角川「短歌年鑑」(平成26年版)の特別論考で小高賢「批評の不在」と島田修三「聖域のほとり」がともに永井祐の歌を話題にし、特に小高は永井らの歌が「分からないという声が一方にありつつ、いつのまにか認知されてゆく」現状を危ぶむ。『日本の中でたのしく暮らす』刊行からまもなく二年。ささやかな肯定感を求めて生きるナイーブな若者像といった時代論や世代論から語られることの多い歌集だが、私はいったんそこから離れて歌の作りそのものを吟味する必要を感じている。と言うのも、永井の歌の肝はモチーフや時代感覚よりもむしろ辞の部分にあると思うからだ。 かつて菱川善夫は「実感的前衛短歌論—『辞』の変革をめぐって」(『短歌』昭和41年7月号)で、安定した辞の規定力とその余韻のうちに「自己」の詩の充実を目指したのが近代短歌であり、第二芸術論を経て、そうした辞の安定性を拒否することで時代の危機と不安の中から人間の悲劇を見つめよ