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坂合部内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂合部内親王
時代 奈良時代
生誕 不詳
薨去 宝亀9年5月27日778年6月27日
位階 三品
父母 父:志貴皇子
兄弟 春日王湯原王榎井王光仁天皇壱志王海上女王坂合部内親王衣縫内親王難波内親王
文室大市?
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坂合部内親王(さかいべないしんのう)は、志貴皇子の王女。光仁天皇の異母姉。長親王の子・文室大市(大市王)の妻との説がある。

生涯

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薨伝によると、

内親王(ひめみこ)は天宗高紹天皇(あめむねたかつがすすめらみこと)光仁天皇)の異母姉(ままあね)なり[1]

とあるため、光仁天皇よりも年上であったことは確実である。

聖武朝天平11年(739年)、无位から従四位下を授けられる[2]

光仁朝宝亀元年(770年)11月、衣縫内親王難波内親王能登内親王弥努摩内親王とともに内親王となり、四品を授けられる[3]

宝亀5年(774年)11月、光仁天皇は坂合部内親王の邸宅に行幸し、文室大市従二位から正二位に昇叙し、内親王も三品を授けられている[4]。このことから、文室大市が天皇に扈従し、坂合部内親王第へ出かけたのか、あるいは林睦朗の説によると、内親王が大市の妻であった可能性が問われている[5]。翌日、大市の妾も従五位下を授けられているため、大市が内親王宅で、妾を伴ない、奉仕したことは間違いない。

宝亀9年(778年)5月、薨去。壱志濃王が喪事を監護した。喪礼に用いるものはみな官から支給され、天皇はこのために朝を廃(や)めること(政務を休むこと)が3日間続いた、という[1]

脚注

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  1. ^ a b 『続日本紀』巻第三十五、光仁天皇 宝亀9年5月27日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第十三、聖武天皇 天平11年正月13日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第三十一、光仁天皇 宝亀元年11月6日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第三十三、光仁天皇 宝亀5年11月9日条
  5. ^ 岩波書店『続日本紀』4、p443注17

参考文献

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  • 宇治谷孟『続日本紀』(上巻)講談社学術文庫、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀』(下巻)講談社学術文庫、1995年
  • 『続日本紀』2・4・5 新日本古典文学大系13・15・16 岩波書店、1990年、1995年、1998年
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