はてなキーワード: ずんとは
主にチェーン店をめぐるのが好きなんだが、今日あるお店で変わったことがあった。
トリドールの子会社のラーメン屋なんだが、夕食時に来店してみた。月に一度行っているお店だった。
そこで期間限定のラーメンがマメニューにあった。仲がいいグループ系列店からの輸入のようだった。今時の真っ赤なスープで、水餃子みたいのが乗っかってるやつ。
しかし、そこで……メニューに「※このラーメンは替え玉できません」とあるのを見つけた。ケチなことをしてくれる。
くらいにしか思わなかった。
自分はメニューの一番上にあった味玉ラーメンを注文して、食べ進めていたのだが。
気が付いたらカウンター席の隣に座っていたおばさんが、その期間限定ラーメンを食べていた。
さて俺が替え玉を頼もうとした時、隣のおばさんも同じくらいのタイミングで、替え玉を注文した。
俺は「えっ」と思ったけどスルーした。「替え玉できるんじゃん」と思ったよ。
で、カウンター席に替え玉がきたのだ。俺とおばさん、同時タイミングで。
「ごめんなさい!」
っていうおばさんの声が聞こえた。
メニューを読んだのだろうか、替え玉ができないのに気が付いた様子だった。店員さんをチラッと見ると、バツが悪そうな(;'∀')をしてた。
おばさんがスゲー謝ってたよ。自分が悪いことをしたみたいに。
けど俺は、思うわけだ。
「このおばさん発達障害かな?」ってさ。
普通はわかるだろ。今何が起こってるのか。替え玉禁止のラーメンだったけど、店員さんは見て見ぬ振りをしていたか、または店全体の慣習で、替え玉できないラーメンでもさせてやってたんだよ。そのどっちかだ。
それを、よりによって(無料の)替え玉が到着した後で、「ごめんなさい」って……それはないだろ。
今回の替え玉禁止ラーメンもそうである。調べたら、商品名は「すするか、ずん辣担」」というらしい。名前のとおり辛いラーメンだ。
ルールとして文章になってなくても、社会の中で成立してたら、それはもう法律に等しいんだよ。いわゆる慣習法である。
結局おばさんなんだけど、店員さんが正社員の人を呼んで、「今回はもういいです」って感じになった。おばさんは、冷めた縮れ麺をラーメン器にインして食べていた。
普通に美味そうだった。辛いスープの時に縮れ麺を選ぶあたりがわかっている。俺も今度、替え玉禁止のラーメンで替え玉できるか試してみよう。
ある日、1歳5ヶ月の娘と自宅でまったり遊んでいたら、宅配便が来た。予定外だったので夫への荷物かな?と思いながら受け取ったところ、宛名は夫、品名には雛人形。
やべぇ、と思った。
開封してみると、雛人形(3段)と額縁に入ったひな祭りの絵。どちらも義母の手作り、手描き。
正直どちらも上手いとは言えない出来で、絵に関しては色使いがかなりかなり個性的。というかちょっとコワイ。娘にも見せたけど反応は薄かった。
どうしよう、いらない……
生まれて初めての節句では何も贈ってこなかったから、油断していた。
手芸を趣味にしていることは知っていて、義実家に帰省すると玄関に不思議な置物?が置いてあったり、ちりめん細工の季節の掛け飾りがあった。どれも義母が手芸教室で作ったものだと言っていた。だけどまさか送ってくるとは。
1歳児の手の届くところはダメだし、飾る場所なんてないよ。窓枠とかに置けるくらいもっと小ぶりな物にしてよ。親王飾りだけ使うとしても、首が取れやすくてまじでホラー。
絵は飾れる。飾れるけど拘って買ったインテリアと合わなさ過ぎて飾りたくない。
うちは一軒家で余っている部屋もあるにはある。現時点で物置になっているのも事実。
だが!!それは仮の姿で、いずれは子供たちの部屋になる予定の部屋。夫の転勤の可能性もあるのでなるべく物は買わないようにしてきた。
手芸が趣味なのは良いよ。素敵な趣味だよ。だけど、贈り物にはしないで。捨てられないけど邪魔だし、喜ぶふりをしないといけないのも疲れる。
こういう物が欲しい、作って!とか言われたら贈る、じゃダメなの?なんで事前に相談なく送り付けちゃうの??
前に「家に物を増やさないようにしてる。特に人形は捨てにくいからぬいぐるみも買ってない。雛人形もいらない。実家に立派な雛人形があるから実家で飾ってもらったら遊びに行く。」といって暗にいらないアピールしてたのに。全然聞いてなかったんだろうな。
唐突だけれど、私はもうすぐ死のうと思っている。理由は簡単で自己表現だ。こうしないと世間の誰も私の苦しみに気付きもしないで素通りしていくばかりなので、世間様に目いっぱい迷惑をかけてこれから死ぬのだ。いえい。
まずプロフから。私の名前は■■■■■と明かさないが漢字五文字で、少し変わった名前だった。これが原因で小中といじめられて高校では無視をされ、大学に行ったはいいものの当然ながら社不なのでひとりぼっちで何も出来ず社会からの矢を一身に受けて内蔵はこぼれて血まみれなのだが、ライフラインは助けに来てくれないのでずっと視界は赤いままなのだ。うえん。
んで、何を書きたいんだっけ。
そうそう、私がこうして自己表現に至ったその理由を、電子のどっかに書いておきたいのだ。すでに糞尿以下の汚物と化したインターネッツを私の駄文でさらに汚してやりたいと、まあそういう意図趣旨目的でつらつらつらりと文字を打っている。
まず小・中学校のいじめについて解説しよう。でも長々と書いたら飽きられそうなので端的にまとめるね。殴られ蹴られ盗まれ突き落とされ殴られ殴られ落とされ濡らされまた盗まれたのだ。オーソドックスないじめである。でも問題はクソの教師にあると思っていて、アイツらは自分たちは偉いみたいな顔をしておいて所詮は地方の駅弁大学教育学部をなんとか卒業した程度のバカなので、平気で権力を慮っていじめを見て見ぬふりしやがるのだ、クソが。
ある日のこと、いつものようにホウキの尖った部分で男子数人に身体中を叩かれていた私は、後ろのほうの男子が笑いながら金属バットを取り出したあたりで『妄想代理人』を思い出し、命の危険があると抵抗してそのうちのひとりを殴って逃げ出したのだ。それでどうなったかというと、学校に呼び出された。
「お前、A(私が殴った子)を殴ったって本当?」
私は黙ってうなずいた。
先生は怒鳴るように言った。
「なにがあっても暴力は駄目でしょ。A、たんこぶ出来てたわよ。Aに謝りなさい」
私は身体中に痣をこさえ、目の周りは黒ずんで鼻血を出していたが、先生にそれは見えなかったらしい。ちなみに先生は今も教員として学校にいて、私の呼ばれない同窓会に大切な恩師として呼ばれているらしい。
まあそういう色々があった私はどうしても小・中学校の連中と同じ高校は嫌だったので死ぬ気で勉強して県で一番頭のいい奴らが集まる高校に進学した。
私を殴る以外に能のなかった出来損ない連中はその辺のヤンキー校に行って無事にヤリマンヤリチンに変化したと聞くが、私はこの進学校でようやく普通の生活が送れるとワクワクしたものだった。
でも小・中で受けた傷は思いのほかキツくて、私は人間を目の前にすると何も喋れないようになってしまった。体が強ばるんだよね。んでいつの間にやらやっぱり一人よ。クラスラインは私抜きで作られてた。ウケる。
嫌になってきたな。
でもがんばって大学に進学した私は徐々に人と接するように努力したこともあって人間恐怖症を克服しかけるのだけれど、それが今になってどうして死ななきゃならんのかと言うと、それは先日、人生で初めて愛の告白を受けたからなのである。
は?なんだよクソリア充がと思うかもしれないけど、私は告白されて死ぬほど気持ち悪くかんじてしまった。相手はすごく良い奴で顔も悪くないし勉強もできるという私にとってはもったいねいくらいの人だったけれど、ドン引きしてしまったのだ。そしてその理由を今まで考えていて、ふと思い当たった答えが私の死ぬ理由だったり。つまりは私は、もう誰からの褒め言葉も愛の言葉も、嘘にしか捉えられなくなってしまったのである。
私を貶したり悪くいう言葉しか信じられないのだ。罵倒して蔑んで嘲笑して殺すような言葉以外は全部偽物に思えるのである。それはあの地獄の九年間を経て学習したことで、人に過度に期待すると裏切られたときのダメージが半端なくて、それから身を守るためには全員を疑ってかからなくてはいけなくて、だから誰が私のことを愛してくれてもそれは多分全部欺瞞にしか見えなくて、ああ、とそこで絶望が去来。私はもう、苦しむ以外の道しか残されていないのでした、ちゃんちゃん。
よく未来には希望があるとかほざく奴がいるけれど、そんなものは私にはねーのである。
死ね。
なんつーか全然書ききれてないしダイジェストにもほどがある人生の概略だったけど、実はもっと色々な困難がまだまだあって、語りだしたらキリがないのでもうこの辺で手打ちにするけれど、いやさ、もうね。絶望ったならないですよ。こんな文章を書きながらもね、私はこれまで受けてきたささやかな励ましの言葉や暖かい言葉を思い出す訳ですが、それでもやっぱり、そういう言葉ってなんというか、弱者に施しを与えて悦びを得ているんだとか、そういう邪推をしてしまうんですよ。いや、邪推ってことは分かってるんですよ?論理では理解してるんですけど、心が受け付けてくれないんですよ。
もう無理なんですよ。
これから私はね、一生幸せになれないんです。そんななかで、かつて私を殺し続けた某さんたちは幸せに結婚して子供を産んで――って着々と平凡でけれど堅実な幸福を掴んでいくわけですよ。私を殺した事実など一切忘れて。
疲れちまった。
まあすぐに死ぬことはないだろうけど、なんか美味いラーメンでも食って、幸福に少し近い状態になったらそれで満足して、私はきっと死ぬんだと思うます。
んでね、何が言いたいかっていうと、みんなには自覚して欲しいんだよね。
みんなって、恵まれてるんだよね。
愛してくれる家族がいて、
守ってくれる大人たちがいて、
支えてくれる恋人がいるわけでしょ?
それってね、普通じゃないんですよ。
あなたは幸運にも私みたいな生き方をしなかった。失敗や不幸もあったかもしれないけど、私みたいに全部ダメにはならなかった。
恵まれているんですね、皆さんは。
だからこう、なんていうか。
あとこれだけ覚えといて。
私は苦しかった。
(1)巣では、隠語、業界用語で、 ずんぐりむっくり、 と言われている。
(2) ずんぐりむっくりとか言っていいんですかね、と言われている。
(3) 実際には、言われている。
(4) 鍛えられている。
(5) つのが生えたアイコンだと思うが、現場では色々なことを言うので、その正体がなんなのか分からない。
(6) VIVIDと書いてるところにはってあるポケモンの張り紙は、ざーちゃんがみせてると思うが、何をもってざーちゃんというかについても、だれがぬしであるか分からないので何とも言えない。
いずれにせよみせているだけなので、偽物である。
(7) 黒羽であったことは工場上がりになった時点で別のつなみや生成AIで、徐々になくなっていくし、少なくとも、9月25日までに運営がおもいっきり変えた
7月27日のまつりのべおかの前にも変えていたし、その後も必死で変えようとしていた
平(Pay)にあらずんば人にあらず
源義経は母親を平清盛に手籠めにされ愛人にされたので、その仕返しに平清盛の娘である平徳子を犯したということだ
2022年のアニメ『平家物語』では徳子はcv.早見沙織の重要キャラだったので記憶に残った人も多いだろう
平家が追い詰められ多くの者が海中へと身投げする中、徳子も身を投じたが、源氏方に引き上げられ救命されてしまった
徳子は一度は天皇の后になり国母まで産んだ尊い身分の美女である
義経は徳子を手籠めにすることにしたと『壇ノ浦夜合戦記』にある
もう平家は滅びたのだから過去を忘れ源氏の者となるよう心を慰めるため、義経は酒宴を開いて徳子を酔わせる
義経が口づけをすると徳子は思わず舌を少し出したが、ギリギリで理性が残っておりそれ以上は乗っては来ない
徳子の緋袴の中に義経は手を伸ばし、その描写は「春草まばらにしてやわらかなり」とあり陰毛のことだろう
酔って強くは抵抗しないものの、徳子は股間に力を入れて指の侵入を拒んだ
「すでにここにいたれり。なんすれぞ、さらにはじていずれのときをか期せんとする。なおしからずんば、かくのごとくせんのみ」
(すでにこうなっているのに。どうしてこれ以上ためらうのだ、いつ実行させてくれるのだ? もしさせないのなら、このようにするほかない)
徳子は痛みのはずみで足の力を抜いてしまい、義経はすかさず二本の指を挿入しつつ、銜珠(クリトリス)を愛撫する
徳子は、天皇には指で責められたことはなくはじめてのことだと語る
「やめよ。指をもってするなかれ。嗚呼、ほとんど堪え難し。嗚呼、それ指をやめよ」
徳子を横寝させ、義経も同じ方向を向きがら横寝して背後から挿入した
更には義経が仰向けに転がり、徳子に騎乗位をさせる体位に転じた
「嗚呼、美快迫る。寧ろ此の美快に死するを得んか。君願わくば妾の事殺せよ。嗚呼、君の手に死さば本望足る。嗚呼、それ、死す」
(ああ、美しい快感が迫ってくる。むしろ、この快感の中で死ぬのが本望だ。お願いだ、私を殺してくれ。ああ、あなたの手で死ねるなら本望だ。ああ、これで死ぬのだ)
と言いながら徳子は達した
徳子が最初の頃に流した涙は枯れ、後にはただ腰を打ち付け合う音が響いたという
これが平家物語の末路だよ
子供がすごいパパっ子で、いい旦那さんだねーそれだけ育児やってくれてるんだねーと家族は誉めてくれるし実際概ねいい人なんだけど初めてセックスした時に色々ひどかったのが、許したことにしてるけどいまだに思い出すとムカつくし人間性に不信感がもやもやと残る
私がモテないのと優しくされるとちょろいからなあなあにしたけど
初めての時にずっと電気消したままにするって約束してたのに途中でつけられた
私のまんこというか足の付根が黒ずんでてグロいから絶対に見られたくなかったしそのことはちゃんと説明して見ないということで合意があったのだが反故にされた
枕元のボタン押せば部屋全体の照明つくタイプの部屋だったけど途中で勝手につけられて、消そうと手を伸ばしたら腕を抑え込まれて無理矢理まんこガン見されてもうそっからレイプみたいになった
泣いても電気を消させてくれなかったのに終わったら賢者モードになって平謝りで、まあそれで許したこっちもちょろいんだが
手放しで誉められると、でもあいつ嘘つくし人泣かせて興奮してたような奴なんだよと言いたくなるけど言えねえよなー結局結婚してるしさ
男には清潔感だとかなんだとか言ってるけど女のネイルって男でいうと爪にゴミが入りまくって黒ずんでる爪と同じくらい「うわぁ...」って感じなんだけど
シンプルに不衛生だし、邪魔でしか無いし、仕事出来なそうだし、頭悪そうだし、家事もできなそうだし、(大抵の男がネイル嫌いおえって感じ)なのを理解してないのもヤバいし、そもそも30とかにもなって「爪キラキラでかわいい~~」ってそんな事言ってないでそのぼつぼつの肌をきれいにしろよ。その小じわをどうにかしろよ
これ書くと逆張りで「いや俺はネイルは~」って言う男居るだろうけど、そういう男も「じゃあ同じ条件でネイルなしとありはどっちがいいの?」って聞いたら99%が「ナシが良い」って言うんだよね
ところが、なんと表現していいのか、そうは見えなかったんだよなぁ
お爺さんは清潔な服装だったんだけど、女性の方がなんか服装が汚い、黒く汚れてるところさえあった気がする
あと、ちょっとゴスっぽかった、白いゴスというかお嬢様、お暇様コスプレみたいな感じ
未だに、目撃した自分でも信じられない、俺は何を見せられてるんだ感満載だった…😟
俺はかがんで技術書を漁ってたんだけど、レジの方から何やらルンルンイチャイチャした二人組が歩いてくるから、
本屋でもそういうことする人いるのかぁ…、と思って見たら、爺さんと眼鏡かけた若い女性だったんで、
なんじゃこらー、だったんだよな、女性も美人不細工というより、可愛いけど眼鏡かけた芋っぽいオタっぽい、
いかにも、やおいとかBL同人誌読んでそうな、池袋にいそうなタイプなんだけど、ちょっと頭が弱そうというか、変なのはなんか服装が汚い
白いゴスっぽい衣装のところどころが黒ずんでる、今考えてもなんかおかしいんだよな…
目撃できたのも一回きりだし、真昼の幽霊とか幻だったのかもな…😟
言わんとする事を言おうとすれば、タイトルのようになるしかないのだが、この事実が既に矛盾を抱えていて、「自己責任論という対象への批難をする他己責任論」の蔓延元であるように思える。というと、他己責任論者と詰られたと勝手に感じた自意識過剰でずんぐりむっくりの干渉的なタイプの人間が、あんたはじゃあ失敗のすべては個人責任で、被抑圧的な対象に同情しないんだね、みたいなことを言ってくるのだが、まあまて。
誰もそんな事言ってなければ、あんたを責めもしていないから、一度聞け。
そんな自分を責めている被抑圧者の要求がなにを求めているのかといえば、あんたの勝手な自意識の解消ではなく、まず問題の正しい把握である。
自己責任論が批難される理由は、まあ端的にそういうことなのだが、自己責任論とは個人に生じた悪い現象を自業自得だとする論理だ。
ここでは、
悪い現象の責任を個人に帰責するのはやめろ→自己責任論は諸悪の根源→攻撃→他己責任論者への転回(自己責任論への詰責、被害者の加害者への転身)
という一連のプロセスが発生しているのであるが、これは個人的にも社会的にも同時並行で進行する。
デフレへの視点で捉えるとわかりやすい(経済的な問題はいつも視点が一点集中していて、多角的な視点から一つの現象を捉えようとはしない。)
通り一片というのは、負の側面だけを捉えているということで、個にとって悪質な自己責任論を撤廃、廃絶させてしまった先に何が残るのかという事を、《自己責任論者》は考えようとはしない。
そもそも彼らがしているのは、存在しない自己責任論者に対するテクストの訂正行為じみたもので、勝手に「自己責任論」という議題を設定して問題を追求しようとしているようなものだ。
つまり、そのような対象(自己責任論者)は現実の人格としては存在しないに等しい。だから、それに対する攻撃は、そもそも何に対して怒っているのか、攻撃しているのかがわからない。
が、彼らの攻撃は自己責任論者として現実の人格を叱責する。換言すれば、自己責任論の問題を現実に帰責し、具体化する(してしまう)ことで、無関係の他者を詰問する。
このような状態を人格の二元性と名付ける。この名称自体にそんな錯誤と矛盾が表れている。あたかも「自己責任論」のように。
そのような状態では言論も攻撃的か、批難的か、あるいは攻撃的に批難的かになる。
整理しよう。
自己責任論の負の側面は悪い現象は自業自得になるということだが、では正の側面は良い現象も自業自得=本人の努力という捉え方に回収される事だろうか?
注意してほしいのはここで人格が二元化された観念的な状態を区別することだ。
つまり、”自己責任論の正の側面として何らかの良い現象を受けている個人なんていないということ”だ。
あたかも上級国民に向けられる復讐根性のように、これ自体が正の論理だから、負の論理はわからないとか、そういう事もない。
なんていうか、まずその、あなたの負の状況というものが無い。その穴も都合よくつくられたシチュエーションである。
にもかかわらず自己責任論が個人である私を批難しているように”現実において”感じるとしたら、それはたぶん観念的な他者への他責が社会意識にまで拡張された時代だからで、だからって別に一方的に他責されてる被害者がいるわけではない。そんなふうに思うやつがいれば自身が目の敵にする迫害者と同じ。だが、そんなふうに思うやつが実在するわけではない。
しかし、そのような変質を受けたものではない、自己責任という語句の意味については肯定されるべきで、本当に憂いるべきは誤った負の観念が正しい意味まで同時に否定してしまう事だ。
さて貴方が本当に否定したいのは、自己責任論ではなく、それ自体誤った自己責任論の状態であり、求めているのは、廃絶という意味ではない負の否定である。負は無限に廃絶されるべきだ。だがその循環自体の廃止は誰も望んでいない。
負の状態を否定するために廃止を望んではならず、この廃止を望んでいる状態や廃止された状態が負の状態といえるのではないか。
一定の結論を出すために、個人は個人に責任を持つべきだし、持てる社会の状態が結局は望まれている。
しかし、「自己責任論」に限らずに、誤った観念がそれを阻害している。その状態の改善こそが求められている。だから問題なのは「自己責任論」そのものではない。「自己責任論」という記号的問題にまつわる状態の全て。「自己責任論」がどのように社会において問題にされているかというシチュエーションが最も討議すべき根幹的な問題。それを問わない結果が誤った方向に行く。諸悪の原因は本当はこれ。なので、誤った社会的観念における誤った状況の防止のために、誤った社会的観念が個人の逸脱の原因という意味で、社会は責任のがれなんかせずに、「自己責任論」なんて議題の設定の仕方はやめて「個人責任」とか「個責主義」とか、もっと現代的な抑圧論に結びつけて考えたらいいし、そうするべきだと思う。
問題なのは、自分の及ばない範囲の問題まで自分の責任にされているというか、そうだからって自己責任を否定するんじゃなくて肯定するのが大事だっていう事なんだけど、その自己責任っていうのは正しい言葉の意味を肯定しようってことで、社会的に捻じ曲げられた仮置の信号として解釈すべきでなく、そこに置くべきではない。社会的には個人の社会責任があるという自負でよくないか。