宇多田ヒカルが歌うものとはいったい何だろうか? 彼女にとって8年ぶりのオリジナルアルバム『Fantôme』のリリースは、チャート1位の歓待を持って受け入れられ、あらためて存在感を放ったのも記憶に新しい。
『Fantôme』を含む彼女の作品を文芸評論家の目で評した『宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌』(毎日新聞出版)の著者・杉田俊介氏(批評家)と、音楽業界の構造的変革を論じた話題書『ヒットの崩壊』の著者・柴那典氏(音楽ジャーナリスト)の対談が実現。
異なる立場から宇多田ヒカルの新解釈と未来図を探ります。

宇多田ヒカルは、谷川俊太郎や中原中也の系譜にいる
柴 『宇多田ヒカル論』を読ませていただきました。「はじめに」で「この本は、宇多田ヒカルの歌についての批評である」と書かれていますね。「『歌=詩』そのものにこだわり、彼女の言葉のあり方に、批評的に迫ってみる」とも。
杉田 僕は文芸批評畑の人間で、正直なところ音楽業界のことは全然わかりません。最初は音楽面からの分析もしなきゃと考えていたのですが、途中でこれはもう潔く諦めよう、と思いました。もともと音楽の教養も薄いですし、その側面からの仕事はそれこそ柴さんや宇野維正さん、矢野利裕さんがいますし。
だから、今回の本ではシンプルに宇多田ヒカルという人の歌詞、「詩としての言葉」に注目しました。歌い手というよりは、詩人としての宇多田さんについてまずは論じてみようと考えました。
柴 そこで僕からまず聞いてみたいのは、批評の方法論についてです。杉田さんが考える文芸批評のやり方というのは、どういったものなのでしょうか。
杉田 もちろん一口に文芸批評と言っても様々なスタンスや方法論があるのですが、『宇多田ヒカル論』は、日本における小林秀雄や初期の柄谷行人、あるいは秋山駿という人などが体現している「印象批評」に近いものだと思います。
この場合の印象批評とは、対象と自分の人生、あるいは互いの宿命に、自分の持てる武器を全てぶつけ合うところに、作品としての批評の強さが生まれる、というスタイルのことだと僕は捉えています。
そして、小林秀雄ならドストエフスキー、柄谷行人なら夏目漱石やマルクスといったように、それぞれの批評家にとって特別な対象がいるわけですね。
柴 今の時代において、杉田さんにとっての対象が宇多田ヒカルだったということですか?
杉田 そういう面があると思いますね。これは僕みたいに古いタイプの批評を好む人間にありがちなロマン主義かもしれないですが、「対象を選んでいる」というよりは、「この対象しかない」と感じられる方が好ましい。
僕は10年くらい前に「宇多田ヒカルのパッション」という短いエッセイを書いたことがあって、「あれが君の書いたものの中でいちばんいい」と何人かから言われたこともあるのですが、その続きをいつかちゃんと書きたいと思っていた。
今回、人生の中でそういうタイミングが来たのかもしれない、という感じでしょうか。