はてなキーワード: 植物とは
また植物の話してるんだね君
性格: 哲学的で内向的。孤独を恐れるが、自分の弱さを受け入れながら日々を懸命に生きる。
リサイクルバッグ: 壊れない素材で作られたエコバッグ。無限の収納能力を持ち、彼の全財産が詰まっている。
割引クーポンブック: あらゆる場面で使用可能な伝説のクーポンブック。使用すると物品やサービスが割引されるが、使いすぎると「世界の均衡」が崩れると言われている。
弱者男性は、かつて社会の片隅で目立たず生きていたが、「究極弱者プロジェクト」によって改造され、弱さを極限まで追求した「究極弱者」として目覚める。古代の伝説にある「生命の実」の力で不老不死となり、永遠の時間を生きることとなった。しかし、その代償として、彼は「永遠に庶民の立場に留まる」という制約を課され、どんなに努力しても成功や富を得ることはできない。彼は自身が望まずしてこの道を選ばされたことに苦悩している。
「生命の実」は、人類の「生きることへの執着」が形を取ったものとされ、その力を得た者には世界の不条理を見届ける使命が与えられる。弱者男性は、リサイクルバッグと割引クーポンブックを手に、終わりなき旅を続けながら、他者を助けたり、自分の存在意義を探したりしている。
不老不死: 肉体的な死や衰えから完全に解放されている。ただし、心の傷や孤独感から逃れることはできない。
生命力の調整: 自分の生命力を他者に分け与えたり、植物や動物を再生させたりすることができる。
超人的節約スキル: 限られた資源で最大限に生き抜く知恵と技術。割引クーポンブックとの併用で、どんな困難な状況も乗り越える。
不老不死でありながら経済的に困窮し続ける自分の運命に悩む中、同じく苦しむ人々に割引クーポンを配り希望を与える。
生命の実の力を使いすぎて自然界のバランスを崩してしまい、それを修復するために奔走する。
世界の経済を脅かすほどの力を持つ割引クーポンブックを巡る戦いに巻き込まれるが、最終的に人々の平和のために自ら犠牲を払う。
…食塩の濃度にもよりますが、生理食塩水と同じ程度の食塩(約0.9%、約155mM)があるとすると、多くの植物では塩害が数日のうちに現れるはずです。3倍かそれ以上に薄めればそのような害はなく、塩類、糖類なども利用されますので、直ぐに異常な効果は出てこないとおもいます(ただし、糖類がありますので細菌やカビが繁殖する恐れがあります)。植物生育に必要な塩類はマグネシウム、カリウム以外に窒素、リン酸の他各種の金属も必要ですので、希釈したスポーツドリンクだけでは生育を持続することはできず、やがては枯死することになります。鉢植えの植物では、土壌中にすでに含まれる栄養塩類の効果が続きますのではっきりした効果が現れない恐れがあります。
ということで、3倍以上に希釈してカビに気をつける必要があるし、3大栄養素(NPK)のうちNとPは補強する必要はあるけど、水だけよりは良いのではなかろうか。
西暦751年。
中央アジアのオアシス国家、大宛に戦いが起こった。シルクロードを手に入れようとするイスラム帝国と、これを阻止しようとする唐帝国の衝突である。戦いはタラス河畔で決戦となり唐軍が敗北した。イスラム帝国はシルクロードの交易ルートを手にした。しかし彼らが手にしたものはそれだけではなかった。このとき国都サマルカンドに引き立てられた唐軍の戦争捕虜から紙の製法が西へと伝わった。
紀元前二千年期半ば。
古代メソポタミアに栄えたシュメールの英雄叙事詩『ギルガメシュ』は森の破壊から語られる。森が破壊されるとそこは砂漠となった。だから『ギルガメシュ』は砂漠から抽出された粘土板に記された。シュメールの発明した楔形文字はやがてメソポタミア全域に広がり、アッシリア、ヒッタイト、バビロニアなどの都市国家に文字をあたえた。メソポタミアの都市国家でも『ギルガメシュ』はよく読まれた。都市の建設のため古代の王たちは鬱蒼たるレバノン杉の森をつぎつぎと伐り倒した。森が破壊されるとそこは砂漠となった。だからこれらの都市国家でも記録は粘土板に刻まれた。
紀元前105年。
漢の蔡倫が新しい紙の製法を発明した。植物繊維を編まずに溶かして漉くことで紙を得るというものだった。木簡や竹簡より広い面積を取れる上に軽量で、絹や麻よりもきめが細かく安価だった。溶かして濾して再利用することも可能だった。
それぞれの文字の記録にはそれぞれの文化の記憶が込められていた。
タラス河畔の戦いは砂の記憶と森の記憶の遭遇でもあった。森の記憶を込める紙の文化はゆっくりと西へ進み始めた。ただ砂の記憶を引き継ぐ羊皮紙が東へ伝わることはなかった。黄河文明圏にとって甲骨や板に文字を刻む時代ははるか過去のものだった。
西へと進んだ森の記憶は数百年の時を経て教会の権威に屈従を強いられる中世ドイツに到達する。グーテンベルクはみずから発明した活版印刷でラテン語の聖書を紙の上に複製したが、これを読んだ知識階級は驚いた。聖書のどこを探しても免罪符を定期的に購入すれば贖罪がなされ、これを購入しなければ地獄に堕ちるとは記されていなかったからである。後にはじまるルターのドイツ語版聖書の出版、それにつづく宗教改革はこのとき完全に予告された。歴史家はこのときをもって中世は末期に至ったことを宣告する。
紙という媒体は西洋に普及したが、西洋の世界は森の記憶を引き継いだわけではなかった。東洋において紙の記録は森の記憶と同一であり、森の記憶は自然であり宇宙と同一であった。しかし西洋において、紙の記録は権威を破砕する兵器であり、権威を死守する要塞でもあった。砂の記憶を持つ西洋において、紙という媒体はつねに浮遊しつづけた。それは媒体というものへの強烈な認識となり、やがて媒体そのものを独立した形而上の対象と見なすに至る。
浮遊しはじめた媒体という概念に宿る真理はその強力さゆえに探究された。対象から真理を抽出する作業に真理を封印することで権威を維持していた教会は関与できなかったので、この作業は錬金術師の手(techne)にゆだねられた。彼らは真理を抽出する過程で岩石から物質を抽出する方法を手にした。ここに科学がはじまる。浮遊しはじめた媒体という概念から、科学は還元という手法をもちいて真理を抽出した。この真理は彼らの生まれ故郷の砂から還元された。その名を珪素(silica)という。珪素の円盤に刻印されたシュメール文字のような複雑な紋様は記憶をbitという単位に還元し、これを地球全域に浮遊させた。砂の記憶に森の記憶を受け渡した東洋は、千年の時を経て西洋から砂の「真理」という答礼を受けた。珪素に宿り大気圏を光速で浮遊する真理は紙ではなくdigit と表象される。
ところで森を破壊する英雄ギルガメシュはイシュタルの怒りに触れ孤独にさすらうことになるのだが、旅の途中でナピシュティム(聖書ではノアと表記される)に出会い不死の薬草を譲り受ける。しかしこの薬草は蛇に食べられてしまう。このとき英雄ギルガメシュに有限の未来が宣告された。
森を破壊し砂の中からあらわれた彼らはこの神話の意味を知っている。だから彼らは還元されたdigitにふたたび酸素を与え記憶の森をつくろうとするのだろう。そしてわれわれもまた、あらたな記憶の森をつくることになる。ただ、われわれの森は還元されていないから酸化する必要はない。自然の、宇宙と一体の記憶の森である。気になるのは、われわれ自身ははたしていまもその森を保持しているのかどうかである。
物質から真理を還元し、そこから離脱することによって得られた電子の記憶庫がデジタル・アーカイヴである。ここに託されるべきものは神話としての無責任な森ではなく、明確に未来に資する森である必要がある。神話によって烙印を打たれた未来の有限性を打破できるかどうかが、これから世界がつくろうとしているデジタル・アーカイヴという二重の意味を帯びた記憶の森に託されつつある。
2003
また植物の話してるんだね君
さてヨーロッパに話を移すと実はヨーロッパの官僚主義はアメリカよりもはるかに強いのです。
なぜならヨーロッパには州や国レベルの官僚機構だけでなくその上にEUが存在するからです。
そして率直に言ってブリュッセルにあるEU本部は官僚主義の大聖堂と言っても過言ではありません。
もし官僚主義の大聖堂を訪れたいならブリュッセルのEU本部に行ってみるといいでしょう。
私はヨーロッパはアメリカよりも政府の効率化が必要だと思っています。
そして実際ヨーロッパにおけるこの問題はアメリカよりも深刻だと考えています。
それは過剰規制による緩やかな窒息とでも言うべき状況です。
この窒息は突然起こるものではなく毎年少しずつ締めつけられていくため、その瞬間には致命的だと感じにくいのです。
しかし首に巻かれたロープは毎年少しずつ締まり続け最終的にはヨーロッパを窒息させてしまうでしょう。
したがって私の意見としてはEUレベル国レベルそして地方レベルにおいて規制を削減するための即時の対応が必要です。
さてオープンソースのAIモデルは一般的に商用の最先端モデルに遅れを取る傾向があります。
つまり今日商業的に最も強力なAIモデルはおそらく1年以内にオープンソース化されるでしょう。
この流れは今後も続くと予想されます。
要するに最終的には誰もがAIを持つことになるのです。
デジタル超知能の到来は歴史的に見ても極めて重要な転換点となるでしょう。
もし未来の歴史かあるいはその時代にまだ人間がいるならですが。
千年後の歴史家が歴史上最も重要な出来事は何だったのかと振り返るとすれば、間違いなくデジタル超知能の誕生がその1つに数えられるでしょう。
その頃にはどの国の誰が権力を握っていたかなどは取るに足らない話になっているでしょう。
デジタル超知能の登場はそうした政治の話題とは比べ物にならないほど重大な出来事になるのです。
私はまた人類が宇宙進出文明になることもこのリストに入るべきだと考えています。
つまり非常に広い視点から見て進化の観点から考えた時、歴史上のトップ10に入るようなマイルストーンは何かと考えると、次のようなものがあげられるでしょう。
哺乳類の出現
もちろんこうしたことを成し遂げるのは非常に困難です。
これは大きな挑戦です。
私たちの脳はたった20Wの電力しか消費せず、そのうちの約半分つまり10Wほどが高次の脳機能に使われています。
この10Wの肉のコンピューターでこれらを考えるのは非常に大変なことです。
ただ1つ助けになる考え方があります。
それはトレーニングに必要な精神的負荷と実際にそれを実行する際の精神的負荷には大きな違いがあるということです。
例えばチェスを例に取るとグランドマスターになるにはおそらく1万時間のトレーニングが必要ですが、実際にゲームをプレイするのには数時間しかかかりません。
私は車会社やロケット会社、衛星事業などを構築成長させる方法を学ぶために1万時間どころではなく、はるかに多くの時間を費やしてきました。
またスペースXを創業する前にはインターネット企業を2社共同創業しておりインターネットや決済システムについても理解しています。
つまり1度トレーニングが完了すれば必要な精神的負荷は大幅に減るのです。
これこそが私が長年に渡る膨大な訓練を必要とすることを成し遂げつつも実際の実行段階ではそれほど大きな精神的負担を感じずに済む理由です。
私はこれまで政府と深く関わってきましたが実際に政府を改善しようとするのは今回が初めてです。
そのため最初はかなりの学習負荷がかかると思いますが、やがて推論の段階に移行すればそれはトレーニングよりもはるかに簡単になるでしょう。
また仮にTikTokを手に入れた場合に何をするかについて特に計画は持っていません。
おそらくアルゴリズムを分析してそれがどの程度有害なのかまたは有益なのかを判断するでしょう。
そしてアルゴリズムをさらに生産的な方向へ調整し最終的に人類にとってプラスとなるようにすることを考えるでしょう。
基本的により有益な方向へ進むべきであり有害な方向へ進むべきではありません。
そのためあまり詳しくはありません。
ただXに時々動画が流れてきたり人が見せてくれたりすることはあります。
しかし私はTikTokを買収したいとやっきになっているわけではありません。
Twitterを買収した理由は当時も言いましたが、アメリカにおける言論の自由を守ること、そして法律が許す範囲で世界の他の地域でもこれを維持することが重要だと考えたからです。
私はTwitterを買収することが人類の未来にとって重要で生産的な一歩になると感じました。
そして実際には非常に苦痛を伴う難しい決断でしたが、それでもなおやるべきことだったと考えています。
そのため私はTiktokの買収に強い関心を持っているわけではありません。
私は経済的な理由だけで企業を買収することはありませんし、経済的な理由を除いてTiktokを買収する目的が何なのかはっきりとは分かりません。
一般的にこうした政治的な動きは前向きなものだと考えています。
しかし右派とは何か、左派とは何かという定義は時代と共に変化してきました。
例えば常識的な移民政策や適切な政府支出といった政策はかつては左派の人々も支持していましたし、中道的な政府も当然のように支持していました。
しかし現在のメディアではかつて中道や中道左派とみなされていた政策が極右として定義されるようになっています。
本来極右とは極端なファシズム的な状況、例えば戦争を仕掛けたりジェノサイドを企てたりするような政権を指すべき言葉です。
しかし今では常識的な移民政策を指示するだけで極右と呼ばれてしまう状況になっています。
実際過去10年から15年前の中道左派の政治家のスピーチを聞けば現在極右とみなされている意見とほぼ同じ内容を語っています。
例えばオバマ大統領やヒラリー・クリントンが10年から15年前に行った移民政策に関するスピーチを見れば現在のトランプ大統領とほぼ同じ内容になっていることが分かります。
それほど昔の話ではありません。
つまり私たちが目にしているのは右派と左派の再定義ですが、それは誤った定義です。
率直に言ってそれは単なるプロパガンダに過ぎません。
なぜなら人々は、一般的に極右=悪いものと考える傾向があるため、常識的なことまで極右とラベル付けされてしまうのです。
その結果は明らかです。
彼はようやくインフレを抑え込み政府の規模を劇的に縮小しました。
なぜなら公的セクターの低生産性あるいはマイナス生産性の職から人々を高生産性の民間セクターに移す必要があるからです。
経済的な改善が根本的に起こるのはこうした人材の再配置が実現した時です。
マイナス生産性の仕事から高生産性の仕事へと人々が移動すれば罪やサービスの生産量が増え生活水準が向上します。
ここで誤解しがちなのは人々がお金は現実のものと思い込んでいることです。
注:Workism「生き方としての仕事主義/労働倫理への過剰なまでの傾倒を表す用語」
もしこれが性別や人種に基づく差別という意味で使われるのであれば、それは明らかに間違っています。
それが白人に向けられようと黒人に向けられようとアジア人に向けられようと誰に対しても同じことです。
しかしDEIやワークイズムは基本的に差別を推進しているのです。
それは間違っています。
私の考えでは私たちはメリとクラティックな実力主義的な社会を築くべきです。
それ以外の私的な基準によって成功が決まるべきではありません。
言論の自由が意味を持つのは、あなたが嫌いな人があなたが嫌いなことを言う権利を持っている時だけです。
それこそが本当の言論の自由です。
政府が何が誤情報で何が誤情報でないかを決定するべきではありません。
なぜならそれは人種差別的であり性差別的であり反言論の自由的だからです。
これは非常に基本的な話ですが、がもし人々が子供を生まなくなれば人類は存続できません。
そしてここ何年も世界のほぼ全ての地域で出率の低下が続いています。
例えばインドですら、最近出生率が人口維持水準を下回りました。
よく移民で補えばいいという人はいますが、一体どこから移民を受け入れるつもりなのでしょうか。
例えば中国の出生率は現在人口維持水準の半分程度でおそらく60%前後にまで落ち込んでいます。
これはほぼアメリカ2つ分の人口が中国に移住する必要があることを意味します。
そんなことは不可能です。
韓国の出生率は現在は人口維持の水準を大幅に下回る1.3であり、このままの傾向が続けば3世代後には韓国の人口は現在の3%から4%にまで減少します。
私は全ての文化にはそれぞれ素晴らしい面があると考えています。
一文化が消えるのは望ましくありません。
フランス文化も韓国文化も日本文化もアメリカ文化もどの国の文化も失われるべきではありません。
だからこそ私は世界中が均一化することに対して慎重であるべきだと考えています。
もし極端なグローバル化が進めば世界中ののどの地域も同じようになってしまい独自の文化が消えてしまいます。
それは世界をつまらなくするだけではなく文明にとっても良くないことです。
しかし現在の低出生率や多文化主義とグローバリズムの影響により、私たちは実際には個々の文化の希薄化と文化の破壊消滅をまのあたりにしています。
私は今が重大な転換点にあると考えています。
具体的には出生率を大幅に向上させるための抜本的な対策が必要です。
これには非常に大胆なインセンティブが求められるかもしれません。
つまり移民は適切に審査された上で受け入れられるべきであり犯罪を犯したものは即座に国外追放されるべきです。
そうしなければ動脈硬化のように規制が積み重なり最終的には何をするにも違法になるような状況に陥ります。
したがって私は次の3つの改革を即座にかつ劇的に進めることを推奨します。
規制緩和
言論の自由の確保
https://zenn.dev/bird32/articles/37906495e56ba5
グラント氏は最終的に、セルフ・アイデンティティに基づく定義に落ち着きました。これは「女性とは、自分がそうであると主張する人である」というものです。
もちろん、これは同語反復(トートロジー)であり、女性とは実際に何であるのかという疑問は依然として残されています。長い生物学的な歴史を持つ用語のこの驚くべき再定義は、自然に対してイデオロギーを押し付けようとする試みとしか見なされません。
「ノンバイナリー」の人々、または「女性」として自らを認識する(identify as)男性(「トランス女性」)の中には、生物学によってそのアイデンティティが十分に認識されていないと感じる人々もいるため、彼らは生物学に対してイデオロギーを押し付け、「女性」の新しい定義を作り出そうとします。
さらに言えば、セルフ・アイデンティティが直接的に経験的な現実と一致するという主張には、多くの問題があります。
自分が太っていると感じているからといって、常に太っているわけではなく(拒食症の問題)、自分が馬であると感じているからといって、馬ではなく(「シアリアン」と呼ばれる人々が心理的に動物であると自己同一化している)、自分がアジア人だと感じているからといって、アジア人になるわけではありません(「トランスレイシャリズム(transracialism)」の問題)。
しかしながら、性別についてはこれは異なる、とグラント氏は言うのです。それは、人間の生物学的な特徴の一つでしかなく、単に心理的な作用によって変化しうるものであると述べます。
生物学では伝統的に「性別(sex)」とは、生殖細胞(「配偶子 gametes」)の大きさと運動性によって定義されています。
雄(male)の生殖細胞は小さくて運動性があります(動物では精子、植物では花粉)。雌(female)の生殖細胞は大きく運動性はありません(植物では卵細胞、動物では卵子)。すべての動物と維管束植物には、正確に2つの性別(sex)があり、それ以上はありません。 植物の相当数と少数の動物種では、単一の個体に両方の機能を併せ持つもの(「雌雄同体」)もいますが、これらは典型的な2つの配偶子を生成するため、第三の性別(sex)ではありません。
確かにごく一部の例外として、分類に従わない "インターセックス" の状態の人々がいます(その割合は約5,600分の1から約20,000分の1と推定されています)。このような配偶子観点の例外は確かに興味深いものですが、性別(sex)の二元性(バイナリー)の一般性を損なうものではありません。生物学において、これほど稀な逸脱が基本的な概念を揺るがすことはありません。例えば、約300人に1人の割合で、生まれつき正常な10本の指を持たない多指症の人々がいます。しかし、誰も「指の数のスペクトラム」などは語りません。(なお、ノンバイナリーおよびトランスジェンダーの人々のうち、"インターセックス" の状態である人はごく一部であり、ほぼ全員が生物学的に男性または女性であることを認識しておくことは重要です)
したがって、生物学では、女性とは「成人の人類の雌(An adult human female)」という言葉で容易に定義できます。
グラント氏が犯した最大の誤りは、生物学的な特徴である性別(sex)と、ジェンダー(gender)、つまり社会において担うことを推測される性役割(sex role)とを混同し続けたことです。性別(sex)はあらゆる点でバイナリー(二元性)であるが、ジェンダーはよりスペクトラム(連続体)的であり、それでも「男性」と「女性」の2つのラクダのこぶのようなモードがあります。
ほとんどの人々は、生物学的な性別に関連するジェンダーの役割を演じていますが、多くの数の人々が、両者の役割を混ぜ合わせたり、あるいは男性/女性の役割を完全に拒否したりしています。グラント氏は「私はジェンダー表現を、1日を通して変化するさまざまな方法で演じている」と語っています。しかし、これによってグラント氏が1時間ごとに性別を変えているというわけではありません。
したがって、性別の生物学的な概念の下では、人間が性別を変えることは不可能です。つまり、真の「トランスセクシュアル」になることは不可能なのです。なぜなら、哺乳類は配偶子を生産する方法を変えることができないからです。より適切な用語は「トランスジェンダー」または、「トランス女性」に対しては「女性として自己を認識する(identify as)男性」でしょう。
グラント氏はここでも読者を誤解させます。例えば、彼らは「トランスジェンダーの人々は、他の人々よりも性犯罪者になりやすいわけではない」と主張しています。しかし、少なくともトランスジェンダー女性に関しては、事実はこの主張とは反対のことが裏付けられています。
英国法務省と英国国勢調査の統計を比較すると、性犯罪を犯した受刑者の割合は、男性受刑者の中の約20%、女性受刑者の最大約3%であるのに対し、トランスアイデンティフィケーションした受刑者の少なくとも約41%が性犯罪で有罪判決を受けています。したがって、トランスジェンダーの受刑者は、生来の男性の2倍、生来の女性の少なくとも14倍の割合で性犯罪者である可能性が高いようです。
これらのデータは、逮捕された者や有罪判決を受けた後に女性であると宣言した者だけに基づいているため不完全ですが、トランスジェンダー女性は生物学的女性よりもはるかに多く性的に略奪的であり、生物学的男性よりもややいくらか略奪的でありうることを示唆しています。スコットランド、ニュージーランド、オーストラリアでも同様の傾向が見られるという指摘があります。
まず、生物学的な性別の現実を認め、イデオロギーに基づく概念を拒絶することは「トランスフォビア」ではないということを主張したいと思います。科学的な現実とトランスジェンダーの権利のどちらかを選ばなければならないということは、決してあってはなりません。
トランスジェンダーの人々も、他の人々と同様に、道徳的・法的権利をすべて享受すべきです。しかし、道徳的および法的権利は、「消えない刻印」としての性別(sex)が他者の法的および道徳的権利を損なう結果となる分野にまでは伸長されません。
例えば、トランスジェンダー女性は、生物学的な女性と女子スポーツで競うべきではありません。また、レイプ等の性犯罪に関するカウンセラーや暴力を受けた女性のためのシェルターのスタッフになるべきではありません。また、犯罪で有罪判決を受けた場合は、女子刑務所に収監されるべきではありません。
例えば、理科の授業で植物の構造を学ぶ。花の花弁がどうこう、葉緑体の構造がどうこう、毛細の仕組みがどうこう。
そこに、「ある花は綺麗で、ある花は醜い!」とか「日本古来愛されてきた桜の構造だけ学べばよくて他の木は適当でいい!」みたいな価値判断は普通入らない。
社会の授業で、世界の国々の様子を学ぶ。アメリカの選挙制度はどうこう、ロシアの大きさはどうこう、世界の人口はどうこう。
そこで、社会の授業という枠組みで「アメリカの政治制度は正しく、中国は間違ってる!(逆も)」とか「北方領土!竹島!日本の国土!」という授業を何時間も続けるということは異常である。少なくとも社会科の枠組みではない。
性教育はどうか。
性器の構造。精通や生理。妊娠と出産。これらは理科的・生物学的側面といえる。
一方で、「成人するまでセックスを我慢しよう(逆にどんどんセックスをしよう)」とか「セックスの前に合意をしよう。その合意は空気ではなく口頭で行うべきで~」とか「堕胎の是非」とかは思想的な問題である。
だが、性教育は前者と後者が混然と一体になり、しかも数多くの自称専門家が、その政治思想の左右を問わず好き勝手言い合うことが平然と行われている分野である。
これらにカリキュラム的な問題が合わさり、「外部の『専門家』を学校に呼んで特別授業を行う」という他の分野ではほとんど見られない現象が生じ、ますます事実とそれ以外の混入に拍車がかかっている。
それも、たとえば修学旅行前の平和授業なら、目の前にいるのが被爆者の語り部であり個人的な経験を語っているということは、子供ながらでもわかる形となっている(そしてこれは社会科の枠組みではないはずである)。
だが性教育の出張授業になると、途端に目の前にいるのは実際の業績が不明で、科学的なことを語るはずが事実と思想の分別がつかない言動をする教授や医者のいうことを、子供たちは鵜呑みにさせられることになる。
実際、私の時は、女医が学校に来て、そういう教育を受けた。しかもその女医は「そんなんじゃ女の子にモテないよ」式の言動をテコに性教育を行うタイプの人間であった。
もちろん、学校という現場だけの問題であるとは言わない。文科省。公立・私立。地域や家庭。色々な問題が絡んでいる。
個人差が大きく、急激に変貌する個々人の身体。「初めての生理が来たら赤飯を焚いて…」という風習に代表されるような、事実・思想以前の地域的な性のあり方。
だが、それにしても、である。
仮の話、私が「全世界フリーセックス!」「0歳児でも100歳の老人でもみんなセックスセックスセックス!」と子供たちに教えることも、究極的には、性教育になる、ということである。それで私は学位も実績も無しに専門家を名乗れるということである。
何をバカなことを、とみんな思うだろうが、この逆の立場の「純潔教育」は堂々と行われてきたし、今も行っているところがある。
以前、母親たちが自発的に性教育の授業を行う取り組みが「ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか」というタイトルでドキュメンタリー番組として放映されていた。
その番組では、2000年代のいわゆる性教育に対するバックラッシュにも触れられており、自民の山谷えり子議員に直撃取材も行っていた。
番組としては、明記などはされないが、母親たちが先進的かつ真摯であり、バックラッシュに加担した山谷は後進的かつ不誠実であると描写したいようだった。
だが、性教育の「教育」を考えるとき、無論山谷の行為には旧来の「寝た子を起こすな」式の問題があったとしても、前述の母親たちの行っている授業が果たしてどこまで「教育」なのか、その側面には触れられているようには見えなかった。
また植物の話をしてるんだね君
また植物の話をしてるんだね君
火の発明ってすげえなあと思う。
暖かいのはわかるけど、焼いたら食べ物が美味いってわかった時って偶然だろうな。山火事とかで、動物や植物をみて、もったいないまだ食えそうって食べたら、こっちの方が美味いぞ!食べてみろよ!って瞬間はゼルダのダンジョンクリアして新道具手に入れたときの何倍もの感激がありそう。
ここで不思議なのは、野生の動物は焼いて食べるってしないのだろうか?と。ペットは普通に調理したものを食べてるから焼いたのが口に合わないってないよな。じゃあマズいから?
猿とかなら暖を取るために温泉に入る知恵もあるから焼いて食べるとかしそうなもんだけどね。
火が怖いから?それだと人間はいつ世代で火の恐怖から解放されたんだろう?
焼肉食べたいです。
また植物の話をしてるんだね君