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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

2022-12-10

さっき上司と昼飯食いながらテレビ見てたら

なんでも鑑定団井伊直弼の茶碗が出てたんだけど、

オレ「井伊直弼って何やった人でしたっけ?」

上司フットボール…じゃない、桜田門外で暗殺された人」

ってやりとりがあって、その場はスルーしてたんだが気になって今ググってみたところ

大江健三郎小説桜田門外の変を絡めたテーマの『万延元年のフットボール』て本があるんだね

学があるなあ、ただのオタクかと思ってたよw

追記

帰りしなに昼のフットボールはなんだったんすか?と上司に聞いたところ、

井伊直弼で真っ先に思いうかんだのが 筒井康隆の『万延元年のラグビー』、

それもとりみき漫画版だったらしい。

ブコメの人たちの指摘どおり、あんまりフットボール関係ない)

「でも大江健三郎筒井康隆もいっぱい読んでるよ」とブーストモード小一時間語りそうな勢いだったので、

そこはスルーして早々に帰宅してきた

2022-07-09

anond:20220709175534

単位だと表に闇にそこそこあったと思うが、徳川幕府が直接的に関わるのはそんなになかったかも。

牢屋に入れてそのまま死なせるってのはけっこうあったと思うけど。

直接的に殺すのは安政の大獄テロとしては桜田門外の変が目立つくらいか

2022-05-19

桜田門外の変というありえない事件

開国反対とか疑獄に対する報復とか牛肉かいろいろあるけど。いくらなんでもいきなり斬り殺すとかありえないだろ。

警視庁のまえで斬り殺すとか、国家に対しての挑発でもあるし。

2021-06-06

大河ドラマ見てるけど水戸てんでダメじゃん

水戸学明治維新のはしりになったのに、桜田門外の変平岡円四郎暗殺

更には天狗党の話とか、このあとも各派の一族郎党を巻き込んだ粛清合戦で多くの人材を失い、

明治新政府では存在感ゼロという、トータルマイナスと言っていい結果に。


内輪もめなんて内々に穏便に済ませとけばいいものを、殺し合いにまでなったのは、

水戸人の「怒りっぽい、理屈っぽい、骨っぽい」が完全に悪い形で出たというか、

世間一般常識から乖離していることも気づかないくらい、

閉鎖的で同族意識に凝り固まってたのが、破綻しかけて暴発したって話でしょ。

なんかもう、驚異的に頑固で要領悪くて先が読めてないっていう。


仮にも徳川御三家拠点だったのに、黄門様と徳川慶喜を出した以外、てんでダメじゃん。

2021-05-27

令和、桜田門外の変

未明から降り出した雨は、登城の刻限には雨脚を強め、いよいよ本格的な雨となった。その雨の中を、一丁の駕籠とそれを守る藩士たちの行列は、押し黙ったまま城へと向かっている。

「今年は・・・梅雨が早いのう」

大老須賀掃部頭は、そうつぶやきながら、別のことに思いを巡らせていた・・・

すべての始まりは二年前、英国籍の蒸気船ダイヤモンドプリンセス号の来航である

歴史的には嘉永6年のペリー艦隊の来航があまりにも有名であるが、我が国震撼させたという意味では、この黒船も同様であろう。

幕府は、江戸湾への上陸を求める英国船をなんとか押し留めて神奈川沖に停泊させた。ところが、停泊直後から、船員たちが体調を訴え始め、次々と高熱を出し始めたのだ。

幕府側の代表として、この対応にあたった老中首座・阿部伊勢守は、この未知の病が市中に広がることを大いに恐れ、なんとか船中で治療に当たらせようとした。しかし、船員たちは上陸を強く求め、結局、これも押し切られる形で神奈川湊の対岸にある横浜村に船員の上陸を許し、療養にあたることとなった。横浜村の村人たちは、実に献身的に船員たちの看病にあたったが、次々と高熱を出して亡くなる村人が相次ぐ事態となった。

この未知の疫病は、またたく間に東海道筋を経て日本全国へと広まり、実に多くの命が失われたのであった。

人々は、この病は妖怪変化の仕業であるとして「狐狼那(コロナ)」と呼び、大いに恐れた。

こうした事態に、日本世論は沸騰した。

「この疫病は夷狄がもたらしたものである」「夷狄打ち払うべし」といった攘夷論が吹き荒れた。と同時に、「夷狄上陸を許した責任阿部伊勢守にあり」「伊勢守斬るべし」といった声も高まりはじめた。世論を恐れた伊勢守は、病と称し、その年のうちに老中の座を去ったのであった。

そして、彼の後任として大老となったのが、冒頭の須賀掃部頭である。彼は、周囲からは茶歌ぽんと揶揄され、大老がつとまるような能力のある男ではなかった。しかし、彼は大老就任すると、開国に反対であった朝廷勅許を得ずに欧米諸国との間で締結した条約に基づき、夏の江戸五輪開催へ向けて強権を振るい始めた。

これは火に油を注ぐようなもので、「大老斬るべし」「バッハ打ち払うべし」といった声が、市中に満ちる結果となった。

さて、雨の中、掃部頭の乗った駕籠桜田門外へと差し掛かった時、一人の浪士が行列の前に飛び出してきた。彼は雨音に負けじと「お願いの儀、これあり」と大声で叫んだ。

すぐさま護衛の藩士がこれを静止して取り押さえようとしたが、浪士は刀を一閃し、その藩士を斬り伏せた。これを合図に、複数名の浪士たちが抜刀して駕籠へと殺到してきたのであった。

藩士の多くは、突然の襲撃に算を乱して遁走したが、腕の立つもの数人が駕籠を守るように抜刀し、現場乱闘となった。しかし、多勢に無勢、多くの藩士が切り伏せ、現場凄惨な状況となった。全くの無防備となった駕籠の扉は、襲撃者によって開け放たれ、髷を掴まれ掃部頭は、その場で斬首されたのであった。これが世にいう「令和桜田門外の変」である

2018-12-01

anond:20181201084454

東京入管のツィートに始まる騒動はてなの反応を見る限り、桜田門外の変現代に起これば「暴力的な行動は支持できない!落書き擁護する人間反社擁護するのか!」などというお上品な奴隷ブコメが並ぶのは間違いないね

現代での政治的行為として暴力あんまり意味はない、とは思うけど現代桜田門外の変くらいは起こっても良いかと思ってきたよホンマ

2018-11-18

桜田門外の変

任命されるのは派閥とかコネなの?

このままだとセキュリティ問題で、桜田門外の変が起きるんじゃね?

2018-09-19

水戸黄門かい暴君を美化したドラマ

徳川光圀

辻斬りを頻繁に行い、家臣もその場で斬り殺す。

御三家の見栄のために石高を多めに申告し、そのために領民に重税を課す。

さら大日本史編纂などという暴挙を始める。

これがために藩の財政さらに逼迫させただけに留まらず、水戸学を生み出し尊皇攘夷震源地となり桜田門外の変引き起こし

その精神薩長に受け継がれついには太平洋戦争引き起こし日本破滅へ進み、現在もその負の遺産を引きずっている。

水戸藩自体天狗党と諸生党に別れて内ゲバを繰り返して優秀な人材は悉く失われ、茨城県の発展は遅れに遅れ、現在最も魅力のない都道府県ワースト1位に甘んじている。

このような現在に至るまでなお悪影響しか残していない暴君暗君の極み徳川光圀

これを水戸黄門などと称して正義の味方のような扱いをするなど狂気の極みではないか

例えるならヒトラー正義ヒーローにしているようなものだ。(後世への悪影響という点ではヒトラーよりもタチが悪いかもしれない。現在右翼団体ルーツ徳川光圀だ。)

2018-04-15

anond:20180415210319

逆に桜田門外の変とか、アドレナリンが出まくってたんだろうな、

暗殺成功した後の帰り道で自分の指や耳が無くなっているのに気づいた侍も多数いたとか

2013-09-13

twitter炎上突撃近代の打ち壊しといった趣を感じる

そのうち桜田門外の変でも起きるんでしょうか

2008-11-19

社会保険庁のあれはテロリズムなの?

テロって組織的犯行のことをいうんじゃないの?

なんでマスメディアはこの事件をテロっていってるんだろう。

こんなの個人的な義憤に燃えた人物が天誅気取った単独犯なんじゃないの?

組織性はほとんど見えないよ。

なんか江戸時代末期みたいだね。

田沼意次を思い出したわ。

あれも関係者が殺されてようやく贈収賄一揆うち壊しの時代が終わったんだよな。

桜田門外の変とかも今風にいえばテロになるのか?

大老暗殺クーデターに近いか。

足がつく犯行のしかたをしているので比較的にすぐ捕まるとはおもうけど、

そういう目的の達し方もあるんだと模倣犯を誘発しかねないのは怖いね。

社会保険庁に限らず。

特に時代が困窮しているからきな臭くなってきている。

2007-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20071012220524

平均気温は上昇中だよね?

たしかに上昇中。

日本での過去の気温変化の一般認識日本wikipediaに書かれているような知識だよね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E6%B0%97%E6%B8%A9%E5%A4%89%E5%8C%96

これがウソだというつもりもないけど統計には読み方がいく通りもある。

どこであつめられたデータなのかは知っておいたほうがいいのでつたないけど説明だけしておくね。

このグラフはさらりと1860年からデータが始まっているけれども

1860年日本江戸時代安政6年の話しだ。桜田門外の変の年ですよ。

このころはというと

http://homepage2.nifty.com/tsukaken/introduce/nakatsu/2003_1_12-1.htm

日本における気象観測の最古の記録は1838年から1854年にかけてのデータが『霊憲候簿』として残っている。

http://www.disaster-i.net/notes/1998kisho.pdf

幕末出島(長崎)における継続的な気象観測記録は、日本における最古の近代観測記録として注目される

こんなレベル

それでも世界的にみれば江戸時代日本は文化的には先進的で他の国ではこんな記録すら残っていない国ばかり。

そんな日本でも、いまのような方法で気温が測られるようになったのは1950年代から。

では、いったいどこの記録の平均なのか。

ずばりここ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Global_Historical_Climatology_Network

世界の平均気温を算出するための観測ステーションはここにある。

詳しくはNASAさまをおたよりあれ。確かどっかに都市名の記述もあったはずだ。

http://data.giss.nasa.gov/gistemp/

アメリカ日本ばかり。

http://data.giss.nasa.gov/gistemp/updates/200708.html

なぜこの表の世界インデックスばかりが流用されるのか。

一重にインパクトがあるからという理由ではないのか?

気温計測は都市部ではじめられた。

過去においてはなおさら都市部だけだった。

過去50年、都市部で何がおきたか?

急速に工業化した都市に人が集中した。

道路が舗装され車が通るようになった。

夏にはエアコン、冬には暖房、常に放熱されるようになった。

家庭では冷蔵庫パソコン電気を熱に変えている。

車はまるで動く火力発電所だ。

アスファルトや鉄筋コンクリートでできた建物は熱吸収率が高く、ゆっくり冷えるので夜間でもなかなか気温が下がらないようになった。

ビル群が立ち並び地表付近では風が抜けなくなった街がでてきた。

河川は護岸が整備され、ところにより地中に埋められ雨が降ってもすぐに下水に流れ込んでしまうようになった。

これらは総じてヒートアイランド現象などとよばれたりするが、

これがつまりはこれが都市化による気温上昇の実態だ。

江戸時代神田神保町と現代の神田神保町の気温を比較して、

「ほら温暖化してますでしょ?」というのに二酸化炭素がなんの関係があるというのか。

それはひとくくりに地球でいいのか?

はたして「地球温暖化」なのか?

都市計画や廃熱利用が重要であれ、二酸化炭素スケープゴートにほかならない。

いや、二酸化炭素は便利なスケープゴートだ。でも本当の悪党ではない。

エネルギー効率をあげた結果、排出二酸化炭素が減ったっていうのならいいが、

二酸化炭素を減らすためにエネルギーを浪費したりお金をつっこんだりするんじゃ本末転倒だといいたい。

森林火災二酸化炭素が・・・など、非難したり心配するのは本末転倒もいいところだ。

森が燃えれば若返る。若返った森の二酸化炭素吸収量は古い森のそれとは比較ならない。

木が燃えるとまるで定着した炭素がすべて二酸化炭素になるかのようないいかたが気に食わない。

二酸化炭素がそこまでわるものでない証拠はほかにもある。

平均気温は地表部の気温だ。

上空の気温がどのように変化しているか確認してほしい。

http://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/20th/1_4_1.htm

地球から逃げていく熱をビニールハウスのように二酸化炭素が保つというのなら、

温室効果ガスが集まる上空で地表と同様の気温上昇がみられないのはなぜだろう。

二酸化炭素はそれほど悪い奴じゃないよ!

と、擁護したところで動画を張っておく。

http://data.giss.nasa.gov/gistemp/animations/

こんなんみせられて恐怖するなってほうが無理な話しだなw

二酸化炭素はともかく人類の活動で世界的な気候変動がおきようとしているのは確かだとおもう。

そりゃ人類がこれだけ精力的に活動してたら海流ぐらい変わってもおかしくないわな。

だけど気候変動と温暖化は明確に違う。

IPCCが話しあっているのだって気候変動についてだ。

あまりこういうことを日本で声をあげていうと頭おかしいと思われる。

たぶん今だって思われてる。

だけど匿名なのでハッスルしちゃうぜ!

普段なら増田だって二酸化炭素が悪い奴だし、地球温暖化は心配事項のひとつだ。

と、ただ同調するだけさ。

 
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