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『国、死に給うことなかれ』
【 渡部昇一、徳間書店 (2008/5/17)、p68 】
◆戦後日本を赤くしたE・H・ノーマンという男
終戦直後、GHQの命令で、「日本の主張」を記した戦前の著書が流通過程から消されるという政策が採られました。そうした「GHQ焚書図書」は7千点以上あるといいます。7千冊ではなく、7千点です。それだけの本が戦後になって抹殺されました。
では、そうした本を選定したのはだれか。あるいは、選定する日本人を指名したのはだれか――。
証拠は挙げようがありませんが、いろいろ推察していくと、私はE・H・ノーマンであろうと睨(にら)んでいます。ノーマンはカナダ人ですが、当時はGHQのCID(対敵諜報部)に所属していました。
戦前の図書の焚書を命じたGHQのセクションは、バリバリの左翼・ケーディス大佐が握っていた「民生局」です。ケーディス以下、GHQ民生局がアメリカの左翼の集まりであったことはよく知られておりますが、そのつながりで、カナダの共産党員であったE・H・ノーマンが焚書に関わったのではないか……と想像しています。
ノーマンは宣教師の息子として日本で育っていますから日本語は達者でした。日本史で博士号をとっておりますが、一時期、彼の個人教師をしていたのが左翼の羽仁五郎です。そんなノーマンを中心にして焚書図書のリストがつくられ、また公職追放令のリストがつくられたのではないか、というのが私の推測です。
推測といっても、それ以外は考えられないというレベルでの推測です。もちろん、そこにはノーマンの友人であったコミュニスト・津留重人(つるしげと)氏が参加していた可能性があります。
……と書くと、想像でモノをいいすぎると思われそうですが、ノーマンについては、元スタンフォード大学フーバー研究所の上級研究員・片岡鉄哉氏も『さらば吉田茂』(文藝春秋)のなかでこう書いています。
GHQの役人が府中にみずから出向いて政治犯16人を釈放した(
渡部注・昭和20年10月の共産党員釈放)。この役人の一人は政
治顧問部にいた国務省の外交官でジョン・エマーソンだった。もう
一人は、カナダ市民だが、GHQのCID(対敵諜報部)にいたE
・H・ノーマンだった。(中略)
ノーマン自身も、占領中GHQで戦犯容疑者の調査をやっている。
彼の事務所に日参して入り浸りになったのが、日共の幹部たちであ
った。ノーマンは彼らの供述を基礎にA級戦犯の起訴状を書いてい
る。近衛文麿を自殺に追いやることに、一枚かんだのもノーマンで
ある。
日本では『忘れられた思想家』(岩波新書)や『日本における近代国家の成立』(岩波文庫)の著者として知られておりますが、れっきとしたカナダ人の共産党員でしたから、日本の「赤化」に奔走したのです。のちにアメリカでマッカーシー旋風が吹きまくると、「赤狩り」の嵐はカナダにも波及して、1957年(昭和32年)、駐エジプト大使としてカイロに赴任していたノーマンはコミンテルンのエージェントであることを暴かれて自殺しています。
そんなノーマンやその盟友たちから見て憎たらしい本は焚書に処され、気に入らない学者はみな公職から追放された、というのが私の見方です。
そこに前述の「赤い教授」たちが登場する。その一端は、有名な大学総長から垣間見ることができます。
たとえば、南原繁(なんばらしげる)・東大総長。
南原さんはコミュニストとはいえませんけれども、戦後は「全面講和」を主張し「非武装中立論」を唱えて、時の首相・吉田茂から「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と罵られています。当時にあって、「非武装中立」とは、はっきりいえばソ連に進駐してきて欲しいという容共派だったからです。
矢内原忠雄(やないはらただお)・東大総長。
この人はプロテスタントですが、シナ事変がはじまった年の昭和12年、講演で「日本の理想を活かすために一先(ひとま)ず此の国を葬って下さい」としゃべって東京帝国大学を追われています。自分の国を「一先(ひとま)ず葬りたい」というのですから、ノーマンには最高に気に入られたはずです。
滝川幸辰(たきがわこうしん)・京大総長。
京都帝国大学の法学部教授時代、「犯罪というものは国家生活のアンバランスから起こるものなのに、その国家が刑罰を科するとは矛盾も甚だしい。犯罪はいわば国家の受ける刑罰と考えるべきである」などと発言したかと思うと、無政府主義的な刑法の本を書いて大学を追われています。身近な人の証言によると、やっぱり共産党員だったそうです。
津留重人・一橋大学学長
ハーバード大学へ留学している時代、学友だった関係でノーマンと親しく、彼の引きで一橋大学教授に就任(23年)、47年には学長になっています。
以上、思いつくままに挙げてみましたが、日本の主要大学のトップの多くは公職追放令のために左翼が居座り、以後もそれがずっとつづきました。
トップだけではありません。
ノーマンは岩波書店から全集を出しておりますが、岩波から全集が出ている人の多くはノーマンの系列の学者だといっていいでしょう。東大の丸山真男(政治学)、大内兵衛(経済学)といった人たちが代表的な存在です。そして、彼らの研究が戦後ずっと良心的な学問だと思われてきました。
それが戦後日本に悪影響を及ぼしました。というのは、戦後は雨後のタケノコのごとくたくさんの大学がつくられ、「駅弁大学」とまでいわれましたが、そこに配属される教授たちの多くは上に挙げた「左翼総長」や丸山、大内といった有名な教授たちの息のかかった人たちだったからです。共産党員ではないにせよ、みな赤い思想に同情・共感している人たちです。しかも、老教授が引退すると弟子が後を継ぎ、その弟子が引退するとそのまた弟子が残るというかたちで、南原総長あるいあ丸山教授以下の左翼思想が再生産に再生産を重ねて、後々まで残ることになってしまったのです。
さらに悪いことには、南原、矢内原、滝川といった人たちは戦前の時代に好きなことを公言しただけに気骨だけはありましたが、その弟子になると、骨もないうえに質まで低下してしまいました。まさに「パーキンソンの法則」どおりのことが大学社会で起こったわけです。
そういう教授たちに育てられた者たちが戦後の日本にインチキな「南京大虐殺」を吹き込みつづけたものだから、戦後日本は一挙に左翼的な社会になってしまったのです。
彼らの「日本罪悪史観」に反するようなことを言い出したのは、そうした左翼的潮流の外にいた人たちです。東大でいえば独文科出身の小堀桂一郎氏とか西尾幹二氏、英文科の佐伯彰一氏、あるいは私立大学でいえば英文科出身の私などです。英文科や独文科であれば、われわれが何かいっても恩師と意見が対立して気まずくなるということがありませんから、自由な発想や自由な発言ができたのです。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】
『国、死に給うことなかれ』
【 渡部昇一、徳間書店 (2008/5/17)、p68 】
◆戦後日本を赤くしたE・H・ノーマンという男
終戦直後、GHQの命令で、「日本の主張」を記した戦前の著書が流通過程から消されるという政策が採られました。そうした「GHQ焚書図書」は7千点以上あるといいます。7千冊ではなく、7千点です。それだけの本が戦後になって抹殺されました。
では、そうした本を選定したのはだれか。あるいは、選定する日本人を指名したのはだれか――。
証拠は挙げようがありませんが、いろいろ推察していくと、私はE・H・ノーマンであろうと睨(にら)んでいます。ノーマンはカナダ人ですが、当時はGHQのCID(対敵諜報部)に所属していました。
戦前の図書の焚書を命じたGHQのセクションは、バリバリの左翼・ケーディス大佐が握っていた「民生局」です。ケーディス以下、GHQ民生局がアメリカの左翼の集まりであったことはよく知られておりますが、そのつながりで、カナダの共産党員であったE・H・ノーマンが焚書に関わったのではないか……と想像しています。
ノーマンは宣教師の息子として日本で育っていますから日本語は達者でした。日本史で博士号をとっておりますが、一時期、彼の個人教師をしていたのが左翼の羽仁五郎です。そんなノーマンを中心にして焚書図書のリストがつくられ、また公職追放令のリストがつくられたのではないか、というのが私の推測です。
推測といっても、それ以外は考えられないというレベルでの推測です。もちろん、そこにはノーマンの友人であったコミュニスト・津留重人(つるしげと)氏が参加していた可能性があります。
……と書くと、想像でモノをいいすぎると思われそうですが、ノーマンについては、元スタンフォード大学フーバー研究所の上級研究員・片岡鉄哉氏も『さらば吉田茂』(文藝春秋)のなかでこう書いています。
GHQの役人が府中にみずから出向いて政治犯16人を釈放した(
渡部注・昭和20年10月の共産党員釈放)。この役人の一人は政
治顧問部にいた国務省の外交官でジョン・エマーソンだった。もう
一人は、カナダ市民だが、GHQのCID(対敵諜報部)にいたE
・H・ノーマンだった。(中略)
ノーマン自身も、占領中GHQで戦犯容疑者の調査をやっている。
彼の事務所に日参して入り浸りになったのが、日共の幹部たちであ
った。ノーマンは彼らの供述を基礎にA級戦犯の起訴状を書いてい
る。近衛文麿を自殺に追いやることに、一枚かんだのもノーマンで
ある。
日本では『忘れられた思想家』(岩波新書)や『日本における近代国家の成立』(岩波文庫)の著者として知られておりますが、れっきとしたカナダ人の共産党員でしたから、日本の「赤化」に奔走したのです。のちにアメリカでマッカーシー旋風が吹きまくると、「赤狩り」の嵐はカナダにも波及して、1957年(昭和32年)、駐エジプト大使としてカイロに赴任していたノーマンはコミンテルンのエージェントであることを暴かれて自殺しています。
そんなノーマンやその盟友たちから見て憎たらしい本は焚書に処され、気に入らない学者はみな公職から追放された、というのが私の見方です。
そこに前述の「赤い教授」たちが登場する。その一端は、有名な大学総長から垣間見ることができます。
たとえば、南原繁(なんばらしげる)・東大総長。
南原さんはコミュニストとはいえませんけれども、戦後は「全面講和」を主張し「非武装中立論」を唱えて、時の首相・吉田茂から「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と罵られています。当時にあって、「非武装中立」とは、はっきりいえばソ連に進駐してきて欲しいという容共派だったからです。
矢内原忠雄(やないはらただお)・東大総長。
この人はプロテスタントですが、シナ事変がはじまった年の昭和12年、講演で「日本の理想を活かすために一先(ひとま)ず此の国を葬って下さい」としゃべって東京帝国大学を追われています。自分の国を「一先(ひとま)ず葬りたい」というのですから、ノーマンには最高に気に入られたはずです。
滝川幸辰(たきがわこうしん)・京大総長。
京都帝国大学の法学部教授時代、「犯罪というものは国家生活のアンバランスから起こるものなのに、その国家が刑罰を科するとは矛盾も甚だしい。犯罪はいわば国家の受ける刑罰と考えるべきである」などと発言したかと思うと、無政府主義的な刑法の本を書いて大学を追われています。身近な人の証言によると、やっぱり共産党員だったそうです。
津留重人・一橋大学学長
ハーバード大学へ留学している時代、学友だった関係でノーマンと親しく、彼の引きで一橋大学教授に就任(23年)、47年には学長になっています。
以上、思いつくままに挙げてみましたが、日本の主要大学のトップの多くは公職追放令のために左翼が居座り、以後もそれがずっとつづきました。
トップだけではありません。
ノーマンは岩波書店から全集を出しておりますが、岩波から全集が出ている人の多くはノーマンの系列の学者だといっていいでしょう。東大の丸山真男(政治学)、大内兵衛(経済学)といった人たちが代表的な存在です。そして、彼らの研究が戦後ずっと良心的な学問だと思われてきました。
それが戦後日本に悪影響を及ぼしました。というのは、戦後は雨後のタケノコのごとくたくさんの大学がつくられ、「駅弁大学」とまでいわれましたが、そこに配属される教授たちの多くは上に挙げた「左翼総長」や丸山、大内といった有名な教授たちの息のかかった人たちだったからです。共産党員ではないにせよ、みな赤い思想に同情・共感している人たちです。しかも、老教授が引退すると弟子が後を継ぎ、その弟子が引退するとそのまた弟子が残るというかたちで、南原総長あるいあ丸山教授以下の左翼思想が再生産に再生産を重ねて、後々まで残ることになってしまったのです。
さらに悪いことには、南原、矢内原、滝川といった人たちは戦前の時代に好きなことを公言しただけに気骨だけはありましたが、その弟子になると、骨もないうえに質まで低下してしまいました。まさに「パーキンソンの法則」どおりのことが大学社会で起こったわけです。
そういう教授たちに育てられた者たちが戦後の日本にインチキな「南京大虐殺」を吹き込みつづけたものだから、戦後日本は一挙に左翼的な社会になってしまったのです。
彼らの「日本罪悪史観」に反するようなことを言い出したのは、そうした左翼的潮流の外にいた人たちです。東大でいえば独文科出身の小堀桂一郎氏とか西尾幹二氏、英文科の佐伯彰一氏、あるいは私立大学でいえば英文科出身の私などです。英文科や独文科であれば、われわれが何かいっても恩師と意見が対立して気まずくなるということがありませんから、自由な発想や自由な発言ができたのです。
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