コンテンツにスキップ

体子内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
体子内親王
続柄 後堀河天皇第二皇女

全名 体子(たいし)
称号 神仙門院
身位 内親王准三宮
出生 寛喜3年(1231年
死去 正安3年旧12月17日1302年1月16日)(享年71)
配偶者 後嵯峨天皇
子女 皇女
父親 後堀河天皇
母親 持明院家行
テンプレートを表示

体子内親王(たいしないしんのう、寛喜3年(1231年) - 正安3年旧12月17日1302年1月16日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族後堀河天皇の第二皇女で、母は持明院家行の娘。女院号は神仙門院(しんせんもんいん)。正字体は體子內親王。

生涯

[編集]

建長8年(1256年)2月6日、内親王宣下。2月7日には准后、即日女院となり、神仙門院と号した。弘長元年12月28日(1262年1月20日)に出家して妙智覚と号した。71歳で薨去

増鏡』第十「老いの波」には、後嵯峨天皇との間に生まれた皇女がおり、その皇女は弘安4年(1281年)夏に薨去したことが語られている。「後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり」とあり、皇女は後嵯峨天皇に鍾愛されていたと記されているが、『増鏡』以外の当時の諸記録にはこの皇女のことは記されていない。このため、体子内親王と後嵯峨天皇との関係は公的な入内ではなく、いわゆる私通だったと考えられる。なおこの皇女の死は乳母子との子を妊娠、流産したことによるものとあるので、弘安4年時点で皇女は成人に達していたとも考えられる。

参考文献

[編集]
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年
  • 「神仙門院」『女院記』(群書類従
  • 『増鏡全訳注』講談社、井上宗雄
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy