はてなキーワード: 真田昌幸とは
※最初は敵として配置されているが寝返らせることが可能なユニットは味方ユニットと解釈し選考対象から除く。
1.メディウス
ラスボス。作中ゆいいつのちりゅうユニット。紋章の謎ではゆいいつではなくなるが、今度はゆいいつのあんこくりゅうになる。最終面の城から出られない引きこもりモグラと言ってはいけない。
マルスたちはメディウスを倒すのにファルシオンが必要だと思っているようだが…別になくても倒せる!
2.ガーネフ
こっちはガチでスターライト・エクスプロージョンでしか倒せない。超強力な暗黒魔法マフーの使い手。しかし、玉座に座っていないので倒さずに空き巣狙いでマップをクリアすることは可能。チキ監禁犯。
3.カミュ
グルニアの将軍。ブラックナイト。神器グラディウスを装備して必殺を出しまくり屍の山を築くヤバいヤツ。まともな人間の中では最大の壁。というか本当に人間か?
敵にパラディンが多い厳しいマップの最後に立ちはだかり、ひっさつのいちげきでお気に入りユニットが殺されると精神的ダメージは甚大である。(でえじょうぶだ、オームのつえで生きかえれる)
4.ミシェイル
マケドニア国王。城に居座らずドラゴンナイトの機動力を活かして襲いかかってくる。しかし、武器が普通のぎんのやりである。
政治的には最重要と言っていい働きをしている。でも、レナに振られたんだよなあ……国内貴族すらどうにか出来ずに天下国家を語られてもなあ。
5.ガザック
1章のボス。遠距離攻撃手段をもっていないので、てやりやゆみでチクチク攻撃して経験値稼ぎが可能。きずぐすりのレベリングも可能?
6.モーゼス
17章のボス。初のまりゅうである。マルスに対して強烈な挑発をしてくる。ひみつのみせは見逃す。
7.10章のゆうしゃ
ひっさつが危険な存在。南にいるスナイパーも厄介だが、個人的にはこちらが怖い。ちなみにこの面のボスはミネルバ被害者のジューコフであるが、どうでもいい。
8.マヌー
9章のボス。SFC紋章の謎第1部では削られたマップのため登場しない。メディウス以外にもマムクートが国を持てたという可能性を地味に示した。しかも、おそらくアカネイア王国と共存する形で。
6章のボス。任天堂キャラとして名前にマリオが入る……というのは余談で、最初のしょうぐんボスである。初の城内マップボスでもある。
遠距離攻撃頼みでエクスカリバーを節約しようとするとマリクのブリザーを消耗する。
かなり好き。8章の外れた城にいる哀愁漂う倉庫番。どれほど多くのワープレイピアやワープエクスカリバーの餌食になったのだろう。そうやって増援経験値稼ぎを手抜きさせることで数多のアリティア軍を弱体化させた影の功労者である。
・ジオル
おまえーっ!あの顔でなー!あんな美人の娘がなー!ゆるさーん!
・ハーマイン
ミネルバ被害者。こいつが卑怯なら第一次上田合戦の真田昌幸も卑怯だよね?……いや、それなら否定はできんわ。
・ギガッシュ
西田敏行の年表とは、日本史に燦然と輝く西田敏行の業績である。
1180 西田敏行、父と共に源頼朝の挙兵に加わり、山木館を襲撃
1561 西田敏行、武田信玄に啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に
1600 西田敏行、真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける
1605 西田敏行、西田敏行に将軍職を譲り、後に駿府城に移る
1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける
1745 西田敏行、徳川家重に将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る
1861 西田敏行、愛加那との間に西田敏行を授かる(ナレーション:西田敏行)
1867 西田敏行、西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(ナレーション:西田敏行)
1868 薩摩藩の西田敏行らと長州藩の西田敏行らが協力して幕府を倒す(ナレーション:西田敏行)
1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍に西田敏行軍は鎮圧され、城山で自刃(ナレーション:西田敏行)
1904 西田敏行、日銀副総裁として日露戦争の戦費を調達する
1904 西田敏行、京都市長に就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす
https://togetter.com/li/976233
https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%95%8F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
城内に響く浪人のため息、どこからか聞こえる「今日で落城だな」の声。
無言で逃げ始める兵士達の中、日本一の兵・真田信繁は独り曲輪で泣いていた。
上田合戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる仲間たち・・・
「どうすりゃいいんだ・・・」信繁は悔し涙を流し続けた。
どれくらい経ったろうか、信繁ははっと目覚めた。
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい甲冑の感覚が現実に引き戻した。
「やれやれ、帰って調練をしなくちゃな」信繁は苦笑しながら呟いた。
立ち上がって伸びをした時、信繁はふと気付いた
曲輪から飛び出した信繁が目にしたのは、大坂平野まで埋めつくさんばかりの大軍だった。
千切れそうなほどに旗が振られ、地鳴りのように鬨の声が響いていた。
どういうことか分からずに呆然とする信繁の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「源二郎、出陣だ、早く行くぞ」声の方に振り返った信繁は目を疑った。
「た・・・太閤殿下?」「なんだ信繁、かってに関白殿下を隠居させやがって」
「三成殿・・・」 信繁は半狂乱になりながら陣立てを見渡した。
一番備:福島正則
二番備:加藤清正
三番備:堀秀政
四番備:前田利家
五番備:小早川隆景
六番備:真田昌幸
七番備:大谷吉継
八番備:石田三成
九番備:豊臣秀吉
暫時、唖然としていた信繁だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった。
「勝てる・・・勝てるんだ!」
真田丸はほんとにいい。
まず主人公まわりがやたら現代的な価値観をゴリ押ししてこないのがいい。
天下とったわけでもない分際で反戦平和みたいなのを口に出す連中にはうんざりしてたんだ。
ポリティカリー・コレクトネスなんかいらん。そんなものはティッシュで丸めて捨ててしまえ。
メッセージ性のために精通するかしないかみたいな子供がやおら天下国家を語り出すようなのは脚本とも言えぬわ。
ティッシュ以下である。
その点真田丸はお茶の間共感ポイントが「家族」に絞られてて、自然に見ていられる。
まぁ戦国では「家族だいじ」みたいなのだって通じないご家中もあるにはあるんだけど……。
かといってシリアス一辺倒ではない、現代っぽいノリのホームコメディ感もまた良いのだ。
大河でコメディタッチはなにかと軽侮されるので扱いが難しいんだけど、
たとえば真田昌幸の老獪な食えない男っぷりを演出する描写とかと一石二鳥になっていて、
史実の読み込みから抽出してきた笑いどころを混ぜてるから妙な嫌味が出ないという気がする。
真田家の男たちがみんな演技一発でコメディとシリアスの切替えを伝えられる巧者なのも効いている。
コメディとシリアスの相乗効果が出てると言ってもいいくらいである。
たぶん真田丸も表面的なコメディ性の高さで一部には侮られる運命にあると思うんだけど、
時代劇のリアリティって究極的には言葉遣いとか時代考証とかじゃないんだよ。
話としての面白さと納得性があれば、リアリティなんか後からついてくるのだ。
現代人に通じる言葉遣い、当時の自然な言葉遣い、いかにもな時代劇語、
豪華絢爛なビジュアル、当時の自然な生活感、過去の作品のオマージュ、
あらゆるものを時宜に応じて適切に織り交ぜて、「面白い」と思わせれば勝ちなのだ。
そうなれば多少の嘘は勝手に補完して見てもらえるし、
気づかれても演出上必要だったと視聴者の内心に擁護する気持ちが芽生えるのだ。
言い換えるなら、内なる「重箱の隅つつきマウンティングマン」が死ぬのだ。
戦国や幕末なんかを題材に取ると、得てして重隅つつきマンとの激しい戦いになりがちで、
定説に配慮するあまり「後世完成した人物像」に寄せすぎた雰囲気のキャラ作りになることもあるんだけど、
家康なんていかにもまだぴちぴちの若だぬき感が残ってる感じで良い。
信長が生きてるうちからもう天下とってますが何か?みたいなオーラ全開の家康にも辟易していたのだ俺は。
明日とも知れぬ身の上の人間たちが織りなす群像劇だから面白いんじゃないのか、戦国は。
せっかく一年やるのだから、役の成長を考慮に入れた演出も見たいのだ。
もちろん重隅つつきマンにも役立つ面はあるのだけど、そのへん話しだすとキリがないのでやめる。
とにかく真田丸は良い。良いだけじゃなく新しさも出る気がする。
でもそのへんを判断できるのはまだまだ先になりそうである。楽しみだ。