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『国民の歴史 上』http://tinyurl.com/mtrmbzp
【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p263 】
10 奈良の都は長安に似ていなかった
10-0 奈良の都は長安に似ていなかった
万葉集の巻一の一。初めに出てくる歌である。
籠(こ)もよ、み籠(こ)持ち 掘串(ふぐし)もよ、み掘串(ぶくし)持
ち、この岡に菜つます子。家宣(いへの)らへ。名宣(の)らさね。空
見(そらみ)つ大和(やまと)の國は、おしなべて吾(わ)こそ居れ。し
きなべて吾こそ坐(ま)せ。吾こそは宣らめ、家をも名をも
[ 訳 ] 籠や、箆(へら)や。その籠や、箆をもつて、この岡で、菜
を摘(つ)んでゐなさる娘(むすめ)さんよ。家を仰(お)つしやい。名
をおつしゃい。此大和の國は、すつかり天子として、私が治めて居
る。一體(いつたい)に治めて私が居る。どれ私から言ひ出さうかね。
わたしの家も、名も。 【折口信夫『口譯萬葉集』】
これは雄略(ゆうりゃく)天皇の御製(ぎょせい)とされており、したがって5世紀の天皇であるから、奈良の都とはじかに関係はない。
天皇が春の野遊びをしている場面である。若い可愛らしい女の子が菜を摘んでいるので、その子ども、あるいは若い女性に天皇自らが声をかけている。そういう場面である。
「あなたの名を告げなさい、私のほうこそ名を名乗りましょう。あなたも名前と家を名乗ってください」と、天皇が野遊びで呼びかけている、ほほえましい歌である。
折口信夫は右の歌について、古代において皇室がいかに簡易生活をしておられたかが、この御製で拝することができる、ことに素朴放胆でいらせられた雄略天皇の御性格は、われわれの胸に生きた力をもたらす、という意味の言葉を書き加えている。
10-1 郊外の野原が境界的な場所だった
『万葉集』には野遊びの歌が非常に多い。総じて日本の都会には昔から城壁というものがない。郊外が野原であり、山の傾斜であり、そこへピクニックに行くというような都市生活者らしい遊びが平城京では少なくなかった。純粋な季節の変化をうたう歌が多いのは、都市生活の成立をむしろ物語っている。自然だけを讃えるということはあまりなくて、人事が自然と重なってうたわれている。都ができてから以降はことにそうである。
春日山をうたった歌が非常に多い。平城京から山を見ると、春日が多い。
冬過ぎて春きたるらし朝日さす春日の山に霞たなびく
鶯の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
春日山に霞がたなびいていることで春の訪れを感じ、野遊びに出る。これが平城京における生活の一齣だった。春日が奈良の都の郊外であったとすれば、そこに住む人々にとって郊外と呼べる場所は春日だけだったといえる。郊外は都市を囲む空間すべてといっていいだろう。
古橋信孝『平安京の都市生活と郊外』では、郊外が当時の都市生活に果たしていた役割を文学的に考究している。春日野で遣唐使を送る祭が行われたこともあった。
春日野に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花栄えてあり待て還(かえ)
り来るまで
郊外で国家行事として日本国中の神々を集め、遣唐使の成功と無事な帰還を祈った歌である。
古橋氏は、郊外とは自然と触れあうためだけのものではなく、「郊外の野が外国、神々、自然などと接触する境界的な場所である」という文学的な解釈を下している。つまり春は山の向こう、見えない世界、異境から次第にやってくるのである。春は単なる時間を表わす言葉ではない。異境のものが山を越え野にやってくる。このとき異境は、ときには言葉の通じない山の向こうにある日本の国内の人々でもあり、また外国から来る人々でもある。また神々の世界でもある。それらと人間のいま住む世界との境目が春日の郊外である。さらにまた奈良の都にはなぜ城壁が不要だったのだろう。このような「郊外を持っているから城壁が不用だった」と氏は述べている。
郊外と文学を結びつけるきわめてユニークなこの解釈は、それはそれで文学的に成り立つとしても、それならば奈良の都がモデルとした中国の長安には城壁があったのだろうか。というより、朝鮮半島を含むユーラシア大陸のほとんどすべての都市には、自明のごとくに城壁があり、日本は自らが造った最初の都からすでにして城壁を持たない。城壁がないがゆえに郊外が境目をなしたという文学論によって、ユーラシア大陸のあらゆる町々が城壁を必ず保持していたということの説明にはならない。
おそらく人は、私が日本における自己防衛への呑気さと、その不必要の現実を指摘し、日本以外の国々はどこにおいても敵に取り巻かれる危険があったという理由を言いたてたいのだと思うかもしれない。古橋氏もまたそういう前提に立っていたらしく、藤原京にも平城京にも平安京にも城壁がないという日本の都市の問題について、真っ先に「外敵がいなかったから」という一般的理由を想定し、そこにむしろ文学的に異を唱えるというスタンスをとっている。しかし、私は城壁不在の理由についてそれだけでどうしても満足できなかったし、疑問を抱きつづけていた。
日本の都市に城壁がなかったのは、外敵への脅威に脅かされないですむほどの治安の良さが原因をなしていたのだろうか。それとも都市がなだらかに自然の中に流れこんでいく山野・平原との親しみのあり方が、城壁を不要としたのであろうか。調べていくと、どうも理由はどちらでもないことに気がつく。それよりも、中国の都、たとえば当時の長安においてなぜ城壁が必要とされたか。あるいはその町のあり方はどう奈良の都と違っていたか、ということを考究することが問題の基本をなしているように思えてくる。
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p263 】
10 奈良の都は長安に似ていなかった
10-0 奈良の都は長安に似ていなかった
万葉集の巻一の一。初めに出てくる歌である。
籠(こ)もよ、み籠(こ)持ち 掘串(ふぐし)もよ、み掘串(ぶくし)持
ち、この岡に菜つます子。家宣(いへの)らへ。名宣(の)らさね。空
見(そらみ)つ大和(やまと)の國は、おしなべて吾(わ)こそ居れ。し
きなべて吾こそ坐(ま)せ。吾こそは宣らめ、家をも名をも
[ 訳 ] 籠や、箆(へら)や。その籠や、箆をもつて、この岡で、菜
を摘(つ)んでゐなさる娘(むすめ)さんよ。家を仰(お)つしやい。名
をおつしゃい。此大和の國は、すつかり天子として、私が治めて居
る。一體(いつたい)に治めて私が居る。どれ私から言ひ出さうかね。
わたしの家も、名も。 【折口信夫『口譯萬葉集』】
これは雄略(ゆうりゃく)天皇の御製(ぎょせい)とされており、したがって5世紀の天皇であるから、奈良の都とはじかに関係はない。
天皇が春の野遊びをしている場面である。若い可愛らしい女の子が菜を摘んでいるので、その子ども、あるいは若い女性に天皇自らが声をかけている。そういう場面である。
「あなたの名を告げなさい、私のほうこそ名を名乗りましょう。あなたも名前と家を名乗ってください」と、天皇が野遊びで呼びかけている、ほほえましい歌である。
折口信夫は右の歌について、古代において皇室がいかに簡易生活をしておられたかが、この御製で拝することができる、ことに素朴放胆でいらせられた雄略天皇の御性格は、われわれの胸に生きた力をもたらす、という意味の言葉を書き加えている。
10-1 郊外の野原が境界的な場所だった
『万葉集』には野遊びの歌が非常に多い。総じて日本の都会には昔から城壁というものがない。郊外が野原であり、山の傾斜であり、そこへピクニックに行くというような都市生活者らしい遊びが平城京では少なくなかった。純粋な季節の変化をうたう歌が多いのは、都市生活の成立をむしろ物語っている。自然だけを讃えるということはあまりなくて、人事が自然と重なってうたわれている。都ができてから以降はことにそうである。
春日山をうたった歌が非常に多い。平城京から山を見ると、春日が多い。
冬過ぎて春きたるらし朝日さす春日の山に霞たなびく
鶯の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
春日山に霞がたなびいていることで春の訪れを感じ、野遊びに出る。これが平城京における生活の一齣だった。春日が奈良の都の郊外であったとすれば、そこに住む人々にとって郊外と呼べる場所は春日だけだったといえる。郊外は都市を囲む空間すべてといっていいだろう。
古橋信孝『平安京の都市生活と郊外』では、郊外が当時の都市生活に果たしていた役割を文学的に考究している。春日野で遣唐使を送る祭が行われたこともあった。
春日野に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花栄えてあり待て還(かえ)
り来るまで
郊外で国家行事として日本国中の神々を集め、遣唐使の成功と無事な帰還を祈った歌である。
古橋氏は、郊外とは自然と触れあうためだけのものではなく、「郊外の野が外国、神々、自然などと接触する境界的な場所である」という文学的な解釈を下している。つまり春は山の向こう、見えない世界、異境から次第にやってくるのである。春は単なる時間を表わす言葉ではない。異境のものが山を越え野にやってくる。このとき異境は、ときには言葉の通じない山の向こうにある日本の国内の人々でもあり、また外国から来る人々でもある。また神々の世界でもある。それらと人間のいま住む世界との境目が春日の郊外である。さらにまた奈良の都にはなぜ城壁が不要だったのだろう。このような「郊外を持っているから城壁が不用だった」と氏は述べている。
郊外と文学を結びつけるきわめてユニークなこの解釈は、それはそれで文学的に成り立つとしても、それならば奈良の都がモデルとした中国の長安には城壁があったのだろうか。というより、朝鮮半島を含むユーラシア大陸のほとんどすべての都市には、自明のごとくに城壁があり、日本は自らが造った最初の都からすでにして城壁を持たない。城壁がないがゆえに郊外が境目をなしたという文学論によって、ユーラシア大陸のあらゆる町々が城壁を必ず保持していたということの説明にはならない。
おそらく人は、私が日本における自己防衛への呑気さと、その不必要の現実を指摘し、日本以外の国々はどこにおいても敵に取り巻かれる危険があったという理由を言いたてたいのだと思うかもしれない。古橋氏もまたそういう前提に立っていたらしく、藤原京にも平城京にも平安京にも城壁がないという日本の都市の問題について、真っ先に「外敵がいなかったから」という一般的理由を想定し、そこにむしろ文学的に異を唱えるというスタンスをとっている。しかし、私は城壁不在の理由についてそれだけでどうしても満足できなかったし、疑問を抱きつづけていた。
日本の都市に城壁がなかったのは、外敵への脅威に脅かされないですむほどの治安の良さが原因をなしていたのだろうか。それとも都市がなだらかに自然の中に流れこんでいく山野・平原との親しみのあり方が、城壁を不要としたのであろうか。調べていくと、どうも理由はどちらでもないことに気がつく。それよりも、中国の都、たとえば当時の長安においてなぜ城壁が必要とされたか。あるいはその町のあり方はどう奈良の都と違っていたか、ということを考究することが問題の基本をなしているように思えてくる。
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