「隠れキリシタンの里」などとも呼ばれる長崎県の外海(そとめ)地方のキリシタン追放を図った大村藩が、1790年代(寛政年間)に五島藩と「百姓移住協定」を結び、最終的には約3000人のキリシタンが五島に移住したという史実を裏付ける家系図がこのほど、五島市松山町の民家で発見された。見つかった家系図は複写され、長崎市西出津町の外海歴史民族資料館に寄贈された。長崎新聞が伝えた。 家系図「三代書き」が見つかったのは、五島市松山町の自営業・平山城司さんの実家(同市平蔵町)。平山さんの母の赤尾スエミさんが見つけた。同紙によれば、家系図には「先祖御届」と記され、平山さんの2代前から5代前までが記載されていた。5代前はちょうど今から約200年前に相当し、移住があった1800年前後とほぼ一致する。5代前の人名には、個人名と洗礼名が書かれており、外海出身であることを示す記述も見られたという。見つかった家系図は今後
蕎麦屋の名前にはどういうわけか「庵」が付くことが多い。なぜなのか昔から不思議だったので、何回かネットで調べてみたのだが、検索の方法が悪いせいか、庵が付く蕎麦屋さんのページばかりヒットし、由来が書いてあるページは見つからなかった。しかし、今日ふと思い立って「そば屋 いおり」と訓読みで検索してみたら、「蕎麦屋で一杯」さんのページがヒットし、そこに長年の疑問の答えらしきものが載っていた。 江戸時代中期頃、江戸浅草芝崎町(現在の西浅草3丁目)に、一心山極楽寺称往院という浄土宗の寺がありました。この寺は、慶長元年(1596年)、白誉称往上人によって当初湯島に創建されたものですが、明暦の大火(1657年)にって浅草に移ったものです。 さて、その院内に道光庵という支院がありました。享保年間(1716〜1735年)ころ、この道光庵の庵主は信州松本出身で、蕎麦打ちが大変上手であったので、檀家の人々向けに自ら
江戸時代には行商人が天秤棒に様々な商品をぶら下げて町の中を売り歩いていました。 火を持ち歩いて暖かい食べものを売り歩く商人もおり、蕎麦も夜間に屋台で売られていたのです。 夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていました。 蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となりました。 ○ 火を扱う屋台は度々火事の元になったため、江戸時代を通じて徳川幕府は夜蕎麦売りなどを再三禁じようとしましたが、この規制はあまりうまくいかず、蕎麦の屋台売りも排除されることはありませんでした。 むしろ江戸の火事は屋台を増やす切っ掛けになったともいわれています。 1657年に江戸の町の三分の二が焼失してしまう大火事があり、これ以降、江戸の屋台店が増加したのです。 大火後の再建による復興景気で職人の給料が
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