2025-02-10

能力はほぼ才能で、幸福は親の資産で決定することが判明した時代で、俺たちは終わりまで読み切った余生をどう生きたらいいのか

努力は報われる」「人生自分次第」なんて言葉を、俺たちはどれだけ信じ込まされて生きてきたんだろうな。子供の頃はそれが真実だと疑いもせず、勉強すればいい大学に行けるし、いい大学に行けばいい仕事があるし、努力すれば収入も上がると思っていた。でも、そうじゃなかった。

今やデータが揃ってしまった。能力の大半は遺伝で決まり幸福度ほとんどは親の経済力依存するらしい。IQ遺伝するし、親が金持ちならどれだけポンコツでも良い教育を受けられ、社会的成功約束される。逆に貧乏の子供は、どれだけ努力してもスタートラインが違いすぎる。持たざる者は持つ者にはなれない。全て、最初から決まっていた。

こうなると、俺たちが日々生きてるこの感覚すら虚しくなる。何かを頑張ったとして、それが自分意思の力なのか、単に遺伝的にそういう性質だっただけなのか、判別すらできない。まるで人生が、すでに出来上がったストーリーを後追いしているだけのように思えてくる。俺たちの自由意志とは、一体何だったのか。

そんな状況でも「頑張れ」とか「努力しろ」とか言ってくる連中がいる。だが、彼らの中には「頑張る余地があった」だけの話で、俺たちのようにすでに結論が出ている側の人間には、その言葉はただの雑音だ。例えば、サイコロを振る前なら「出た目で勝負が決まる」って話は通じるが、もう出目が出尽くした後に「振り直せるさ!」と言われても、ただの悪質な冗談しかならない。

この社会の最適解は、ただ「勝ち組」に生まれた奴らが、それなりに満足して生きることだ。そして「負け組」に生まれた俺たちは、何かを目指して努力するふりをしながら、ゆっくりと枯れていくことだ。それ以外に何がある? どれだけ足掻こうが、出目は変わらない。なら、いっそ何も考えず、適当にやり過ごしていくしかない。

たまに「それでも人生には意味がある」とか言ってくる奴もいるが、それは結局のところ、意味がある側に生まれ人間視点に過ぎない。こちから見れば、もう物語は終わっているのに、周囲が勝手に「続きがある」と信じ込んでいるだけの話だ。

そういうわけで、俺たちはこの終わった物語の中で、終わりまでどう生きればいいのか考えなきゃならない。でもまあ、考えたところで、答えなんか出るわけもない。そもそも、もう読み切った物語に「続き」を期待すること自体が、無駄ことなのかもしれないな。

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