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このページを含むグループ → *嘘と作り話の上に築かれた国・日本
終戦直後の占領軍の権限は、絶大であって、しかも戦争犯罪人容疑者が逮捕されたり、広汎な公職追放が行なわれていたため、東京裁判は天下の正論として通用した感がある。そして、東京裁判を国際裁判として肯定するかのごとき破廉恥な、曲学阿世の論を述べた国際法学者が東大教授になったり、また、司法の最高の地位に上がる時代であった。さらに、この裁判の検事側証人として登場した左翼系の学者たちが、日本の学界の主流を占め、その方面で権威のある書店や、大新聞の論調を大幅に決定した。
◆東京裁判が歪めた戦後の歴史観
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p399 )
日本が敗れた時、ビスマルクがオーストラリアやフランスに対するごとく、アメリカが対等の態度で日本に対する、ということは期待しがたいことであったにしても、極東軍事裁判(東京裁判)は、やるべきでなかった。
これによって、日本は犯罪国家としての烙印を押され、戦前の日本の国際的行為が、すべて悪行のごとき印象を国の内外に残すことになった。
終戦直後の占領軍の権限は、絶大であって、しかも戦争犯罪人容疑者が逮捕されたり、広汎な公職追放が行なわれていたため、東京裁判は天下の正論として通用した感がある。そして、東京裁判を国際裁判として肯定するかのごとき破廉恥な、曲学阿世の論を述べた国際法学者が東大教授になったり、また、司法の最高の地位に上がる時代であった。さらに、この裁判の検事側証人として登場した左翼系の学者たちが、日本の学界の主流を占め、その方面で権威のある書店や、大新聞の論調を大幅に決定した。しかも、当時の占領軍の言論の検閲は、戦前・戦中の日本政府の検閲よりも悪質で徹底したものであったから、新聞なども甚だしい自己規制をやっていたのである。
このようなわけで、敗戦から、東京裁判が終結し戦犯の死刑が行なわれた昭和23年(1948)の暮までに、いわゆる東京裁判史観は、戦後の日本の思想と教育の大筋となってしまった観がある。しかも、日本がサンフランシスコ平和条約を調印した昭和26年(1951)の秋までは公職追放令が有効であったから、東京裁判も批判する声はないといってよかった。
東京裁判史観は、日本の言論界やマスコミや著述業界における一種のエスタブリッシュメント(思想的権威)となり、これを批判することはタブーとなった。そのうえ、その史観で教育を受けた者は、それを信じこんでいた。東京裁判史観は左翼政党の熱狂的に支持するところであるから、その影響下にある教員組合を通じて日本の児童・生徒の頭の中に、この史観が注ぎこまれた。
最も有力な大学の法学部教授たちが東京裁判史観を説けば、その出身者の少なからざる者は、その史観を持ったまま、高級官僚になり、司法官になる。そして、その史観に基づいて一度発言したり論文を書いた人は、それにコミットしてしまうのだ。
素人(しろうと)ならば、もっと説得力のある意見や発言を聞けば、こだわりなく見解を変えるが、専門家と称する人たちは、その切替えが、かえってできがたいのである。
もう一つ、東京裁判の結果に信憑性を与えたのは、その記録の厖大さであろう。日本語に翻訳された裁判記録でも、ほとんどワン・セット十数巻の百科事典ほどの分量で、私は1セットを買い求め関係部分を精読したこがある。一般の読者にそう簡単に読めるものではない。また、その審判の過程においては、連合軍の権力を背景にして証拠の蒐集や証人の喚問が行なわれたため、個人の歴史家などの調査力の及びもつかぬ調査が行なわれた。と信ずる根拠があった。
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終戦直後の占領軍の権限は、絶大であって、しかも戦争犯罪人容疑者が逮捕されたり、広汎な公職追放が行なわれていたため、東京裁判は天下の正論として通用した感がある。そして、東京裁判を国際裁判として肯定するかのごとき破廉恥な、曲学阿世の論を述べた国際法学者が東大教授になったり、また、司法の最高の地位に上がる時代であった。さらに、この裁判の検事側証人として登場した左翼系の学者たちが、日本の学界の主流を占め、その方面で権威のある書店や、大新聞の論調を大幅に決定した。
◆東京裁判が歪めた戦後の歴史観
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p399 )
日本が敗れた時、ビスマルクがオーストラリアやフランスに対するごとく、アメリカが対等の態度で日本に対する、ということは期待しがたいことであったにしても、極東軍事裁判(東京裁判)は、やるべきでなかった。
これによって、日本は犯罪国家としての烙印を押され、戦前の日本の国際的行為が、すべて悪行のごとき印象を国の内外に残すことになった。
終戦直後の占領軍の権限は、絶大であって、しかも戦争犯罪人容疑者が逮捕されたり、広汎な公職追放が行なわれていたため、東京裁判は天下の正論として通用した感がある。そして、東京裁判を国際裁判として肯定するかのごとき破廉恥な、曲学阿世の論を述べた国際法学者が東大教授になったり、また、司法の最高の地位に上がる時代であった。さらに、この裁判の検事側証人として登場した左翼系の学者たちが、日本の学界の主流を占め、その方面で権威のある書店や、大新聞の論調を大幅に決定した。しかも、当時の占領軍の言論の検閲は、戦前・戦中の日本政府の検閲よりも悪質で徹底したものであったから、新聞なども甚だしい自己規制をやっていたのである。
このようなわけで、敗戦から、東京裁判が終結し戦犯の死刑が行なわれた昭和23年(1948)の暮までに、いわゆる東京裁判史観は、戦後の日本の思想と教育の大筋となってしまった観がある。しかも、日本がサンフランシスコ平和条約を調印した昭和26年(1951)の秋までは公職追放令が有効であったから、東京裁判も批判する声はないといってよかった。
東京裁判史観は、日本の言論界やマスコミや著述業界における一種のエスタブリッシュメント(思想的権威)となり、これを批判することはタブーとなった。そのうえ、その史観で教育を受けた者は、それを信じこんでいた。東京裁判史観は左翼政党の熱狂的に支持するところであるから、その影響下にある教員組合を通じて日本の児童・生徒の頭の中に、この史観が注ぎこまれた。
最も有力な大学の法学部教授たちが東京裁判史観を説けば、その出身者の少なからざる者は、その史観を持ったまま、高級官僚になり、司法官になる。そして、その史観に基づいて一度発言したり論文を書いた人は、それにコミットしてしまうのだ。
素人(しろうと)ならば、もっと説得力のある意見や発言を聞けば、こだわりなく見解を変えるが、専門家と称する人たちは、その切替えが、かえってできがたいのである。
もう一つ、東京裁判の結果に信憑性を与えたのは、その記録の厖大さであろう。日本語に翻訳された裁判記録でも、ほとんどワン・セット十数巻の百科事典ほどの分量で、私は1セットを買い求め関係部分を精読したこがある。一般の読者にそう簡単に読めるものではない。また、その審判の過程においては、連合軍の権力を背景にして証拠の蒐集や証人の喚問が行なわれたため、個人の歴史家などの調査力の及びもつかぬ調査が行なわれた。と信ずる根拠があった。