「努力は報われる」「人生は自分次第」なんて言葉を、俺たちはどれだけ信じ込まされて生きてきたんだろうな。子供の頃はそれが真実だと疑いもせず、勉強すればいい大学に行けるし、いい大学に行けばいい仕事があるし、努力すれば収入も上がると思っていた。でも、そうじゃなかった。
今やデータが揃ってしまった。能力の大半は遺伝で決まり、幸福度のほとんどは親の経済力に依存するらしい。IQは遺伝するし、親が金持ちならどれだけポンコツでも良い教育を受けられ、社会的成功が約束される。逆に貧乏人の子供は、どれだけ努力してもスタートラインが違いすぎる。持たざる者は持つ者にはなれない。全て、最初から決まっていた。
こうなると、俺たちが日々生きてるこの感覚すら虚しくなる。何かを頑張ったとして、それが自分の意思の力なのか、単に遺伝的にそういう性質だっただけなのか、判別すらできない。まるで人生が、すでに出来上がったストーリーを後追いしているだけのように思えてくる。俺たちの自由意志とは、一体何だったのか。
そんな状況でも「頑張れ」とか「努力しろ」とか言ってくる連中がいる。だが、彼らの中には「頑張る余地があった」だけの話で、俺たちのようにすでに結論が出ている側の人間には、その言葉はただの雑音だ。例えば、サイコロを振る前なら「出た目で勝負が決まる」って話は通じるが、もう出目が出尽くした後に「振り直せるさ!」と言われても、ただの悪質な冗談にしかならない。
この社会の最適解は、ただ「勝ち組」に生まれた奴らが、それなりに満足して生きることだ。そして「負け組」に生まれた俺たちは、何かを目指して努力するふりをしながら、ゆっくりと枯れていくことだ。それ以外に何がある? どれだけ足掻こうが、出目は変わらない。なら、いっそ何も考えず、適当にやり過ごしていくしかない。
たまに「それでも人生には意味がある」とか言ってくる奴もいるが、それは結局のところ、意味がある側に生まれた人間の視点に過ぎない。こちらから見れば、もう物語は終わっているのに、周囲が勝手に「続きがある」と信じ込んでいるだけの話だ。
そういうわけで、俺たちはこの終わった物語の中で、終わりまでどう生きればいいのか考えなきゃならない。でもまあ、考えたところで、答えなんか出るわけもない。そもそも、もう読み切った物語に「続き」を期待すること自体が、無駄なことなのかもしれないな。
解像度の低い人生観。この解像度の低さで人生が詰んでいることの自覚がない。
x 俺たち o お前