雨。なお降りやまない。行軍がつづいた。伊右衛門らの属する羽柴隊が、岐阜の城下に入ったときも、なお雨がつづいていた。天正3(1575)年5月のはじめのことである。(戦さの相手は、甲州の武田勢だな) 伊右衛門らは、はっきりとは聞かされていなかったが、そう推察することはできた。やがて織田家の天下制覇への道を大きくひらいた長篠の合戦がはじまる。 . . . 本文を読む
関ヶ原で勝ってからの家康は、後世の人から狸爺と呼ばれ、明治以降の講談でも悪役に回ることが多かった。これは、秀吉から後見を頼まれた秀頼を大坂城で亡ぼしたことが大きな理由だろう。だが、家康にしてみれば、この点は十分弁解の余地があると思う。 . . . 本文を読む
あなたはもう尾張や美濃という一地域にしがみつくような存在ではない。もっと日本全体のことを考えるべきだ。その拠点として、自分の志を天下に告げるためには、まず井の口という地域を岐阜(阜は丘のこと。つまり山より低い)と改称して、拠点の名が即あなたの志を天下に表明するものになりなさい。( 沢彦 ) . . . 本文を読む
憲法第九条第二項には、「交戦権は、これを認めない」という条文がある。これをどう解釈するか、半世紀にわたって、ほとんど神学論争にちかい議論がくりかえされた。どこの国でももっている自然の権利である自衛権を行使することによって、交戦になることは、十分にありうることだ。この神学論争は、いまどうなっているか。 . . . 本文を読む
本来わが国民は、国民投票によって「天皇」「首相」を選出することを好まない。だから幾重にもクッションを置いて、間接的にリーダーが選出されるようになっている。むしろ、「能力」「実力」によって首相が選ばれることよりも、派閥の「力学」によって選ばれることの力を、内心歓迎しているとも言えるのである。 . . . 本文を読む
私の知り合いにも、黙って楽譜を見つめることで大いなる喜びを得る人たちが実際にいる。たいていは音楽史や音楽学の学者たちだ。彼らは、楽譜やスコアをじっと見ているだけで音を想像することができる。まるで音楽会で生の音楽を聴いているかのように感じるらしい。 . . . 本文を読む
人言はそういう冗語性の大きな、ムダの多い言語を毎日使って、言語生活をつづけている。言葉を使っているかぎり、いかなる人もムダから無縁ではあり得ないわけだ。食べるものにこと欠くような人々ですら、言語を使うことによってのムダはすることができる。いいかえると人間らしい営みをすることができるのである。 . . . 本文を読む
人間というものは、ムダが身につくもので、ムダなくやったことは、しばらくすると、ムダなく消えてしまう。ぼくなんか、いちおうは長い間、数学の勉強をしてきたが、結局は自分の身についたのは、ムダの部分だけだったような気がしないでもない。早くおぼえたことは早く忘れたし、早くわかったことは、わかり方のおくが浅かった。 . . . 本文を読む
Aは学校のとなりの畑からイモを失敬してきて校庭のすみで焼きイモを焼きかけたが、見つかるという未遂事件をおこしたのである。ただではすむまいと友だちも心配していた。それから数日たった今日、担任のP先生から準備室へ来るようにと呼び出しを受けた。Aはいよいよおいでなすったと覚悟をきめる。 . . . 本文を読む
三成は、小さいころの名を左吉といった。「わしの手もとをはなれ、いろいろと勉強をしたほうがよい」と、父は考え、左吉を観音寺というお寺へあずけることにした。三成が観音寺へ来たころは、ちょうど、織田信長が小谷城の浅井長政を攻めていた。観音寺のうしろの山には横山城という浅井方の城があり、浅井長政が滅びると、この横山城には、羽柴(豊臣)秀吉がはいった。 . . . 本文を読む
今年は憲法の改正が国政の主要課題としてついに正面舞台に登場しそうである。改正への取り組みでは改めて、日本国憲法とはなんなのか、その起源にさかのぼって正確に認識することが欠かせないだろう。とくに日本の憲法がどのように作られたかを客観的に知ることが重要である。 . . . 本文を読む
「家族は人類社会の基底…」のくだりは、「日本の法文の形になじまない」と日本側から削除を求め、GHQが同意した。GHQと折衝した当時の法制局第一部長、佐藤達夫氏は自著「日本国憲法誕生秘話」で、「昨今、憲法改正論議の一つの題目に家族の尊重ということが揚げられているのに関連して、いささかのこそばゆさをもって思い出される条文である」と回顧している。 . . . 本文を読む
中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。 . . . 本文を読む
本能寺は法華宗の本山のひとつで、宗徒である堺商人たちの鉄砲取引所である。広大な寺域は四方に堀がめぐらされ、内側に土居、木戸のある城郭のような構えである。このなかに警固の馬廻衆を待機させておけば、その数がたとえ五百人ほどであっても、明智勢の急襲に堪え、信忠勢の応援を得て、信長は危機を免れたかも知れない。 . . . 本文を読む
日本がポツダム宣言を受諾した8月15日を期して連合国は一斉に戦いを止めたのに、ソ連だけが90年前から自他ともに日本の領土と認めていた北方四島に乗り込んできて、そのままこんにちに至ったのは不当占拠としかいいようがないではありませんか。 . . . 本文を読む