アート主体(そして、およそ全ての創作者)の個性は、感性、発想、技術の三要素に分解される。感性とは「何を創造するか」、すなわち創作のテーマを決定する意志である。発想とは「創造すると決定した『何か』をどのように想像するか」を決定する思考である。技術とは「どのように創造するか」を遂行する能力である。優れたアート(そして、およそ全ての創作物)は、上述した三要素のいずれかひとつ以上が優れているアート主体によって生み出されると言っていいだろう。
例えば、ここで紹介されているアートを、先ほど挙げたのとは逆順になるが、技術、発想、感性の面から見て行こう。技術については、作品の精巧な彫刻を見れば疑う余地は無いだろう。作者はこれをナイフとピンセットと外科器具によって製作しているというから驚きだ。発想も面白い。石を使う代わりに本を使って彫刻を行ったことだけでなく、例えば医学書から人体解剖図を彫り出すなど、本の内容を作品に生かす点が粋だ。
そして、最後に感性である。これは眼前にある作品から推測するしかない。だが、私は、作者の感性は「引き算と足し算のアート」にあると推測してよいと考える。本来、彫刻というものは引き算のアートである。そこに何らかの足し算(この例であれば、彫刻する対象自身の特性や、イラスト的なワンポイント)を加えることにより新たな価値を生み出そうという意志が、作者のアートには潜んでいる。重要なのは、その意志の良し悪しではなく、その意志がブレずに確固として存在することである。作者の一連の作品を見れば、その一貫性から、意志の確固たる存在は明らかであろう。
▼
では、黒瀬陽平の、いわゆる「KASANE」アートの技術、発想、感性を見てみよう。まず、技術は陳腐であると言わざるを得ない。なぜなら、他者が容易に解析・理解・模倣することができるからである。既に黒瀬の技術と同等のウェブサービスが公開されていることからも、技術の模倣可能性は疑いようがない(せめて「KASANE」るだけでなく、元画像を切り刻んだり回転させるなどの技術があれば、模倣不可能になったかもしれないのだが)。次いで発想だが、これも独自性は皆無である。画像を「KASANE」ること、すなわち差の絶対値などのモードによって画像群を統合することは、Photoshopなどの画像編集ソフトウェアに機能としてあらかじめ用意されているからである。
さて、最後に感性だ。これはやはり推測するしかない。ここで我々が立ち返るべきは「カオス*ラウンジ宣言」であろう。この宣言には「アーキテクチャによる工学的な介入」という言葉がある。これは「ウェブサービスの作りが人間の思考を規定する」と解釈するべきだろう。ここで言う「ウェブサービスの作り」とは、例えばGoogleであれば「PageRankに代表される種々のアルゴリズムによるウェブページのランキング」、またpixivであれば「デイリーランキングなどの公開ランキング」である。そして宣言にある「アーキテクチャによる工学的介入の結果」というのは、Googleであれば「検索エンジン最適化によって検索結果の上位に順位付けられたウェブページ群」、pixivであれば「ランキング上位を狙った流行ジャンルのイラスト群」と読み替えるべきだろう。こう読み替えれば、宣言の「人間の内面は、アーキテクチャによる工学的な介入によって蒸発する」という言葉は「人間は自身が作りたいものではなく、ウェブサービスが規定する『上位』に位置付けられる可能性が高いものを作るようになる」と解釈できる。これはスパムブログや「ジャンルゴロ」の存在を鑑みるに、決して的外れな解釈ではないだろう。
また、カオス*ラウンジ宣言には。「彼ら(註:カオス*ラウンジから生まれたアーティスト)は、アーキテクチャによる工学的介入の結果に対し、さらに人為的に介入を試みるのである。彼らは、アーキテクチャによって、自動的に吐き出される演算結果を収集する。そして、自らがひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始するのだ。」ともある。「工学的」と「人為的」という言葉の差は介入主体がプログラムであるか人であるかの違いを表していると読むのが自然だろう。また、文章構成から二・三文目は一文目の詳説となっているため、「演算」は単に「介入」の言い換えだろう。
ここから必然的に推測されるカオス*ラウンジの、そしてその代表者たる黒瀬の感性は「自らのアート活動(=人為的な介入)によって、各種ウェブサービスの「上位」コンテンツ(=工学的介入の結果)を規定する」ことだと言える。誤解を恐れずに平たく言えば「ウェブサービスのルールを変更する」ということである。これは、例えばGoogleに対してはランキングアルゴリズムの自発的な変更を促すこと、また、pixivに対しては流行ジャンルを変化させること、あるいは創出することを意味している。これだけ見れば、実に壮大な感性である。
では、その感性は、その意志は、黒瀬の「KASANE」アート作品に宿っているか。私はおそらくNOだと考える。なぜなら、彼の作品によってGoogleのランキングアルゴリズムあるいはpixivにおける流行ジャンルが変わったという話を耳にしないからだ。彼の感性が作品に確固として宿っていれば、種々のウェブサービスが彼の意志を汲み取り、動いてしかるべきだろう。ただ、この点においては私の観測範囲が狭いことも考えられる。また、彼のアートを理論的に解析しきれていないことも、私は否定しない。もし、この文章を読んでいるあなたが彼を擁護したいのであれば、ぜひそのようなウェブサービスの動向、あるいは彼のアートに対する理論的な解説を示して欲しい。
▼
もし、黒瀬自身あるいは他の誰かが黒瀬の感性を示すことができなければ、彼はアート主体としての存在価値を問われる。あるアート主体がアート主体として存在する価値は、その主体の個性=再現不可能性によると言っても過言ではない。あるアート主体にしか生み出せない作品があるからこそ、そのアート主体は他のアート主体と明確に区別されて存在することができるのだ。既に黒瀬の技術の模倣不可能性と発想の独自性は否定されている。その上で感性の不在まで示されてしまった場合、もはや彼のアート主体としての存在価値は皆無である。すぐに、彼と同じ技術と発想を持ち、しかし彼とは異なる感性を持ったアート主体たちが、彼に取って代わるだろう。もし「黒瀬は最初から『KASANE』の流布を意図していた」というような言葉で彼を「擁護」する者がいるのであれば、彼のためにもやめておいたほうがいい。「KASANE」に関する彼自身の発想と技術が否定された今、その言葉は彼のアート主体としての再現可能性をわざわざ示す言葉に他ならないのだから。
アーキテクチャをランキングのみに絞って考える意味がよく分からない マイナー性癖もどんどん可視化されてる感覚があるし、新しいのも生まれてる それはアーキテクチャとは関係ない...