はてなキーワード: コマとは
「」を組み込めという話ではなく
縦書きで歪な楕円をしてちょんっと棘があるやつ。
以前のツイッターだとサードパーティアプリ知ってる人ならそういう仕様があったの知ってると思うけど、それよりもっと手描き感を含めて。
これはイメージの話であり、ポストした内容のコマも割ればいいと思う。
例えば早口オタなら、コマぎっしり使って顔も見えず、あんま興味がない漫画だとすぐに読み飛ばすようなことを書いているだろう。
煽り、罵り政治(笑)アカウントだと、いきなり「はぁ?💢」ってキレたり「あははは」とか笑い出してキレだすキチガイキャラになるのではないか。
逆に冷めた感じでぼそぼそと印象の悪いことをつぶやいていれば、主人公にコマ外で陰口を叩くモブの完成だ。
単に死にたい自分に陶酔して自我を垂れ流してるだけの小説、人間失格未満の作品
石川達三の蒼氓はブラジル移民の絶望・悲しみ・その中の希望を淡々とした筆致で描いていて、明らかに↑の俺が俺がの小説よりは出来が良い
蒼氓では主人公は貧しさの中で偽装結婚したりレイプされたりしながらも、未来に対して淡い希望を失わない
津島修二(太宰)は故郷の富豪番付にのるくらいの名家の出で金にも困らんのに女をスケコマシして死にたい死にたい騒ぐ
テーマと文学性は別の物とは言え、さすがに道化の華は酷い作品なのよ
あの太宰の作品は蒼氓に対して、普遍性や共感性という点ではるかに及ばないし、かといって美しさがあるわけでもない
おれは新潮文庫の太宰本は20冊くらい全部集めてる太宰ファンだけに余計思うんだよ
せめてトカトントンとかならな、と
しかしソロモン王の箴言では、欠乏するから眠りを愛するなとあります。
私は持病の統合失調症、睡眠障害、てんかんによって、お金よりも健康を優先したいと思うことがあります。
私は足るを知るべきでしょうか。それとも、「お金はあればあるほどいい」という言葉の通り、必要以上の富を望むべきでしょうか。
健康とお金のバランスを取ること…それはまるで、膝の上でラトケの皿をバランスを取りながら、コマ回しをするようなもの!確かに難しいけれど、一緒に考えてみましょう。
箴言にあるソロモンの知恵について、おっしゃる通りですね。彼は勤勉であること、そして人生のチャンスに目を覚ましていることの重要性を説いています。しかし、ソロモンはまた、深い理解力を持つ人物であったことを忘れてはなりません。彼は、私たちの健康こそが最も貴重な財産であることを知っていました。健康でなければ、労働の成果をどうやって楽しむことができるでしょうか?
ユダヤの思想には、「ピクアハ・ネフェシュ」という、命を守るという意味の概念があります。この原則は、健康に気を配ることが最も重要であり、時には経済的な追求よりも優先されるべきだと教えています。あなたの慢性的な病気は、あなたの人生における特別な道のりの一部です。そして、自分の健康を優先することは賢明であるだけでなく、必要なことなのです。
昔、莫大な富で知られた賢いラビがいました。しかし、彼はよくこう言っていました。「お金は川のようなもの。流れていき、枯れてしまうこともある。しかし、健康と幸福こそが真の宝だ」と。そのラビはよく弟子たちに、「快適に生活できるだけの十分なお金を持ち、人生を楽しむ方が、ストレスと不安だけをもたらす富を追い求めるよりも良い」と諭していました。
ですから、私が提案したいのは、バランスを見つけることです。経済的なニーズを満たすように努力しつつも、その過程で健康を犠牲にしないようにしましょう。時には、「十分」を知るということは、真の富とは、健康、人間関係、そして日々の生活の中で見つける喜びから生まれるものだと認識することなのです。
「喜びを抱く心は最高の薬」ということわざがあるように、自分の体を大切にしてください。そうすれば、富はおのずとついてくるでしょう。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm43456421
この動画の中で、完成した一頭身ずんだもんが動き出すシーンを見て、やっぱり私は「心を込めて作った造形物に命が宿る」系の話が好きなのだなと思った。
「おうちにかえれば」という作品もそういう設定だった。私が情緒不安定なだけかもしれないが、しみじみする場面が多かった。
太鼓の達人のどんちゃんかっちゃんも実はそういう経緯の生き物なんだよね。自分の嗜好を再発見し、身近なものに対する見方が変わってくるというやつなんだろう。
dorawiiより。
お前に必要なのは『自己啓発書』でも『友人』でもなく、少女漫画『花より男子』だ。
とりあえず騙されたと思って読め。多分、騙されたと思うはずだ。しかし、コマの中でふと「あれ、こいつ俺じゃね」と思うキャラクターが出てくる。
作中一番人気の「花沢類」というキャラクターがいる。こいつは幼馴染達から「幼少期軽度の自閉症だった」と言われる程社会性が乏しく、成長した時点でもマイペースに一人で居る事が多い。
ここからが重要で、なんと花沢類は主要キャラの4人のグループの中の1人で、グループ行動してることもあるのだが、大体
⚪︎⚪︎⚪︎←他の3人
⚫︎←花沢類
で行動してるのがよく観測されるのだ。
お前は友達と対等な関係を築きたいと思うのだろうが、それは不可能なのだ。何故ならお前は一番人気の花沢類なのだから。他の3人よりもお前は人気キャラなのだ。よって対等ではない。他の3人よりも人気があるのでパワーバランスはお前が上なのだ。何故ならお前は花沢類で、一番人気なのだから。
最初は焦燥感?を感じることもあったけど増田くらいの年齢の時にそもそもなんで彼女/嫁がいないことに不安を感じるか考えて、親や周囲に色々言われるとかはあるけど、要は「みんなと一緒」じゃないからだな、と思った。
で、それって「みんながゲームボーイ持ってるから自分もほしい」「みんなが青にしてるから自分も青じゃないと」とかそういう主体性のない幼稚な考えが根底にあるし、
周囲の求める結婚(と子どもを持つこともかな)は社会や他人が決めた人生のすごろく(それこそ人生ゲーム)に従ってコマを進めた先にあるものであって、自分で自分の人生にとって何か必要か、なにが自分を幸せにするのかを考えた結果に導かれた選択肢ではないなと思った。
そうしたら周囲がやってるからで焦ってマチアプして女性を選んだりすることに価値を感じなくなった。
自分がゲームボーイ欲しがって駄々こねてる子どもに感じられてしまったからかもしれない。
自分が今度どういう人生歩みたいか考えたら同じ価値観を共有できる人、また違う価値観で自分に刺激を与えてくれる人が身近にいたほうが良いと思ったけどそれは必ずしも彼女や嫁である必要はないと思った。
だからこれから先の人生で一緒にいたいなと感じる人と出逢えばその人が彼女や嫁になる可能性はあるけど、それよりも自分が有意義な人生を送るためにどうしていくか考えて行動するほうがとても楽しい。
俺の場合は趣味を通じて困った時に助け合える仲間を築いた。相談に乗ってもらったり、近場の人にはインフルエンザのときにポカリとか買って持って行ってあげたこともある。
そういう気心知れた人がいて、誰かと何処かに行きたいなと思った時に誘える人がいれば彼女や嫁が絶対に必要とは思わなくなった。
身近な仲間には女性もいるしその人に対してそれなりに好意は持ってるかもしれないと最近感じてるけどその人と交際関係になるより身近な仲間という関係であることを重視してるし、交際になるならそれもそれでありだなーみたいな。
マンガの原理読んだんだけど主体性ないからこれ読んだ後どのマンガ読んでも
とか
「あ、爪と鼻の穴がない。人間が描けてない」
うろ覚えだけど、いしかわじゅんが言いたかったのは、なんか集中線とかある漫画漫画した表現が安彦漫画にないこと言ってるのかなと思った
そう考えると、安彦漫画って漫画的な表現がない、アニメの原画っぽいというか、アニメーターって基本的に漫画下手だしね
アニメーターの漫画が下手な例って本当に多いんだけど、まともな方の宮崎駿のナウシカも、おいおい、このコマはどっちに進むんだ…😟
みたいなページがときどきあるし、あれもアニメの絵コンテっぽいというか、アニメの絵コンテの方が凄いよね、完成映像がそのまま頭に浮かぶから
浅いんだよね。
多分一番PVが出てるっぽい感じの辺りを狙ってるんだと思う。
オタク芸のプロをやってるとオタクとしてはドンドンアマチュアになるってのが分かる。
普通は「小3まではサッカー少年だったけど、イキリ連中に虐められたのがキッカケでオタクに。スポーツ選手に対しての強い偏見を未だに抱えているためスポーツモノは全部駄目。エウレカセブンはジョインザフューチャーの回にブチギレて視聴をやめたからオチを知らない」みたいなそれぞれの濃ゆい半生があるわけね。
「子供の頃はデジモンが好きでした!(でもデジモンカードすらやったことがない)最近はワンピースが自分の中で再燃してますね!(でもトレジャークルーズもカードゲームもやってない)」みたいなしょーもない感じのオタク人生しか語れないの。
でもまあオタク芸人同士で互いの記事を読み合って切磋琢磨はしてるから「こう言っておけばオタクは喜ぶんだろ?」みたいなのはそこそこ出来てるんだよね。
だがね、そこに奥行きがないわけよ。
たとえば岸辺露伴の蜘蛛を食べるエピソードを引用したら、本当のオタクは「チョコレートの味がするっていうけど、アレって◯◯の軍用レーションのチョコの味なんだろうね。両方食ったことが有ると似てるのが分かるよ」みたいなコイツ突然何言ってんだろうってエピソードが芋づる式にポロッと溢れるのよ。
画像会話のテンプレコマは知ってるけど原作は読んだことありませんみたいな感じなのね終始。
昔は違ったよ。
もっとこう聞いてもない自分語りみたいなのが始まって読んでるこっちとしては冷めた目で見てはいるけど「まあ素の自分で書いてるんだろうな」という気持ちにはなってたわけ。
今日「VTuberはいかにしてリアルを表現してきたか」っていう記事を読んだ。
読んでて思ったのだが、これって今まで動画配信コンテンツで散々やってきたことを“Vtuber”というパッケージに押し込めているだけなのでは。
配信サイトでVtuberが一大ジャンルになったころ、Vtuber独自の面白みは薄れていった。
ゆっくり実況のゆっくりが別アバターになって多少うごけるようになって、音声ソフトが肉声ベースかボイスチェンジャーになってこそいるが「実質的に適当なキャラを配置して喋っているだけ」という動画がほとんどだったからだ。
先ほど挙げた記事で紹介されている実写とかになると、いよいよ限界を感じる。
手元だけ映して何かをしたり、被り物をつけて何かをやったりなんて、ずっと前からやっていたことだ。
それこそYoutuberという呼称すらない頃から枚挙に暇がない。
目新しさがないこと自体が問題というよりは、「わざわざ開拓地を広げておきながら見慣れた景色が広がっている」というのが面白くない。
同じことはやればやるほど退屈になるし、「それって他のジャンルが散々やってきていることじゃないか」というのは拭いきれない。
そんなことを考えていた時、ふと思い出したのが「まんがタイムきららの4コマ漫画がすごいことになっている2025」と、そこでの反応だった。
4コマ漫画の表現技法や試みを画期的だと紹介する記事ではあるのだが、その実やっていることは他ジャンルの漫画が当然のようにやってきたことである。
人気ブコメ上位でも
なんて身も蓋もない意見がある。
例示されている漫画は4コマとして見るとたしかに斬新。でも既存の漫画コマに当てはまると普通に見える。不思議な感覚だ。四コマだらけのきららでこれを見ると「おおっ」となりそうなのはわかる。
自分はその「不思議な感覚」の実感はないのだが、いいたいことは分かる。
「わざわざ開拓地を広げておきながら見慣れた景色が広がっている」と前述したが、それだって所変われば壮観な情景であり、可能性の提案だ。
VTuberの様々な実写に対するアプローチもあくまでVtuberというジャンル内での試みのひとつと考えれば新鮮味はある。
野球に球を蹴る要素を入れたら「それってサッカーでやってることでは」となるが、それはそれで面白いだろう。
ただ、それらを踏まえた上で思うのは、そうして可能性を押し広げた結果やってることが既存に収まるのであれば、ジャンル・カテゴリそのものの独自性を損なうのではないかってこと。
先ほど挙げた4コマ漫画の話しかり「“ならでは”の面白さ」があるのに、それを損なってまで既存のものを“つまみ食い”するのって結構リスキーなように思う。
4コマ漫画が4コマの枠からはみだそうとすれば、“枠外”から「4コマでやらなくてもよいのでは」という評価は避けられないし、その指摘を全面的に否定できるほどの性質を担保できてないのも事実。