3年前に亡くなったある方のことが忘れられないでいます。私は彼女の顔も名前も忘れられずにいます。遺影に映る彼女の笑顔が、何かをしているときにふと、私の脳裏をのぎります。
私は3年前、あるニュースを見ました。それは世界中にあふれる悲しいニュースのひとつにすぎなかったはずなのです。彼女のことは何も知らなかったのですから。それはとても痛ましい事故でした。その事故について思い出すことは私を絶望の底に落とします。いまでも彼女のことを思うと涙が出てきます。心の奥が激しく痛み、ただ息をすることだけでも苦しくなるのです。
彼女は苦しんで亡くなりました。その瞬間、暗く狭い場所で彼女が何を思っていたのか、私は知ることはないでしょう。彼女が自分はもうすぐ死に、ここから出られることはないと悟ったときの苦しみは、どれだけ大きなものだったのでしょう!私はそれを想像するだけで、私の一部も死んでいくように思います。
私はこの事故について、ほとんど誰にも話していません。親しくしている友人のうち数人と、愛する家族は、私がその事故のことを知って悲しんでいると知っています。ただ、それは事故の数か月後のこと。今でも私がそれを思い出し、泣いていることなど、彼らは知りません。そもそも私が言っていないのですから、知るはずもないのです。
彼女が亡くなってから、私は学校に通えなくなりました。一日中寝ていることしかできない日も、泣き明かした夜も、たくさんありました。何度か私は命を絶とうとしたこともあります。高い橋の上で(ご存知のとおり、ゴールデンゲートブリッジは有名な自殺の名所です)私は失望し、泣くことすらできずに、そこにいました。警察が私を助けたので、幸い、私はいまもなんとか生きています。
こんな状況が続いた、1年半が経ったある日、私は家族の勧めで精神科に行きました。精神科で処方された薬を規則正しく服用していましたが、症状はあまり改善しませんでした。最初は主治医に対し、ただ症状だけを言っていました。気分が落ち込むことがあるとか、眠れない日があるとか、そうかと思えば寝ていることしかできない日があるとか…。主治医は黙って私の話を聞いてくれました。いくつかの抗うつ薬や抗不安薬を服用していましたが、症状がいっこうに改善しないため、私はついにその痛ましい事故のことを打ち明けました。
事故のことを打ち明けたところ、私はPTSD(Post-Traumatic Stress Disorderの略。日本語では心的外傷後ストレス障害と略されます)と診断されました。現在も私はこの病気で闘病しています。
私の国では、この病気に対する認知は進んでいます。帰還兵たちのための相談ダイヤルもあります。私は、日本では地震をきっかけに認知されていると聞きました。ただ、私の1番大事な友達が住んでいるイタリアでは、残念ながらそうではありません。イタリア人の多くは、心的外傷後ストレス障害というものが何なのかも知らないようで、うつ病や不安障害の下位分類とみなされることもあるようです。
この文章は、私の経験です。彼女が亡くなった事故も、私の闘病も、実際にあることなのです。
私は独学した日本語でこの文章を書きました。私の文章はあまり上手ではないと思います:/
私はこの病気で非常に苦しみました。私は日本やイタリアでも、私の国のように理解が進むことを心から願っています。
そして、この瞬間もトラウマと戦っているあなたの未来に、少しでも素敵なことや素晴らしいことがあるように、心から祈っています。抱擁とキス