剥き身の人間の心をぶつけあってダイスロール判定やって勝ち負けを決めてこうってやり方が気持ち悪い。
ホビーや異能力によってバトルを行う漫画はそんな品の悪いやり方で人間に序列を付けたりはしない。
たとえばこれがホビーモノだったら気持ちとはミニ四駆やベイブレードに載せることでぶつけあう間接的なモノだし、バトル漫画においてもスタンドや呪術の相性に勝敗は左右される。
気持ちや心が勝敗を決める重要なファクター、OSRポイントに深く関わる要素であるのは間違いないが、バトルで負けたから心が劣っているものとして描かれることはない。
たとえばワンパンマンの無免ライダーなんかは最高の気持ちを持ちながらも本体性能の脆弱さにより勝利を掴めないキャラクターの代表例だ。
言ってしまえばバトル漫画とは「心の有り様は勝敗に強く影響するが、勝敗がそのまま心の優劣を示すわけではない」という世界観によって描かれているのである。
一方で恋愛モノは全く違う。
気持ちや心そのものを直接ぶつけ合ってしまっているので、そこで出てきた結果に対して「能力や機体の性能が」という言い訳は通用しない。
ストレートに「このキャラクターが人間として劣っているからこの結果になったのだ」と突きつけてくる。
この傾向は恋愛モノにおけるキャラクタービジュアルにも出てきている。
恋愛モノにおいては外観の美醜と内面の美醜は比例傾向にあり、ごく一部に「あえて逆張りしたキャラクター」が存在する。
特に悪役令嬢なんかは外見が綺麗なはずなのに内面は腐敗しているというギャップにより悲しい過去や真なる邪悪であることを匂わせるとっかかりとしてさえいるのだ。
つまり、基本的に恋愛モノ漫画においては「心は素晴らしいけど外見が足りてないから恋愛ダイスロールに失敗した」は存在しないのである。
なぜなら、心のスペックが十二分であれば外見はそれに比例してパワーアップするはずだからである。
これらにより「心の有り様は勝敗だけでなく存在の優劣そのものを決める絶対的なファクター」であるという世界観を描き出しているのが恋愛モノなのだ。
当然、このような世界に無免ライダーのような「正しく清らかな心を持ちながらも本体性能の多寡により望む結果を得られなかった勇者」などは存在しようがないわけである。
バトル漫画は「気落ちだけでは勝利できない」という現実世界の残酷さを描いてこそいるが、それは同時に「敗北者の心が常に間違っていたわけではない」を描いてもいるのだ。
「気持ちこそが全てを決定する」という世界観は一見すると正しいものが報われる公正な世界だが、その世界の中で結果を出せないものは「気持ちそのものが間違っていた」というレッテルを貼られてしまうのだ。
ハチクロのラストシーンが何故あんなにも救われるのかと言えば、恋愛漫画というジャンルが持つその基本的な文脈に対する逆張り、「恋愛で負けはしたけど気持ちは正しかったモノ」を描いたからなのである。
つまり、恋愛漫画とはもしもその世界で誰かが敗北したときに「そうです。お前が間違っていたから負けたのです。お前の人生は無意味でした。でもお前のせいです。あ~あ」を叩きつけるような世界の物語なのだ。