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人格的共同関係を欠く中国社会――西尾幹二教授 - 電脳筆写『 心超臨界 』

電脳筆写『 心超臨界 』

我われの人生は我われの思いがつくるもの
( マルクス・アウレリウス )

人格的共同関係を欠く中国社会――西尾幹二教授

2016-03-21 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p273 】

9 漢の時代におこっていた明治維新

9-3 人格的共同関係を欠く中国社会

日本人は生まれながらにしてムラのなかに生きている。しかし、中国の社会では、人と人とを結びつける原理は何によるのであろうか。原則としては個別的な二者間関係で結びつけられており、無限かつ縦横に果てしなくつらなる二者間関係の総和をつくりだすネットワークとして社会は存在している。中国は、基本的に団体というものを持たない。中間的な共同社会を知らないがゆえに、たんに二つの個人と個人の間の関係的な社会といっていい。中国人の間で宴会がしきりに行われるのをもって、人は中国人の悪習のように言い、民族性のように言うが、宴会は未知の他人をひとつにつなぎ、人と人との間の交わりを深くする役割をもっていた。これは連帯関係が薄いか、もしくは欠如しているような状態にかえってみられる傾向なのである。

今まで、中国社会は地縁・血縁関係の強い社会だという認識が普通であったので、以上見るような判断は不可解に思われるかもしれない。しかし、私がこれを知って納得したのは、人間が安定した集団に所属していないがゆえに二者間関係のネットワークを極力広げようとし、その個々の努力の集まりの結果として、地縁と血縁を基礎とするネットワーク社会が成立するというふうに、逆に理解することもできるのではないかという気もする。

だが、以上述べてきたことは近代中国の現象であり、古代にまで適応できないと言う判断はもちろんありうる。だから、これが歴史の研究ではなく、比較文明論だといった所以である。過去の社会を現在から判断しなければならないほどにデータが不足しているし、専制国家体制としてのこの国の理解のできない不可思議な側面は、まずはこうした人間関係の特殊性にあると考えられるので、比較文明論的な新しいデータも簡単にみすごすわけにいかない。何千年とつづいていた文化の基底部と深くかかわっていることは推測可能である。

二者間関係しか基本的に成り立たない中国社会を動かしているのは、濃密で情的なムラ社会ではなく、任意団体(ボランティア団体)の集まりみたいなものだといっていい。日本の共同団体のようなものではなくて、特定目的のために人々が急遽集まった団体である。その構造は影響力のある個人を中心にして、人々がひじょうに不安定に集まった集団であり、中国社会にはそういう集団しか存在していないといえるであろう。

  共同関係が存在しないという中国社会は、実は裁判制度や中国の宗
  教的、道徳的、いろいろな特質のなかから説明されますが、例えば
  人格の面を表している一つの現象だけ少し見ておきます。中国では
  おそらく私人行為に対する安定した信頼関係が欠如しているという
  か、そもそもそういうことが成立しない社会だというのは、例えば
  日本でいう「文書」の不在ということにもかなり典型的に現れてい
  ると思います。中国史に私文書がないわけです。日本史で言われる
  ような差出人が特定の受領者に対して意思を伝達するための「文書」、
  だれか個人が他人に対して自分の意思を伝達した書類が社会的な信
  頼、信任をもって通用するという関係が中国では基本的にはない。
  しかし日本では文書の範疇に入らない大福帳のような個人の覚え書
  きが逆に裁判の証拠にもなる。

  中国でのいわゆる文書史料は、合同契約で、契約者双方が名前を書
  き、真ん中に仲人と呼ばれる仲介者が名前を書いて三者が連名した
  契約文書です。これはある種の契約文書として発行するのですが、
  日本のように私人が他人に対して出したという行為自身に社会的な
  信頼性がそのまま生じるということが基本的にはない社会である。
  したがって中国には「文書」がない。

  そいうことに現れるように、基本的には私人の行為に対する安定し
  た信頼がそもそもない。したがって私的なつながりを、私人間の安
  定した共同関係へと発展させる能力がもともと人格的にもないとい
  う社会だと思います。
  【足立啓二「専制国家と人類史発展の諸類型」『シンポジウム 
   歴史学と現在』】

中国には、封建時代が存在しない。封建社会はプライベートなつながりをもつ小集団社会を基盤とし、その上に成立してきた社会である。しかし、繰り返し述べてきたように、ムラについても、家族についても、同業組合についても、その他の共同体についても、中国の団体は非常に不安定な、分割を前提とした同居集団にすぎない。中国社会は団体的な規範や掟を前提としない、上からの統一的な行政編成によって成り立った社会であるということで、体制自身は古代から今日までずっと変わらないとみられているのである。この点については、ほぼ議論は出し尽くされていると研究家の足立氏は語るのである。

私は先ほど、中国で2、3千年かかったことを日本はほぼ3百年ぐらいでおさらいした「後追い国家」であったと述べた。封建社会というのは、ヨーロッパも日本も含めて、後追い型の国家編成のなかから生まれてくるものである。ヨーロッパは古代ローマを、日本は古代中国をモデルとして追いかけた不完全な国家であった。その結果、封建制度を生み、氏族社会や部族社会が古代から抱えていた小集団意識、ムラ意識、忠誠心や義理人情を残し、それを育くみ守りつづけた。それに対し、中国は古代のきわめて早い時期に、ある一定の段階を経過して、高度官僚社会を形成し、戦争がもたらす長期にわる軍事緊張を絶え間なく媒介としながら、小集団のもつ共同性を否定し、統一的に強制編成を行った結果として現れたものが、中国の専制国家体制であると考えられるのである。

中国史とすれ違う日本史の問題は、あらためてこの新しい見地から築かなければならないのではなかろうか。

今まで、日本人は中国文明を他者として意識的に自分から切り離した観察対象として見ることができなかった。権威とされてきた中国哲学や中国文学のよく知られた学者たちの対応の姿勢にも問題があった。中国は師匠であり、巨大なうっとうしい隣人であり、最近では贖罪の対象でさえあって、複雑きわまりない。この国家の持つ特異性とわれわれとの相違性とを薄々とは感じていたものの、はっきりとは意識できずに今日に至っている。

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