はてなキーワード: 祭りとは
47階のエレベーターは常にレモンの香りがした。管理組合が選んだ芳香剤だ。高層階用エレベーターは秒速10メートルで昇降するが、私の鼓膜だけがいつも0.5秒遅れて軋む。
スマートフォンが浴室のタイルに反射したブルーライトで瞬く。湯船に沈めた掌が、下層階の漏水センサーに反応しないよう注意しながらシャワーを止める。隣室のピアノの音が排水管を伝って鈍く響く。ショパンのノクターン、でも17小節目で必ず止まる。
63階の共用ラウンジで初めて彼と話した日、東京湾を覆う雲が人工降雨のシードを撒かれていた。彼のスマートウォッチが5分おきに振動し、ウォールナットのテーブルに置かれたマグカップの波紋が乱れた。
彼の指先が窓ガラスに触れた瞬間、遠くの風力発電機が一斉に赤色灯を点滅させた。防犯カメラの焦点が私たちの背中を舐めるように移動する音がした気がした。
深夜3時17分、非常階段の手すりが微かに温かい。火災感知器の定期点検日だ。階段踊り場のゴミ収集口に、誰かが未開封の高級ワインを遺していった。ラベルのバーコードをスマホで読み取ると、仮想通貨による決済履歴が238回分渦巻いて消える。
彼が姿を消したのは台風9号が最接近した未明だった。防災用備蓄倉庫のLED照明が点滅し、エレベーター監視カメラの記録が2分17秒だけ砂嵐のようになった。管理人室のモニターには、47階の非常口ドアが0.3秒だけ開いた記録が残っていた。
今朝、郵便受けに投函されていたのは彼の住民登録証明書のコピーだった。発行日付は私たちが出会う1年前。しかし発行時刻欄には、私が初めて47階のドアパスをかざした正確な日時が刻印されていた。
窓の外では、人工降雨の雲がそろそろ解散時刻を迎えようとしている。63階のラウンジテーブルに置き忘れたマグカップの渦紋が、いまだに同心円を広げ続けているような錯覚に襲われる。エレベーターの芳香剤が突然レモンから白檀に変わった今朝、私は初めて地上への降り方を忘れた。
ノアの法には非ユダヤ人が従うべき法があり、その中に偶像崇拝を禁じるものがあります。
私は偶像崇拝をしたくないのですが、日本人として普通に生活をするだけで、偶像崇拝が社会に含まれているようなのです。
これについてどうお考えですか?
ノアの律法という概念は実に重要であり、人類全体を導くことができる普遍的な価値観を反映しています。
偶像崇拝の禁止は、唯一の神を認識し、他の何ものもその崇拝の対象として置かないことを意味します。
ご指摘の通り、日本の社会を含む多くの文化において、慣習や伝統は、偶像崇拝と見なされ得る様々な形態の崇拝や尊敬を中心に展開しているように見えるかもしれません。
しかし、これには理解とニュアンスを持って臨むことが不可欠です。
もしあなたの心が唯一の真の神に向けられており、自分の行動を意識していれば、誠実に文化的慣習を乗り越えることができます。
それは、偶像崇拝が一般的な土地に住んでいたユダヤ人の話に似ています。
彼は地域の祭りに参加しましたが、常に自分なりの方法で神への感謝を表現し、自分自身と周囲の人々に、より高い真実を思い出させていました。
ですから、伝統豊かな社会に生きながらも、自分の信念と価値観を維持することができます。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
以下は、1週間(1/27~2/2)にわたるオープンチャットの全体的な流れや主な話題をまとめた要約です。
年々ゴージャスになっている、二極化しているなどの話題が活発。
半額セールや賞味期限、文化的背景といった実用的な話から、「通年販売してほしい」という意見など幅広く語られた。
恵方ロールなどの“恵方”を冠した新商品やアレンジについての話が登場。節分シーズン特有の“恵方巻き祭り”のような盛り上がり。
サラダバー(ブロンコビリー、あさくま)、北の富士カレー、ベトナム料理、ヨルダン料理など、多彩な飲食店や海外料理の話題が頻出。辛い料理(麻辣ピーナッツ、担々麺など)好きを中心としたやり取りも。
季節柄の話題
大雪予報や寒さの話題の流れから、鍋や温かい食事の提案はあまりなかったものの、寒さをしのぐための会話(サウナ、温かい飲み物など)も少し見られた。
胃がんやスキルス性胃がんの早期発見、健康診断や人間ドックの重要性、バリウムより胃カメラを推奨する声など、健康管理にまつわる話題が度々挙がった。
新作が出ることに対する期待や、前作をまだクリアしていないまま新作へ行ってしまう戸惑いなど、ゲーマー同士の盛り上がり。
おすすめ映画の共有や、映画館での観賞を推奨する意見。ネタバレには注意喚起があり、特に原作ファンと映画の評価の差についての言及があった。
アニメ・グッズ関連
特定のアニメキャラクターやイベント、意外なグッズの評判などを情報交換。往年のアイドルに似た料理名の話など、雑談レベルの軽い話が多かった。
関西地方や埼玉北部での積雪予報が出るも、予想ほど雪が降らなかった地域もあり「拍子抜けだった」という意見が見られた。
しかし一部地域ではしっかり降ったらしく、交通機関への影響を懸念する声も。
地盤の問題で陥没が話題となり、他の地域にも同様の危険があるのではと心配される。
裁量労働制下で実質的に残業が増えることへの不満が表明されるなど、働き方に関する議論があった。
出張や棚卸作業などでリモートワークができないケース、昇格試験や評価制度の違いなども熱心に語られた。
ClaudeやChatGPTなど生成AIを活用したタスク管理や、関西弁で返答してほしいといったコミュニケーション面での工夫が紹介された。
Layer Xや人事労務SaaSなどのテクノロジー分野にも言及があり、今後の労働環境への期待や懸念が語られた。
どちらが有能か、出力の品質、コード生成の精度などが比較・検討される。
ディープシークを使ったコード生成が思ったよりGPTと似通っているといった話も。
数学データセットが強化学習に向いているという仮説や、リソースの制約がクリエイティビティを生むといった研究的話題も散見された。
変わった時間帯に放送されていることへの驚き、視聴者の注目度について言及。
8時間にわたる会見の視聴率や、視聴者が寝ずに見ていることへの驚き。記者の態度、日枝氏などへの批判。
職場の静かすぎる環境に対する改善策として、ブライアン・イーノの音楽やラジオ・ライブカメラを流すアイデアが提示される。
ペットの保険や医療費、オカメインコの話、タバコの路上喫煙問題など。
老後への不安や定年の概念が変わるかもしれないという社会的な話題も。
1週間を通して、「恵方巻・節分」「季節(雪)」「健康管理」「仕事・評価制度」「AI・生成技術」という軸が大きなトピックとなった。加えて、映画やゲーム、テレビの会見などのエンタメ情報が、日常的な雑談(料理や飲食店、ペットや寒さ、個人の体調など)と混ざる形で多岐にわたって展開された。
とりわけ恵方巻や映画・ゲームなど、時期や発売時期にあわせた話題で大いに盛り上がった一方、働き方や健康診断・人間ドックの重要性、AI技術の進化など、実生活に直結する情報交換も活発に行われているのが特徴的である。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
恋愛の話といえばよく「初デートはどこに行く?」があるけど、あれってみんな体験した話を語っているの?
それとも、理想を語っているの?
お付き合いした人いないからそもそも会話に参加できない気がしてるけど(´・ω・`)
もし初デートするとしたら、ローカルな祭りがいいかな(*´ω`*)
「沖縄でウミガメの卵見に行きませんか?」みたいなニッチすぎず、年に1回くらいのありふれた特別なイベントだから。
当時、bilibiliでの活動はタレントによって温度差があった。
積極的な湊あくあなどはb限(bilibili限定配信)などもしていたし、現地ボランティアと協力して中国語での展開やイベントも進めていた。
一方そこまで力を入れていないタレントはYouTubeの配信をボランティアがミラーでbilibiliに同時送信していた。
でこの当時、外資が中国でビジネスをやるには企業の合弁化が必要(2020年外商投資法施行により解消)だったのに対し、
カバーは現地採用の連絡員3人を上海に置いて、実務はすべてボランティア(翻訳組)に投げていた。
(ちなみににじさんじは現地企業にフランチャイズ投げてたら、全部持って逃げられた)
騒動初期に起きたのは温度感の高い翻訳組連名による桐生ココ翻訳組の粛清・解散で、まずbilibiliから温度の低いタレントを排除しようとした。
数日後重要なイベントが控えていたため、不安要素を消して無かったことにしようとした。
が、bilibili運営は中国に事業主体のない団体の経済活動を放任し続けるのは困難として、カバー所属タレントの活動を一律一時停止にした。
このときカバーが何らかの申し開きや再発防止策を申し入れていれば話は変わった可能性もあったが、現実としてはそうはならなかった。
これによりイベントのために日程開けてた大量のファンの時間がフリーになった結果、怒りがbilibiliの外に飛び出して放火祭りに発展することになる。
今更だがフジテレビがAC祭りと聞いてさ、テレビつけてみたわけよ。
そしたらなんかずっと変なカラオケやっててさ、CMにならないんだ。
娘もACじゃないじゃん何これ?とかつまんなさそうに言って寝ちゃった。
最近はやりのこれが本当につらい
しつけやらなにやらよりもとにかく笑顔で子供のすべてを受け止めて!情緒の安定している母親こそ一番!と言われるけれど
「はいよろこんで」の歌でもあったね
いつもいつでも受け入れられる、わけない
長い棒状の物を持てば戦いごっこが始まり、出したものは片付かず、出す音すべてが騒音になり、何をするにも金がかかり、買ったものひとつ大事にしない
面倒くさいことは一切聞かないのにしょうもない事でママママママママってひっきりなしに呼びかけてくる
兄弟喧嘩は頻発するし叩いた叩かれたの応酬で、嫌いならそれでいいから別の場所で遊べよとしか思えない
気に入らないことがあるとこっちに飛び火して、わけ分からん理由でママのせい!って何回も叩いてくる
言われた事はないけど将来言われるんだろうな、と自分の人生をうっすら諦めている
でも母親ばっかりご機嫌でなくちゃいけないの?
子供に叩かれても黙ってなきゃいけないの?
叩くなって何回言っても聞きやしないのに?
社畜だったら訴えろ!とか退職しちまえ!ってなるけど育児はやめられない
でもご機嫌でなんていられない 理想高過ぎ
私は子供を持つべきではなかった ペットにしておけばよかった 可愛がるだけでいいしお世話も割り切れるから
DINKS最高だと思う 自分のために時間とお金をかけて生きていけるの、本当に素晴らしい選択だよ
叩いてしまった事はあって、この罪悪感があるうちはまだギリギリなんだろうな
罪悪感がなくなったらもう向こう側の人になる
明日かもしれない
ストレスの行き場がないよ
「今昔物語」はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。
さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本を舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。
内容は芥川龍之介が翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介が近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるがインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョンが中学高校の図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界の民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分はギリシア神話をはじめとした、運命の皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集は面白い。
ただし、編集の方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。
これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊やキツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。
「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWAが現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇のエピソードの出典の一つもである。
「平家物語」は古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学だから声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語が相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?
日記を読み返すと、「古代の貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海と密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。
ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョンは解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛が大輪田泊を建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎の乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県を旅行したときに、彼の没した古戦場・粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通の住宅街になっていたのに驚いた。
「太平記」についてもついでだから書こう。実家が神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。
それに、歴史書っぽくいろんな中国の古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数の天皇を意図的に混同していたりする(光明天皇が即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇の重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ。
そして、物語だから、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。
なお、各神社仏閣の縁起物語や中国の古典に脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史書からの引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。
ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペの歴史的に興味深い。
前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃんと池澤夏樹の全集で読んだ。
「能・狂言」には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺の対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
現代の第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉で古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。
「説教節」は女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳は伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品で芥川賞候補になっている。
「曾根崎心中」はいとうせいこう訳。ここからは浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪が舞台だし、近松門左衛門の作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代の大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇でプロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米の演劇とはリズムが全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタは時代的な物か。
「女殺油地獄」はひたすらダメな人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学で表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護と言い訳にまみれた情けない悪人の物語だ。翻訳は桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文で説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。
殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門の作品はもっと読みたい。江戸時代に実在の事件をモデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害で解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド的人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。
ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?
「菅原伝授手習鑑」は牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造「武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎の物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供が切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。
翻訳は三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由に創作しているようだ。
もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。
「義経千本桜」はキツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい。
「仮名手本忠臣蔵」は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫が医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本の演劇のストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。
ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ちの物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本が伝統を逸脱しているとか細々説明している。
あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。
好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。
近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断と偏見が自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人のプライベートな空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的な感情にはいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそも、フィクションはそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通に男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまったことが極めて残念である。
おそらく、これも僕のイケメン嫌悪と去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である。
じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず、男性であることを否定的に書く作品や、男性の苦痛を軽視するものに否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。
逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプのポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分がヒゲの永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖や文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。
逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家の属性で評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。
それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わずに孤立している時なのである。そもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
この1週間のオープンチャットでは、多岐にわたるテーマについて活発な議論が行われました。主な内容は以下の通りです。
高収入を得られる職業についての議論が行われ、特に監査法人やコンサルタントの年収について言及されました。
資格取得(USCPAやIT関連資格)の重要性が強調され、これらが収入に与える影響について意見交換がありました。
アニメ「ガンダム」や「ワンパンマン」に関する感想や最新作への期待が多く共有されました。
音楽や映画、ゲーム(ポケポケ)についても活発な意見交換が行われ、特に映画館での視聴体験や配信サービスの影響についての話題が取り上げられました。
引っ越しや不動産に関する悩みやトラブルについての相談がありました。
料理(鍋、カレー、チャパティ)やペット(猫)に関する話題も多く取り上げられ、具体的なレシピや飼育方法についての情報交換が行われました。
プログラミングやデータ分析のスキルの重要性が議論され、Pythonなどの具体的な技術についての学習方法や実務活用について意見が交わされました。
AIツール(退職代行AI)の利用やYouTubeプラグインに関する考察も行われました。
陰謀論や政治的懸念(例:トランプに関する話題)が取り上げられ、社会の変化や価値観の違いについても議論されました。
地震などの自然災害に関する報告や対策についての話題も含まれました。
旅行先の提案やイベント(例:さっぽろ雪祭り、伊豆の河津祭り)についての計画が共有されました。
校歌や卒業式の思い出など、学校関連のエピソードも語られました。
全体として、参加者は仕事や学習、趣味から日常生活、社会問題まで幅広いテーマについて意見を交換し、情報を共有する活発なコミュニケーションが見られました。
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うちもうちもってかんじでCMがACに切り替わってる様子を見ると、日本人の横並び体質やべーな、とか思ってしまう。
よくあるジョークで、沈没しそうな船から乗員が乗客を避難させる時の日本人向けのセリフが「もうみんな避難しましたよ」みたいなのを連想させる。
業界人でもコネのある人間でもない地方の一一般人の感覚としては…
・いくらネットとか探してもトラブルや不正の内容が何なのか報道が漠然としていてよくわからない
・やべーのはごく一握りの幹部だけでそれ以外の大部分は誠実に業務を遂行しているはず
その上で、自粛した企業が真面目に被害者や不正が起きた組織のあり方に真摯に思いを巡らせているかと考えるとピンとこなくて極めてテクニカルななリスクマネジメントを迅速に実行しているだけのように見えてしまう。
おりしも海を隔てたアメリカでは、トランプ前大統領が不倫疑惑を隠すために、女性に口止め料を支払い、その資金が選挙資金から捻出された疑惑で裁判にかけられた。その結果、今年1月に有罪評決は維持されたものの、刑罰が科されないという判決が下された。
こうしたポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)とは無縁のような人物が大統領に就任した同時期に、日本ではフジテレビ・中居祭りが起きていた。
この対比は、非常に示唆的だ。
"メディアに対する不信感"というテーマは理性的に理解できるが、実際のところ、その切実さはあまり感じられない。
正直なところ、女子アナウンサーの待遇や権利問題に深く関心を持つ人は多くないのではないかな。
この話題は、空気のように共有されてきた漠然とした不信感や倫理観をつまみにして盛り上がる一種の祭りのように見える。
そのため、被害者の存在を軽視しがちで、むしろ"ポリコレ棒"を振り回して騒ぎ立てる構図が見受けられる。被害者がこの騒動をどう感じているのか、心を痛めている可能性について深く考えられることも少ない。そして、被害者探しそのものがまた別の祭り会場となっているのもその構図の一環だ。
結局のところ、多くの人は声高に語るほどにはモラルを問うていないし、批判的な思考をしていない。正義が実現されたというカタルシスを得るわけでもない。
例えば、フジテレビ会見や中居をみる同じ視点でトランプの口止め料裁判判決をケシカランと批判することもないだろ。
そうした点で言えば、中居氏やフジテレビは本当の意味での"ヒール役"ではないのだ。本来あるべき正義の姿を想起させることもなく、ただただ、天上の世界にいた人間がその行いの結果として堕ちてゆく様子を見物する楽しみがそこにあるだけだ。
まさに"空気"に流され、人々が無自覚にその中で動いているだけのお祭りのように思える。
フジテレビのCMがACジャパンまみれになっているのは企業の倫理観ゆえではなく、同調圧力の強度を物語っている。
市民の懲罰感情に配慮した自粛でしかなく、取り残されると企業イメージを毀損する。非国民扱いされたくないというわけだ。
しかし、現時点で事実関係があまりに不確実な状況下、手続的正当性はどこにもない。
そこに怖さというか、居心地の悪さを感じている人もいるんじゃないかと思う。