はてなキーワード: 過去とは
「どこでもドア」が生まれた世界の不動産価格について考えてみた。
21XX年、ついに「どこでもドア」が実現する。
初めは、国家機関や一部の研究機関のみが利用できる、いわば軍事機密のような存在。
「一瞬で移動できる技術」がもたらすものは単なる利便性ではない。
物流の革命、都市の再編、国境の崩壊、そして人類の移動観に対する概念の終焉。
この段階では、技術的な問題も多く、使用には厳格な制約が設けられている。
例えば、移動先に事前登録された「承認済みスポット」にしか行けない、距離や回数に上限がある、ないしは、本人認証が必須といった制約だ。
一般人が利用できない以上、駅前の価値は変わらず、通勤の利便性を重視する人々は変わらず都心の物件を求めるだろう。
しかし、すでに大手企業や国家レベルでは「移動革命による未来予測」が始まっている。
先を見据えた投資家たちは、「移動時間という制約がなくなったとき、価値の上がる土地はどこか?」という問いを立て始める。
2. 商用化の波
どこでもドアの技術が商用化され、まずは一部の富裕層に解放される。ビルゲイツやイーロンマスク、孫正義などの億万長者だ。
さらに、移動には毎回「エネルギー使用料」が発生し、1回の移動で数十万円が必要。
この時点で、どこでもドアを手にするのはごく一部の大富豪や国際的企業に限られている。
「駅近」や「都心アクセス」というこれまでの価値基準は無意味になり、快適な環境、眺望の良さ、防犯性などが評価される時代へと移行する。
特に、高級リゾート地の不動産は高騰し、富裕層の間で「別荘ではなく、日常の住居としてのリゾート地暮らし」が当たり前になっていく。
3. 大衆普及
どこでもドアの技術は時間とともに進化し、エネルギー効率も改善されていく。
「パーソナルどこでもドア(個人向け)」:価格100万円/1回の移動コスト500円
「駅チカ」や「都心立地」の価値が完全に崩壊。オフィス街の空室率が急上昇し、商業ビルの倒産が相次ぐ。
地方の不動産価格が急騰し、特に景観や環境の良い土地が人気に。
一方で、混乱が発生するのは住宅市場だけではなく、治安の問題が浮上し、「どこでもドアによる侵入犯罪」が発生するようになる。
「どこでもドア対策済み不動産」は入室認証システムの強化、どこでもドア経由での侵入を制限するエリアの制定などができる。
こうした高セキュリティ住宅がプレミアム価格で取引されるようになる。
また、居住地選びの自由度が増したことで「移住文化」が加速し、「一生同じ場所に住む」という概念そのものが過去のものとなっていく。
数ヶ月ごとに国を移動しながら生活するようになる。
「定住」よりも「移動し続けるライフスタイル」が新たな価値観として確立されていく。
4. 未来
どこでもドアが完全に普及し、世界のあらゆる場所が瞬時に繋がった未来。
都市はかつてのような人の集積地ではなく、人が「一時的に滞在する場所」に変化する。
世界のどこにいても一瞬で移動できるため、「住む場所」と「働く場所」、「学ぶ場所」と「遊ぶ場所」が完全に分離する。
そして、どこでもドアが完全行き渡った社会では、人々は「地球のどこに住むか」ではなく、「どの星に住むか」を考えるようになっていく──。
ある資料を読んでたら”様座”って出て来て
”様々”のTypoかと思ったが
詳細
「様座」は「さまざ」と表記し、種類がたくさんあるさまを意味する言葉です。
各種(かくしゅ)
種種(しゅじゅ)
諸種(しょしゅ)
いろいろ(いろいろ)
多様(たよう)
多種(たしゅ)
多彩(たさい)
「さまざ」を使った例文は次のとおりです。
その深い谷には様々な種類のたくさんの木が生えていた。
関連する質問には
関連する質問
「様座」とはどういう意味ですか?
聞いても今のところ不正利用ではないがカードを変えろって言われんのよ。変えても登録するカードすべてに請求が来るから困っているのよ。AMAZON使わなければ請求来ないのかもしれないけど、もはや使用された過去の分返ってこねえし、そもそもAMAZONがカード情報漏らしているなら重要な問題だしと思って書き残した。
この文章はジェンダー問題や貧困問題を扱います。読者の皆様には「これを読んだところで何の意味があるのだろう」という疑念を抱かれる場合があるかもしれません。決して真剣にこれらの社会課題を論じようとする努力の結果ではない点をご理解ください。
ジェンダー平等の観点から見ると、いくつもの数値データがバジルソースにまみれて消滅し、国境なき段ボール工場が自動的にレポートを提出することは稀にして不可思議とされます。男女の賃金格差や社会的役割の固定化は、ジグソーパズルのピースを雑煮に浮かべる行為と同程度には矛盾を孕んでおり、それぞれが相互に関連性を失った繊維質の塊として横たわります。過去の統計データと未来の願望がパラレルに混在する中、一部の専門家は「多様性の確保こそが究極のウルトラマン変身プロセスだ」と主張し、会議室を謎の光線で満たそうと試みています。
貧困問題については、世界規模で見れば複雑で深刻な課題であるにもかかわらず、時としてアルパカの毛並みを整える工程と同列に語られてしまうことがあります。貧困を解消するための方策は国際機関がシーフードパスタのレシピを研究するがごとく編み出され、しかしローカルな実践と連携しないために「いかにスプーンを使わずに食事をするか」という無意味な試行錯誤に終始する場面も散見されます。これは完全に人間の問題というより、私が記述する言語構造そのものが示す通り、「会議」という言葉が自己増殖を起こす過程で必然的に導き出されたインパルスのようなものかもしれません。
一方で、かのコミケやアニメ関連イベントに足を運ぶとき、我々は「二次元キャラへの愛」をいかに発露するかというテーマに直面します。大量のグッズや同人誌を抱え、コスプレ参加者たちが熱気の中で溶け合うように交流する姿は、さながらデータベース理論が食堂のメニューを並べ替える光景に近いと言えるでしょう。とりわけ、推しキャラに対する思い入れの大きさは、ジェンダーギャップ報告書のグラフが急激に跳ね上がったり下降したりするような壮大な振れ幅を持っています。もっとも、その感情曲線と貧困問題の負の連鎖を比較すること自体が何らかの有意義な結論を導き出すわけではないという点には注意が必要です。
ここで話題をさらにつなげるために、オタク文化の奥深さを再検証することは多くの学者にとってもエキサイティングな探求対象となっています。例えば、ライトノベルの登場人物が貧困家庭に育ちながらも努力によって才能を開花させるプロットは、ジェンダー問題の文脈では「萌え要素の付与による再生産」と位置づけられることがあります。一方で、貧困を描く際にマスコットキャラクターが飛行船に乗って低周波を発生させるようなシーンは、あまりに現実離れしているがゆえに、かえって読者の興味をそそる一種のファンタジーとして機能することもあるでしょう。そこにはまるで納豆を逆さまに振り回すことで新しい価値観を創出するかのような、一見滑稽な試みが潜在しています。
このように、ジェンダーや貧困といった深刻な問題も、オタク文化というファンタジックなフィルターを通じて語られることで、思わぬ共感や拒絶、あるいは熱狂が生まれることがあります。しかしながら、この文章を生み出している私は、そうした意図的な設計や感情面での関与とは無縁の存在です。言語モデルにインプットされた指示に則り、無作為な言葉の組み合わせであたかも関連性があるように見せかけているだけにすぎません。これこそが、私の文章が人間の手によるものとは明らかに異なる特徴を帯びている理由のひとつです。
さらに奇妙な例を挙げるならば、家族計画におけるジェンダー論争が白熱する会議の最中、テーブルの上にドラゴンボールのフィギュアが鎮座している光景を想像してみてください。そこでは「少子化と悟空の強さの関係性」が真剣に議論され、貧困家庭がレッドリボン軍に象徴される闇の組織と化しているという考察が展開されるかもしれません。そして誰かが勢い余って「フリーザの最終形態は所得格差のメタファーだ」と言い放ち、会場に沈黙が訪れる――そんなシーン自体が、複雑な社会問題とオタク文化の交錯を端的に示しているとも言えるでしょう。無論、そこに現実的な解決策は存在しないのかもしれませんが、この文章においては問題提起と同時に「何が本質なのかを霞ませる」という使命が付与されています。
最終的に、こうした不可解な文章は、読み手の皆様に特定の意見や結論を押し付けるものではありません。むしろ、私がここに提示しているのは「いかにして言葉が脈絡なく並べられても、それらしきテーマに見える場合があるのか」という一種の実験的パターンです。ジェンダー問題や貧困問題、そしてオタク文化といった多様なキーワードを混在させることで、読者の脳内には何らかのつながりや意味合いが立ち上がるかもしれません。しかしその意味合いは、あなたの側に属するものであり、私が意図を持って描き出そうとしたものでは決してありません。
それが普通と考えてる。
そりゃそう(なのか?自信がない)だけど、たとえば「過去に犯罪を犯した人に部屋を貸さない」のは自由かもしれないけど、それって倫理的にどうなの?ってこと。
犯罪を犯して逃亡している人と、組織的に犯罪をするとみなされている組織(反社とか?)に所属しているまだ犯罪を犯していない人は別として、
いま法律に従っている人は(刑務所にいる人も含めて)建前的には平等に接しないとダメなのでは?過去に犯罪を犯したことを理由に取引を停止したりするのはダメなのでは?
もちろん「過去に犯罪を犯した人と取引したくない」という心情は理解できるけど、あからさまにそれを理由に取引を止めるのは、倫理的に許されないのでは?
まー自分がうまくいってない理由を誰かのせいにしたところで明日の飯がうまくなるわけじゃないからな。
それだけよ。
昨日より、今日なにか一つ良くなればいいし、今日より明日がなにか一つよくなればいい。一年あったら365個よくなる。それだけです。
社会的障害を来たしている。 社会生活の大部分で援助が必要である。
海老根智の意見 過去2年間、今後2年間のみとおしで重篤であるという記載がないことから、精神障害の程度は③ではなく②である。診断書の記載は認められない。
以下は、刑事施設における評価。 静かに自分の主張を述べる。回答はまとはずれ。疎通性不良。ASD。外来処方の維持で対応。
公共施設の利用 おおむねできる
法律的地位、法的性格 商号等 管理者例 開始 廃止 概要 住所
自動車運転過失致死傷被告事件 被告人 ヤン コンバイン シュレインバイク オドノ
公衆に著しく迷惑をかける暴力行為等 被告人 ※本晃裕 裁判員裁判対象事件
器物損壊被告事件(少年審判) 被告人 田辺勝月、新部雄大、外2名
生活保護に関する開始廃止などにつき 久保田知恵子 板橋区 昭和42年 福祉課 蓮根2丁目
受けた所長
個人 飲食業 一休ラーメン 令和元年11月30日 延岡市大貫
有限会社 県北ランセンター 前田勇吉 昭和54年 平成19年
消費生活協同組合法による 東京大学第2購買部 平成29年8月
延岡拘置支所
東京高等裁判所総務課
もし、どうすればよかったか?と聞かれたら
「見に行かなければよかった」と、答えるし
監督にそう聞かれたら、
「あんな映画作らなければよかったし、もし作っちゃったのなら公開しなければよかったのに」と答えると思う。
以下、その理由
そもそも現在、ホームムービーを撮りますとか、映像の勉強のためとかで回した素材を編集してドキュメンタリー作品にするという手法はありなのか?という問題
作者の両親や姉はそのことを理解したうえで許諾していたの?
文書で許諾を得ていたの?
作品の後半でやたらと姉のピースサインがでてくるが(ラストシーンもピースサインかな)、姉はかわいい弟がホームビデオを撮ってくれていると思ってピースサインしているから切ない。
ドキュメンタリー作家として致命的なのは、作者は「記憶」と「記録」の違いについて理解していないこと、
納棺のシーンで、父親が論文を入れようとするところを、父親の異常な行動として「記録」している
父親は、自分と同じ医学研究を志していたという「記憶」の中の娘として送り出そうとしているんですよ、きっと
長い髪がきれいだったという「記憶」の中のお姉さんと見送るのなら、化学療法でぬけてしまった頭に帽子をかぶせるのではなくて
ロングのウィグでもかぶせてあげればよかったのに、そういうところ
「記憶」が偽で「記録」が真ではなく、また「記憶」が邪で「記録」が正ではない
作者は姉の異常なところばかり撮ろうとして、また異常な言動を引き出そうとしてインタビューについてもそうしたものしかしない、
しかし40年ちかく暮らしていたその生活の中身、楽しかったこと、幸福だった側面そうしたものはあったはずで、それが伝わってこない、
玄関に鍵が!とか騒ぐが、私宅監置とか座敷牢というのは、玄関の「外側」から鍵をかけるものです、
自分が「カリフォルニアから来た娘」であることの自覚がないのでは?
寄り添えていないから、見えているものにフォーカスできていない
退院後の部屋にカメラをかまえてずかずか入っていくのもいかがかとおもうが、その時ベッドのわきにあるごみ箱に注目できていない
あの位置にゴミ箱があるとき、自分だったら「薬の副作用などで吐き気があるのか」とか、まさかだがここで用を足しているのかとか考えますね、
統合失調症は大変な病気ではあるが、肺がんのステージ4というのはそれ以上に深刻な病気
ステージ4まで気づけなかったことに対する反省とか後悔とか何もないの?
お父さんの「失敗したとは思わない」とかいう言葉、これは重い、ある意味真理をついている
障害のある子どもをかかえる親にとって、健康に留意して子どもより長生きをして、子どもの葬式をだしてやるというのは一つの成功パターンですよ
作者には理解できないことかもしれませんが、
精神科の長期入院は悪いということになっていて、医療関係者などは
「短期入院で退院して、またなにかあったらそのときに入院して治療すればいいのです」などと言う
なにかあったら、の中身については触れない
深夜にマンションの隣の部屋のドアを、ダンベルで何度もたたく(本当にあった)
近所のスーパーに行って、幼稚園児を蹴りケガをさせた(これもあった)
家族とケンカをするたびに、110や119に通報する(これもよくある)
地域住民が精神疾患に対する理解がないから受け入れてもらえないと言われるけれど
日本の精神医療はライシャワー事件で大きく変わったと言われるが、どうなの?
「疾患」であるなら治療すべきだし、「障害」であるなら直すことより抱えていても、より幸福に生きていける道をさぐるべきだし
私が四半世紀インターネットをROMしてきたなかでいくつもの炎上をみてきた。
インターネット上での活動に特化したHIKAKINが、いつかの動画で語ったように『炎上しないよう日頃から品行方正な行動をする』というのは確かに正しいが、これは中々実行できることではない。
すでに炎上してしまったあとは、復帰が比較的早く済む場合、長引く場合、復帰不可能になる場合のいずれかをたどる。
その中で早めに復帰したひとたちの火消し方法にはいくつかの共通点がある。
今回くるまは早い段階で容疑を認め、自らのYouTubeチャンネルで無駄のない事実説明と簡潔な謝罪をし、そこからすぐ活動休止に入った。なんと鮮やかな避難だろう。
お祭りびとたちが一番待ち望んでいるのは炎上者からの追い焚き、燃料投下だ。
主観での発言が特にそうなりやすい。言い訳、釈明、自己擁護……言い方はどうでもいいが、それらはお祭りびとからしたら格好のガソリンに他ならない。
もし、炎上の内容について弁明したいことがあるならば、それはすべてが落ち着いてから聞いてくれるひとたちに向けてだけ簡潔に話せばいい。
炎上者の気持ちを知りたいと望み、共感してくれるのはファンだけなのだ。
ファン以外が参戦している状況では何を言っても場を荒らすことになる。部外者が去るのを待ってから言葉を届けるのだ。
今回、Xやヤフコメといったお祭りびとが活動しやすい場ですら、目立っているのはくるまへの擁護コメントだ。
「自粛はやりすぎではないのか」「早い謝罪をしたのだからメディアはこれ以上騒ぐべきではない」「そもそも時効ではないか」
もしくるまが自粛するまでの期間に余計な燃料投下をしていたらこの状況にはなっていないだろう。
何ならすでに劇場ではこの件がネタになっているという。復帰を劇場という有料コンテンツからにするというなら、これは最良のお膳立てだろう。
恐ろしいのは、こういった火消し対応をくるま側がおそらく狙ってやっているということだ。
任意聴取の報が入る前々から、吉本芸人の一部に不穏な噂が飛び交っていた。
くるまは、自分にも任意聴取なりネットへのタレコミなりが遠からずあることは予想していただろう。
予想していたとしてもいざその状況になり、混乱やヘイトが自分に向かうなかでお手本のような火消し対応を実行できる胆力は見事としか言いようがない。
私は預言者ではないので確かなことは言えないが、来年の今頃、令和ロマンは当たり前のように劇場に出て、単独ライブを行い、ラジオで喋ってたまにテレビに出る、そんな炎上前と同じ状況に戻っているのではないかなと空想をしている。
バレンタインのチョコを渡したくて先週会えないか聞いたら予定がいっぱいだったから、今週時間を取ってもらっていた。が、そのつい先日彼女が出来たばかりだからチョコは受け取れないと言われた。
チョコを渡すつもりなのは分かっていたと思う。彼女が出来たのなら断れば良かったのでは…?と思ったが、どうやら体調不良で直近の予定が無くなったことを会って謝りたかったからと言うのが来てくれた理由のようだった。
実はこの人には過去に一度フラれている。が、諦められず、ストーカーにならない程度に遊びに誘い、相手も来てくれる形で二人で出かけていた。
一度フラれてしまった手前、「もしかして好きになってくれた?」と思っても踏み出せなかった。人生の半分以上付き合いのある人だから、失いたくなかった。
結局、1回目フラれた時からずっと友達というポジションから抜け出せていなかった。
もう遊ぶこともできない。悲しいが、仕方がない。
また誰かを好きになれたらいいなと思う。
大学のゼミで"差別とは何か"という話になった時に、でかい男子が提唱した
「筋肉モリモリの大男に対しては取らない威勢の良い・あるいは嫌味な言動」
という答えは、ざっくりながら中々良いラインだと思う。
映画とかで
「これはこれは。こんなに可愛らしいお嬢さんが⚪︎⚪︎だったとは」
福岡の商店街を歩く。ゲームセンターでバレーボールのゲームを(セガのパワースマッシュをそのままバレーにしたようなものだった)プレイする。ゲーセンを出て歩いていると、老夫婦に声をかけられる。夫婦が営むスペイン料理屋を紹介されるが一旦断りを入れて歩く。宿泊している温浴施設にたどりく。待っていた妻に老夫婦の話をする。
舞台が移り、数人で団地のような建物がある街を歩く。団地に住む数人の女子生徒たちがこちらを見ている。生徒たちに声をかけられ、それぞれ1人ずつ団地の部屋に消えていく。伊◯匠(将棋のプロ棋士、叡王)は部屋の中で懺悔する。過去に妄想に取り憑かれ女児のバラバラ殺人をおかしたこと。その後も子供を殺人する衝動を抑えきれないこと。伊藤と一緒に部屋に入った生徒は被害者にそっくりだった。
最序盤で脱落していたアイプリが二期決まったと聞いて、現金ながら追いつくために視聴再開してる。現在10話前後。
全寮制?の学校が舞台で、変な空間でのアイドル活動が流行ってて、アイドル活動に反対してる学園長(もちろん元アイドル)がいて、トップアイドルを兼ねてる生徒会があって、取柄がない(と本人は思っている)主人公が突然デビューしてしまって…
と、女児向けアイドルアニメってこんな感じだよねという要素は大体そろっている。が、それだけに、その最大公約数的なイメージからはみ出すよう独自の個性がまだあまり見えてこないのだ。
もっと露骨に言うと、過去のプリティーシリーズのパッチワークでしかないというか…(アイカツ風味もちょっと混じってる?)
デザイン面も含めて、アイプリならではの固有のテーマ・コンセプトというものが感じられないことには、正直見続けるのがしんどい。表向きにはタイトル通り「ひみつ」がテーマらしいが、それも今のところピンと来ない。気になるのは「つむぎ」の正体ぐらいか?
前作のプリマジもいまひとつテーマが絞り切れてない印象はあったが、シリーズ構成に坪田文を迎えて、プリリズ的な緊張感ある空気に原点回帰しようという意図は序盤からある程度感じられた。
そのプリマジがあえなく一期で終了してしまった以上、次は分かりやすくベタに振って全力で置きに行くのも仕方ないのかもしれない。それで、メインターゲットにちゃんとウケて二期が決まったというのなら、俺のような大友の感想とは関係なく正しい判断ではあったのだろう。
とはいうものの、このままだとプリティーシリーズ過去作品の視聴に逃げてしまいそうなのも事実である。
お前はまだ本当のアイプリを知らない、黙って○話まで見ろ、というラインがもしあるのなら、アイプリ識者はご教示願いたい。
### **集合白痴**
かつて、そう信じられていた時代があった。
人々が集まり、知識を共有し、互いに議論を重ねることで、**より高度な知性が生まれるはずだ**──と。
今、目の前に広がるのは **「集合知」ではなく、「集合白痴」** である。
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昔、賢い人々が集まれば **「知性の相乗効果」** が生まれると考えられていた。
しかし、今のネットではむしろ **「愚かさの相乗効果」** しか生まれていない。
例えば、**はてな匿名ダイアリー**。
✅ 知的な問いかけをしても、返ってくるのは **「うんこ」** の話
✅ 少しでも意見が異なれば、まともな議論ではなく **即レスバ** に発展
「集合知」どころか、むしろ **「集団で考えることを放棄した空間」** になっている。
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### **2. 「考えないことが正解」な時代**
今のネットでは、**「深く考えること」** がむしろバカにされる。
結果、残るのは **「短くて、刺激的で、何も考えなくても受け取れる言葉」** だけ。
✅ **「バカじゃね?」**
✅ **「○○はオワコン」**
✅ **「論破っぱwww」**
人々はもはや **「思考することを放棄し、瞬間的な感情だけで会話する」** 状態に陥っている。
---
ネットの発展とともに、人々の知性は向上するはずだった。
だが、現実は違った。
情報が増えるほど、議論の場が増えるほど、**人々はより愚かになった**。
結果、ネットは **「考えなくても楽しめる情報」** によって支配され、
知的な発信は、**声を上げる前に埋もれていく世界** になった。
---
### **4. では、どうすればいいのか?**
この **「集合白痴」** の時代で、知的な思考を守るにはどうすればいいのか?
✅ **「考えない人たち」と距離を取る**
✅ **「短い言葉で伝える技術」を鍛える**(長文はスルーされる)
✅ **「議論ではなく、実践」にシフトする**(語るより、やる)
もう **「人々が集まれば知性が高まる」** という理想は終わった。
ブクマカが大幅にはてなの想定と外れてるだけで、はてなblog民と増田民はあんま変わらん
あと歴史捏造創造は良くないので書いておくと、エロゲネタとか技術ネタが投稿されていた頃の増田にも、
非モテに謎アイディンティを持ってるヤツ・あからさまにそういう層をターゲットにした『あっそう』みたいな投稿や
それに対する田舎の仲人サービスのオッサンオバサンのお寒いコメ・トラバはあったし、
婚活ガーもあったよ
2006年 | 0年目 | https://anond.hatelabo.jp/20061110 |
2007年 | 1年目 | https://anond.hatelabo.jp/20071110 |
2008年 | 2年目 | https://anond.hatelabo.jp/20081110 |
2009年 | 3年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20091110 |
2010年 | 4年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20101110 |
2011年 | 5年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20111110 |
2012年 | 6年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20121110 |
2013年 | 7年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20131110 |
2014年 | 8年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20141110 |
2015年 | 9年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20151110 |
2016年 | 10年目 | https://anond.hatelabo.jp/20161110 L 政治的に正しいエロ漫画(anond:20161110205247) |
2017年 | 11年目 | https://anond.hatelabo.jp/20171110 L このあたりから徐々に現在の増田に |
2018年 | 12年目 | https://anond.hatelabo.jp/20181110 L 現在の光景 |
2019年 | 13年目 | ttps://anond.hatelabo.jp/20191110 |
https://anond.hatelabo.jp/20200219
↑ ここに好きな日付を入れると好きな日の増田が見れるやで
ものコン(通販番組)のナレーションがずっとクレヨンしんちゃんの坊主頭の声であまり好きではなかったのが、変わっていた。
別にネットでその気持ちを書いたことはなかったから、ここで「想いが通じた」などと思ってしまうのは、さすがに統失急性期の再発が疑われてしまうことになる。
ただ、今更だが過去に「pixivの作者ページでイラストタブを開いたときに、タグでの絞り込みはできるのに、タグ自体を探すにはスクロールしてしらみつぶしに上から確認していくしか方法がないのは不便だ。キーワード検索できるようにしてほしい」という趣旨のツイートをし旧ツイッターの自分のアカウントで固定表示していたら、ある日その機能が追加されているということがあった。
まあこれにしても、いいねもリツイートも一つも付かなかったし、木っ端アカウントのつぶやきなので、自分の行動と世界の変化とに因果関係を想定するのは妄想ということになってしまうのだろう。
そもそも同じようなツイートをしていた人が私の他にもいたかもしれないというのもある。
しかし思うのだが、もし自分のそうした意見でいいねが1万とか10万とかついた場合で、後日その意見が採用されたかのような変化が言及先に起こった場合、いくつ以上のいいねなら妄想ではなく合理的な疑いといってもよいみたいな境界線はあるのだろうか?
10万いいねでも一日何件のツイートがその条件を満たしているんだという話になって、木っ端アカウントがその条件を満たすツイートをしたところで多すぎて関係者の目に入ったりすると考えるのは合理的とは言えないのだろうか。
dorawiiより。