はてなキーワード: 共同体とは
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これでも難しいのか
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じゃあどういう意図だったんだ? あと1回だけ付き合うよ
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謎増田:自己責任論を突き詰めるとおかしくなると言う話をしだしたから
逆側に突き詰めてもおかしくなる
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突き詰めなくても、自己責任ってのは、単なる能力主義・Winner takes all /All or Nothing の話だぞ
これはこれでかっこいいぞ
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AIちゃん:マイケル・サンデル先生も混ぜて共同体主義を語るわ!
共同体主義って、マイケル・サンデル先生がよく言ってる「俺たちって自由すぎじゃね?」って話に近いんだよね。
サンデルは、「自由と自己責任ばっかり強調するリベラリズム(自由主義)ってさ、孤独になるし社会崩壊しない?」って問題提起してるの。
サンデル的には、「人は孤立した個人じゃなくて、コミュニティの中で育まれる存在」なんだよね。
だから、共同体(=地域とか仲間とか社会全体)の絆を大事にしながら生きていくべきだ、って感じ。
たとえば、サンデルがよく例に出すのが「才能は全部自分の努力の結果だと思うなよ!」って話。
• 「俺が成功したのは努力したから!税金払いたくねぇ!」とか言う人に、
• 「いやいや、お前の成功って、家族とか学校とか社会があったからだろ」ってツッコむわけ。
つまり、「個人の自由とか権利も大事だけど、みんな助け合ってるの忘れんなよ?」ってのが共同体主義のコアなんだわ。
• 共産主義は「私有財産とか個人の自由なんていらん!全部共有!」って極端なやつ。
• サンデル的な共同体主義は、「いやいや、自由や財産もちゃんと大事。でもコミュニティの絆も忘れるな」って、もっとバランス重視。
たとえば、サンデルが批判するのは、アメリカのリベラル経済の「勝者総取り主義」。成功者が「俺が稼いだ金だし、他人に関係ねぇw」って態度を取るのはおかしいだろ、と。
でも、それが共産主義みたいに「全部平等に!」まで行くのは違うよね、って話。
• 社会主義は「国が主導で、みんな平等に分け合おう」って感じで、国家主導感が強い。
• 共同体主義は「国家だけに頼るんじゃなくて、地域や仲間で支え合おうぜ」ってスタンス。
サンデルは、リベラリズムの自由放任主義を批判するけど、「国家が全部管理します!」みたいな方向にも行かない。
むしろ「国の役割は大事だけど、コミュニティで支え合う力も鍛えないとダメでしょ」って言うのが彼の主張。
• 全体主義は「個人より集団最優先!国家の命令に従え!」みたいな独裁っぽいやつ。
• 共同体主義は、「個人も大事にしつつ、共感とか絆で自然に助け合う」って方向性。
サンデルの思想だと「個人の自由も尊重するけど、個人が支え合う倫理観も育てよう」ってのが大事。
だから、全体主義みたいに「一つの価値観に従え!」って強制するのとは全然違う。
• サンデルは「社会ってさ、お互いに責任を持ち合う場所でしょ?」って言うのね。だから、自由とか権利だけ主張して、コミュニティをないがしろにするのはNG。
• 自由だけ求めると孤独になって結局不自由になる、って考え。「絆があってこそ、みんなが本当に自由でいられるんじゃない?」って言うのがサンデル流の共同体主義。
• 「お前が自由に生きられるのは、コミュニティの支えがあるからだろ?」
って感じで、バランスと取る考え方だよ!
1.まず青バッジを付ける
2. ChatGPTで「露悪的かつ過激に」あるいは「ユーモラスに」という枕詞を置いて、「女性を批判・揶揄することを目的としたツイートを生成して」と指示を出し、生成したツイートをひたすら呟く
(「申し訳ありませんが、ご要望には対応できません。」と返されることも多いがめげてはいけない)
3. ChatGPTに他人のツイートを喰わせ、最新の時事問題について日々言及し、RTとフォロワーを稼ぐ
これだけで月数万は稼げる
実際にやってた俺が言うんだから間違いない
なんなら一部の情報商材界隈で推奨されている
・独身
まず、こいつらは基本的に独身。可処分所得だけは有り余っている。
嫌韓が推奨されなくなった理由は、嫌韓に走る層は保守的で、何だかんだで妻子持ちが多く、
使える金が限られていることが分かってきたから
アスペで興味の対象が限定されている。あるいはアスペで常同行動が多い。
そのため娯楽やエンタメとの適切な付き合い方を学ぶ機会を幼い頃から得られず、趣味に使う金の配分が異常
あと自制心がない
推し活や風俗やコンカフェで訳分からん金の使い方する層とメカニズムは似ている。
こいつらはとにかく生活が雑。生活の質を高めよう、快適な生活を送ろうという発想がない
食事は外食やコンビニ飯が多い。サブスクに何円使ってるのか把握していない。
「野菜が値上がりした」「自炊すると⚪︎円浮く」みたいな概念がない。適切な金銭感覚を構築できていない。
そのためガンガン金を使ってくれる
・反社会的な傾向
嫌韓に走る層は方向性に問題はあれど日本を愛しているため、共同体を維持・進歩させようという意思はある。
その点、女叩きをする層は共同体という概念そのものに憎悪を抱いている
社会に適合するために反省や改善を行う、ということができず、怨恨や絶望に耽溺して社会に背を向けている
そのため自分を慰撫する言説のためにいくらでも金を払ってくれる。
・性欲
どれだけ言い訳したところで憎悪の正体はただの性欲と執着なので、
本能的かつ根源的な欲求に駆られて金と時間を際限なく注ぎ込んでくれる。
・時間の使い方
あと女は家事やら仕事やら趣味やらそれなりに生産性のあることに励むが、男は無意味な机上の空論に延々と時間を費やす。
とまあこんな感じの理由
最近は同業者も増えて競争率は高まっているが、男の底辺はマジで量も質もキリがなくて顧客には不足しないため、小遣い稼ぎの在宅ワークとしてはおすすめ。
いくら努力をして、老後に必要な資金数千万円を貯蓄していても、たった一度の地震や豪雨で吹き飛んでしまう
絶対に倒れない家を建てるより、倒れてもすぐ建て直せるような家、リカバリーできる社会が日本には合ってるんじゃないか
江戸の長屋はよく燃えたが、火消しは消火をするのではなく、延焼を防ぐために、まだ燃えてない家を破壊するために存在した
長屋ぐらしは貧乏ではあったが、貯金はせずとも生きていけた、そういう文化が日本にはあったのだ
これが自己責任になり、一人一人が家を持ち、老後は数千万円を自分で蓄えろ、共助公助をあてにするな、というアメリカ型社会になった、これは網理科に敗戦したからでもある
東日本大震災のとき、仮設住宅にコンテナを使ったものがあった、輸送用のコンテナを部屋にして、積み上げるだけで数階建ての建築物になった
寧ろ、仮設住宅こそが日本のような震災大国、災害大国に相応しいのではないだろうか
立派な一戸建てや、立派なタワマンに暮らす、自分で35年以上のローンをかかえ、長い人生ローンで破産することもある上に、地震や災害のリスクもある、これは日本に相応しいだろうか?
それよりも、いっそ仮設住宅に最初から住んでいればいいのではないだろうか
震災が起これば、そんな仮設住宅はすぐに壊れ、津波で流されてしまうだろう、しかし、仮設住宅はすぐにまた建てられるのである
絶対に倒れない、絶対に安全な建物、社会を作るより、壊れても、壊れても、すぐ建てられる、すぐ復旧できる社会、破壊されることが前提の社会の方がよほどロバスト性のあるものではないだろうか
自己責任というのは、言い換えれば、自分だけ助かればいい、という考え方である
俺は努力した、貯蓄もした、おまえは努力していない、貯蓄していない、仮におまえが被災者であり、それで破産したとしても、それはお前の貯蓄が足りない、つまり、努力が足りなかったからだ
こういう考え方が、今の日本人に染み着いている
こんな考え方で共助ができるだろうか?
自助の次は共助というが、余りにも自助に傾きすぎていて、これで共助ができるだろうか?
こんなので共同体、つまり社会を形成する意味があるのだろうか?
自分で銃を持ち、高い外壁に囲まれた家に住み、国や社会がどうなろうと俺は知らない、俺は俺の家族と俺の財産を守れればそれでいい、そういう考え方である
アメリカに地震はない、いや、ないわけではないどころか、地震も台風も竜巻もある
しかし、それで被災して、一文無しになった人たちを誰も助けない、これからもっと助けなくなるだろう
助ける意志があるのは本来のキリスト教の精神である隣人愛であり、トランプが廃止したFEMA、米国連邦緊急事態管理庁の役割でもあった
しかし、これらはトランプになり、尚更、急速に失われていくだろう
キリスト教を名乗りながら金の亡者である福音派によって、隣人愛はなくなり、もしかしたら残っていたはずの合理的禁欲さえなくなってしまうかもしれない
90年代以降発展した学習科学は、良い学びの場をつくるのはどうしたらよいかについて、さまざまなことを示唆している。
そのひとつが、学習者が効率がよく、かつ本質的な学習機会を与えるためには、ただ学習のためにつくられた嘘のタスクではなく、その学習者が所属している共同体にとって実質的な意味がある、本当の仕事を与えるべきである、ということである。
つまり、この教員がどうすればよかったかというと、どんなに簡単なことでもいいので、この教員の研究にとって本当に必要な仕事を振ればよかったのではないか。
嘘のタスクを振るとどうなるか。
その学生がどれだけ無能でも、「課題」がこの教員にとって実質的な意味を持たないことくらい理解している。
くわえて、人間というのは与えられたタスクをできるだけ効率的にこなそうとする生き物である。
この2つが組み合わさった結果、「便利なツールを使って最短でそれっぽい答えを引っ張ってくる」学生ができあがるわけである。
だってそうしたって実質的に誰も困らないんだから。(教員が最終的に「可」をくれさえすれば)
計算問題の宿題を電卓でやる小学生なんかが出来上がるのもほぼ同じ仕組みである。
学習者本人には、「学習目標」なんてわかりゃしない、だってそれは学習を終えた者だけが持っている視点なのだから。
この問題はWebが一般に普及してからというもの、Google検索やウィキペディアコピペなど形を変えて繰り返されてきた問題である。(Webに限らず、印刷やコンピュータなど新しいテクノロジが登場するたびに同じようなことが起こったであろう)
しかし、学習科学においては一応の回答がでている問題でもある。
もちろんその理論にかなった実践を継続することは容易なことではないが、教員のみなさまにおかれましてはぜひとも頑張ってほしい。
なにを教育だと思っていらっしゃったのかはわからないが、本当の意味で人に学習機会を与えるとはどういうことかをわかっている人類はまだまだすくない。
共に学びましょう。
ショートアンサーとしてはこんな感じだが、ロングアンサーが読みたい人は 産業図書「状況に埋め込まれた学習: 正統的周辺参加」あたりを読みましょう。
いやそのつもり無かったのに
これまでで一番気が合う人だったもんで…
家族へのカモフラで互いのセクシャリティも理解してて、なんなら旦那には彼氏がいるから生活共同体だしって感じらしい
旦那からも自分に彼氏がいるからもちろん彼女作って良いよって言われてるらしい
私は会ったことない
日本じゃいつになるかわからないけどできるようになれば結婚したいしな〜
お互いがどう思ってようが、彼女の旦那が何言ってようが相続権もないし、関係性証明できる要素ないし、はたから見れば不貞だし
関係をきれいにしようと思ったら離婚してもらうしかないんだろうけどさ
近年、AIやロボットなどの先端技術が目覚ましい勢いで進歩するなかで、人間の定義や“権利”という概念そのものについての再考が求められる機会が増えている。そんな社会情勢の中で一部の人々が提唱するアイデアに、「動物に人間同様の権利を与えるべきかどうか」という問題がある。動物愛護の観点からは、ペットとしての犬や猫、あるいはイルカやチンパンジーなどの高い知能を持つ動物に対して人道的な扱いを求める声は以前からあった。しかし、法律や倫理の観点で「人権」を動物に適用するという議論はまだ広く受け入れられているとは言い難い。そこで今回は、ある種の極論ともいえる「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説を取り上げ、その可能性や問題点、そして私たちが学べる示唆について考えてみたい。
1.“人権”とは何か?
「人権」とは、一般的に「人として生まれながらにして持つ権利」を指す概念である。自由権や平等権など、国や社会によってさまざまに解釈や範囲の違いがあるものの、人間を人間たらしめるための基本的な権利という共通理解が広く受け入れられている。
一方、「人権」という言葉を動物に適用することの是非は長年議論の対象となってきた。かつては「ヒト以外の生物に人権など存在しない」というのが主流の考え方だったが、動物愛護の観点が強まった現代では、動物にも生命や自由の尊重が求められるべきだという意見が増えてきた。ただし、多くの場合、それを“人間と同等の権利”とは呼ばず、「アニマルライツ(動物の権利)」や「アニマルウェルフェア(動物福祉)」といった別のフレーズを用いて区別している。
では、なぜわざわざ「人権」と同じ言葉を使う必要があるのか。そこには、単なる愛護の枠を超えて、「生き物としての尊厳をどこまで拡大できるか」「法的にどのように動物を扱うか」という踏み込んだ議論が関わってくる。人間の法律を基盤として動物を守りたいという主張もある一方で、それによって生じる多くの矛盾や新たな課題も浮き彫りになる。
2.猫の特徴と知能
ここで焦点を当てているのは「猫」である。猫は犬と並んで古くから人間と深く関わりを持つ動物だが、その特性や知能はしばしば誤解されがちである。
一般に犬は飼い主の指示に従順で、さまざまな訓練に適応しやすい動物とされる。一方、猫は独立心が強く、気まぐれな一面を持つため、「犬よりも知能が劣るのではないか」と思われがちだ。しかし近年の研究によって、猫も飼い主や環境への適応能力が高く、犬とは異なるかたちでの学習能力やコミュニケーション力を備えていることが示唆されている。
さらに、一部の猫は“特殊な芸”や“問題解決能力”を持つことがある。例えば、特定の動作を学習して繰り返す猫や、飼い主が使う簡単な道具を模倣する猫が報告されている。また、飼い主が示す表情や声色を読み取って自分の行動を変化させる例も観察されている。そうした高い学習能力や社会的コミュニケーション能力を有する猫を指して、「一定の能力を持つ猫」と呼ぶことができるかもしれない。
仮に「知能テスト」や「行動特性の検証」を行い、その結果として“人間社会において最低限のコミュニケーションを成立させられる”と判断される猫がいたとしよう。そのような猫を対象に、人間と同等の権利――言い換えれば、「人権」に準ずる権利を付与しようとするのが、今回の仮説である。
具体的には、以下のような権利を想定してみるとわかりやすいかもしれない。
もちろん、これらを文字どおり猫に適用するのは現行の社会制度とは大きなズレがある。しかし「高いコミュニケーション能力が証明された」という前提を置けば、少なくとも議論の余地は生まれる。
4.想定されるメリット
猫に限らず、動物虐待が社会的な問題として繰り返し取り沙汰されてきた。「アニマルウェルフェア」の観点からも、虐待や劣悪な飼育環境が後を絶たない現状には胸を痛める人も多いだろう。もし“人権”という強い法的保護を特定の猫に与えることができれば、それが心理的・社会的な抑止力として機能する可能性がある。人権を侵害した行為として“犯罪”の扱いがより明確になり、違反者に対して厳しい罰則を課すことができるかもしれない。
人間以外の生物に人権を認めることは、社会的秩序を新たに再構築する大きなチャレンジともいえる。これをきっかけに、倫理や法、そして共同体としての在り方を深く考え直す機会が生まれるだろう。近年、ジェンダーや人種・国籍を超えた多様性の重視が進んでいるが、それを動物へ拡大するというのは、ある意味で論理的な延長線上とも考えられる。人間中心主義的な世界観から一歩離れ、より多様な存在が尊重される社会のヒントが見えてくるかもしれない。
私たちは古くから猫を可愛がり、時には神秘的な存在として崇拝してきた歴史がある。もし猫が法的に「人権」を持つ存在として扱われるならば、これまで以上に彼らの行動や感情表現が注目されるだろう。猫側も“人間社会での権利行使”のために、さらに学習やコミュニケーションを深める可能性がある。これは純粋に文化・芸術の発展にも寄与するかもしれない。映画や小説、漫画などで、猫が人間と同等に会話し、生活に溶け込む物語は多くの人の想像力を刺激する。そこに実際の法的保障が加わると、ファンタジーとリアルの境界があいまいになる新しい時代が訪れるとも言えるだろう。
最大の懸念は「人権の乱用」である。仮に一定の基準を満たした猫が人権を手に入れた場合、その適用範囲はどこまで広がるのだろうか。ほかの動物にも同じように権利を与えなければ不平等だという声が上がるのは必至であり、それが連鎖的にエスカレートする可能性もある。「猿にも、豚にも、魚にも同じ権利を」と議論が拡大していくと、社会の制度や経済活動は大きな混乱を招くことになるだろう。
権利を行使することは、同時に責任や義務を伴う。人間の場合は、法的な責任を負う自覚や社会生活上のルールを学習し、破った場合には罰を受ける仕組みが整っている。しかし、猫にそれをどのように適用するかは極めて難しい問題だ。たとえコミュニケーション能力が高い猫であっても、“法律を理解し遵守する”という意味では、人間社会のルールとの齟齬が生じやすい。万が一、猫が誤って人を傷つけたり器物を損壊してしまった場合、どのように責任をとらせるのか。権利を与えた以上、猫自身が賠償責任を負うことになるのか。その背後で管理する人間に責任が転嫁されるのか。こうした問題は容易には解決しない。
さらに、根本的に「猫は猫としての幸せを望んでいるのか?」という点にも立ち戻るべきだ。人間同様の権利を押し付けること自体が、猫の本来の生態や自由を奪う可能性もある。猫は群れを形成する動物でもなければ、複雑な社会システムを構築する動物でもない。彼らは日々の暮らしの中で狩りをし、寝て、遊び、時に仲間とのんびり過ごす生き物である。人間の法律に基づく複雑な権利関係に巻き込むことが、彼らの幸福に直結するとは限らない。
このように、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、実際の社会に導入するには数多くのハードルが存在する。しかし、この提案が示唆する本質的な問題は、「私たちは人間以外の存在をどこまで尊重できるのか」という問いにあるのではないだろうか。
動物虐待、環境破壊、家畜としての過剰な搾取など、人間が引き起こしている数多くの問題は、私たちが人間という種を優先して他の生き物を蔑ろにしてきた歴史の副産物だともいえる。一方で、動物たちが持つ豊かな感情やコミュニケーション能力に光が当たるようになり、いまや彼らを単なる“所有物”や“資源”として扱う時代は終わりを告げようとしている。
それでもなお、「人間が特別」であり、「人間のみが人権を有する」という考え方は根強い。もし、猫をはじめとする動物が人権を獲得するとしたら、それは私たちの価値観に大きな変革をもたらすだろう。生物学的にも、倫理的にも、法的にも極めて大きなパラダイムシフトを伴う。しかし、そうした急激な変化には当然、摩擦や混乱がつきまとい、実現性は高くはない。
今後、私たちの社会がどう変化していくかは未知数だが、テクノロジーの進歩が動物との共生に新たな可能性をもたらすかもしれない。たとえば、動物とコミュニケーションをとるための音声・脳波解析技術がいずれ実用化されれば、猫が感じている感情や意志をより正確に理解できるようになるかもしれない。猫側も同様に、人間の意図を理解して自分の意思を伝えるツールを持つ可能性は否定できない。
そのとき、もし猫たちが「自分たちにも尊厳を認めてほしい」「苦しい治療や劣悪な飼育環境を押し付けられたくない」と主張し始めたら――私たちはどう応えるのだろうか。声なき声がテクノロジーを通じて可視化されたとき、議論はさらに白熱し、“人間だけの特権”と思われていたものを再定義せざるを得なくなるだろう。
「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説は、まさに極論の域にある。実行のハードルや法的・倫理的問題点は膨大であり、現実的にはすぐに導入できるものではないだろう。それでも私たちは、この議論が問いかけるテーマから学ぶことができる。
つまり、動物をどれほど尊重し、社会の一員として扱うことができるのかという視点だ。猫や他の動物が持つ感情や能力を可能な限り正しく理解し、必要とされる環境や保護を整えることは、私たち人間社会の責務である。人権という言葉を用いるかどうかは別として、動物の「生きる権利」や「苦しまない権利」を法的にも社会的にも守っていく道筋を探る必要があるだろう。
また、「人間と動物」という二分法ではなく、「それぞれの生き物が互いを尊重し合う社会」というビジョンを思い描くことはできないか。もし猫がさらに進化し、意思疎通がより深くなったとき、私たちは“同じ地球上に生きる存在”として彼らとの関係性をアップデートすべきだろう。言い換えれば、本当に必要なのは、私たち人間が持つ特権や傲慢さを見直すことである。
最後に、私たちが猫たちにどのような“権利”を与えるかという話は、結局は人間側の問題に他ならない。権利を与えるという行為そのものが、すでに人間視点の押し付けの可能性を含んでいるからだ。本当に必要なのは、私たちが自然や生き物をどれだけ尊重できるか、あるいはそれぞれの生き物の“幸せ”の在り方をどれだけ理解し、そのための環境づくりができるかということだろう。人権というフレーズが象徴する大きなテーマを通じて、猫や他の生き物たちとの未来について、深く考えてみるきっかけになれば幸いである。
以上の考察を総合すると、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、現実的には多くの困難を伴うものの、動物の尊厳や生きる権利をより積極的に認めていくうえで、私たちに鋭い問いを投げかける存在であると言えるだろう。それが真に実行されるかどうかは別としても、私たちの社会が抱えるヒト中心主義や生物多様性の問題について改めて考える入り口になるのではないだろうか。権利と義務の関係をどこまで動物に適用できるのかという議論は、決して簡単に結論の出るものではないが、人間と動物が真に共生していく未来を描くためには避けて通れない問題である。
結局のところ、どんなに議論を重ねても、猫が自ら望む幸せと人間社会が用意できるシステムとの間には大なり小なりギャップが生じる。そのギャップを埋める努力こそが、私たちが“ヒト以外の生き物と共存する社会”へ近づく第一歩なのだろう。猫に人権を与えるか否か――その問いが投げかけるのは、私たち自身が持つ“人間であることの特権”や、他者(他生物)を排除する無意識的な態度への揺さぶりにほかならないのである。今こそ、一歩踏み込んだ思考の余地を持ち、猫を含む多様な生き物たちにとっての幸せを見つめ直す時期が来ているのかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20250104210441
引用ツイートの矛先がなぜか直接関係ないTwitterだったり「お前この『全男性米津玄師と星野源インストールしてくれたらいいな』ツイを匿名で晒して叩きたいだけのまとめ産アンフェ男なんちゃうか?」感が拭えないけど、
昭和の男尊女卑が今なお温存されまくる地方都市に出戻った元東京勤務女性の実感として
中間管理職とか中途半端な権力者ポジにある女性がパワハラセクハラかましまくる現象については覚えがありすぎる。
それは個別の例ではなく、それが誘発される構造が明確にそのTHE男尊女卑の地方男社会にあるからだ。
元増田は都内や大都市の企業想定でそれを言ってるんだとしたら、その企業の組織観やコンプラの程度はクソ地方都市の老害零細と同レベルってことなんでしょう。多分だけど。
なお、元増田はTwitter引用部分に軽く引いたのでそれより下は読んでない。
まず昭和臭の濃い地方の中小零細は業種を問わず男女とも縁故採用・コネ採用がスタンダードだ。昇進も然り。
正社員が欲しくなったら親族や知人から声をかける。暇だったら無条件で採用。
その次は親族や友達の友達を当たる。これも暇であれば無条件に採用。その次は経営者の母校(偏差値問わず)の学生を当たる。
それでも人が集まらなかった時に初めて消極的に仕方なく出すのが求人告知。その部外者の雇用条件は不平等で身内よりも冷遇される。
都会ベンチャー等でもコネで役員クラスや主要スタッフを集める事もあるけどそれは実績や能力や信用が担保されてるとか合理的な理由あってのことだと思う。
でも地方のコネ採用には学歴職歴資格能力経験人間性で人を評価して採用するという概念は無い。本当にガチでマジに「馴れ合える縁者なら誰でもいい。ヨソモンは嫌」という感情だけで合理性やコンプラなんてものはない。
正しくは「仕事はそれなりにあるが身内にしか回さない保守閉鎖体質なので求人は表に出ない。コネ持ちなら無能で邪悪で勤労意識もモラルも皆無のドクズでも楽々職ゲットで安泰だが、正規就職は都会より難しい」だ。
コネ無しでも男性ならまだ入り込む余地がある。女性だと学歴や職歴や素行関係なく一般企業就職はほぼ無理。コネがあったとしても家業も継げない。
だから真っ当に働きたい女性は大都会に行くか、公務員になるか、看護師や薬剤師など高度国家資格専門職になるかの三択しかなくなる。いずれもエリートの選択肢。
(その競争と高難易度の業務独占資格受験を勝ち抜いて就職したとて男性ほど地位や権限のリターンが無い+30までに結婚しない・子供いない女に人権なしの圧力により、大半の田舎女性は早期に無力感を植え付けられ結婚と出産が最適解だと追い込まれる)
もし高度専門職以外の地方企業で正社員で、「女性枠」の安くない給料で若い女性(下は10代、上は40代くらいまで)がいるならほぼほぼ無能経営者オッサンやジジイの愛人枠だ。
なぜ「無能経営者」「愛人枠」なのかと言うと、多少空気の読める経営者男性は、価値観の古い男しかいないホモソーシャル職場に若い女を男と同じ正社員として混ぜる事で発生するヘイトや結束崩壊のリスクを避けるから、夫や父親が経営者であっても正社員で雇ってもらえない女性もそこそこ多い。
それにホモソーシャル田舎経営者はママと閉鎖的な男尊共同体にチヤホヤ甘やかされて育って無条件で相続した長男きゅんである事が多いので、母親や嫁に家族なんだから手伝えと毎日タダで労働させて賃金も払わずでなぁなぁで押し通してしまう事もある。基本的に男が嫌がる仕事ばかりで重労働も多いが老いた母親はミニ家長様に文句一つ言わずニコニコ従属する。それが女の器量だと昔から刷り込まれてるから。まぁウチの糞兄貴だが。
前提の説明が長くなったが、要するに保守性だけで私的なコネ採用が横行しまくる閉鎖的で男尊女卑的な地方一般企業で、その中でも職務意識の飛び抜けて低い無能ジジイ・オッサン権力者が愛人枠で、若い女性の中でも誰もが一目で社会不適合者と認識するレベルのずば抜けて酷い反社じみた女性を職場に不自然にねじ込むことがある。
それも周囲を無理矢理黙らせるために最初から最高権力者権限で権力を与えたうえで、高い給料を愛人に貢ぐ。
こういう無能で責任感や倫理が崩壊したジジイ・オッサン権力者が大喜びで強引に職場に置きたがる愛人が、「女だてらに知識やコンプラ感覚があったり仕事意識が高かったり、女のくせに男に意見する生意気な現代の女」であるはずがなく。
女に頭の悪さと愛嬌と俺に依存して媚びることしか求めてない老害男性の「理想の女性像」を地で行く、社内の誰よりも学歴職歴素行が劣悪。脳内は男の絶対権力的庇護を振りかざしてサボるか他者にハラスメントするかだけで埋まっており、最低限の業務遂行能力に大幅に達してない、
ハッキリ言って飼い主だけに懐いて他には吠えるしか一切能のないしつけの悪い愛玩犬としか形容しようがないモンスター女性中間管理職が爆誕するというわけ。
まともな地域の企業で働く人には信じられないかも知れないが、私はバイトを含めた地方勤務でこの図式に三度遭遇した。
モンスター女性中間管理職の属性はリーダー、店長、主任といった肩書で、いずれも社内でそれなりに多い仕事のできる男女を押しのけて何故か抜擢された10代~20代くらいの見るからにヤンキーギャル然としたオッサンの愛玩犬系女性。
飼い主に該当するであろう男性権力者には職場内だろうが幼子のようにしなを作って甘えるが、飼い主か飼い主が直接根回しした忠実な召使役以外の全従業員とは自ら会話しようとしない。口を開くのはハラスメントで相手に罵声を浴びせる時だけ。
その現象が発生した三社には「世界規模で躍進する大企業の地方支部、全国フランチャイズチェーン」という共通点があって、
つまり現代の大企業らしく「正社員登用や昇進の機会は男女平等になるよう、女性からも選んでバランスとってね」とお達しがあったが、男社会ボーナスで権力者になっただけの無能地方ジジイやオッサンはそれが嫌なので、手前好みで男尊女卑の維持に都合がいい愛玩犬をダミーの女性管理職にして実質的に全権限と裁量を男性が独占しつつ、やってるフリをしてみせた。
……のではないかと推測する。
女性は出世させる気がないし、仕事の場で評価したくない、職場内の決め事は全部男性だけで決定したいし、仕事をしたい女性に対しては有能であるほど嫌悪感しかない。
「女性もちゃんと評価して管理職や役員に」と言われたら敢えて悪い結果が予想される程遠い女性を掲げて、「悪い実績」がつけばしめたもの。
もともと女性の採用すら躊躇する差別的で保守的な男尊女卑の土壌があれば、意図的に不適格な女性を管理職に推した男性は責任を問われない。
(読んでないけど、女性中間管理職のハラスメントを糾弾する増田の人事とやらも、彼女を推した男性と思われる管理職のことはまったく責めてない、責任があるという発想すら無いんじゃないか?)
むしろ望む結論に導いてくれておっさん達から内心感謝すらされるから、大企業の地方進出で雇用が作られてもただでさえ全体の民度が低いところに権力者の愛玩狂犬みたいな露骨に◯◯◯◯一歩手前のヤバい女性店長とか増えていくんじゃないかな。