣使の記録が残る。
なお、沈約が仕えた3朝の建国と滅亡は、それぞれ
・南朝宋:420年~479年
・斉:479年~502年
・梁:502年~557年
である。
沈約は竟陵八友(きょうりょうはちゆう)の一人とされる。
この沈約がシンヤク、新約とも読めることに注目したい。
時代的にはエフェソス公会議が東ローマ帝国のテオドシウス2世の招集があったのがこれが431年。
沈約はそれより後の生まれである。
■沈約以前の男系
沈約以前の男系の父を遡ると、次の通りとなる。
・沈賀
↓
・沈警(しんけい、生年不明 - 399年)
↓
・沈穆夫(しんぼくふ/ 生年不明 ~ 399年)
↓
・沈林子(しんりんし / 387年~422年)
↓
・沈璞(しんはく/ 416年 - 453年)
↓
・沈約(しんやく/ 441年~513年)
なお、沈約の父の沈璞は南朝宋の第4代皇帝の孝武帝(こうぶてい)に殺されている。
■竟陵八友(きょうりょうはちゆう)
斉の文人のグループ。
武帝の第2子の竟陵王(きょうりょうおう)蕭子良(しょうしりょう)の周囲に集まった 8人の文人たち。
・蕭衍(しょうえん、のちの梁の武帝)
・沈約
・謝朓
・王融
・蕭琛
・范雲
・任昉
・陸倕
の8人。
竟陵八友の発音は”Jing-ling ba-you”という。
つまり、竟陵で"Jing-ling"。
この"ジンリン"の発音については気になることがある。のちほど取り上げる。
■宋書
南朝・斉(せい)の武帝(ぶてい)の命により編纂。
南朝・宋のときに何承天(かしょうてん)、山謙之、蘇宝生、徐爰らが宋書を既に書き始め、沈約が斉の時代に入ってからそれらをもとに編纂したという。
構成は本紀、志、列伝にわかれる。
特に「志」は10年ほどの時間を要したという。
完成は488年とされる。
ただし、梁の時代に入ってからとする説も。
宋書は北宋(ほくそう、960年~1127年)の時代までに欠落が多くなり、南史(659年成立)などによって補われているのではないかという。
宋書・夷蛮伝も早くに散逸され、10世紀頃に補われた可能性があるという。
よって、倭の王に関する記述は、当時のままのものであったか、定かではないということになる。
しかし、いくつかわかることから倭の五王とは何かを検証していく。
■倭の五王の遣使の始まり
倭の五王の遣使は413年から始まる。
これはどのようなときであったか。
414年に高句麗の長寿王が好太王碑(こうたいおうひ)をたて、倭との戦いがあったことが示されている。
よって、倭の五王の遣使のきっかけは、高句麗との戦い、朝鮮半島をめぐる権益争いだろう。
■なぜ倭の五王は南朝・宋に遣使をしたのか
なぜ倭の五王は北魏ではなく、南朝・宋に遣使を行ったのだろうか。
単に朝鮮半島の覇権争いのための許可や援軍を求めるのであれば、北魏であるほうが合理的なはずである。
明確な答えはなく、推測となるが、呉と関係のある勢力が朝貢したのだろう。
宋は中国の三国時代(魏、呉、蜀)には呉のあったエリアである。
九州・熊本付近にあったヤマト国のヒミコ、そしてトヨは魏に対して遣使が行われたとみられる。
その一方、呉に対して遣使を行っていた勢力がいたことがわかっている。
まず、呉の238年、244年の紀年のある鏡が山梨や兵庫から出土している。
↓は呉の238年、244年の紀年のある鏡が出土していることについて紹介した回
shinnihon.hatenablog.com
そして、築造が4世紀前半とされる山口県の竹島御家老屋敷古墳より、劉氏作神人車馬画像鏡が出土しており、呉でつくられたものであるという。
かつて呉と交流をもっていた勢力が、5世紀代になって、高句麗との覇権争いから再び朝貢を開始したのだろうか。
↓は劉氏作神人車馬画像鏡について
shinnihon.hatenablog.com
■413年の遣使の開始の理由は高句麗
高句麗、倭国が倭国使が東晋の安帝に朝貢したという。
倭国の朝貢は高句麗の特産品であったという。
倭国はなぜ高句麗の特産品を選んだのだろうか。
単に朝貢相手の気に入るものを送ったのか。
この年より前に高句麗から日本に渡来している人びとがいるためか。
倭国と高句麗は共同で朝貢したのでは、という説もみられる。
■宋書の記録とあわない雄略の遣使
また、雄略天皇は呉(日本書紀での記述は呉だが、年代的には宋であるという)に対してたびたび遣使を行っている。
身狭青(むさのあお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)らを遣わしている。
464年(雄略8年)と468年(雄略12年)である。
しかし、この遣使の記録は宋書にはない。
倭の五王の遣使のうち、477年、478年、479年、502年は武、雄略の遣使とされる。
宋書・502年の朝貢も武とされる。
さらに雄略の没年は479年である。
古事記に従ったとしても、雄略の崩御は489年、これもあわない。
一般的に倭王武は雄略とされるが、おそらく502年の遣使は雄略ではない。
ではいったい、どういうことだろうか。
■502年と2人の武
502年は「倭王武」が最後に遣使した年である。
これは「梁の武帝」が王朝を樹立した年である。
梁の武帝は倭王武を「征東大将軍」に進号したという。
これが502年の出来事である。
梁(りょう、502年~557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した国である。
そして梁の武帝は、さきほどの竟陵八友(きょうりょうはちゆう)のうちの蕭衍(しょうえん)である。
よって沈約とは仲間である。
また、倭王武の”武”と梁の"武帝"が同じく"武"である。
この倭王武は梁の「武帝」をもとに「倭王武」を名付けらた可能性が最も高い。
それでは、倭王武は誰なのか。
はっきりとするものではないが、ヤマト王権の大王が朝貢していたように誰しも思いがちであるが、手がかりを照合していくと、別の日本の中の一国が遣使していた可能性もあるのではないか。
つぎに日本書紀において呉(宋)に朝貢した際に登場した人物をみる。
■身狭氏
雄略天皇が呉(宋)に遣使したという身狭青(むさのあお)と関連する身狭氏は呉国からの渡来人であるという。
新撰姓氏録、左京諸藩下に「牟佐村主」があり、呉の孫権の子孫であることが書かれているという。
なお、呉は孫権が222年に江南地方に建国、西暦280年まで続いた。
身狭氏は実在の人物なのか、文献上に記されただけの存在なのだろうか。
■牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
所在は奈良県橿原市見瀬町。
祭神は
・高皇産霊神
・孝元天皇
とされる。
創始は安康天皇(在位:453年~456年)の時代に渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりという。
身狭氏は実在の人物であり、呉と関連のある人物とみてよいだろう。
続いて、呉に関連して。
■広島の呉
呉(ゴ)は、漢字ではクレである。
広島の呉は中国の呉となんらか関係はあるのだろうか。
そこで、呉市の地名の由来を調べると、いくつか説がある。
ひとつは、呉一帯を囲む連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼んだ。
これがやがて訛り「くれ」と呼ぶようになったというもの。
ほかには、古代朝鮮半島出身の人々を「くれ人」と呼んでいて、それが呉(くれ)と呼ぶようになったという説がある。
呉市のHP「呉の歴史」によれば、
平安時代の11世紀末~12世紀初に
”呉浦の開発領主呉氏、呉浦の未開地を開発して「呉別符」とし、 雑公事部分を石清水八幡宮に寄進”
の記述がみられる。
よって、少なくとも平安時代には呉氏がいたことがわかる。
中国の呉と日本の位置関係、そして山口にて劉氏作神人車馬画像鏡が出土していることからも、早くから呉由来の民族が渡来していたのではないだろうか。
↓は呉市、呉の歴史
www.city.kure.lg.jp
■ジンリン
呉との交流がヒミコの時代頃から、卑弥呼とは別の勢力によって存在することがわかっている。
一方で、竟陵八友(きょうりょうはちゆう)の竟陵の中国語の読みは”Jing-ling”、ジンリンとである。
ジンリンといえば"塵輪鬼"がある。
塵輪(じんりん)という、新羅から送り込まれた悪鬼に仲哀が立ち向かって討伐するという伝承がある。
この戦いのさなかに流れ矢にあたり、仲哀天皇が亡くなったとされる。
また、仲哀天皇の皇后は神功皇后。
そして仲哀天皇の父親はヤマトタケルとされる。
この、ヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后の頃の歴史はなんらか事実が後世の人によって書き換えられたのだろう。
↓は塵輪(ジンリン)を紹介した回
shinnihon.hatenablog.com
沈約(シンヤク)が新約と読めること以外にも、沈約の父・沈璞(しんはく)には漢字について深い意味があるように思う。
■沈約の父・沈璞とあらたま
沈約の父は沈璞(しんはく)である。
沈璞は南朝宋の官僚。
字は道真。
この「道真」は「菅原道真」と同じ名前である。
また、この沈璞の「璞」は「あらたま」とも読む。
「あらたま」はまだ磨かれていない玉のこと。
そして、神道において荒魂(あらたま)、和魂(にきたま)という考えがあり、この「荒魂」と同じ読みであることになる。
いつごろから荒魂などの言葉はあったのか。江戸時代か、それとも古墳、奈良時代頃か。
■記紀における荒魂と和魂
まず、日本書紀において。
神功皇后摂政前紀において、神功皇后が新羅征討を行うに、
神功皇后に「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。
荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったされる。
また、神代に大国主命のもとに「吾(あ)は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとあるという。
そして古事記では。
神功皇后が「墨江大神の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀った、とあるという。
日本神道における、荒魂、和魂、幸魂、奇魂、いわゆる一霊四魂(いちれいしこん)という体系化されたのは幕末頃だが、記紀成立の時代に既にあった概念ということになる。
■賛珍斉興武
賛・珍・斉・興・武とはなんだったか。
突拍子もないものだが、沈約(しんやく)のキリスト教的な名前からして、
(ビ)ザンチン再興、武(帝)から名付けられているのかもしれない。
一方、(ビ)ザンチンなら、ビがないではないかとの疑問が起こる。
このビの名前を持つ王については別回にて。
■倭の五王の遣使タイミングの分析
まず、東晋は317年~420年の国である。
372年に百済が東晋に朝貢する。
※371年:百済が 高句麗を攻撃し、高句麗の故国原王が戦死する
※372年: 近肖古王が倭王に七支刀を下賜
※372年は東晋の第8代皇帝、簡文帝(かんぶんてい)・司馬昱が亡くなった年。
386年に百済が東晋に朝貢する。
※385年:辰斯王(在位:385~392)
※385年に中国の東晋から百済に対して仏教が伝来
この百済の386年の朝貢は、仏教の伝来が関係するだろう。
412年:好太王が死去する
413年:長寿王が即位する
そして413年:高句麗、倭国が倭国使が東晋の安帝に朝貢する。
このとき、倭国の朝貢は高句麗の特産品であったという。
なお、東晋の皇帝は司馬氏である。
続いて南朝宋は420年~479年の国である。
南朝宋の皇帝は劉氏である。
421年:倭・賛が宋の武帝に朝貢する
425年:倭・讃が司馬曹達を遣わし、宋・文帝に朝貢する。
この司馬曹達は中国系渡来人とされる。
よって、東晋の司馬氏の末裔の可能性がある。
430年:倭が宋に朝貢
438年:倭・珍が宋・文帝に朝貢
443年:倭・済が宋・文帝に朝貢
451年:倭・済が宋・文帝に朝貢
460年:倭が宋・孝武帝に朝貢
462年:倭・興が宋・孝武帝に朝貢
477年:倭・武?が宋・順帝に朝貢
478年:倭・武が宋・順帝に朝貢
続いて斉は479年~502年の国。
479年:倭・武が南斉・高帝に朝貢。
そして梁は502年~557年の国。
502年:倭・武が梁・武帝に朝貢。
以上の倭の五王の遣使は、もとは百済の東晋への遣使がトリガーとなる。
そして413年の長寿王の死のあと、高句麗と倭国が共同で朝貢した可能性がある。
宋書を著した沈約(しんやく)による記録のようだが、どこまでが真実か、史料批判も必要となる。
かなり倭国と高句麗のつながりが深い。
深いがゆえの、好太王と争ったと好太王碑に残るのかもしれない。
別回にて、ビとは誰か。
そして、高句麗による313年・楽浪郡、314年帯方郡の攻撃頃の手がかりを推測していきたい。
<参考>
・沈約 - Wikipedia
・宋書 - Wikipedia
・何承天 - Wikipedia
・牟佐坐神社 - Wikipedia
・簡文帝 (東晋) - Wikipedia
・曹達 (倭) - Wikipedia
・呉市 - Wikipedia
・倭の五王 - Wikipedia
・蕭子良 - Wikipedia