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改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
映画『元禄忠臣蔵』の場面。史実において松の廊下では、浅野長矩吉良義央に、水野忠恒毛利師就に、斬り掛かるという刃傷沙汰が起こっている。何れも大名が改易となった大事件であった。

改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰[1]士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある[2][3][4]。また大名の所領を没収、減封転封することを改易と呼ぶこともある。

概論

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江戸時代中期の国学者谷川士清が表した『和訓栞』によれば、改易とは戸籍を取り上げることを意味していて(古代中国の律法より生まれた)賊盗律移郷から発展したものであるとされ、平安時代の『続日本後紀』では改易は別の意味で使われており、後年出来た言葉だという[5]

改易は「職を(か)える」の意であり、もとは律令制度において現職者の任を解いて新任者を補任するという職務の交代・改補(かいふ)を意味していた[3][6]。職務の交代は概ね不利益を伴うため、中世以降はこの言葉に懲罰的な意味合いが含まれるようになって「所領や所職(しょしき)を没収する」という一種の刑罰をさしたが[7]、原義の職務の交代(変更)の意味も残っていたので、鎌倉時代から室町時代においては守護地頭職の変更と所領の没収の両方が改易といわれた[注釈 1]。財産を没収する闕所は、改易と似た刑罰だが、鎌倉幕府から室町幕府の初期には御家人に対する刑罰だったが、江戸時代(近世)では士分以外のものに対する刑罰のことをさした[8][9]

近代以降は大名の領地没収や処罰的な転封を改易と呼ぶことが多いが、同時代史料において大名に対して改易の語が用いられることは極めて稀であり、「領地召上」などの語が使用された[1][10]。近世初期には大名を中心に「改易」の語が用いられ、中期以降は旗本御家人が中心となって使用される傾向にある[10]藤田恒春は本来の改易は減転封等とは異なる概念であり、峻別する必要があるのではないかとしている[10]

幕臣の改易

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江戸時代の法制において「改易」の語が初めて用いられるのは元和8年(1622年)2月15日の「付番士当直勤務令」である[11]。『諸例類纂』においては「改易」は「改易者住居御構等ハ無之、御暇被下、平民二相成迄、此名目者當主井嫡子二限り候事」とあり、士分の所領・家禄・屋敷の没収の意味とされた[12]。士籍の剥奪は長期だが、一定期間で許されることも多かった[12]。これに対して遠島や流刑となった場合には許されることは稀であった[12]。『諸例類纂』においては改易の対象は当主と嫡子に限定適用されるとされているが[5]、実際には庶子に対しても改易が行われることは多かった[13]。改易は蟄居より重く、追放刑遠島切腹より軽い[14][15]

断家譜』にある75件の改易事例のうち、最も多いのは不行跡であり、続いて連座や偽証などがある[16]。また75件の事例のうち、10件についてはその後赦免されている[17]浪江健雄は武士として品性・廉恥に欠けたものや怠惰なものについて改易刑が適用される傾向にあるとしている[17]

一 改易は、住所御構等は無構 御暇被下 平民に相成まで、此名目は当主竝に嫡子に限り候事 — 『大百科事典 第2巻 (ウツーカク)』[5]

また『御定書百箇条』には運用について書かれており、その末尾に以下のようにある。

百三 御仕置仕形之事
   ……中略……

(従前々之例

一 改易   大小渡、宿え相帰し、夫より為立退申候   但家屋敷取上、家財無 — 『江戸の刑法 : 御定書百箇条』[18]

「大小渡」は、武士たる身分を剥奪するの意味で、大小の刀を取り上げて抵抗できないようにした上で、上使は被改易者と一緒に帰宅して、当人の口から家族に立ち退きを伝えさせて家屋敷を没収するが、(家族が)家財を持ち出すことは構わないとされていた。法文は簡素であるが、施行によって生ずる結果はすこぶる重大だった[5]。堪忍料を与えられることが多い大名とは違い、一般の武士は、生活の糧を失い、住宅まで失うので、親族のもとに身を寄せるしかなく、突然貧窮した苦しい生活を強いられることになった。

大名の改易

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『東海道五十三次之内船橋掛渡行列之図』(豊原国周

大名の所領を全て収公することを除封ともいい、所領(知行)の一部を削減することは減封または減知という。元の所領は没収するが別の小さな所領を与えて移動(転封)を命じる場合もある。改易された大名は、まずという刑罰で親族宅に謹慎か配流(流罪)[注釈 2]が命じられることが多く、その後に吟味されて、罪の内容によって、斬首、切腹、蟄居、閉門逼塞差控など、他の刑罰が追加で下され、最終的な処分が決定した。

幕府の公式文書で「改易」の語が用いられることはほとんどなく、『廃絶録』には除封された大名のうち「改易」とされた大名は15家にとどまる[19]。このうち11家は慶長から寛永年間にかけての大名であり、中期以降は植村恒朝本多忠央金森頼錦小堀政方の4家である[19]福島正則の川中島への減転封は公式文書を含む同時代史料には「改易」の語はないが、後世の家譜類には「改易」という言葉が用いられる[20]。藤田恒春は大名の「改易」は大名自身の領地が没収され、嫡子が改易となることが本来の大名改易であるとしている[10]

大名改易の歴史

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関ヶ原の役戦後処理によって(藤野保の『幕藩体制下の研究』によれば)徳川氏によって87[注釈 3]大名家が改易された。その石高の合計は440万石余で、このほか大規模に減封された大名3名の石高が207万石余もあったため、没収された総石高は622万石余に及んだ[21]石田三成小西行長宇喜多秀家長宗我部盛親を始めとして、いわゆる西軍に属して、徳川氏に対する軍事的敵対行動によって処分されたものである[21]。さらに三成、行長らは斬首、増田長盛は切腹、秀家は遠流、盛親は蟄居と、各々刑罰が加算された。

大坂の役豊臣家が滅ぼされて以後、公儀に対する戦争が無くなると、敗者に対する処分としての改易とは別に、江戸幕府大名統制の基本政策として行った改易が現れ、徳川家康秀忠家光の初期3代の将軍によって強行された[14]。関ヶ原の処分の後から慶安4年(1651年)※までの改易は、約130家で、総石高は1,200万石もの多きに及んだ[21]。この時期には、松平忠輝松平忠直徳川忠長といった大身の一門・親藩に対する改易が目立つのであるが、数としては福島氏加藤氏のような外様大名の改易が多かった[21]。関ヶ原後の移転によりほとんどの外様大名は遠隔地に転封されていたが、幕府はこれらをさらに改易や減封に追いやって、没収で生じた空白地を天領(幕府直轄領)にしたり親藩・譜代大名を新たに配置したりして、将軍権力の絶対優位を確立しようとしたからである[14][7]

改易の理由としては、世嗣断絶(無嗣断絶)と幕法違反によるものが多かった[14]。幕府が、初め末期養子[注釈 4]を禁じて許さなかったことと、外様大名に厳しく目を光らせていたからである[注釈 5]武家諸法度制定(1615、1635年)前後の幕法違反については、福島正則[注釈 6]里見忠義が城の無断修築を咎められて改易された件がよく知られる。3代将軍家光の時代には、旧豊臣系の加藤氏・堀尾氏蒲生氏京極氏をはじめとする外様大名26家と一門・譜代大名17家が改易された[25]。初期3代の恐怖の処置により、幕府直轄領は拡大して譜代大名の適正な配置が現出したので、譜代大名は絶えず移封の下命を心配しなければならなかったものの、外様大名は骨抜きにされ、幕府に絶対服従の態度をとるようになったのである[26]

しかし4代将軍家綱の時代に入り、幕府の政治方針に大きな変化が現れた。すなわち、前3代の強圧的な大名整理がすでに十分に奏功して幕府に敵対しようとする大名勢力は一掃されたので、これ以上諸大名を圧迫する恐怖政策は、平和維持を目的とする文治政治の展開には却って弊害があると考えるに至ったのである[27]。改易によるの取潰しは必然的に多くの浪人を発生させるが、 慶安4年の由比正雪による慶安の変(由比正雪の乱)と翌年の別木庄左衛門(戸次庄左衛門)の承応の変は、生活に追い詰められた浪人が幕府の治安政策の上で大きな障害となり得ることを明らかにした。すでに骨抜きにされ、幕府に対する敵対意識をほとんど失っている大名の戦国的な行動を心配するよりも、むしろ彼らを改易して浪人を作り出す方がより重大な危険を孕んでいたのである。幕府としては治安問題の関心が大名対策から浪人対策へと移っていたので、もはやこれ以上大名への圧迫を続けることは全く得策ではなかった[27]。幕府はこれまでの大名敵視政策を改め、その先達として末期養子の禁令を緩めて、50歳以下の者に限り末期養子を取ることを認め、後年には17歳以上の者とさらに緩和した[22]。元禄5年(1692年)、郡上藩藩主の遠藤常久が死去して、本来であれば無嗣断絶で改易となるところであったが、家綱の側室瑞春院)の親族(後の遠藤胤親)が家督を継ぐことで改易を免れた例がある[28]

5代将軍綱吉の時代になると改易は再び増加したが[21]、対象は一門や譜代大名に移っており、一門・親藩の政治干渉を防ぎ、政治安定の実現に主眼があって[29]、綱吉の時代に改易された45件のうち28件が一門・譜代の大名であった[21]。6代将軍家宣以降になると改易は極端に減少し、8代将軍吉宗時代においては「最早改易策による大名取潰しはおこなわれない段階に」達して[21]、無嗣断絶でも末期養子と減知に留める寛大な処置が取られることが多くなった。また、初期の大久保忠隣本多正純、中期以後の松平乗邑田沼意次林忠英水野忠邦のように、幕府内部の権力闘争に敗れたかそれに連座して、改易された幕臣の大名や旗本も多くいたが、後期の改易は藩での失政や幕府政治の権力争いに関係するものばかりだった。

一方で、幕府が大名を敵視しなくなっても、大名本人が問題となって改易となることがあった。全体を通じて、大名の不行跡や刃傷沙汰、乱心(発狂)といった、広い意味での公序良俗・秩序違反の咎で改易とされた事例が思いのほか多く、赤穂事件浅野長矩などのように大名同士が事件を起こした張本人であるという事例も少なくなかった。喧嘩両成敗は幕府の法ではなかったにもかかわらず、吉良義央のような幾つかの例外を除いて、刃傷沙汰では被害者も加害者と同様に改易の対象として罰せられた。御家騒動などで家中が揉めて幕府に裁定を委ねる事例があるが、どちらか一方の意見が汲み取られることはむしろ稀で、両派に罰が下されることが通常であり、減知は免れずに家中不行届を理由に改易となることもあった。藩主の失政や苛政により一揆や騒動が起きたという事例が多数あり、大名本人がその地位に就く適性を欠く場合には、不適格者の処分としての改易はむしろやむを得ない処置であったと言える。

改易の処分を受けた後、大名はそれぞれ蟄居や配流といった個別の刑罰に服した。失政や刃傷沙汰を起こした者は切腹となることが多く、島原の乱の原因を作った松倉勝家は切腹ではなく打首となった。ただし処罰後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することは少なくなかった。御家大事の論理を幕府は秩序の維持に有益と考えて重視したからである。譜代・親藩の中には、改易・蟄居処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例がある。外様大名でも、改易された有馬晴信の子直純は、例外的にそのまま跡を継ぐことが許された。

改易の申渡しの配慮

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赤穂城明渡し』日本歴史画武士道亀鑑(土谷伝)

改易は領主から家臣居城、所領を奪い、領国を解体して大名支配を無力化することを意味したので、一つ間違えば反乱の原因とも成り得た。そのため、幕府の側も周到な準備をして、城明渡しの前には諸事に対して万全の配慮を払った。

元和5年(1619年)の安芸備後50万石の外様大名福島正則の改易[注釈 6]では、将軍秀忠が上洛して正則の嫡男福島忠勝を京都建仁寺に呼び寄せ、正則は江戸に留め置かれた状態で、改易を言い渡すが、幕府は正則に対して牧野忠成花房正成を上使として派遣し、安芸・備後国の所領を召し上げて替地として津軽国に4.5万石を与える旨を伝えた際、同時に在江戸の諸大名に命じて兵を集めて正則の屋敷を取り囲ませるほどの警戒を見せた[30]。正則は粛々と命令を受け入れるほかになかった。

元和8年(1622年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、正純が最上義俊の改易(最上騒動)を伝える上使として山形城に派遣された折りに言い渡された。上使として伊丹康勝高木正次が追って派遣され、11か条の不審を詰問し、正純は次々と申し開きをしたが、3か条については答えられずに改易されたという[注釈 7]。ちなみに正純は出羽(佐竹氏預け)に配流となるが、宇都宮を没収する替地として5.5万石を提示されるが「罪があって御処分ならば受けられぬ」として断る気骨を見せている[32]

寛永9年(1632年)5月の肥後52万石の外様大名加藤忠広[注釈 8]の改易では、忠広は突然老中より「不審の儀がある」として江戸に召喚され、22日に品川宿に着くと江戸に入ることを許さずに池上本門寺で待機するように命じられた[34]。25日に酒井忠勝を徳川御三家に遣わして密議を行い、26日に紀伊和歌山藩徳川頼宣(夫人が忠広の姉)を江戸に登城させて家光と協議すると、28日に御三家で再び密議をして、29日に再度、頼宣が登城を命じられて忠広の処遇について内達があった。こうして幕府は慎重を期して、徳川頼宣の了解をとりつけた上で、6月1日の拝賀の嘉慶にきた諸大名を前に、老中の口から加藤氏の改易を発表した[34]。諸大名は大変に驚きおののいたが、3日、幕府は肥後国はもちろん全国の各大名の国元に宛に奉書を出して、処分を知らしめた[35]

この3例は、居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作った上で処分を言い渡しており、これは改易を契機とする抗戦を予防するためで、幕府が反乱の芽を摘みとるために細心の注意を払って改易を行っていたことがわかる[36]

改易では、申渡しの次の段階である国元での城の明渡しについても、細心の注意が払われた。明渡しを告げる「上使」となる幕臣が派遣されるほか、責任者となる「城請取」役の大名が選任され、受け取った後の城を警備する「在番」役の周辺の大名を指名し、万事を監督して将軍に報告する「御目付」となる幕臣も併せて派遣された。没収される藩の石高や城の規模によって、城請取や在番の大名の人数は大幅に増え、それに伴って家臣や動員される人員も大掛かりなものになった。しかし、豊臣家が滅ぼされて以後、武力で抵抗をした大名は皆無で、誰一人として幕府に公然たる反抗をせずに、大人しく取潰されることを受け入れ、無抵抗で城と領地を幕府へ明渡した。福島氏や加藤氏は豊臣以来の大名として強力な存在だったにもかかわらず、他に応援を求めて徳川氏に抗戦するなどという姿勢は微塵も見せなかった。大名は尽く各個撃破されてしまっていたのである[37]

改易された大名の家臣への扱いは不明なことが多いが、天明7年(1787年)に改易された小堀政方の家臣(近江小室藩)のうち、身寄りがないものに対しては3年間に渡って扶持が行われた[19]

幕末の改易

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幕末には安政の大獄後の彦根藩第一次長州征伐後には長州藩に対して大幅な減封が行われた。

戊辰戦争によって幕府が崩壊すると、明治新政府奥羽越列藩同盟に参加した諸侯等に対して処分を行った。仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など21家は減封とされ、請西藩林家と会津藩松平家は城地を没収された。このうち会津藩主会津松平家については容保の子慶三郎(松平容大)にあらためて3万石が下賜された[38]。このため、戊辰戦争に関わる新政府処分によって諸侯の身分を失ったのは請西藩林家ただ一家である。これらの諸侯は新たに華族の身分が与えられた。

明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還により諸侯は領主としての地位を失い、行政官としての知藩事となった。ただし知藩事が死亡または隠居した際には血縁者が後継となり、実質的には世襲されていた。明治4年(1871年)7月2日、太政官札贋造事件福岡藩知事黒田長知は免職され、後任の福岡藩知事に有栖川宮熾仁親王が就任した。その直後の7月14日には廃藩置県を迎え、知藩事は中央から任命される知事に代えられた。ただし、黒田家はこの処分によって華族の身分を喪失したわけではなく、罷免後も旧知藩事に対する家禄をそのまま受け取っていた。

関ヶ原の戦いで改易・減封された大名家

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順番、石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による[39]。ここでは自刃は任意の自決を、切腹は処罰として定められたものをさして記した。斬首(その後に梟首ともなる)が一番重い刑罰である。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。

大名 通称 年月 禄高 没収/減封された領地 陣営 処罰・その後
織田秀信 岐阜中納言 1600.8 13.5万石 美濃岐阜 西軍 配流(高野山蟄居)
宇喜多秀家 備前中納言 1600.9- 57.4万石 備前岡山 西軍 配流(八丈島遠流)
織田秀雄 大野宰相 1600.9- 5.0万石 越前大野 西軍 除封、隠居
丹羽長重 加賀守 1600.9- 12.5万石 加賀小松 西軍 除封、後に再封(常陸古渡藩
木下勝俊 少将 1600.9- 6.2万石 若狭小浜 逃亡 除封、後に再封(足守藩
立花宗茂 左近将監 1600.10 13.2万石 筑後柳河 西軍 浪人、後に再封(棚倉藩
小早川秀包 筑後守 1600.10 13万石 筑後久留米 西軍 除封、毛利本家に帰参(吉敷毛利家
前田利政 能登守 1600.11 21.5万石 能登七尾→宗家へ編入 西軍 除封、隠居
長宗我部盛親 宮内少輔 1600.11 22.2万石 土佐浦戸 西軍 浪人、後に大坂の陣で斬首
小西行長 摂津守 1600.9- 20万石 肥後宇土 西軍 斬首
増田長盛 右衛門尉 1600.9- 20万石 大和郡山 西軍 配流(高野山蟄居)[注釈 9]
石田三成 治部少輔 1600.9- 19.4万石 近江佐和山 西軍 斬首
青木一矩 紀伊守 1600.10 20[40]/8万石 越前北庄 西軍 除封、前田利長に降伏[41][注釈 10]
小川祐忠 土佐守 1600.9- 7万石 伊予今治 寝返 浪人、病死。子が再封とも。
太田一吉 飛騨守 1600.10 6.5万石 豊後臼杵 西軍 浪人
瑤甫恵瓊 安国寺 1600.9- 6.0万石 伊予国内 西軍 斬首
毛利勝信 壱岐守 1600.9- 6.0万石 豊前小倉 西軍 配流(山内家預け)
山口正弘 玄蕃允 1600.8 6.0万石 加賀大聖寺 西軍 自刃(落城)
長束正家 大蔵大輔 1600.9- 5.0万石 近江水口 西軍 切腹(捕縛)
大谷吉継 刑部少輔 1600.9 5.0万石 越前敦賀 西軍 自刃(戦場にて)
丹羽長正 備中守 1600.9- 5.0万石 越前東郷 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
青山宗勝 修理亮 1600.9- 4.6万石 越前丸岡 西軍 浪人
田丸直昌 中務大輔 1600.9- 4.5万石 美濃岩村 西軍 配流(堀氏預け)、後に赦免
南条元忠 中務大輔 1600.9- 6.0[43]/4万石 伯耆羽衣石 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
真田昌幸 安房守 1600.12 3.8万石 信濃上田沼田真田家へ編入 西軍 配流(高野山蟄居)
小野木公郷 縫殿助 1600.10 4.0[44]/3.1万石 丹波福知山 西軍 切腹
伊藤盛正 彦兵衛 1600.9- 3.0万石 美濃大垣 西軍 浪人、後に前田家へ仕官
小野寺義道 遠江守 1600.9- 3.0万石 出羽横手 西軍 配流(津和野・坂崎氏預け)
原勝胤 隠岐守 1600.9- 3.0万石 美濃太田山 西軍 自刃(後に梟首)
新庄直頼 駿河守 1600.9- 3.0万石 摂津高槻 西軍 配流(蒲生家預け、後に再封・麻生藩
石田正継 隠岐守 1600.9- 3.0万石 近江国内 西軍 自刃(落城)
島津豊久 中務大輔 1600.9 2.86万石 日向佐土原→宗家へ編入 西軍 戦死
堀内氏善 安房守 1600.9- 2.7万石 紀伊新宮 西軍 除封・蟄居、後に肥後加藤家に仕官
木下頼継 山城守 1600.9 2.5万石 越前国内 西軍 浪人、病死
斎村政広 左兵衛佐 1600.10 2.2万石 但馬竹田 西軍 切腹
氏家行広 内膳正 1600.9- 2.2万石 伊勢桑名 西軍 浪人
岡本良勝 下野守 1600.9- 2.2万石 伊勢亀山 西軍 切腹
木下利房 宮内少輔 1600.9- 3.0[45]/2万石 若狭高浜 西軍 除封、後に再封
木下一元 美作守 1600.9- 2.0万石 不明 西軍 除封
木下延重 周防守 1600.9- 2.0万石 播磨国内 西軍 除封
荒木重堅 備中守 1600.9- 2.0万石 因幡若桜 西軍 切腹
滝川雄利 下総守 1600.10 2.0万石 伊勢神戸 西軍 除封、後に再封(片野藩
垣見家純 和泉守 1600.9 2.0万石 豊後富来 西軍 戦死(謀殺)
福原長堯 右馬助 1599.12 2.0万石 豊後杵築(※前年に除封) 西軍 切腹
多賀秀種 出雲守 1600.9- 2.0万石 大和宇多 西軍 浪人、堀家に居候
丸毛兼利 三郎兵衛 1600.8 2.0万石 美濃福束 西軍 浪人、逃亡後に前田家へ仕官
赤座直保 備後守 1600.9- 2.0万石 越前今庄 寝返 浪人、前田家へ仕官
杉若氏宗 主殿頭 1600.9- 1.9万石 紀伊田辺 西軍 除封
筑紫広門 上野介 1600.10 1.8万石 筑後山下 西軍 浪人、加藤家に居候
高橋直次 主膳正 1600.10 1.8万石 筑後内山 西軍 浪人、後に旗本に仕官
横浜茂勝 民部少輔 1600.9- 1.7万石 播磨国内 西軍 除封
寺田光吉 播磨守 1600.9- 1.5万石 大和国内 西軍 除封
氏家行継 志摩守 1600.9- 1.5万石 近江国内 西軍 除封、細川家に仕官
熊谷直陳 内蔵允 1600.9 1.5万石 豊後安岐 西軍 戦死(謀殺)
石田正澄 木工頭 1600.9- 1.5万石 近江国内 西軍 自刃(落城)
宇多頼忠 下野守 1600.9- 1.3万石 大和国内 西軍 自刃(落城)
平塚為広 因幡守 1600.9 1.2万石 美濃垂井 西軍 戦死
石川貞清 備前守 1600.9- 1.2万石 尾張犬山 西軍 浪人、剃髪・茶人に
石川頼明 掃部頭 1600.9- 1.2万石 播磨国内 西軍 切腹(ただし梟首)
石川貞通 備後守 1600.9- 1.2万石 山城国内 西軍 配流(南部家預け)
糟屋武則 内膳正 1600.9- 1.2万石 播磨加古川 西軍 浪人、後に旗本へ仕官
池田秀氏 伊予守 1600.9- 2.0万石 伊予大洲 西軍 配流(藤堂家預け、後に仕官)
奥山正之 雅楽助 1600.10 1.1万石 越前国内 西軍 浪人、剃髪
戸田勝成 武蔵守 1600.9 2.0[46]/1万石 越前安居 西軍 戦死
垣屋恒総 隠岐守 1600.9- 1.0万石 因幡浦住 西軍 自刃(逃亡後)
松浦秀任 伊予守 1600.9 1.0万石 伊勢井生 西軍 戦死
赤松則英 上総介 1600.9- 1.0万石 阿波住吉 西軍 自刃(逃亡後)
寺西直次 備中守 1600.9- 1.0万石 近江・越前国内 西軍 浪人、前田家へ仕官
上田重安 主水正 1600.9- 1.0万石 越前国内 西軍 浪人、後に浅野家へ仕官
早川長政 主馬首 1600.9- 2.0万石[47]/1万石 豊後府内 西軍 浪人、後に大坂の陣に参加
岸田忠氏 伯耆守 1600.9- 1.0万石 大和岸田 西軍 配流(南部家預け)
木村由信 宗左衛門 1600.9- 1.0万石 美濃北方 西軍 戦死(謀殺)
高木盛兼 十郎左衛門 1600.8 1.0万石 美濃高須 西軍 浪人、堀尾家へ仕官
山崎定勝 右京進 1600.9- 1.0万石 伊勢竹原 西軍 除封、後に豊臣家へ仕官
河尻秀長 肥前守 1600.9- 1.0万石 美濃苗木 西軍 戦死
中江直澄 式部少輔 1600.9- 1.0万石 不明 西軍 配流(伊達家預け)
寺西是成 下野守 1600.9- 1.0万石 伊勢国内 西軍 浪人、剃髪
堅田元慶 兵部少輔 1600.9 1.0万石 安芸等の内 西軍 除封、毛利本家に帰参
高田治忠 豊後守 1600.9- 1.0万石 丹波国内 西軍 除封
三好房一 丹後守 1600.9 1.0万石 河内国内 東軍 除封(理由不明)、後に旗本として任官
木村秀望 弥市右衛門 1600.9- 1.4万石[48]/1万石 豊後国内 西軍 浪人
毛利輝元 中納言 1600.10 108.5[49]/100万石 安芸広島→36.9万石 西軍 減封・隠居、嫡男秀就長州藩[注釈 11]
毛利秀元 甲斐守 1600.10 20万石[注釈 12] 周防山口→長府5万石[注釈 13] 西軍 減封、長府藩
吉川広家 蔵人頭 1600.10 14.2万石[50] 出雲富田→岩国2.7万石 内応 減封、岩国領[注釈 14]
上杉景勝 中納言 1601.8 120万石 陸奥会津→米沢30万石 西軍 減封、米沢藩
日根野吉明 丹後守 1602 2.8万石 信濃高島→下野壬生1.5万石 東軍 減封(幼少のため)壬生藩
多賀谷重経 修理大夫 1601.2 6.0万石 常陸下妻 中立 浪人
山川朝信 民部少輔 1601 2.0万石 下野山川 東軍 除封(東軍内通のため)[注釈 15]
佐竹義宣 右京大夫 1602.5.8 54.57万石 常陸水戸出羽等21.58万石 中立 減封、久保田藩[注釈 16]
岩城貞隆 忠次郎 1601 12万石 陸奥磐城平 中立 除封、後に再封(信濃中村藩
秋田実季 藤太郎 1602 19万石 出羽秋田→常陸宍戸5万石 東軍 減封(讒言により)、常陸宍戸藩
佐藤方政 才次郎 1600.8 2.0万石[51] 美濃上有知 西軍 浪人、大坂の陣で戦死
山口修弘 右京亮 1600.8 1.3万石[52] 加賀国内 西軍 自刃(落城)
青木俊矩 右衛門佐 1600.10 2.0万石[40] 越前国金剛院 西軍 除封
宮部長煕 兵部少輔 1600.10 13.1万石[53] 因幡鳥取 西軍 配流(南部家預け)
溝江長晴 彦三郎 1600.9- 1.1(1.07)万石[54] 越前金津 西軍 浪人、井伊家へ仕官
池田長政 河内守 1600.9- 1.0万石[55] 不明 西軍 除封
服部正栄 土佐守 1600.9- 1.0万石[56] 近江国内 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
蒔田広定 左衛門権佐 1600.9- 1.0万石[57] 伊勢雲出→備中1万石 西軍 配流、後に安堵・再封(浅尾藩
矢部定政 豊後守 1600.9- 1.0万石[58] 不明 西軍 除封
宮城豊盛 丹波守 1600.9- 1.0万石[59] 摂津・豊後国内→5,000石 西軍 減封(通報の功で改易を免れ、旗本に)
相馬義胤 長門守 1600 6.0万石[60] 陸奥中村 中立 除封(※後に安堵相馬中村藩
日根野弘就 治部法印 1600.10 1.6万石[61] 三河国内 中立 除封[61]

江戸時代以降の改易

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江戸時代に改易・減封された大名

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順番は年代順。石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による[62]。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。

大名 領地 禄高 年代 改易理由 対処・その後
木曾義利 下総阿知戸藩 1.0万石 1600 事件:上松義豊の殺害 関ヶ原の戦い以前だが、家康によって改易されている
小早川秀秋 備前岡山藩 51万石 1602 無嗣断絶 死去
武田信吉 常陸水戸藩 15万石 1603 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川頼将が相続
大島光義 美濃関藩 1.8万石 1604 所領分知 遺領を分知したため大名格を失い旗本に
堀鶴千代 越後蔵王堂藩 3.0万石 1606 無嗣断絶 遺領は後見人堀直寄に還付
西尾吉次 武蔵原市藩 1.2万石 1606 無嗣断絶 酒井重忠の子・西尾忠永を婿養子として相続
松平忠吉 尾張清洲藩 52万石 1607 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川義利が相続。後に藩庁を名古屋に移転(尾張藩
天野康景 駿河興国寺藩 1.0万石 1607 出奔:殺人犯引渡し拒否 天野康宗が旗本として存続
稲葉通孝 豊後臼杵藩内分 1.4万石 1607 無嗣断絶 内分遺領は兄稲葉典通に還付。稲葉通照が旗本として存続
津田信成 山城御牧藩 1.3万石 1607 乱暴狼藉 除封
稲葉通重 美濃清水藩 1.2万石 1607 乱暴狼藉 配流(常陸筑波)
龍造寺高房 肥前佐賀藩 35.7万石 1607 無嗣断絶 遺領と龍造寺氏の家督は鍋島勝茂が相続
筒井定次 伊賀上野藩 20万石[63] 1608 訴訟:家老の直訴[注釈 17] 配流(鳥居忠政/藤堂高虎預け)後に豊臣方の疑いで切腹
前田茂勝 丹波八上藩 5.0万石 1608 乱心:家臣多数を殺害 配流(堀尾忠晴預け)弟前田正勝が旗本として存続
中村一忠 伯耆米子藩 17.5万石 1609 無嗣断絶 除封
木下勝俊/木下利房 備中足守藩 2.5万石 1609 御家騒動[注釈 18] 浪人、勝俊は京都東山に隠棲、利房は功あって足守藩主に復帰
松平忠頼 遠江浜松藩 5.0万石 1609 事件:殺人被害[注釈 19] 死去、松平忠重は旗本を経て1622年に佐貫藩主等に復帰
水野忠胤 三河水野藩 1.0万石 1609 引責:松平忠頼殺害事件 切腹
皆川広照 信濃飯山藩 4.0万石 1609 失脚:松平忠輝乱行非難 蟄居、後に赦免され常陸府中藩1万石に再封
小笠原吉次 常陸笠間藩 3.0万石 1609 連座:私曲[注釈 20] 配流、武蔵に隠棲
桑山清晴 和泉谷川藩 1.0万石 1609 将軍の勘気 蟄居、旧領は父桑山元晴の養老料だったため、父に還付
堀忠俊 越後高田藩 30万石 1610 御家騒動:堀直清堀直寄 配流(鳥居忠政預け)
小川光氏 豊後日田藩 2.0万石 1610 無嗣断絶 死去(※従来は幕領代官と見られていた[64]
浅野長重 下野真岡藩 2.0万石 1611 他藩相続のため 真壁藩5万石を相続
金森長光 美濃上有知藩 2.0万石 1611 無嗣断絶 死去、家老3人は旗本へ
平岩親吉 尾張犬山藩 12.3万石 1611 無嗣断絶 死去、養嗣子早世
有馬晴信 肥前日野江藩 4.0万石 1612 事件:岡本大八事件 切腹[注釈 21]、家康の恩赦で子有馬直純が相続
松平忠清 三河吉田藩 3.0万石 1612 無嗣断絶 急死、弟松平清昌は旗本として存続
山口重政 常陸牛久藩 1.5万石 1613 公命違反[注釈 22] 配流(武蔵国)蟄居、1628年に牛久藩再興
大久保忠佐 駿河沼津藩 2.0万石 1613 無嗣断絶 死去
里見忠重 上野板鼻藩 1.0万石 1613 勤務怠慢 浪人、子孫は越後高田藩に仕える[注釈 23]
石川康長 信濃松本藩 8万石 1613 連座:大久保長安事件 配流(毛利高政預け)
高橋元種 日向延岡藩 5.0万石 1613 連座:富田信高改易 配流(立花宗茂預け)
石川康勝 信濃奥仁科藩 1.5万石 1613 連座:石川康長改易 浪人、大坂夏の陣で戦死
富田信高 伊予宇和島藩 12万石 1613 訴訟[注釈 24] 配流(鳥居忠政預け)、次男は後に旗本
浅野長晟 備中足守藩 2.5万石 1613 他藩相続のため 幸長の死により紀州藩を相続
大久保忠隣 相模小田原藩 5.5万石 1614 公命違反[注釈 25] 配流(井伊直孝預け)
佐野信吉 下野佐野藩 3.9万石 1614 連座:富田信高改易 配流(小笠原秀政預け)久綱公當は旗本として存続
里見忠義 安房館山藩 12万石 1614 公命違反[注釈 26] 転封、伯耆国倉吉藩3万石に移転
井伊直孝 上野白井藩 1.0万石 1615 他藩相続のため 幕命で兄直勝安中藩に移して彦根藩を相続
奥平信昌 美濃加納藩 5.0万石分 1615 所領収公:隠居料返納 死去により加納藩10万石中5万石の隠居料を返納
豊臣秀頼 摂津大坂藩 65.74万石 1615 豊臣家滅亡・大坂の陣 自刃
古田重然 不明 1.0万石 1615 豊臣方加担が発覚 切腹
池田忠雄 淡路洲本藩 6.3万石 1615 他藩相続のため 忠継が急死したため、備前岡山藩を相続
織田信重 伊勢林藩 1.0万石 1615 御家騒動[注釈 27] 除封
福島高晴 大和宇陀松山藩 3.0万石 1615 豊臣方密通を家臣が密告 浪人、伊勢山田に蟄居
大須賀忠次 遠江横須賀藩 6.0万石 1615 他藩相続のため 叔父榊原康勝の死去により館林藩11万石を相続
松平忠輝 越後高田藩 45万石 1616 将軍の勘気[注釈 28] 配流九鬼守隆金森重頼諏訪頼水預け)
藤田信吉 下野西方藩 1.5万石 1616 無嗣断絶 死の経緯は諸説あり[注釈 29]
大久保忠為 美濃大垣新田藩 1.0万石 1616 不明[注釈 30] 死去
坂崎直盛 石見津和野藩 4.0万石 1617 事件:千姫事件 自害(家臣に殺されたとも)
池田利隆 播磨姫路藩 39万石 1617 所領収公:嫡男光政幼少 鳥取藩22万石へ移封
本多正重 下総舟戸藩 1.0万石 1617 所領収公 死去、2,000石を収公されて大名格を失う
松平定行 遠江掛川藩 3.0万石 1617 所領収公:本家の加増 松平定勝が桑名藩に移ったため掛川を返納
伊奈忠政 武蔵小室藩 1.3万石 1618 所領収公:嫡男熊蔵幼少 熊蔵は小室2,800石に減封、大名格を失う
村上忠勝 越後村上藩 9万石 1618 御家騒動[注釈 31] 配流(松平康重預け)
近藤政成 信濃近藤藩 1.0万石 1618 所領収公:嫡男重直幼少 重直は5,000石に減封、残りは伯父堀親良に付与
関一政 伯耆黒坂藩 5.0万石 1618 御家騒動 養子関氏盛は旗本として存続
福島正則 安芸広島藩 49.82万石 1619 幕法違反:城の無断修理 高井野藩4.5万石へ減封
土岐定義 摂津高槻藩 2.0万石 1619 所領収公:嫡男頼行幼少 死去、頼行は守谷藩1万石へ減封
伊奈忠勝 武蔵小室藩 1.3万石 1619 無嗣断絶 早世、弟伊奈忠隆は旗本として存続
市橋長勝 越後三条藩 4.13万石 1620 所領収公:養嗣子長政幼少 死去、甥長政は仁正寺藩2万石へ減封
田中忠政 筑後柳河藩 32.5万石 1620 無嗣断絶 死去、田中吉興が近江・三河・上野で併せて2万石で再封
由良貞繁 常陸牛久藩 1.0万石 1621 無嗣断絶 死去、由良忠繁は1,000石与えられ旗本として存続
最上義俊 出羽山形藩 57万石 1622 御家騒動:最上騒動 若年により恩赦、大森藩1万石へ減封
織田長益 大和国内 1.0万石 1622 所領収公:隠居料返納 死去
本多正純 下野宇都宮藩 15.5万石 1622 将軍の勘気:釣天井事件 配流(佐竹義宣預け)本多正之は旗本として存続
本多正勝 下野小山藩 1.0万石 1622 連座:本多正純改易 配流(佐竹義宣預け)後に食録1,000石を付与される
成田泰之 下野烏山藩 2.0万石 1622 無嗣断絶 成田房長に跡を継がせることを希望したが許されず
松平忠直 越前福井藩 67万石 1623 将軍の勘気:不行跡 配流(竹中重義預け)忠昌が相続、子光長高田藩[注釈 32]
西尾嘉教 美濃揖斐藩 2.5万石 1623 無嗣断絶 死去、弟西尾氏教は旗本して存続
田中吉官 近江三河内 2.0万石 1623 連座:組中の罪[注釈 33] 浪人、後に恩赦されて2,000石で旗本に
青山忠俊 上総大多喜藩 4.5万石 1623 将軍の勘気[注釈 34] 蟄居、後に食禄1,000石を賜る。子宗俊は1648年に再封
内藤清政 安房勝山藩 3.0万石 1623 無嗣断絶 死去、1626年に甥内藤正勝が2万石で再封
本多紀貞 上野白井藩 1.0万石 1624 無嗣断絶 死去
福島正則 信濃高井野藩 4.5万石 1624 幕法違反:無断火葬 死去、正利[注釈 35]3千石・孫正勝2千石で旗本として存続
高台院 河内国内 1.6万石 1624 所領収公 死去、木下利次に3,000石を付与
仁賀保挙誠 出羽仁賀保藩 1.0万石 1625 所領分知 死去、長男7千石・次男2千石・三男千石に分知し、大名格失う
滝川正利 常陸片野藩 2.0万石 1625 所領収公:病弱無嗣 自主的に所領返上、養嗣子滝川利貞は旗本に
根津信直 上野豊岡藩 1.0万石 1626 無嗣断絶 死去
本多忠刻 播磨姫路新田藩 10万石 1626 無嗣断絶 死去、弟本多政朝が継ぐ
松平重忠 遠江横須賀藩 4.0万石 1626 無嗣断絶 死去、松平重直が婿養子となって3万石で継ぐ
蒲生忠郷 陸奥会津藩 60万石 1627 無嗣断絶 死去、弟蒲生忠知が継いで伊予松山藩20万石に減封
蒲生忠知 出羽上山藩 4.0万石 1627 他藩相続のため 伊予松山藩主になった
松下重綱 陸奥二本松藩 5.0万石 1628 所領収公:嫡男長綱幼少 死去、長綱は三春藩3万石に減封
徳永昌重 美濃高須藩 5.07万石 1628 勤務怠慢:遅延[注釈 36] 配流(酒井忠勝戸沢政盛預け)[注釈 37]
別所吉治 但馬八木藩 1.5万石 1628 勤務怠慢:仮病[注釈 38] 浪人、子別所守治が赦免され旗本
内藤正勝 安房勝山藩 2.0万石 1629 所領収公:嫡男重頼幼少 死去、子重頼は5,000石で旗本として存続
桑山貞晴 大和御所藩 2.63万石 1629 無嗣断絶 死去、弟桑山栄晴は3,000石で旗本として存続
近藤秀用 遠江井伊谷藩 1.07万石 1631 所領分知 死去、貞用5,550石・三男用将5千石に分知し、大名格を失う
酒井直次 出羽左沢藩 1.2万石 1631 無嗣断絶 死去
織田長則 美濃野村藩 1.0万石 1631 無嗣断絶 死去
三浦重勝 下総三浦藩 3.3万石 1631 無嗣断絶 死去
池田政綱 播磨赤穂藩 3.5万石 1631 無嗣断絶 死去、弟池田輝興が継ぐ
脇坂安信 美濃脇坂藩 1.0万石 1632 事件:刃傷被害[注釈 39] 浪人
加藤忠広 肥後熊本藩 52万石 1632 不明[注釈 40] 配流(酒井忠勝預け)出羽丸岡藩1万石に減封
最上義俊 出羽大森藩 1.0万石 1632 無嗣断絶 死去、弟最上義智は5,000石で旗本として存続
徳川忠長 駿河府中藩 55万石 1632 将軍の勘気:不行跡 配流(安藤重長預け)・自ら自害
鳥居忠房 甲斐谷村藩 3.8万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(鳥居忠恒預け)
朝倉宣正 遠江掛川藩 2.5万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(松平清匡預け)
長谷川守知 美濃長谷川藩 1.0万石 1632 所領分知 死去、嫡男正尚に千石・三男守勝3千石に分知。大名格喪失
酒井重澄 下総生実藩 2.5万石 1633 将軍の勘気:不敬 配流(水野勝成預け)後に自害、子重知は旗本として存続
堀尾忠晴 出雲松江藩 24万石 1633 無嗣断絶 死去
竹中重義 豊後府内藩 2.0万石 1634 事件:密貿易[注釈 41] 切腹
蒲生忠知 伊予松山藩 20万石 1634 無嗣断絶 死去
高木正成 安房・上総内 1.0万石 1635 所領収公 死去、3,000石減知
菅沼右京[注釈 42] 美濃加納藩 10万石 1635 無嗣断絶 早世(4歳)
鳥居忠恒 出羽山形藩 24万石 1636 無嗣断絶 死去、弟鳥居忠春高遠藩3万石に入封
京極忠高 出雲松江藩 24.4万石 1637 無嗣断絶 死去、先祖の功績で恩赦、甥京極高和龍野藩6万石に減封
本多政武 大和高取藩 2.5万石 1637 無嗣断絶 死去
松倉勝家 肥前島原藩 6万石 1638 引責:島原の乱 斬首[注釈 43]、養子の弟松倉重利も配流(生駒正俊預け)
寺沢堅高 肥前唐津藩 12.3万石 1638 引責:キリシタン蜂起 減知4万石
片桐孝利 大和竜田藩 4.5万石 1638 無嗣断絶 片桐為元末期養子として1万石に減封
真田熊之助 上野沼田藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(7歳) 本家真田信之に還付
佐久間三五郎 信濃飯山藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(9歳)
成瀬之虎 下総栗原藩 1.5万石 1638 無嗣断絶 早世(5歳)
本多犬千代 下野榎本藩 2.8万石 1640 無嗣断絶 早世(5歳)
池田輝澄 播磨山崎藩 6.5万石 1640 御家騒動:脱藩[注釈 44] 蟄居、池田光仲預けで鳥取藩内鹿野で堪忍料1万石
生駒高俊 讃岐高松藩 17.3万石 1640 御家騒動:生駒騒動 配流・出羽矢島藩1万石[注釈 45]に減封
三枝守昌 安房三枝藩 1.0万石 1640 所領分知 死去、嫡男守全7千石・次男諏訪頼増3千石の分知で大名格を失う
池田長常 備中松山藩 6.5万石 1641 無嗣断絶 死去、弟池田長信は1,000石旗本として存続
堀直定 越後村上藩 10万石 1642 無嗣断絶 早世(7歳)
那須資重 下野那須藩 1.7万石 1643 無嗣断絶 死去、末期養子許されず。父那須資景が旗本として存続
加藤明成 陸奥会津藩 40万石 1643 御家騒動:会津騒動 配流、嫡男加藤明友に堪忍料・石見吉永藩1万石
加藤明利 陸奥二本松藩 3.0万石 1643 乱心 先年死去(1641年)この年に子加藤明勝は3,000石で旗本に
一柳直家 伊予川之江藩 2.86万石 1644 無嗣断絶 婿養子直次を後継とする届け出を怠る。直次は小野藩主に
松下長綱 陸奥三春藩 3.0万石 1644 乱心 配流(山内忠義預け)子松下長光は旗本として存続
松平清道 播磨姫路新田藩 3.0万石 1644 無嗣断絶 早世(11歳)
池田輝興 播磨赤穂藩 3.5万石 1645 乱心:妻女を殺傷 配流(池田光政預け)子池田政種は3,000石で旗本に
杉原重長 但馬豊岡藩 2.74万石 1645 無嗣断絶 前年死去、末期養子を不許可だったが、外孫重玄が1万石で再封
皆川成郷 常陸府中藩 1.9万石 1645 無嗣断絶 死去、弟皆川秀隆は5,000石で旗本に
柳生宗矩 大和柳生藩 1.25万石 1646 所領分知 死去、嫡男三厳8,500石・次男宗冬4,000石に分知して、大名格失う
寺沢堅高 肥前唐津藩 8.3万石 1647 無嗣断絶 酒狂いで自害
松平忠憲 信濃小諸藩 4.5万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟松平康尚那須藩1万石に再封
菅沼定昭 丹波亀山藩 3.8万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟定実7,000石・定賞3,000石で旗本として存続
古田重恒 石見浜田藩 5.5万石 1648 無嗣断絶 横死
真田信重 信濃埴科藩 1.7万石 1648 無嗣断絶 死去、所領は父真田信之に還付
稲葉紀通 丹波福知山藩 4.5万石 1649 苛政:住民殺害 謀反の噂があって前年自殺、この年に詮議(病のためとされた)
織田信勝 丹波柏原藩 3.4万石 1650 無嗣断絶 死去、叔父織田信当は旗本として存続
本多勝行 大和国内 4万石 1650 無嗣断絶 早世(12歳)父政勝に遺領還付[注釈 46]
内藤信広 上総・安房内 1.5万石 1650 連座:キリシタン家臣死刑 前年死去、減知7千石、嫡男信光5,000石、ニ男三男四男に各千石分知
松平定政 三河刈谷藩 2.0万石 1651 事件:幕閣の批判[注釈 47] 永蟄居(兄松平定行預け)子定知らは旗本として存続
平岡頼資 美濃徳野藩 1.0万石 1653 御家騒動:廃嫡[注釈 48] 死去、子平岡頼重が旗本として存続
杉原重玄 但馬豊岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 早世(17歳)大叔父杉原義正は旗本として存続
※加藤忠広 出羽丸岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 死去
宮城豊嗣 但馬清富藩 1.3万石 1653 無嗣断絶 死去
片桐為次 大和竜田藩 1.0万石 1655 無嗣断絶 早世(14歳)弟且昭は3,000石で旗本に[注釈 49]
日根野吉明 豊後府内藩 2.0万石 1656 無嗣断絶 死去、御家騒動があって末期養子の願いを取り下げた
山崎治頼 讃岐丸亀藩 4.5万石 1657 無嗣断絶 早世(7歳)叔父山崎豊治に5千石付与し存続、後に交代寄合[注釈 50]
北条氏重 遠江掛川藩 3.0万石 1658 無嗣断絶 落馬死[注釈 51]。義兄北条繁広は旗本として存続
生駒高俊 出羽矢島藩 1.0万石 1659 所領分知 死去。長男高清8千石・次男俊明2千石に分知。大名格喪失
堀田正信 下総佐倉藩 10万石 1660 事件:幕閣の批判[注釈 52] 配流(弟脇坂安政酒井忠直蜂須賀綱通預け)[注釈 53]
上杉綱勝 出羽米沢藩 30万石 1664 無嗣断絶 死去。外甥上杉綱憲を末期養子として15万石に減知
松平重利 下野皆川藩 1.05万石 1665 無嗣断絶 早世(7歳)
一柳直興 伊予西条藩 2.5万石 1665 勤務怠慢/失政[注釈 54] 配流(前田綱紀預け)
池田政直 播磨福本藩 1.0万石 1665 所領分知 死去。弟政武7,000石・政済3,000石分知
京極高国 丹後宮津藩 7.82万石 1666 訴訟/御家騒動[注釈 55] 配流(南部重信預け)子達も配流
水野元知 上野安中藩 2.0万石 1667 乱心:妻女を殺傷 配流(水野忠職預け)子水野元朝は旗本として存続
高力隆長 肥前島原藩 3.7万石 1668 失政 配流(伊達綱村預け)子高力忠弘は旗本として存続
奥平忠昌 下野宇都宮藩 11万石 1668 幕法違反:家臣に殉死者 死去。減知2万石
酒井忠解 出羽大山藩 1.0万石 1668 無嗣断絶 死去。末期養子は不許可。遺領は鶴岡藩に還付
池田邦照 播磨新宮藩 1.0万石 1670 無嗣断絶 早世(13歳)弟池田重教は3千石で旗本として存続
伊達宗勝 陸奥一関藩 3.0万石 1671 御家騒動:伊達騒動 配流(山内豊昌預け)宗興も配流(小笠原忠雄預け)
土井利久 下総古河藩 10万石 1675 無嗣断絶 早世(10歳)叔父土井利益を7万石で再封
土井利益 常陸・下総内 1.0万石 1675 他藩相続のため 古河藩を相続
新庄直矩 常陸麻生藩 2.3万石 1676 無嗣断絶 早世(17歳)末期養子は不許可で、父直好を1万石で再封
黒田長寛 筑前直方藩 4.0万石 1677 他藩相続のため 福岡藩を相続して支藩解消
土井利直 下総大輪藩 1.0万石 1677 無嗣断絶 死去。末期養子が不許可で減知5,000石。養子土井利良は旗本で存続
池田恒行 播磨山崎藩 3.0万石 1678 無嗣断絶 早世
土屋直樹 上総久留里藩 2.0万石 1679 乱心 所領収公。子逵直は3,000石で旗本として存続
戸川安風 備中庭瀬藩 2.0万石 1679 無嗣断絶 早世(9歳)戸川達富は5,000石で旗本として存続
堀通周 常陸玉取藩 1.2万石 1679 乱心 所領収公。堀利雄を養子として3,000石で旗本として存続
永井尚長 丹後宮津藩 7.36万石 1680 事件:刃傷被害[注釈 56] 死亡。弟永井直円大和新庄藩1万石で再封
内藤忠勝 志摩鳥羽藩 3.5万石 1680 事件:刃傷沙汰[注釈 56] 切腹
加賀爪直清 武蔵高坂藩 1.0万石 1681 不正:領地改[注釈 57] 配流(山内豊昌預け)→閉門(兄石川総良預け)
酒井忠明 上野伊勢崎藩 2.0万石 1681 他藩相続のため 厩橋藩を相続
松平光長 越後高田藩 26万石 1681 御家騒動:越後騒動 配流(松平定直預け)→1687年赦免、堪忍料3万石[注釈 58]
真田信利 上野沼田藩 3.0万石 1681 勤務怠慢[注釈 59] 配流(奥平昌章預け)[注釈 60]
酒井忠能 駿河田中藩 4.0万石 1681 将軍の勘気[注釈 61] 逼塞→配流(井伊直興預け)後に赦免され旗本
松平直矩 播磨姫路藩 15万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知7万石、日田藩に再封
松平近栄 出雲広瀬藩 3.0万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知2万石
板倉重通 武蔵岩槻藩 6.0万石 1682 失脚[注釈 62] 所領収公:減知1万石、坂木藩に転封
本多政利 播磨明石藩 6.0万石 1682 苛政[注釈 63] 所領収公、岩瀬藩1万石に再封
本多利長 遠江横須賀藩 5.0万石 1682 失政[注釈 64] 所領収公、村山藩1万石に再封
桑山一尹 大和新庄藩 1.1万石 1682 不敬[注釈 65] 閉門(弟一慶一矩預け)
稲葉正往 摂津・河内内 3.0万石 1683 他藩相続のため 小田原藩を相続
徳川徳松 上野館林藩 25万石 1683 無嗣廃絶 夭折
土方雄隆 陸奥窪田藩 1.8万石 1684 御家騒動[注釈 66] 配流(榊原政邦預け)[注釈 67]別の弟雄賀は旗本として存続
有馬豊範 筑後松崎藩 1.0万石 1684 連座:土方雄隆改易 閉門(有馬頼元預け)所領は久留米藩に還付
稲葉正休 美濃青野藩 1.2万石 1684 事件:大老暗殺[注釈 68] 死去
松平重治 上総佐貫藩 1.5万石 1684 勤務怠慢[注釈 69] 配流(保科正容預け)子勝秀は旗本として存続
松平綱昌 越前福井藩 52.52万石 1686 乱心:家臣殺害 蟄居(江戸鳥越の福井藩邸)前藩主昌明が25万石に減封で再任
溝口政親 越後沢海藩 1.0万石 1687 乱心:酒乱[注釈 70] 配流(兄加藤明英預け)
那須資徳 下野烏山藩 2.0万石 1687 幕法違反[注釈 71] 配流(津軽信政預け)1698年に恩赦。1,000石で旗本に。
佐久間勝親 信濃長沼藩 1万石 1688 将軍の勘気[注釈 72] 閉塞(丹羽長次預け)
大久保忠増 上総・常陸内 1.0万石 1688 昇進:若年寄就任 所領収公、後に小田原藩を相続
堀田正英 常陸北条藩 1.3万石 1688 所領収公[注釈 73] 死去。二男正矩3,000石・三男正章2,000石で旗本になった
喜多見重政 武蔵喜多見藩 2.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 74] 配流(松平定重預け)
坂本重治 相模深見藩 1.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 75] 逼塞→減知7,800石
本多忠周 陸奥白河藩 1.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 75] 逼塞→減知3,000石
山内豊明 土佐中村藩 3.0万石 1689 将軍の勘気[注釈 76] 配流(青山忠重預け)所領は土佐藩に還付。1692年に恩赦。
鳥居忠則 信濃高遠藩 3.0万石 1689 引責:のぞき[注釈 77] 閉門→自害。嫡男忠英能登下村藩1万石に再封
遠藤常久 美濃八幡藩 2.4万石 1692 無嗣廃絶 早世(7歳)遠藤胤親を末期養子として上総常陸内に1万石で再封
松平忠弘 陸奥白河藩 15万石 1692 御家騒動:白河騒動 蟄居→減知5万石で山形藩に再封
本多政利 陸奥大久保藩 1.0万石 1693 事件:殺人[注釈 78] 配流(酒井忠真水野忠之預け)→押込
水谷勝美 備中松山藩 5.0万石 1693 無嗣断絶 死去。養嗣子も1ヶ月後に死去。弟勝時は旗本として存続
堀田正虎 下野大宮藩 2.0万石 1694 他藩相続のため 福島藩を相続
織田信武 大和宇陀松山藩 2.8万石 1695 乱心:家臣殺害[注釈 79] 自害。嫡男織田信休を2万石に減封
本多重益 越前丸岡藩 4.3万石 1695 失政[注釈 80] 配流(池田仲澄預け)後に旗本
西郷寿員 下野上田藩 1.0万石 1695 勤務怠慢 減知5,000石
小出重興 和泉陶器藩 1.3万石 1696 無嗣断絶 死去。弟重昌を末期養子としたがこれも死去した[注釈 81]
森長武 美作津山新田藩 2.0万石 1696 所領収公 死去。末期養子の弟森長基が乱心し、支藩解消
小出英及 但馬出石藩 4.5万石 1696 無嗣断絶 早世(3歳)
森長成 美作津山藩 18.6万石 1697 無嗣断絶 前年死去。末期養子衆利が乱心。父長継西江原藩2万石に再封
水野勝岑 備後福山藩 10.1万石 1698 無嗣断絶 早世(2歳)親戚水野勝長が継ぎ、西谷藩1万石に再封
小笠原長胤 豊前中津藩 8.0万石 1698 苛政 閉門(小笠原忠雄預け)弟長円を4万石で減封
伊丹勝守 甲斐徳美藩 1.0万石 1698 乱心 自害。所領収公
戸田忠真 不明 1.0万石 1698 昇進:寺社奉行就任 所領収公
伊達村和 陸奥中津山藩 3.0万石 1699 事件:土器町事件[注釈 82] 逼塞(伊達綱村預け)従者2名死罪。所領は仙台藩に還付
浅野長矩 播磨赤穂藩 5.0万石 1701 事件:赤穂事件 切腹。相続は許されず、弟長広は旗本として存続
丹羽氏音 美濃岩村藩 1.9万石 1702 訴訟/失政 閉門。高柳藩に減封
松平忠充 伊勢長島藩 1.0万石 1702 乱心※[注釈 83] 幽閉。嫡男康顕5千石・二男尚慶に1千石を分知して旗本に
松平近憲 出雲松江新田藩 1.0万石 1704 他藩相続のため 松江藩を相続。
阿部正喬 武蔵・相模内 1.0万石 1704 他藩相続のため 忍藩を相続。
松平頼職 越前高森藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続するが急死。所領収公
松平頼方 越前葛野藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続。所領収公
井伊直朝 遠江掛川藩 3.5万石 1705 乱心/幕法違反[注釈 84] 強制隠居・減知1.5万石。分家直矩を養嗣子として与板藩に再封
前田利昌 加賀大聖寺新田藩 1万石 1709 事件:織田秀親を殺害 切腹。遺領は大聖寺藩に還付
本多忠孝 播磨姫路藩 15万石 1709 無嗣断絶 早世(13歳)分家本多忠良が末期養子となり村上藩5万石に再封
松平宗胡 越前高森藩 2.0万石 1711 無嗣断絶 早世(8歳)
屋代忠位 安房北条藩 1.0万石 1712 失政:万石騒動 逼塞・所領没収[注釈 85]
毛利元次 周防徳山藩 4.5万石 1716 訴訟:前年の万役山事件 配流(戸沢正庸預け)所領は萩藩に還付[注釈 86]
小笠原長邕 豊前中津藩 4.0万石 1716 無嗣断絶 早世(6歳)弟長興安志藩1万石で立藩
毛利元矩 長門長府藩 5.0万石※ 1718 無嗣断絶 早世(15歳)親戚匡広が3.8万石で再封
浅野長経 安芸三次藩 5.0万石 1719 無嗣断絶 早世(13歳)弟長寔が再封
黒田長清 筑前直方藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 継高福岡藩をすでに相続していたため遺領を還付して支藩解消
浅野長寔 安芸三次藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 早世(10歳)遺領は広島藩に還付
松平宗昌 越前松岡藩 5.0万石 1721 他藩相続のため 松平吉邦の死去により福井藩30万石を相続
本多忠村 大和郡山藩 12万石 1722 無嗣断絶 早世(11歳)弟忠烈が5万石で再封
本多忠烈 大和郡山藩 5.0万石 1723 無嗣断絶 早世(8歳※)
内田正偏 下野鹿沼藩 1.3万石 1724 乱心:妻に斬りかかる 強制隠居・蟄居・減知3,000石、嫡男正親小見川藩に移封
蜂須賀宗員 阿波富田藩 5.0万石 1725 他藩相続のため 兄の死去で、実父蜂須賀綱矩のもとに戻り支藩解消
水野忠恒 信濃松本藩 7万石 1725 事件:刃傷沙汰[注釈 87] 配流(秋元喬房預け)蟄居(叔父水野忠穀預け)[注釈 88]
京極高寛 但馬豊岡藩 3.5万石 1726 無嗣断絶 早世(10歳)弟高永が1.5万石で再封
松平浅五郎 美作津山藩 10万石 1726 無嗣断絶 早世(14歳)従兄長煕が養子となり5万石で再封
松平明矩 陸奥白河新田藩 1.0万石 1727 他藩相続のため 松平基知の養子となって支藩解消
松平義真 陸奥梁川藩 3.0万石 1729 無嗣断絶 早世(16歳)
佐竹義堅 出羽久保田新田藩 1.0万石 1732 他藩相続のため 佐竹義峯の養子となって支藩解消
井伊直定 近江彦根新田藩 1.0万石 1734 他藩相続のため 井伊直惟の養子となって支藩解消
松平乗邑 下総佐倉藩 6.0万石 1745 失脚:専横[注釈 89] 強制隠居・蟄居・老中罷免・減知1万石
植村恒朝 上総勝浦藩 1.1万石 1751 幕法違反[注釈 90] 配流(植村家道預け)後に恩赦、養子寿朝は旗本として存続
安藤信尹 美濃加納藩 6.5万石 1755 御家騒動:安藤騒動 強制隠居・減知1.5万石
本多忠央 遠江相良藩 1.0万石 1758 失政:郡上一揆 配流(松平長孝預け)若年寄罷免
金森頼錦 美濃八幡藩 3.8万石 1758 失政:郡上一揆 配流(南部利雄預け)子頼興は旗本として存続
松平定静 松山新田藩 1.0万石 1765 他藩相続のため 伊予松山藩15万石を相続
田沼意次 遠江相良藩 5.7万石 1786 失脚/汚職[注釈 91] 強制隠居・謹慎・老中辞職・減知2万石
稲葉正明 安房館山藩 1.3万石 1786 連座:田沼意次失脚 減知3,000石
田沼意次 遠江相良藩 3.7万石 1787 失脚/汚職[注釈 91] 相良城破却・減知2.7万石、子意知は移封
小堀政方 近江小室藩 1.63万石 1788 汚職・苛政(伏見騒動 配流(大久保忠顕預け)奉行罷免、甥政優は旗本として存続
松前章広 蝦夷松前藩 無高 1807 失政 松前領(東)/西蝦夷地の没収、代わりに9,000石を付与
酒井忠全 播磨姫路新田藩 1.0万石 1817 無嗣断絶 早世(3歳)
仙石久利 但馬出石藩 5.8万石 1835 御家騒動:仙石騒動 閉門・減知2.8万石
林忠英 上総貝淵藩 1.8万石 1841 失脚[注釈 92] 強制隠居・若年寄罷免・減知8,000石
水野忠邦 遠江浜松藩 7万石 1845 失脚:天保の改革失敗 強制隠居・減知2万石
堀親寚 信濃飯田藩 2.7万石 1845 連座:水野忠邦失脚 強制隠居・老中罷免・減知1万石
本郷泰固 駿河川成島藩 1.0万石 1859 勤務怠慢[注釈 93] 強制隠居・若年寄罷免・減知5,000石、大名格失う
久世広周 下総関宿藩 6.8万石 1862 引責:坂下門外の変 強制隠居・減知1万石
井伊直憲 近江彦根藩 35万石 1862 連座:故井伊直弼糾弾 減知10万石
間部詮勝 越前鯖江藩 5.0万石 1862 失脚[注釈 94] 強制隠居・減知1万石
酒井忠義 若狭小浜藩 11.35万石 1862 失脚:寺田屋事件余波 強制隠居・京都所司代解任・減知1万石
久世謙吉 下総関宿藩 5.8万石 1862 連座:広周失脚[注釈 95] 減知1万石
安藤鏻之助 陸奥磐城平藩 5.0万石 1862 連座:信正失脚[注釈 95] 減知2万石
松平頼徳 常陸宍戸藩 1.0万石 1864 引責:天狗党事件関与 切腹、明治になり父松平頼位が再封
堀親義 信濃飯田藩 1.7万石 1864 勤務怠慢[注釈 96] 逼塞・役職解任、減知2,000石
戸田忠恕 下野宇都宮藩 7.78万石 1865 勤務怠慢[注釈 97] 減知2.78万石

明治時代

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大名 領地 禄高 年代 改易理由 対処・その後
松平喜徳 陸奥会津藩 23万石 1868 新政府への反逆 久留米藩有馬慶頼永預[65]、後に斗南藩松平容大預け
林忠崇 上総請西藩 1.0万石 1868 新政府への反逆 閉門(小笠原長国預け)→明治5年赦免、東京府士族300石、義弟忠弘継ぐ[66]
黒田長知 筑前福岡藩 47万石 1871 太政官札贋造事件 閉門・免官、福岡藩知事の後任は有栖川宮熾仁親王[67]

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 所帯改易・所職改易という[7]。ただし世襲的に継承していた所職からの得分を失うため、変更といっても、没収に近い意味合いである。
  2. ^ 身柄は配流先の大名に預けられるが、江戸時代の配流地先は主に東北か四国に決まっていた。
  3. ^ 数え方による。下記『廃絶録』をもとに表にした関ヶ原で改易された大名はもっと多い。藤野保自身も別の資料では82の大名と言っている[14]
  4. ^ 大名や武士が急病危篤になってから急遽養子を願い出ること[22]
  5. ^ 日本の一夫一妻制の制度的導入の嚆矢を武家諸法度であるとする説を唱えている歴史学者の福田千鶴は、その導入目的を婚姻規制を通じた大名統制にあったとした上で、初期には正妻以外の女性の存在自体が武家諸法度(幕法)違反に問われる可能性があった一方で、一夫一妻制によって大名が世嗣を得られない可能性が高くなったことで世嗣断絶(無嗣断絶)が発生する可能性も高まったとしている。ただし、末期養子の緩和など改易回避の政策が行われる過程で、側室の存在についても事実上容認されるようになったという[23]
  6. ^ a b 元和3年(1617年)の洪水によって広島城の石垣や堀、楼などが損壊したので、正則はその修復の許可を幕府の取次役である本多正純を通して申請していたが、正純は敢えてこのことを将軍に報告せず、しかも正則には修復だから正式な許可はいらないと曖昧に答えていた。正則は将軍の許可を得ないまま修築作業を始めて罪に問われることになり、元和5年(1619年)4月に正則は弁明のために江戸へ参勤すると共に、修復箇所を破壊して謹慎の態度を示したので一段落するかと思われたが、5月に将軍秀忠は諸大名を率いて上洛すると(正則を江戸に留めて)子福島忠勝に上洛と弁明とを求め、6月2日になって福島氏の改易が突然発表された[24]
  7. ^ ただしこの3か条については、明確な記録はなく、後世の作り話であるらしい[31]
  8. ^ 元和4年(1618年)、家老の加藤美作加藤右馬允が対立した御家騒動(牛方馬方騒動)の際には、豊臣方への加担の嫌疑がかかったにもかかわらず、加藤忠広は幼少を理由に改易を免れている。忠広の義理の母は家康の養女(水野忠重の娘)で、妻は秀忠の養女(蒲生秀行の娘)であり、姉は秀忠の弟・頼宣の妻という、重縁の関係であった[33]
  9. ^ 大坂の陣後に子の増田盛次が大坂方に与したことを咎められ切腹した。
  10. ^ 改易の経緯には諸説あり、処分未定のまま病死、あるいは無嗣断絶したためともいう[42]
  11. ^ 慶長15年(1610年)に領内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石。
  12. ^ 毛利輝元の約120万石の所領内から20万石を分知したもの。
  13. ^ 毛利輝元の減封の後の36.9万石の所領内から5万石を分知したもの。
  14. ^ 後に石直しにより6万石。
  15. ^ 後に結城秀康に仕官した。
  16. ^ ただし石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代からである。
  17. ^ 原因については諸説ある。定次の悪政、漁色、大酒、訴訟等を理由に、大名の不品行を家老中坊秀祐が幕府に直訴した。
  18. ^ 勝俊と利房は共に西軍に属して所領没収されており、父木下家定が亡くなって遺領が出ると、これを巡って兄弟で争った。
  19. ^ 水野忠胤の家臣により殺害された。喧嘩両成敗により、喧嘩・殺傷沙汰は被害者も咎を負う。
  20. ^ 専横を糾弾されて、尾張藩の家老平岩親吉と対立した。
  21. ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介錯により討たれたとの記録もある。
  22. ^ 嫡男重信大久保忠隣の養女との無断婚姻。
  23. ^ 義弟酒井忠勝の庄内鶴岡に国替えの際に同行し、以後は400石を拝領。
  24. ^ 義弟坂崎直盛と、罪をおかして逃亡中の妻の甥坂崎左門をかくまった件の争い、敗訴。
  25. ^ 石川康通の娘を養女として山口重政の嫡男と無断縁組したことや、幕命を受けて京で苛烈なキリシタン狩りを行い、寺々を放火した件、大久保長安事件の連座とするなど、改易の理由については諸説あり。
  26. ^ 城郭補修・浪人召抱えなどを咎められた。ただし大久保忠隣に連座ともいう。
  27. ^ 織田信包の遺言で領地を継承した弟信則を不服として、幕府に訴えたが、逆に不届きとされて除封された。
  28. ^ 大坂の陣における遅参・不手際、旗本殺害、参内の懈怠など。理由は複数あり。秀忠は家康の死を待って改易に踏み切った。
  29. ^ 諏訪温泉で死去したが、自殺とも、諏訪部定常によって殺害されたともいう。
  30. ^ 一族の大久保忠隣の改易に連座か。
  31. ^ 家老河野氏房の殺害未解決事件の隠蔽を、被害者の子息が訴える。
  32. ^ 配流先で生まれた次男松千代は3,000石、三男熊千代は2,000石に封じられ旗本となる。
  33. ^ 田中吉官は小姓頭だっために配下の組中の三宅藤五郎の罪に引責した。
  34. ^ 家光に対する度重なる諫言。
  35. ^ 正利は無嗣断絶する。
  36. ^ 大坂城二の丸石垣築造工事の完成がおくれたため、監督不行届をもって領地を没収された。
  37. ^ 徳永昌勝も配流(溝口宣勝預け)1648年に恩赦で赦免され2,000石旗本に。親子の訴訟のための改易だったともいう。
  38. ^ 仮病で、狩り遊びに興じていて、参勤交代を懈怠したことが露見して改易された。
  39. ^ 池田長幸の所領分知に関して三男長純に過半を与えることに反対した弟長頼を除いて遺言を作成したがために、長頼は激怒して長純とその舅脇坂安信と脇坂安経に刃傷に及び安経を殺害した。長頼は切腹。長純・安信は傷を負ったが、喧嘩両成敗により改易となった。
  40. ^ 謀反とも御家騒動ともいうが諸説ある。室賀正俊のもとに将軍の日光参拝を狙った陰謀があると投書するものがあり、調べると加藤光広の家臣前田五郎八というものだったので、光広とその父の忠広は池上本門寺にて蟄居を命じられた。忠広は関与を否定し、光広は若年のため改易どまりとされ、忠広は1万石に減封、光広は100石与えられたという話。または、正室は嫉妬深い人間で、側室が江戸で男子を産んだことに怒り、自分が産んだ嫡子光広の地位が脅かされるとして、家臣前田五郎八に殺害させようとしたという話。
  41. ^ 長崎代官末次平蔵らの告発で、唐船に対する私的課税、海外渡航証の独断での発給、私貿易船の派遣、収賄などの不正を訴えられた。パオロ・ドス・サントス事件も参照。
  42. ^ 菅沼忠隆(奥平忠隆)の嫡男。元服前に死んだ。
  43. ^ 江戸時代の大名で唯一の斬首。
  44. ^ 池田輝澄は新参の家老小川四郎右衛門を重用したので、これに旧来の家老伊木伊織らが反発して伊木派の物頭衆らが脱藩する事態となった。結局、家臣18名が切腹を命じられ、輝澄も家中不取締の科で所領を収公されて、堪忍料1万石だけが与えられた。
  45. ^ 高俊の死後、分知により交代寄合旗本となる。
  46. ^ 遺領は1653年に(政勝の従兄弟で義理の兄弟にあたる)政長に3万石・本多政信に1万石に分知された。
  47. ^ 突如剃髪して、所領を返上して幕閣を非難した上書を提出。江戸市中を托鉢して四国に向かったので、幕府は謀反を警戒しつつもこれを狂気と判断した。
  48. ^ 嫡男頼重を廃して、庶子での継承を願い出たが、頼資の不行跡を理由にいずれの子の相続も認めず、所領没収。頼重に1,000石だけ与えられた。
  49. ^ 且昭は貞就を養子とするが、貞就に子がなく断絶。
  50. ^ 幕末成羽藩を立藩。
  51. ^ 落馬の原因になった黒馬を家臣が主人の恨みとして殺したが、その悪評のため、末期養子が許されなかったという。
  52. ^ 将軍補佐と老中に諫書を提出して幕閣の失政を非難。自身の所領を返上して困窮の旗本を救済するよう願って無断で帰国した。その後も、密かに石清水八幡宮を詣でて将軍家綱の継嗣誕生を祈願するなど、幕法を軽視した勝手な行動が見られて、2回配流先を変えた。
  53. ^ 1680年、徳川家綱死去の報を聞き、幕法に反して殉死した。
  54. ^ 女院御所造営助役の役目を怠慢し、参勤交代に遅参した。住民殺害などの失政もあった。
  55. ^ 高国が襲封後、弟京極高勝の擁立をはかった父高広から親不孝と悪政を幕府に訴えられた。
  56. ^ a b 増上寺での徳川家綱の法会奉行を務めていたが、警護役の内藤忠勝が乱心して、突然斬り掛かってきて永井尚長は殺害された。巷説に、内藤忠勝はある修験者から名刀を力づくで奪って佩用していたが、この修験者が恨んで怨詛したため、忠勝は乱心したという。
  57. ^ 知行地境界問題で領地改があった際に、記述の誤りが見つかり、不正であるとして所領を収公された。
  58. ^ 本来の養嗣子松平綱国は同罪とされて配流され、同じく後に赦免された。それとは別に、徳川光圀の周旋によって松平直矩の三男が養子となって家を継ぎ、この長矩津山藩を立藩した。
  59. ^ 本家の松代藩に対抗して、表高が3万石である所を、信利は強引に実高14.3万石を出して幕府に申告。幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。申告高に応じて参勤交代の行列規模、御手伝普請が命じれるため、高い年貢をかけられた領民は疲弊した。災害で破損した江戸の両国橋の架替の助役を命じられたが、橋材の納入を怠った。同じ頃、領民が悪政を幕府に直訴し、日頃の不行跡と領内への悪政、納期遅滞を理由に改易された。
  60. ^ 子もそれぞれ配流となる。後に子真田信音が旗本となるが断絶。
  61. ^ 親戚の酒井忠明が徳川綱吉から逼塞を命じられた際に、酒井忠能が報告に上がったときに、前将軍時の在国中の苛政と職務怠慢を咎められて改易された。
  62. ^ 徳川宗家と自身の御家騒動による。
  63. ^ 前年、巡見使が領内を通過の際に領民が悪政を直訴したことによる。
  64. ^ 本多利長の不行跡と、領内への悪政、前年の巡見使への作法が不適切であるとして、不行き届きを幕府に咎められ改易された。
  65. ^ 東叡山寛永寺での徳川家綱の法会のときに不敬の行為があったとして改易された。
  66. ^ 林貞辰を養嗣子としようとしたが、兄雄信の子の土方内匠を推すものがあり、抗争となる。これが幕府に露見した。
  67. ^ 林貞辰は配流(藤堂高通預け)で、内匠は八丈島へ遠島となった。
  68. ^ 江戸城中において稲葉正休は大老堀田正俊を刺殺し、正休も居合わせた老中大久保忠朝阿部正武戸田忠昌に殺された。巷説では、堀田正俊の暗殺は徳川綱吉の命令であったとか、稲葉正休は懐中に書状をいれていて理由が述べられていたともいう。
  69. ^ 在任中に綱紀をみだしたとして領地没収。
  70. ^ 溝口政親の酒狂乱心を家臣が実兄加藤明英に訴え、明英が幕府に伺いを立てて改易となった。
  71. ^ 那須資弥は実子の存在を隠して、幕府に虚偽の申告をして津軽家より那須資徳を養嗣子にとっており、実子の生母がこれを幕府に直訴して露見して改易となった。
  72. ^ 側小姓に任命されたが、拒否して将軍徳川綱吉の怒りを買い、重ねて詐病で出仕を拒否して改易された。
  73. ^ 嫡男堀田正親を指名せず、遺領相続の際の不手際で8,000石没収された。
  74. ^ 側用人に昇進したが勤務が疎かになっていると責められ改易された。分家の喜多見重治の刃傷沙汰の連座ともいう。
  75. ^ a b 寺社奉行の同役の坂本重治本多忠周と共に怠慢があったとして職責を解かれて逼塞を命じられていたが、逼塞を解かれて減知を課された。
  76. ^ 将軍徳川綱吉の寵愛により奥詰から異例の昇進を重ねて若年寄となるが、病気を理由に辞職を願い出て綱吉の怒りにふれ、謹慎を命じられた。
  77. ^ 江戸城馬場先門を警備していた家臣高坂権兵衛が旗本長屋を覗き見した容疑で逮捕される不祥事が原因で、鳥居忠則は閉門となり、自害した。
  78. ^ 失政に加えて、本多政利が罪なき女性を殺害した罪で改易された。配流先でも行状は改まらず、不品行を重ねたので、その報告が遅れた酒井忠真は閉門を命じられ、政利は座敷牢に幽閉されることになった。
  79. ^ 諫言する家老2名とその一門を殺害して自害した。
  80. ^ 酒食に溺れ、家臣間の争いを放置したため、監督不行き届きで改易された。
  81. ^ 叔父小出有仍が旗本として存続。
  82. ^ 重陽の節句で登城して帰る伊達村和の行列を横切った御小姓組岡孝常を従者が抜刀して威嚇し、孝常の刀を奪い怪我をさせた。駕籠に乗っていた村和は傍観していたが、怒った孝常は槍をとって孝常の駕籠に迫って詫びを入れさせようとした。幕臣が止めて孝常を家に帰らせたが、後日双方が処罰された。
  83. ^ 松平忠充は暗愚な人物とされ、些細な理由で家臣を追放したりしていたが、家老3人を切腹させその子4人も死刑とするという乱行に及んだため、遺族が幕府に直訴して露見。乱心したと見なされて幽閉された。
  84. ^ 病を理由に参勤交代の延期を申し出たが、不審に思った幕府が調べたところ、乱心したのを家臣が隠蔽していることが露見した。
  85. ^ ただし後に恩赦があり、3,000石で旗本となる。家老2人が追放、検見役の家臣だけが死罪とされた。
  86. ^ 1719年、子毛利元堯が再封をゆるされる。
  87. ^ 江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁して退出の際に、忠恒は突然、通りかかった長州毛利家の世子毛利師就を斬りかかった。師就は傷を負ったが、殿中であるため刀を抜かず鞘で防戦し、御目付長田元鄰が割って入って、戸田氏房が忠恒を取り押さえてことなきをえた。浅野内匠頭と違って、忠恒は理由を供述したが荒唐無稽な内容であったので「乱心」として処理された。幕法を守って刀を抜かなかった師就はお咎めなしとなった。
  88. ^ 水野忠穀に7,000石を付与して旗本とする。1765年大浜藩立藩。
  89. ^ 松平乗邑は幕政の責任者として享保改革を推し進めたが、強引な年貢増徴政策で恨まれており、徳川吉宗が隠退すると、突然、勝手掛老中を罷免されて失脚した。
  90. ^ 分家の植村千吉が義弟の朝比奈万之助に殺害されるという刃傷沙汰があったが、処罰を恐れ、病死と偽って報告し、それが露見した。
  91. ^ a b 側近政治で台頭した田沼意次は経済改革で成果を出したが、松平武元没後は権勢を増して賄賂を横行させたので、反田沼派が生成され、後盾の徳川家治が死去するとすぐに老中を失脚して幕府を追われ、前代未聞である二度の処罰を受けた。
  92. ^ 徳川家斉の側近として重用されて台頭。家斉隠居後も権勢を振るい、幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが、家斉が死去すると水野に粛清されて失脚した。
  93. ^ 将軍継嗣問題関連の処分ともいう。
  94. ^ 文久の改革で失脚。口実は失政だが、実際には井伊直弼の下で安政の大獄の弾圧の指揮をとったことによる報復人事だった。
  95. ^ a b 坂下門外の変の後の事後処理による。
  96. ^ 武田耕雲斎らの天狗党の乱に際して、堀親義は講武所奉行の地位にあったにもかかわらず、留守居の家臣が城に籠もって出撃せずに、清内路関所を通過させたので、これに引責した。
  97. ^ 天狗党の筑波山挙兵に際して討伐の出兵が遅れたために、一族から天狗党に同調する者が出ていたことと併せて、幕府の嫌疑を受けて処罰された。

出典

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参考文献

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  • 福尾猛市郎「第二章 前近代警察制度史の概観 - 犯罪と刑罰の種類」『広島県警察百年史』 上巻、広島県警察本部、1971年、34-36頁。NDLJP:9634149/33 
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関連項目

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