古代史の超概略資料「大和時代(古墳時代後半)から飛鳥時代前半までの超概略年表」

大和・飛鳥時代前半の超概略年表

仏教伝来(538年)以前の日本史を理解するため、古墳時代(250年頃~592年)について「古代史の超概略その1」と「古墳時代の超概略史の表」を「痩田肥利太衛門残日録」に載せました。

古代史の超概略その1

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古墳時代の超概略史

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「古代史の超概略その1」と「古墳時代の超概略史」の表は中国や朝鮮の日本に関する記録の調査が主でした。

これから、もう少し掘り下げ、調べて「古代史の超概略史その2」につなげたいと思います。

古墳時代の前半は、大和地方の朝廷(宮廷)は日本の各地の豪族を傘下に治め、中央集権国家を造るべく奮闘しており、朝廷は権力を示すため、天皇の墓として巨大な古墳を建造しました。地方でも豪族の長の墓「古墳」が作られ、全国で4000以上の大小の古墳が作られ、文字通り、古墳時代でした。

「大和(ヤマト)政権」の成立は参考書によって3世紀頃また4世紀中期と書かれており、大和政権成立の経緯などは素人の調査では難しいので、大和政権の大王(おおきみ、天皇)を支え、政治を行う組織の職掌として大臣(おおおみ)が設置された5世紀中期からの超概略年表を作成しました。

1.古墳時代の5世紀中期から592年の推古天皇即位(聖徳太子の摂政就任)までの大和時代古墳時代後半)。
2.592年から大化の改新に繋がる乙巳(いっし)の変前夜までの飛鳥時代前半

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60年周期干支(かんし)を付けた歴史上の事件名について

60年周期干支表

2025年の干支(えと)は十二支の巳(み)年です。本来、干支(かんし・えと)は十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を言いますが、いつから使われるようになったかわかりませんが、現在では干支(えと)の十二支だけで年を表すようになり、干支(えと)といえば、十二支で年を表すようになりました。

中国では殷(紀元前1400年頃)の時代から十干・十二支が季節、期日、方位、占いなどに使われようになったといいます。

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期日を表す場合、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60年周期干支(かんし)、60月周期干支、60日周期干支をつくり、それぞれ60周期で表した日付「年.月.日」使うようになりました。
その後、太陰太陽暦など漢数字表現が現れ、年を表す場合は60年干支と漢数字の両方を使い、月と日を表す場合は漢数字に変わったと思われます。

中国や朝鮮は早くから大きな出来事を60年周期干支を使って表していましたので、日本もその影響を受け、歴史上起こった重要な出来事を記憶に留めるため、後年、歴史家が”事件が起きた年の60年周期干支”と”事件を表すことば”を付けた「事件名」を作ったと思われます。

【60年周期干支を付けた歴史上の事件名】
[辛亥の変(しんがいのへん)] 531年燃継体天皇死去を巡る政変
[丁未の役(ていびのえき)]  587年蘇我馬子物部守屋を襲撃、物部氏が滅びた争い。)
[乙巳の変(いっしのへん)]  645年中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我氏を滅ぼし、大化の改新に繋げた政変。
[甲子の宣(かっしのせん)]  664年朝鮮白村江の戦い敗戦後の国政改革の要綱書
[壬申の乱(じんしんのらん)] 672年大海人皇子(おおあまのおうじ、天武天皇)と大友皇子(おおとものおうじ)の皇位継承争い。

 

【追記】
古代中国で還暦(60歳)・古希(70歳)・喜寿(77歳)・傘寿(80歳)・米寿(88歳)など人生の節目で長寿を祝う習慣が始まりました。特に60年周期干支が60年で一巡する、即ち、人は60歳で大きな1区切りが終わり、次に自分の生まれた干支の年に戻るということで「還暦」ことばになったということです。日本では奈良時代から始まったといわれています。

60年干支は十干は10(年/回)✕6(回)=60年、十二支は12(年/回)✕5(回)=60年なので、十干十二支の組み合わせ表現を使わずとも、十二支だけのの表現でまったく問題なく、また年を知るための節目として動物で表す十二支が分かり易く、簡単であるため、十二支表現が採用されたと思われます。
従って、十二支が5回巡り、60年の大きな節目の還暦を経て、次の年に自分の生まれた干支(かんし・えと)に戻り、再び新しい十二支が始まるということさえ分かれば良いだけのことになります。

キューブラー・ロス女医の著書「死ぬ瞬間」で提唱した「悲しみの5段階説」

悲しみの5段階説

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藤原定家の十二カ月花鳥和歌「桜に雉」の季節は仲春で、旧暦の暦では如月(二月)です。

花鳥和歌 「桜に雉」

2025年3月の暦

表1 季節の区分

2月10日過ぎから例年にない大雪を北陸・東北・北海道に降らせた寒波は昨日でようやく収まり、今日、2025年2月25日は打って変わり、暖かく晴れた日になりました。
これからは晴れの日が続き、気温も上がり、もうすぐ、春を迎える3月に入ろうとしています。

表1に示すように西暦の現代では春は西暦の暦でおおよそ3月~5月の約3カ月としていますが旧暦の春はそれより1カ月早く、立春で始まる2月(旧暦正月節)から立夏の直前の穀雨の4月(旧暦三月中)の約3カ月としています。

天文気象台によると、気象学的な春は太陽黄経345度に達した点(啓蟄)から75度直前(小満)までとし、天文学的な春は太陽黄経0度に達した点(春分)から90度直前(芒種)までとしています。

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現在では春は3月中旬の春分から6月中旬の芒種までの約3カ月がいちばんしっくりいきます。

藤原定家が活躍した鎌倉時代前期の1216年頃は、現代の啓蟄および春分の3月は旧暦では啓蟄(二月節)および春分(二月中)の仲春のきさらぎ二月に相当します。

 

【2025年3月(陰暦如月二月)】
啓蟄
3月5日~3月19日 : 啓蟄(二月節 第三節気: 陰暦二月六日~二月二十日)
土の中で冬ごもりしていた虫や蛙が目を覚まし地上に這い出すころ。
ちょうど雷が轟き始めときにかさなるため、このころの春雷を「虫出し」ともいう。
春分
3月20日~4月3日 : 春分(二月中 第四節気: 陰暦二月二十一日~三月六日)
春の彼岸。昼と夜が同じ長さになるとき。
ようやく寒さが遠のき、暖かい日が多くなるが、天候は崩れやすく強風が吹く。
三寒四温、花冷えの季節ともいわれる。

藤原定家花鳥和歌「桜に雉」】

【桜】
かざしをる 道行人の たもとまで 桜に匂う きさらぎの空
【現代語訳】 
花を髪に挿している道行く人の袂まで、桜の香りが匂い立つような、二月(きさらぎ)の空である。
【語意】
「かざしをる」:花を髪に挿している。
「きさらぎ」:旧暦の如月で二月、西暦(太陽暦)では三月から四月にかけての時期
桜が満開で華やかで春らしい情景を詠っている。
花を挿した人の袂にまで桜の香りが届くほど、あたり一面が桜の香りに満ち溢れている様子。
【雉】
かり人の かすみにたどる 春の日を つまどふ雉の こゑにたつらん
【現代語訳】
狩人が霞の中を手探りで進む春の日に、妻を求める雉の声に(狩りにでる気持ちが)高ぶる気持ちになる。
【語意】
「つまどふ」:妻を求める、つまり求愛する。
「たつらん」:狩りに出る気持ちを奮い立たせるという意味合いで使われている。
春の霞がかった景色の中、雉の鳴き声が響き渡り、それが狩人の狩猟意欲を刺激しているという情景を描写している。

 

 

 

古代史の超概略その1「確証ある日本史の始まりは古墳時代からでした」

日本史における時代区分

2015年に読んだ「アメリカの歴史Ⅰ」の中で著者サムエル・モリソンは「歴史は多少とも継続的な、年代のはっきりした物語を前提とする」と言っています。従って、中央アメリカのマヤ族・アステカ族、ペルーのインカ族、北米インディアンは文字をもたず、記録にとどめた過去の事柄は記憶に残っていた神話だけであったたため、1942年以前の「アメリカ史」は書くことはできなかったと言いました。

仏教伝来以前の歴史をほとんど知らない私は、仏教伝来の538年(一説には552年)に経典、易、医、暦などと、一緒に文字(漢語、漢字)も伝わったと思っていたので、それ以前の歴史は神話だと思っていました。
(*1959年私が中学時代に習った仏教伝来は552年でした)

日本史における時代区分を作り、古代の歴史を調べてみると、私は大きな間違いを犯していました。
そこで、古代までの歴史を調べ直し、確証ある「古代の超概略史」としてブログに載せてみることにしました。
(*私が中年期(朱夏期)の頃の昭和64年(1989年)に終わった昭和時代は日本史における時代区分では「現代」でなく「近世」に変わっていることに気がつきました。昭和時代はだんだん遠くなっています)

 

【確証のある日本史の始まりはいつ頃か】
古墳時代の日本は国家として政治体制が未熟な時代でしたが、中国の後漢末期、220年から280年の三国時代三国志の時代)、東晋時代および朝鮮の350年頃から676年の三国時代朝貢が行われており、また戦乱からの避難民・亡命人や商売する人々などが日本に渡来していました。
(*朝貢:下の国が上の国に貢ぎものを献上し、上の国は下の国に何十倍の財物を下げ渡す外交政策の一種)

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考えてみれば、縄文・弥生時代にも南方や大陸からの人の移動とともに土器や稲作などが入ってきており、古墳時代はもちろん、時代に関係なく、常に人や物の流入流出があったことは当然だと思いました。

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渡来人や朝貢を通して進んだ政治・社会・文化の知識や技術や文字(漢字)は徐々に浸透してきており、また、中国や朝鮮の史書や石碑に倭人(日本人)が関与した記録があり、日本に残る遺跡や文物と照合し、年代と出来事を確定し、日本の歴史に刻んでいることを知りました。(中国では紀元前500年頃に諸子百家と呼ばれる思想家が輩出し、論語、大学、易経書経などの四書五経孫子(兵法)、暦学・天文学・陰陽説・五行説の書籍などが編纂され、その後も漢書史記などの歴史書など数多く編纂されている)

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朝鮮半島三国時代の405年 百済倭国に漢字を、552年に仏教を伝えたと記されていますが、政治・外交・商売を行うため皇族・上級豪族・商人・知識階級の間では既に漢字(漢語)は使われていたのです。

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古墳時代には漢字は日本語としての表記法などが定まらず、書籍として残すことはできませんでしたが、記録として残すことができ、約100年後の奈良時代に日本語で712年『古事記』や720年『日本書紀』が最初の日本の歴史書として編纂されることになります。(*古事記日本書紀には神話も含まれている)

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古墳時代の369年百済任那(みまな、現在の全羅南道の釜山市を含む地域)に日本府を作り、そこを足場に日本が勢力を広げたことが記録として残っています。
また、592年に政治権力を握っていた蘇我馬子崇峻天皇を殺害し、おなじ592年に推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となり、隋に遣隋使を派遣し、国家として認めさせました。ここから飛鳥時代が始まったとされています。

古墳時代の後半区間を「大和時代」と呼んでいる参考書があります。すなわち、古墳時代半ば(4世紀半ばのヤマト政権成立、369年任那日本府設置の頃)から592年飛鳥時代の直前までを大和時代としています。(参考4、5、6、7)

朝鮮半島北(中国吉林省集安)に414年高句麗19代広開土王(クァンゲトワン)の功績を讃えた碑文に倭軍が関与したことを下記の文に記録が記されています。
*400年百済支援の倭軍(日本軍)新羅に侵攻したが高句麗軍が迫ると任那まで退却した。
*404年高句麗軍は倭軍と戦い勝利した。

東漢(あずまのあやの)氏は後漢末期から三国志の時代の200~270年頃の戦乱時に日本に渡来した漢人帰化集団を言い、土木建築技術や織物の技術を持っていました。

大和地方に住む東漢(あずまのあやの)氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当しており、東漢直駒(あずまのあやのあたいこま)が、592年に蘇我馬子に命じられて崇峻天皇を殺害したと言われています。

このように日本には古墳時代に中国・朝鮮から文字が入り、記録として残っていたため、古墳時代の年代と出来事は後年、書籍として編纂され、確証ある日本の歴史に刻まれました。
日本の歴史は文字が入り、使われた古墳時代から始まっていたことを認識しました。

【参考】
1.「明日への日本歴史 1 古代国家と中世社会」、五味文彦山川出版社、2023
2.「入門 日本書紀 事典」、瀧音能之 監修、東京堂出版、2021
3.「マンガものがたり韓国史1」、徐永沫、訳 野崎充彦、(株)国書刊行会、2001.11.10
4.「0から学ぶ日本史講義 古代篇」、出口治明、(株)文芸春秋社、2018.2.25
5.「年表でおさらい日本史」、田崎俊明、(有)蒼史社、2019
6.「日本の歴史 1 神話から歴史へ」、井上光貞中央公論社、1965
7.「日本の歴史 2 古代国家の成立」、直木孝次郎、中央公論社、1965
8.「最新古代史論"まほろばの国"ヤマトのあけぼの」、小池徹郎編集、(株)学習研究社、2009.4.15
9.「日本の古代史」、創刊人 蓮見清一、(株)宝島社、2014.1.13

 

日本の古墳時代の歴史を確証するための朝鮮半島三国時代の超概略史

朝鮮半島三国時代の超概略史

日本史の古墳時代の年代と出来事を確証するため朝鮮三国時代の超概略史の表を作りました。

主な関係する年代と出来事は以下です。
405年 百済が日本に漢字を伝えている
538年 百済が日本に仏教を伝えている。
414年朝鮮半島北(中国吉林省集安)に高句麗19代広開土王(クァンゲトワン)の功績を讃えた碑文に下記の文が記されています。
*400年百済支援の倭軍(日本軍)新羅に侵攻したが高句麗軍が迫ると任那まで退却した。
*404年高句麗軍は倭軍と戦い勝利した。

【参考】
1.「明日への日本歴史 1 古代国家と中世社会」、五味文彦山川出版社、2023
2.「入門 日本書紀 事典」、瀧音能之 監修、東京堂出版、2021
3.「マンガものがたり韓国史1」、徐永沫、訳 野崎充彦、(株)国書刊行会、2001.11.10
4.「0から学ぶ日本史講義 古代篇」、出口治明、(株)文芸春秋社、2018.2.25
5.「年表でおさらい日本史」、田崎俊明、(有)蒼史社、2019
6.「日本の歴史 1 神話から歴史へ」、井上光貞中央公論社、1965
7.「日本の歴史 2 古代国家の成立」、直木孝次郎、中央公論社、1965
8.「最新古代史論"まほろばの国"ヤマトのあけぼの」、小池徹郎編集、(株)学習研究社、2009.4.15
9.「日本の古代史」、創刊人 蓮見清一、(株)宝島社、2014.1.13

 

日本の古墳時代の歴史を確証するための秦から唐までの超概略史

秦から唐までの超概略史

本史の古墳時代の年代と出来事を確証するため秦から唐までの歴史を調べて超概略史表を作りました。

前108年頃の『「漢書」 地理志』の一節に倭人楽浪郡朝貢していたことが記されています。
57年 倭の奴国(なこく)王、遣使(金印・紫綬を受ける)
239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使する
413年 倭王「讃」、東晋に遣使(倭の五王の第1回遣使)
660年 聖徳太子、隋に第1回遣隋使
630年 第1回遣唐使を派遣

【参考】
1.「明日への日本歴史 1 古代国家と中世社会」、五味文彦山川出版社、2023
2.「入門 日本書紀 事典」、瀧音能之 監修、東京堂出版、2021
3.「マンガものがたり韓国史1」、徐永沫、訳 野崎充彦、(株)国書刊行会、2001.11.10
4.「0から学ぶ日本史講義 古代篇」、出口治明、(株)文芸春秋社、2018.2.25
5.「年表でおさらい日本史」、田崎俊明、(有)蒼史社、2019
6.「日本の歴史 1 神話から歴史へ」、井上光貞中央公論社、1965
7.「日本の歴史 2 古代国家の成立」、直木孝次郎、中央公論社、1965
8.「最新古代史論"まほろばの国"ヤマトのあけぼの」、小池徹郎編集、(株)学習研究社、2009.4.15
9.「日本の古代史」、創刊人 蓮見清一、(株)宝島社、2014.1.13

 

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