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2022-05-08

anond:20220503175511

まさにその通り。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cd19a43ba743942c2f2c87bc69989544f5a4d724?page=2

から引用

>仲間内プレイ配信するリスク

>確かに、今回SaRa選手は即日Twitter謝罪しており、会社対応も早かった。“失言”以外の失策は見当たらない。ではなぜ失言は起きたのか。

>「一般スポーツだと、練習公式試合でまったく意識が違うと思います。でもeスポーツは、そこの境目が難しい。普段とまったく同じ環境で、趣味プレイなのか大会なのかという違いになるんです。使い分けがいっそう難しいかもしれません。

>また誰でも、身内で遊んでいるときには、多少乱暴言葉遣いをすることもあるでしょう。僕も、ひとりでプレイしているときは、人に聞かせられない暴言を吐くことがあります。でもeスポーツは、そうした白熱したプレイ配信するところに難しさがあります」(山田氏)

>「野球サッカーといったスポーツ選手でも、プレイ中に言葉が荒々しくなることはあるのではないかと思います。でもそれは配信されないか問題になりにくい。プレイ中の言葉をすべて拾って公開されるeスポーツプレイヤーは、ひときわ自制心とマナーが求められるんです」(竹谷氏)

ーーーーーー

結局、プロ野球選手プロサッカー選手毎日配信させてたら、もっとエラいことになるってだけの話。

野球界隈でもサッカー界隈でも人格否定差別的暴言暴力が、プロゲーマー界隈以上に昔から蔓延していたのが現実からね。

いまだに秀岳館高校みたいにコーチや先輩が下の人間に対して人格批判差別的暴言どころか身体暴力を振るう学校が多いのが日本実態野球部でもそう。未成年飲酒喫煙暴行窃盗レイプ。そんなのがずっと続いてきたのが日本野球サッカー界隈。

つい先日もプロ野球新庄剛志監督職業差別発言をしていたし、選手外国人選手に対して嘲笑めいた差別発言をしていた。だが、それは”何故か”メディアで大きく取り上げられず、炎上もしなかった。

これは大手メディアスポンサードしているからというのが大きい。だから炎上しにくい。大手メディアが騒ぐことを、巨大メディアがカネのチカラで黙らせるから

プロゲーマー界隈はまだ成長途上で大手メディアスポンサードしていない+毎日選手生放送してトークを展開している、という環境があるから炎上やすい。それだけの話。

最初にも書いたが「結局、プロ野球選手プロサッカー選手毎日配信させてたら、もっとエラいことになるってだけの話。」という結論にまとまる。

それに「生娘シャブ漬け」発言にあるように他業種でもとんでもない人間一定数居る。コンサルタント業界では常識的用語だったという話もあるほどだ。

Eスポーツ界隈だけをやたら叩いてるコメントを見るたびに、野球離れが進んでるのにEスポーツ人口が増えてる状況に焦って、大手メディアバイトでも雇ってツイートヤフコメして、それが目立つようにイイネしまくってるのではないかとね。

日本大手メディアのカネの力を使えばそれができるし、そういった情報工作をするのに何の抵抗もないほどモラルが腐ってるのが日本マスゴミでもある。

日本大手メディアの中枢人物に「日本の癌でありお荷物なほどの野球カルト」が一定数居てしまっているのが日本の不幸なところでもある。

そういった連中が、野球にとってかわろうとしているスポーツの台頭を邪魔している。

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2018-03-06

ブコメ比較

上:ロンブー淳青山学院大受験すべて不合格スポーツ報知

下:田村淳さんのツイート: "受験を終えて巨大メディアによって拡散されてしまった間違った情報は~

http://www.tenohirakuru.info/?onlyComment=true&url=https%3A%2F%2Fheadlines.yahoo.co.jp%2Fhl%3Fa%3D20180303-00000292-sph-ent%2Chttps%3A%2F%2Ftwitter.com%2Fatsushilonboo%2Fstatus%2F970671303857291264

pzp

かっこわる〜

最後合格したら誰も文句言わない。視聴率と同じ。

bangflash

今日シャーデンフロイデ

法律勉強がしたいんです!地理的青学が近いんです!」って本気で思ってる奴が社会情報学部(青山キャンパスではない)を受けるわけないんだよなぁ。よくこんなペラペラ嘘吐けるもんだ

maitake0808

受験舐めるな。消えろ。

嘘つくのだけは一人前なんだよなあ。タチが悪い。世の中の害悪しかならない存在



手のひら返しは無し

擁護してた人はそのまま

叩いてた人もそのまま

2017-05-07

左系はインターネットとの相性よくないのはなぜか?

そういえばインターネットが普及しつつある時に「これで権力に対抗する草の根ネットワークが出来る!」とか左巻きがさんざん言ってたと思うんだけど、草の根で広まったのはむしろウヨ思想であって、左系は新聞テレビという古い巨大メディアおんぶにだっこっちゅう結果になってますよね。

左系はインターネットとの相性よくないよね。なんでだろ。

https://togetter.com/li/1107895

それは国民殆ど保守的な考え方を持っているからです。

 
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