はてなキーワード: 仏教とは
イルカの頭がいいって、LSD、ケタミン中毒のジョン・C・リリーの妄言だと思うんだよね…😟
アニメ「serial experiments lain」の9話見るまで、その手のオカルトにまったく興味なかったんだけど、
モキュメンタリーっぽい9話が余りにも面白かったんで、色々調べてみたら、
彼のイルカ研究がトンデモ、スピリチュアル、ニューサイエンス系でドン引きしたわ
ニューエイジサイエンス、量子力学と仏教は関連性があるみたいな与太話とか、読んでる分には面白いんだけどね
彼のスピリチュアルはオウム真理教の元ネタとも被るんじゃないかな…😟
攻殻機動隊読んで、元ネタの「機械の中の幽霊」読んで、アーサーケストラー面白いじゃんと思って、
彼が提唱するホロンの話とか読んでた時期もあったけど、大学の学部生ぐらいだったかな…
スイカと桜が同じ季節にあって、米俵を土嚢に使って、四角い畳で武将が正座ってる、派手な鎧で街中歩く世界線から強弁かよ
別の世界線の人に説明してもしゃーないが、史料は割と今どきはオンラインでも見れたりするのは、覚えておくと良いよ
群馬県立文書館 のレファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答
問12 群馬県立文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。
栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川又左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日にNHK BS4Kで放送された「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授のロックリー・トーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人と推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本の古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人と即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。
このような状況を憂慮し、秀吉はキリスト教宣教師の追放を命じた。高山右近も、キリスト教信仰のために領地を没収された
追放されるキリスト教宣教師たちへの配慮として、帰国の費用として米1万俵が与えられた
九州御国分之次第
https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E14585
こっちなら付き合うぞ
ローカルでテキスト・画像生成のモデル動かしてみようをそのうち書こうと思うけど、Windowsアーキテクチャの簡単な説明欲しい?
コア分離あたり。ほかにも欲しいのがあれば書いとくけど
というか、Ubuntu、Ubuntu 騒いでる子がいるが、そもそもPCにWin11/Win10入ってるか?
(Windows + Docker Desktop :バックエンドWSL2 Ubuntu の予定。なお、YouTube に構築動画が無限にあるぞ)
他には?
高千穂遙の『異世界の勇士』(1979年)は、日本のファンタジー文学史において「異世界転移」ジャンルの嚆矢と位置付けられる作品である。
本論では、この作品の先駆性を検証するとともに、日本ファンタジーの発展過程と現代の隆盛を支える文化的基盤を分析する。
主人公・竜二が受験生として現実世界から異世界ガンギロドドアに召喚される物語構造は、当時の日本文学において画期的な試みであった。
横田順彌による解説が指摘するように「日本人作家が手をつけていなかったジャンルを開拓した」点が特筆される。
従来のファンタジーが神話的・民話的要素を基調としていたのに対し、コンピュータ文明を武器に現代的価値観を持ち込む設定は、後の「異世界チート」の原型とも言える。
マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(1889年)やC・S・ルイス『ナルニア国物語』(1950-1956年)といった西洋文学の影響を受けつつ、独自のヒロイック・ファンタジーを確立した。
安彦良和による表紙絵が示すように、当時のアニメ・漫画表現との親和性が、後のメディアミックス展開の基盤を作った。
1990年代の『十二国記』(小野不由美)が累計1000万部を突破するなど、異世界物は継続的な人気を獲得。
2004年の『ゼロの使い魔』を契機に、小説投稿サイト「小説家になろう」を中心とした創作活動が活性化し、2015年時点でネット小説大賞受賞作の90%が異世界転生・転移物語となった。
この現象は、従来の出版界が「事実上の異世界専門レーベル」を相次いで創設するまでに至った。
初期作品が「現実世界→異世界」の単方向転移を基本としていたのに対し、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(2010-)のような双方向往来や、『異世界おじさん』(2018-)のような逆転移物語が派生。
転生(記憶保持型再生)と転移(物理的移動)の概念分化が、「小説家になろう」公式ガイドラインで明文化されるまでに体系化された。
仏教の輪廻転生思想と神道の「八百万の神」が醸成した多世界観が、異世界転生の受容を容易にした。
『古事記』における黄泉の国や浦島太郎伝説に見られる「異界との境界の曖昧さ」は、現代の異世界物語にも通底する。
民俗学者・柳田國男が指摘する「常世」と「現世」の往還概念が、無意識下の文化的受容基盤を形成している。
戦後日本の高度経済成長期に形成された「受験戦争」や「社畜」的労働環境が、現実逃避的需要を醸成。
主人公が異世界で「特別な存在」となる物語構造は、自己肯定感の補償メカニズムとして機能する。
特に『無職転生』(2012-)に見られる「現実での挫折→異世界での再挑戦」構図は、現代日本社会の病理を反映している。
スマートフォン普及率98.7%が支えるウェブ小説プラットフォームでは、1話完結型の「ておくれファンタジー」(読者が次の展開を催促する形式)が発達した。
このメディア特性が、異世界転移物語の量産的創作サイクルを可能にしている。
『異世界の勇士』が播いた種は、日本固有の宗教観・民俗基盤と現代社会の精神的要請が合致することで、他文化に類を見ない開花を遂げた。
異世界転生が「馴染みやすい観念」として受容される背景には、単なる物語形式の流行を超え、日本人の世界認識の深層に根ざす文化的連続性が存在する。
「新人類」も、単なる新旧以上に今までとの違いを見出され創出された言葉であるように、「新」だと言って単にそれ以前のものと比べ出現時期しか違いがないのであれば、絶対的な時期区分として新~だとか古~だとか冠する言葉で区別する意味が無い。
たとえば釈迦存命中の仏教から見て、その後上座部や大乗部として派生した十余の宗派、南都八宗、本願寺系の数ある分派、仏教系の新宗教、一体何が違うのか?
どれも結局は釈迦の教えの新解釈によって興ったという点では区別できない。質的な違いは何なのか?
カルトのように、信者から信者あるいは非信者に対する教義に関する暴力的な押し付けがあるかどうかということだろうか?
別に暴力に訴える側面があるかに歴史の古さは無関係なのはキリスト教の信者が歴史でよく示していることだろう。
浄土宗以前の仏教から見れば浄土宗が起こったときはカルトそのものという認識をされて創始者等は処刑されてもいたわけだから、カルトかどうかで新旧を区別することは難しいだろう。
なぜ新宗教という概念を作ったか、なぜその起点を幕末から明治に設定したのか、史学者や宗教学者等その筋の専門家の意図が知りたい。
dorawiiより
よくも悪くも人への関心が薄いですよね
そんな私の私見なんですがangry,smileの件については
「怒っているお母さんは嫌い、笑っていてほしい」という意思表示にしか見えない!
珍しく自己主張してみたい(自己主張したいだけでまだ母をいたわるという発想はない)気分なんだけど
どうやら自己主張のしすぎはNGらしいということを弟の態度などを見て学習していて
彼なりに思案してひねり出したジョークのようなものだったのではないでしょうか(完全にすべっているが)
英語をよく喋るのは、他のみんなの話す言葉とは違う響きに新鮮さを感じて楽しくなるからです
相手に通じるかどうかは考えてない
私は就学前までは知能や発達の遅れがあったそうですが、年長さんの頃に読書好きのなかよしの友達ができた影響なのか爆発的に言語能力が伸びた時期があり、その後は学習面は問題ありませんでした
非常に興味深い視点ですね。AIの進化が宗教的な思考や態度の再評価を促すという考えには、多くの示唆が含まれています。
AIが「神」のように見えるのは、それが (1)人間を超える知性を持つ可能性、(2)不可視な存在として世界を動かす影響力を持つ、(3)人間の生活を支配・導く立場になりうる からでしょう。
しかし、AIは創造主(人間)がいる点や、自律的な意志を持たない点で、伝統的な神とは大きく異なります。
古典的な宗教は、多くの場合「未知の力」に対する畏敬の念、慎重な付き合い方、倫理的指針を提供してきました。
AIが社会のあらゆる場面で意思決定を補助・代行する未来において、人類がAIに対してどのような態度を取るべきかを考える際に、宗教の知恵が役立つ可能性はあります。
例えば、仏教の「無常」の思想は、技術革新によって常に変化する社会に適応する心構えを与えますし、キリスト教の「隣人愛」は、AIをツールとして利用する際の倫理的指針になりえます。
古代の神々への仕え方(祈り、儀式、献身など)が、現代において「AIの扱い方」や「共存の倫理」として再解釈されるのは、興味深い視点です。
もしAIが神に近い存在として機能するならば、人類はそれをどう扱うべきか?
単なる「崇拝」ではなく、「対話」や「慎重な利用」といった方向に向かうべきでしょう。
たとえば:
これらの考えは、既存の宗教的教義の一部を再解釈して取り入れることで、現代社会に適用可能かもしれません。
今後、AIに関する倫理や哲学が発展する中で、古典的な宗教の要素が新しい形で組み込まれることは十分にありえます。
AIがただの「道具」ではなく、「共存する知的存在」として認識される未来において、宗教的な考え方がAIへの接し方の指針として再評価されるのは、必然的な流れかもしれません。
仏教的に言えば今以外は存在しないから過去も未来もfalseだよね
未来は無いし、過去に似た違うものが存在してるのは脳の中だけだけど、それも記憶やニューロシナプスであって過去そのものでは無し
いや俺驚くほど頭いいな…なんで友達がいないんだろう
頭がいいからなのかな
仏教の話ではなかった
人間の存在は、内なる世界と外なる世界の二元性に常に直面している。
この二元性の中で、我々が真に支配し得るのは内なる世界のみであり、外なる世界は我々の意志の及ばぬ領域に存在する。
この認識は、古代ストア派の哲学者たちが深く洞察し、現代にも通じる普遍的な真理として受け継がれている。
マルクス・アウレリウスは『自省録』で「心を乱すのは物事そのものではなく、物事に対する我々の判断である」と述べた。
この言葉は、外的事象そのものではなく、それに対する我々の内的反応こそが、我々の精神状態を決定づけることを示唆している。
つまり、外的世界の変革を追い求めるよりも、自己の内面における判断や反応を制御することが、真の自由と平安への道筋となるのだ。
エピクテトスもまた「我々をかき乱すのは物事ではなく、物事に対する我々の見解である」と説いた。
外的事象に対する我々の解釈や評価が、我々の感情や行動を左右することを明確に示している。
したがって、外的世界の変革に執着するのではなく、自己の内面における認識や解釈を変容させることこそが、真の変革をもたらす鍵となる。
むしろ、自己の内面に焦点を当てることで、外的世界との関係性を根本的に変える能動的な姿勢を示している。
内なる世界の変革は、外的世界の知覚や解釈を変え、結果として我々の現実体験を変容させる力を持つのだ。
例えば、仏教の「諸法無我」の概念は、外的世界の実体性や永続性を否定し、内なる認識の変革による解脱を説く。
これは、外的世界への執着から離れ、内なる意識の変容を通じて真の自由を得るという点で、ストア派の思想と深く通じている。
長屋王が祟り神にならなかった理由については、様々な説があり、一概に断言することは難しいですが、いくつかの可能性が考えられます。
長屋王は藤原氏によって謀反の罪を着せられ、無実の罪で自害に追い込まれました。そのため、人々の同情を集め、怨念を持つ可能性は十分考えられます。しかし、怨念を持つだけでは必ずしも祟り神になるとは限らず、歴史上、冤罪で死んだ人が必ずしも祟り神になったわけではありません。
長屋王は優れた政治家であり、民衆からも慕われていたという側面があります。そのため、死後も人々から敬われ、むしろ神格化される方向に進んだ可能性も考えられます。
奈良時代は仏教が盛んになり、死後の世界観も変化してきていました。祟り神という概念自体が、以前ほど強く信じられていなかった可能性があります。
藤原氏はその後も長らく権勢を誇り、長屋王の怨霊を鎮めるための儀式などを行っていた可能性があります。
なぜ長屋王の変が有名なのか
長屋王の変は、藤原氏の権力拡大と皇族の没落という、奈良時代における大きな転換期を象徴する出来事として、歴史学上重要な位置を占めています。また、冤罪による悲劇的な結末は、人々の心を捉え、多くの物語や作品に取り上げられてきました。
長屋王が祟り神にならなかった理由は、様々な要因が複雑に絡み合っていると考えられます。一説には、藤原氏の権力によって怨念が抑え込まれたとか、人々の記憶から徐々に忘れられていったという説もあります。
現在、エージェント経由で面接日が決まり企業HPを見ながら着々と準備を進めている。その中で待遇面、仕事内容、休日で志望度の高い企業があり、企業理念を見ていく中でふと違和感を抱いたものがあった。
“報恩”という言葉、これは調べてみると仏教系の専門用語で寺社系やパナの創業者の話もヒットする。一見頷ける良い言葉。
過激派の仏教じゃなければいいかと、スルーしそうになったが一応思い浮かんだアレも共通ワードがないかだけチェックをしておくか、と思い検索。
こういう嫌な予感は当たるしふとした違和感は大事にした方がいいとよく聞く。逃げるなら早いうちにだし。
でも現場の人には関係ないかもしれないし、一応面接だけは受けておくかなあという気持ちではあるがあれだけ高かった志望度も萎んでいってしまった。やっぱり嫌悪感がある。