はてなキーワード: 景観とは
「どこでもドア」が生まれた世界の不動産価格について考えてみた。
21XX年、ついに「どこでもドア」が実現する。
初めは、国家機関や一部の研究機関のみが利用できる、いわば軍事機密のような存在。
「一瞬で移動できる技術」がもたらすものは単なる利便性ではない。
物流の革命、都市の再編、国境の崩壊、そして人類の移動観に対する概念の終焉。
この段階では、技術的な問題も多く、使用には厳格な制約が設けられている。
例えば、移動先に事前登録された「承認済みスポット」にしか行けない、距離や回数に上限がある、ないしは、本人認証が必須といった制約だ。
一般人が利用できない以上、駅前の価値は変わらず、通勤の利便性を重視する人々は変わらず都心の物件を求めるだろう。
しかし、すでに大手企業や国家レベルでは「移動革命による未来予測」が始まっている。
先を見据えた投資家たちは、「移動時間という制約がなくなったとき、価値の上がる土地はどこか?」という問いを立て始める。
2. 商用化の波
どこでもドアの技術が商用化され、まずは一部の富裕層に解放される。ビルゲイツやイーロンマスク、孫正義などの億万長者だ。
さらに、移動には毎回「エネルギー使用料」が発生し、1回の移動で数十万円が必要。
この時点で、どこでもドアを手にするのはごく一部の大富豪や国際的企業に限られている。
「駅近」や「都心アクセス」というこれまでの価値基準は無意味になり、快適な環境、眺望の良さ、防犯性などが評価される時代へと移行する。
特に、高級リゾート地の不動産は高騰し、富裕層の間で「別荘ではなく、日常の住居としてのリゾート地暮らし」が当たり前になっていく。
3. 大衆普及
どこでもドアの技術は時間とともに進化し、エネルギー効率も改善されていく。
「パーソナルどこでもドア(個人向け)」:価格100万円/1回の移動コスト500円
「駅チカ」や「都心立地」の価値が完全に崩壊。オフィス街の空室率が急上昇し、商業ビルの倒産が相次ぐ。
地方の不動産価格が急騰し、特に景観や環境の良い土地が人気に。
一方で、混乱が発生するのは住宅市場だけではなく、治安の問題が浮上し、「どこでもドアによる侵入犯罪」が発生するようになる。
「どこでもドア対策済み不動産」は入室認証システムの強化、どこでもドア経由での侵入を制限するエリアの制定などができる。
こうした高セキュリティ住宅がプレミアム価格で取引されるようになる。
また、居住地選びの自由度が増したことで「移住文化」が加速し、「一生同じ場所に住む」という概念そのものが過去のものとなっていく。
数ヶ月ごとに国を移動しながら生活するようになる。
「定住」よりも「移動し続けるライフスタイル」が新たな価値観として確立されていく。
4. 未来
どこでもドアが完全に普及し、世界のあらゆる場所が瞬時に繋がった未来。
都市はかつてのような人の集積地ではなく、人が「一時的に滞在する場所」に変化する。
世界のどこにいても一瞬で移動できるため、「住む場所」と「働く場所」、「学ぶ場所」と「遊ぶ場所」が完全に分離する。
そして、どこでもドアが完全行き渡った社会では、人々は「地球のどこに住むか」ではなく、「どの星に住むか」を考えるようになっていく──。
この記事、古代ギリシャ・ローマガチ勢と思しき人が頑張って書いたように見受けられるんだけど全然バズってなくて可哀想
https://www.gamespark.jp/article/2025/01/02/148189.html
というか3.0リリース前だったから史実の切り口じゃ考察のしようもないし
せいぜい「史実の反映が見受けられるよくお勉強された景観のマップだね」くらいのことしか言えんよな
考察ってキャラとかが絡むから面白くなるんであってリリース前の世界観だけこねくり回してもな
というかこの記者いろんなゲームで教養うんちくにかこつけて記事書いてるんだな
こういうリアル絡めたゲーム語りって嫌味をださずにやるの難しいけどこの人は軒並み失敗してる感じがする
元々そのゲームをガチでどっぷりやり込んでる人が好きが高じて色々調べまくった系の教養系考察ならあんまり嫌味を感じず「そうだったのか」ってなるけど
色んなゲームやらアニメやらをこういう教養じみた切り口で現実に結びつけて語ろうとするのは多くの場合、考察というより自己満足、自己顕示寄りになるんだよな
都内在住の時は阿呆ほど歩いてたけど、地元に帰ったら何も無さ過ぎて歩く気にもならん。つまらなさすぎ
かろうじて、良い季節にチャリ移動する程度(しかも電アシ)。後は全部車移動
歩くにも走るにも道が悪い
あと、下手したら熊に遭う
都会だと「困ったら地下鉄や電車やバスに気軽に乗れる」ってのがデカイ
あと、「休む場所(出来れば店)がどこにでもある」ってのも重要
無目的に歩いても新しい発見が色々あるし、目的地設定するにしても面白いところ山盛りあるから困らない
田舎でダラダラ歩いても「おなじみの自然」しか無い。日々変化すると言ってもそれほど劇的に変化するわけではないから面白くもなんともねえ
運動目的ならば「景観を楽しむ」必要は無いからどこでも良いだろうけど、「歩き易くて安全な(車やバイクが通らない)道」が整備されているのは田舎よりも都会の方だと思う
田舎ですら「ある程度都会」の方がそういう整備してくれてる
増田がどこ在住か知らんけど、都会ならダラダラ歩き回っても結構楽しいと思うけどなあ?
もし田舎住みなら「交通手段を使って遠くまで出かける」のも良いかもね。歩く為に出掛ける
なぜなら、映像にせよ音楽にせよ、最終的には人間に知覚可能でなければ意味がないからだ。人間の眼や耳に入力される段階では、コンテンツデータは完全な形にデコードされていなければならない。そのレイヤーから情報を取り出せば、コピーすることも生成モデルの訓練データにすることもできる。
であるとすれば、究極的に著作物を保護するためには、人間の脳に手を入れるしかない。鍵情報を埋め込んだ脳でしかデコードできない形でコンテンツを暗号化するのだ。
かくして、脳埋め込み型コピーガードは、2035年の段階で技術レベルで実用化のめどが立ち、2040年代初頭には一般に普及し始めた。人体内で機能するナノマシンの開発、およびそれによる脳神経ネットワークへの複号化モジュール埋め込みに関して、主導的な役割を果たしたのが人間ではなくAIの研究者であったことは、歴史の皮肉というべきか。
2060年を迎えた現在、一般的な人間の五感には、ウォーターマークを加えられた映像やノイズに置き換えられた音声、黒塗りの物体がいくつか知覚されているのが普通である。サブスクリプションに入っていないコンテンツは金を払ってアンロックしない限りどんな方法でも視聴できないし、また個々人も他人に見られたくない情報には鍵をかけることができる。例えば、近年の住宅は、正規の手続きで入室しない者に対して、家屋内を黒塗り表示する仕組みを備えていることが多い。これにより空き巣や覗き行為は原理的に不可能となった。この機能は、体内にナノマシンを埋め込んでいない人物に対しても有効でなくてはならないため、暗号化パターン投影機など各種デバイスによって実現される、最新のテクノロジーである。
著作物保護や犯罪抑止の面で大きな進展をもたらした脳埋め込みデバイスであったが、その反面、資本主義的精神と結びついて、「金を払わずに(権利を持たずに)事物を知覚するのは罪である」という倫理観を醸成していった。いわゆる「働かざる者認識するべからず」である。
最近若い世代を対象に行われた意識調査では、犯罪者など社会秩序を逸脱する者、また納税額の小さい貧困者や被生活保護者が、自然の景観や公共コンテンツを享受することに否定的な感情を持つ割合が5割に届こうとしている。十代に限定すればこの割合は6割を超える。この結果を踏まえて、侵襲型知覚制御端末の法制化に関する検討も始まっているようだ。
新宿に降り立ったのは本当に久しぶりで、到着して最初に感じたのは景観の変化。
軒並むビルを見ながら流石に10年前とは変わってるよなーって、なんて思いながらも一番驚いたのは人の変わりようだった。
そこら中で自撮りしてる人がめっちゃたくさんいるんだよ。なんかカメラに向かって「イェーイ!」みたいなポーズを決めてる若者もいるし、一人で黙々と撮ってる感じの人もいる。
それに日中にもかかわらず酒盛りしてる人達も多かった。いやいやいや、まだ昼間だよ?
で、外国人もめちゃくちゃ多い。新宿って昔からいろんな人種がいる感じだったけど、それがさらに多様化してる感じ。
というか歩けば外国人が目に入る。ここ何処?って一瞬戸惑うくらいには多かったね。
でも、一番印象的だったのはベンチに座って号泣してるおっさんだった。
新宿駅の喧騒の中、ベンチに座って涙をボロボロ流しながら嗚咽してた。
四十代後半ぐらいかな。スーツもちょっとくたびれてて、見るからに人生いろいろあったんだろうなぁって感じの雰囲気。
何があったのか分からないけど、とにかく泣いてる。そして周りの人がそのおっさんにまったく無関心なんだよなぁ。
おっさんの近くでは自撮り棒持って動画撮ってる若者もいて、めちゃくちゃ明るい声で「今日はここからライブ配信しまーす!」みたいなこと言ってるのね。
その横で嗚咽するおっさん。で、それを誰も気にしてない。誰も助けないし、声もかけない。もちろんそれが東京流なのかもしれないけど、あのカオス感はすごかった。
駅を出て少し歩いたら、また別のベンチで今度は別のおっさんが項垂れて号泣してるのを見つけて、新宿号泣おじさん多すぎだろ!って内心思いながらも、東京という場所を考えると妙に納得してしまった。
やっぱ東京ってすげぇな
驚くほど文化的なものがなにも育たずに空虚な店に埋め尽くされてる街だ。
その結果一種のファンタジー感も生まれてあの交差点を含めて「サイバーな東京」イメージに近い景観を手に入れた。
外国の人は渋谷に来ると興奮する「そうそうTOKYOってこんな感じ」が表現されている。
原宿に裏原があったように渋谷にも裏渋谷的な流れも確かにあった。
特に音楽との結びつきは比較的強いものがあったと思う。サブカルともある程度親密であった。
それと道玄坂のラブホテル街は今は知らないがクラブ文化とともにどこかさっぱりとした猥雑さという独特な空気もあった。
トー横の生々しさはもちろん、どこを歩いても人間がたくさんいる。
ザ・ノンフィクションで流れるサンサーラ「いきて~る いきてい~る~♪」がこんなに似合う街もそうない。
塩っぱいだけの店が立ち並ぶ中、あちらこちらで謎の目配せが発生する街。
無理やりおしゃれにしようとして大きなLEDを頭上に掲げてもみんなうなだれて歩いてるから誰も見ない。
こんなに豊かで物に溢れてるのにまったく幸せそうに見えない、まさにこれがTOKYOという感じ。
他の街はみんな嘘をついているのだ。
来月の茨城県守谷市の市長選に、新たに挑戦を表明した梶岡香織氏。市民に寄り添い、市政に新しい風を吹き込むことを目指す彼女のビジョンや公約をご紹介します。
■挑戦者・梶岡香織氏とは?
梶岡香織氏は、守谷市で生まれ育ち、地元に対する深い愛情を持つ人物です。特に「市民の声を尊重する姿勢」が支持者からの評価を得ています。また、先の市議会選挙で小学校新設を掲げ、当選した実績もあり、市民からの期待も高まっています。
梶岡氏が掲げるリーダーシップは、市民とともに考え、市民の声を政策に反映させることです。特に「市民参加型の市政運営」を提唱し、守谷市を住みやすくするための改革を訴えています。彼女のリーダーシップは、単に指導するだけでなく、一緒に歩んでいく姿勢が特徴です。
1. 子育て支援の充実:保育施設の拡充や学童支援の改善に加え、小学校新設を進め、子どもたちにより良い学びの環境を提供することを目指しています。
2. 高齢者福祉の強化:介護支援体制や福祉施設の充実を図り、地域全体で高齢者を支える街づくりを推進します。
3. 地域経済の活性化:地元企業や中小企業への支援を強化し、守谷市の経済基盤をしっかり支えることを目標としています。
さらに、梶岡氏は駅前開発や自動運転バスの導入にも積極的で、特に自動運転バスは高齢者や交通弱者にとっての移動手段としての利便性向上に寄与するとしています。
梶岡香織氏の挑戦を応援するSNSアカウントが増えており、特に熱心に応援する「支持者的アカウント」も多数存在します。これらのアカウントは彼女の政策や活動を詳細に解説し、日々市民への呼びかけや情報発信を行っています。時には過剰に熱心な姿勢が話題となることもありますが、それだけ多くの人が彼女に期待している証といえるでしょう。
守谷市内では近年、政治活動に関連する違法看板が問題視されています。市民の一部からは、景観への配慮を求める声や、法律を遵守した政治活動を求める声が上がっています。この違法看板の件については、市内の政治的議論をさらに過熱させる要因ともなっており、街のクリーンなイメージを保つための新たな対策が求められています。
梶岡香織氏の夫である梶岡博樹氏もまた、地域の政治活動に積極的に関わっています。博樹氏は先日の衆議院選挙にも出馬し、市民の支持を得るための活動を行いましたが、惜しくも当選は叶いませんでした。それでも彼の地元への熱意は変わらず、今回の市長選でも香織氏を力強くサポートしています。家庭内のサポートのみならず、対話の場での活動支援を通じて、香織氏が市民に一層寄り添った政策を打ち出せるよう貢献しています。
梶岡香織氏は「すべての世代が自分らしく生きられる守谷市」を目指しています。次世代を担う子どもたちのために充実した教育環境を提供し、高齢者の生活の質を向上させる福祉政策、さらに地域経済の活性化に尽力することで、持続可能で活力ある未来像を描いています。
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大学時代、俺の行ってた学部はひとつだけ独立したキャンパスを持っていた もともと別大学だったのが統合されたので、前大学のキャンパスをそのまま使っていた感じだ
キャンパスがある場所はまあ山で、「何もない山奥」というにはそれなりにものがあるんだけど、しかし他の街中にあるキャンパスと比べるとかなり見劣りする立地だった
そこは彩都という街で、彩都はバブル時代にガンガン山を切り拓いて計画都市の高級住宅街をやるぞー!つって途中まで景気良くやってたんだけど、バブル崩壊かなんかで計画がオシャカになってしまって、全てが途中で投げ出された……みたいなストーリーを持っていた これは俺が人から聞いた話を適当に脳内補完したものなので、全然間違っている可能性アリ
背景はとにかく実際のところ、彩都はでかいマンションやいい感じの住宅街がフツっと途切れて途中からただ切り拓かれただけの更地になり、更地の先は切り拓かれてすらいない山となる、という、独特の景観を持っていた
そんでキャンパスのまわり、徒歩でフラッといける圏内に安いチェーン店とかはなく、歓楽街みたいなものも当然なく、交通手段はモノレール(割高)がメインなので行きにくい、というような感じで、とにかく隔絶された雰囲気があった
講義が少ない日にキャンパスのまわりをフラフラ散歩してみたりすると、もう全然人とすれ違わなくて、道は広くて綺麗、マンションはデカい、気軽に入れるウェルカムな雰囲気の店は全然ない、というので、なんつうのかな、知らんけど共産圏みたいというか、そういう独特の孤独感っていうんですかね、ソリチュード、そういうものがあったように思う
あっでも、在学中にでっけえディスカウントスーパーができて、そこはちょっとウェルカム感あったな いや、無かった気もする 売ってるものが全部デカくて、店内通路も妙に広くて、冷房がムチャクチャ効いてて激寒、ずっとオリジナルのコマーシャルソングが流れている、という空間だった
やっぱあの街って"そう"だったわ デカく、孤高 そういう雰囲気があって、それは実のところ好ましかった
そう、好ましかったんですよ
で、それはそれとしてですよ、この前久しぶりに大学の近くに行ってですよ、ちょうど俺が卒業したくらいに移転したという、新しいキャンパスを覗いてみたわけですよ
すげえ立派だったんだよなあ
まず、なにやら大規模な都市計画が動いたってハナシで、中心市街地から伸びていた電車の線を二駅ぶんくらい延伸して、その駅に直結する形でキャンパスが設けられているわけよ
そんでなんか、大学ってだけではなくて市民交流の場も兼ねよう、みたいな構想があったらしくて、図書館なんかが市民図書館と大学図書館を合体させたオシャレな感じの建物になっている
俺たちの時代には図書館には当然なにも入ってなかったし、そもそもキャンパス内にあるのは最低限の機能を備えた学食だけだった(ササミチーズカツはマジで美味かったですけどね)
大衆に迎合したからといって専門性も損なわれていない感じだった 1階は広く読みやすい本が集められてて、3階とか4階に行くと誰が読むねんって感じの本の集合になっていた まったく悪くなかった 自習室とかワーキングスペースみたいなのもあって、全体的にカッコよかった
まあ実際、よく考えると俺たちの時代の図書館にもそういうのはあった気がするんだけど、根本的な機能が同じでも、古く薄暗い場所にあるものと新しく明るい場所にあるものでは、後者の方がイケて見えるわけじゃないですか
そういうことなんですよね
そんでこれはまあ偶然なんだろうけど、キャンパスに隣接するところに酒メインのスーパーとか揚げたて天ぷらのチェーンとかそういうものがある
俺が大学時代、わざわざ地図を見ながらバスに乗って来て、天ぷらを食って酒スーパーを覗いて帰ったあのコースが、キャンパスに隣接している
キャンパスの建物自体もなんかよくわかんねえ網目状の構造物がついてたり、ガラス張りっぽい感じだったりしてカッコいい
直結する駅は地下(?)にあって、そこまで降りるエスカレーターが長くてアイコニックだ 駅構内でキューバサンドを売ってたり、謎のアーティストがジャズみたいなのを演奏していたりもした
俺は彩都が好きだったし、空きコマに巨大ディスカウントスーパーに走って100円のタコ焼きを買って、ボロボロの部室でひとりそれを食うのはかなり良い体験だったと素直に思っている
いっぽうで、あの新しいキャンパスで大学時代を過ごしていたら、俺はもっと文化的な4年間を過ごせていたんじゃないか?という思いも捨てきれない
あのわかりやすくカッコいい図書館にだったらもう少し通ってたかもしれん 天ぷらを常食していたかもしれん スーパー銭湯の常連になってたかもしれん
キャンパスを出て散歩すっぞ!と思って外に出る道を歩いてたら「マムシに注意」って書いてある看板が立ってて心底ビビったり、キャンパスの裏にある山を登ってそこにある公園のトイレに入ったらカマドウマみてえな虫がメチャクチャ死んでたり、ああいう体験も確かに悪くはなかった リトアニア語の集中講義を受けるなら、ああいう孤立した場所で受けるほうがより没入感が出てよかったと思う
悪くはなかった一方で、あと何年か遅く生まれていたら、あるいはもっとアーバンなキャンパスライフを送ることもできていたのかも、と思うと、少し悔しかったりするわけですよ
人生ってそういうもんですよね