はてなキーワード: 編集手帳とは
印刷物の「縦の列」を指すようになり、
この増田では、コラムの語源と起源を軸に、その社会的役割と現代における展開を考察する。
コラムの語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。
紙面の縦方向の区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。
日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。
1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、
当初は「雑報」と呼ばれていたが、
興味深いことに、
戦前の新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、
戦後GHQの指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。
1751年3月11日、
イギリスの『ロンドン・アドバイザリー・リテラリー・ガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。
これが「コラム」と呼ばれる契機となり、
当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、
この形式が人気を博し、
1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。
年間人気コラムランキングが出版されるほど社会的影響力を持った。
朝日新聞「天声人語」の執筆陣には芥川賞作家の井上靖や開高健ら文学者が名を連ねた。
この時期の特徴は、
800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体の確立にある。
インターネットの普及により、
コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。
この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。
「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩(20%)→結論(25%)」
①擬人法(「円が踊る」)、
2000年代以降は、
といった読者参加型の手法が増加している。
特にYahoo!ニュースのコラムでは、
本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。
公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能を果たしてきた。
実際に地方自治体の政策変更につながった事例が複数報告されている。
近年では、毎日新聞「発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポを継続的に掲載し、
コラムは教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要な役割を担ってきた。
2010年代には、
産経新聞「産経抄」が日本の伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、
2023年、
朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、
感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感型AI」の開発が進められている。
一方で、
2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品がノミネートされる事態が発生した。
読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラムが一般化している。
ユーザーの位置情報・検索履歴・心拍数データ(ウェアラブル端末連動)を分析し、
これに伴い、
職能の変容が進んでいる。
その形態は変化し続けているが、
今後の課題は、
AIとの協働の中でいかに人間らしい洞察を深化させられるかにある。
次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、
https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20231227-OYT8T50000/
(前略)米国では建国の父ベンジャミン・フランクリンが印刷工を経て売り出したことで知られる。勤勉や節約を説く中に次の言葉がある。<金を借りに行く者は、悲しみを借りに行く>(『フランクリン自伝』岩波文庫)
貧しさから10歳で学校をやめ、働かざるをえなかった偉人の脳裏に刻まれた情景だろうか。12月は統計を報じるニュースが多い。その中にフランクリンに読ませたくなる記事があった
今年、全国の「子ども食堂」が公立中学校の設置数に迫る9131か所になったという。東京の支援団体の調査でわかった。収入に乏しい家庭が頼るのはもちろん、7割ほどが会食形式で運営され、働く親を持つ子どもの居場所づくりになっている。それが広がれば広がるほど「孤食」の子どもは少なくなる。いいクリスマスになっただろう(後略)
最近通学途中の電車内にある広告を見つけた。読売新聞の1面の下の方に掲載されるコラム、「編集手帳」の広告だ。どことなくノスタルジアを感じる夕暮れの教室の写真に、こんな詩のような文章が載っかっている。
ひとの心を傷つけて
喜ぶ心さびしき者に
聞く耳はなかろうから
中傷された君に言う
蝿たちの集まりでは
蝶も「キモイ」と
陰口をたたかれるだろう
心ない者たちのうちにも
自分と同じ美しさを探しつつ
君はひとり
大人になればいい
とてもいい文章だ。非常に的を射ている(的を得るを訂正しました)。確かに「人を虐めているような腐った人間に何を言ってもしょうがない、虐められてる側が強くなれ。」というのはその通りだし、虐められてる人間にとってはとても勇気づけられる言である。まあイジメを知らない人間の、ある種の第三者的な発言の側面もあるだろうが。
さて、僕は今から6、7年前、小学生の時分どちらかといえば虐められている側の人間だった。まあ今になって考えればイジメというほど大したことではなかったし、体型のことを言われて蔑まれていたくらいで、慢性的なものでもなかった。僕に言っていた側も軽い遊びのつもりだったのだろう。今も年に数回会うが結構仲良い。その程度だ。しかしながら、当時の僕にとってはそこそこの悩みだった。もっと皆と普通に接したいとか考えちゃったりしてた。「キモい」「ウザい」という言葉が怖かった。とにかく、まあ僕は虐められていた。
そして本題であるが、僕がこの広告を見て思ったのは「虐められている人間は本当に『蝶』なのだろうか?」ということだ。最近はいじめっ子だけではなく、その親や担任の教師までもが「いじめられる子に非がある」なんて言い始めているらしいが、別にそういう次元の事を言いたいわけではない。僕が言いたいのは「虐められている子に肯定だけを与えていればそれでいいのか?」ということである。
人を虐めるような人間が「蝿」なのは言わずもがなだ。そしてその一方、虐められる側の人間は映像や漫画中ではまさに「蝶」のように描かれていることが多い。しかしながら、僕はその実「蝶」と呼べるほど100%の肯定をもって見ることができる人間は虐められることはないと思う。僕の経験上、あくまでも僕の経験上だが、だいたい虐められる人間というのは、場の空気が読めない発言が多かったり、おせっかいが多すぎたり、コミュニケーションが上手くとれなかったり、或いはかえって全く喋らなかったり……等々、実際どのようなコミュニティにいてもどこか浮いてしまうような人がほとんどである。僕自身、虐められていた時分を省みてみると、やたらしゃしゃりでて、しかも場をやたらし切ろうとしたりなどと結構ウザい部分が多かったと感じる。
実際、僕の生きる狭い範囲で様々な人を見ても、皆が皆ずっと「良い人」なわけじゃない。「蝿」っぽくなったり「蝶」っぽくなったり、同じ人間だって時と場合によって変わってしまうことが多い。どんな人にだって受け入れにくい人、苦手な人はいるものだ。だからこそ、やっぱり前述したような人々は色んな人から拒絶されやすいが故に虐められてしまうのではないだろうか。
そして話は戻り、そんな人々に「周りの蝿は気にしてもしょうがないのだから貴方がもっと美しい蝶になりなさい」とだけ言っておけばいいのだろうかという話だ。僕は違うと思う。勿論「蝿」を気にしていてもしょうがないが、虐められている人間も多少は自らを省みる必要があるのではないかと思う。考えて、考え抜いてそれでも自分が何も変わっていないと思うのであれば、それは周りの「蝿」が本当に腐りきっているだけだ。シカトしとけばいい。しかし、少しでも改善できる部分があると思うのであれば、少しずつ、自らを変えていってみてはどうだろうか。もしかしたら周りも辟易していじめなどなくなるかもしれない。もし無くならなかったら、やはり周りが「ゴミ」だということで構わないと思う。
なんてことを思ったのだが、皆さんは「編集手帳」の文章をみて何を感じただろうか。