「山狩り」が終わった。
雨の匂いがする。雨は降っている最中より、上がった直後の方がよく匂う。東京はどこもかしこもアスファルトで覆われているけれど、公園の中には木と土と草と落ち葉があって、雨がそれらの匂いを引き出しているのだろう。
三十代の頃、残業は二割五分増しだったから毎日残業をした。雨上がりの夜、駅に向かって歩いていると、勤め帰りのサラリーマンの波に呑まれ、この人たちは家族の待つ家に戻るのだな、とネオンがてらてら反射する濡れたアスファルトを泥靴で踏みながら雨の匂いを嗅いだ――。
西の空は雲の裂け間から陽が射していたが、東の空にはまたいつ降り出してもおかしくないような雨雲が垂れ込めていた。
水のせせらぎのような音がして、文化会館の方を見たが、雨樋から水が落ちているのか、空調の中を水が回っているのかは判らなかった。
空を見上げ、雨の匂いを嗅ぎ、水音を聞ているうちに、いまこれから自分がしようとしていることをはっきりと悟った。悟る、という言葉を思い付くのは、生まれて初めてだった。何かに捕らわれてそうしようというのではなく、何かから逃れてそうしようというのではなく、自分自身が帆となって風が赴くままに進んでいくような――、寒さや頭痛はもう気にならなかった。
公孫樹の葉の黄色が溶かした絵の具のように目に流れ込んできた。いま舞っている葉も、雨に濡れ人に踏まれた葉も、まだ枝に付いている葉も、一葉一葉が勿体ないほど黄色く輝いて――。
ホームレスになってからは、落ちた銀杏の実にしか目がいかなかった。ビニール手袋をはめて一つ一つ拾い上げ、レジ袋がいっぱいになったら水飲み場に持っていって臭い皮の部分を洗い落とし、新聞紙の上に広げて干して、アメ横でキロ七百円で引き取ってもらう――。
ひゅうっと木枯らしが吹き、視界一面に黄色い葉が舞い散った。巡り変わる季節とはもう関わりを持つことはない――、それでも光の使者のような黄色から目を離すことは惜しい気がした。
ピヨッ、ピヨピヨッと視覚障害者用の誘導音がして山下通りの向こうを見ると、信号が青に変わっていた。横断歩道を渡る。
ポケットから小銭を取り出し切符を買う。
JR上野駅公園口の改札を通る。
案内板の「東北新幹線はやて 新青森行き」の文字が目に入り、あれに乗れば四時間半後には鹿島の駅に着く――、と思ったが、その揺らぎは鼓動の一つが受け止め、もう望郷の念で胸が高鳴ったり、胸が締め付けられたりすることはなかった。
いくつもの道が過ぎ去った。
目の前には一つの道しか残されていない。
それが帰り道かどうかは、行ってみないとわからない。
山手線内回りの2番線の階段を下りていく。
プォォォン、ゴォー、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、ゴト、ゴト……階段の中頃で一人の女とぶつかりそうになった。赤いコートに少女のようなおかっぱ頭が映える小柄な三十代半ばぐらいの女……ゴットン、ゴットン、ゴ、トン、ゴ……携帯電話の画面に顔を近付けたまま階段を上ってきて、直前に弾かれたように気付き、あ、すみません、と青白く生彩のない顔で謝った。ホームレスだ、というような驚きが一瞬掠めた女の顔には、願いが挫かれたばかりのような翳りがあった。階段が終わりに近付いた時に足を止め振り向いてみると、赤いコートの背中は階段を上り切ったところだった……トン、ブーン、ルゥー、ブシュウーキキ、キキ、キィ、キ……キ……キ……ゴトッ……シュー、ルルル、コト……彼女が目撃しないで済んだ、ということに少しほっとした。彼女の携帯電話に届いた知らせは凶報だったのだろうが、たぶん、今夜は眠るだろうし、朝起きれば顔を洗って何かを食べるだろうし、化粧と着替えをして出掛けるだろう。そうやって人生は続いていく。暦には昨日と今日と明日に線が引かれているが、人生には過去と現在と未来の分け隔てはない。誰もが、たった一人で抱え切れないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ――。
山手線内回りを一本見送り、次の電車が到着するまでの三分間、自動販売機で炭酸のジュースを買って、二口だけ飲んでゴミ箱に捨てた。
「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」
黄色い線の上に立って目を閉じ、電車が近付いてくる音に全身を傾けた。
プォォォン、ゴォー、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、ゴト、ゴト……
心臓の中で自分が脈打ち、叫び声で全身が撓んだ。
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