はてなキーワード: 夕陽とは
アニメを単なる作画の上手さだけで観てるからそう思うのでは…😟
歴史的に考えて、ガンダム以前とガンダム以降で、明らかに大きな段差があるんだよ
仮に、安彦ORIGINとかでもなく、あの1話を今の作画とかデジタル技術でリメイクして、
脚本とか、設定はいじらない、としても、十分観れる作品になってる
新しい赤毛のアンだって、高畑宮崎近藤版の方が作画的には劣るというか、やっぱりセルの方がなんだかんだ汚いと思うんだよね
再放送観てて、森の木々の向こう側から夕陽の木漏れ日が出てくるシーンがあって、透過光はとりあえず、光の筋は余計だと思ったし、
こういう太陽の光、レンズフレアとか、被写界深度みたいなものもそうだし、今はデジタルでいくらでもできるけど、
セル画は物理的なカメラで実現しなければならないわけで、かなり原始的で泥臭いことやってるわけで、汚く見えるのは当然
令和のタナソー
「AVは瀬戸環奈以前と以後に分かれる」。この言葉が単なる誇張でなく、むしろ控えめだったことに気づいたのは、この作品を観た瞬間だった。彼女のデビュー作は、AV史を一度解体し、そこに新たな世界を築き上げたと言っても過言ではない。
まず、彼女の登場シーンから既に“ただならぬ空気感”が漂っている。画面越しにこちらを見つめるその瞳に、一瞬で心を射抜かれる感覚。「あ、これはヤバい」と思う間もなく、心が奪われ、身体がリモコンから離れなくなる。デビュー作にありがちな緊張感も確かにある。だが、それさえも彼女の持つ天性のオーラに吸収され、完全に「演出」と化しているのだ。
視聴中、画面の美しさに圧倒されるあまり、思わずテレビの明るさ設定を確認した。そして気づく。「いや違う、これは瀬戸環奈が放つ光そのものなんだ」と。作品が終わる頃には、こちらの網膜に刻まれたその輝きが消えず、画面を消してもしばらく残像として彼女が浮かび続ける。これはみんなもよく知ってる、いわゆる“環奈残光”である。
しかし、視聴後に待っていたのは、深い喪失感だった。街に出ても、風景が灰色にしか見えない。夕陽を見ても何も感じない。花屋の店先に並ぶカラフルな花々すら、まるでモノクロ写真のようだ。「この世から色が消えた」というのが、これほどまでリアルに感じられるとは思わなかった。唯一、色が戻る瞬間は、彼女のデビュー作を再生するときだけ。これを“瀬戸依存症”とでも呼ぶべきだろうか。
眼科に行こうと思った。しかし、そこで「先生、目に映る世界が灰色なんです」と言ったところで、「この作品を見てからです」と告白すれば、医者も冷静でいられないだろう。「ちょっと待って、それ僕も診断しないと」と言い出しかねない。それほどの衝撃を、この作品は与えるのだ。
ラストチャプター、魂を根こそぎ回収され、気づけば白旗を全力で振る自分。「すまない、父…俺は負けた。」思考回路すらリセットされた壮絶な瞬間だった。
総評:瀬戸環奈のデビュー作は、ただの映像作品ではない。これは文化だ。色彩を取り戻す革命だ。そして、私たちは今、AVの“瀬戸環奈以後”に生きている。こんな不安定で曖昧な世界で、唯一確かなことがある。このレビューを書き終えたあと、私はまた眼科の予約を忘れ、「もう一度だけ」と再生ボタンを押しているのだろう。「色彩」を取り戻しに...。
柿の実がたわわに実る秋の夕暮れ、私は祖父の家の庭に立っていた。枝にぶら下がる実の一つ一つが、まるで人生の重みのように感じられた。
祖父は毎年、柿の木の剪定に執着していた。必要以上に枝を切り、必要以上に手をかけすぎると周囲から言われても、自分のやり方を変えようとはしなかった。そんな祖父も今年の春に他界し、手入れの行き届かなくなった柿の木は、かえって豊かに実をつけている。
人は時として、必要以上に物事を制御しようとする。思い通りにならない現実に苛立ち、無理を重ねる。祖父がそうだったように、私たちは往々にして自分の限界を超えようとし続ける。しかし柿の木は教えてくれる。時には手を放すことが、より豊かな実りをもたらすこともあるのだと。
熟れすぎた柿は腐り、若すぎる実は渋くて食べられない。人生もまた然り。すべてには適切な時があり、それを無視して急かしても、あるいは遅らせても、望む結果は得られない。
夕陽に照らされた柿の実が、深い橙色に輝いている。その光景は、祖父の頑固さと優しさを思い出させた。人は誰しも、自分なりの生き方で精一杯もがき、時に周囲を困らせ、時に感動を与える。それもまた、人生という木に実る果実なのかもしれない。
渋柿は時を経て甘くなる。人もまた、苦い経験を重ねることで、より深い味わいを持つ存在になっていく。ただし、その過程で腐ってしまうものもある。祖父は最期まで自分のやり方を貫き通した。それは誤りだったのか、正しかったのか。柿の木に問いかけても、答えは返ってこない。
日常系が好きで、推理小説とか殺伐としたものはあまり合わない。女の子たちの人間関係のうつろいを丁寧に描写するやつが好き。上の二作は偶然か必然かどちらも京アニの作品だが(というか山田尚子作品?)、その心理描写の真骨頂とも言える作品だと思う。聲の形の背景はすごく綺麗で、画面がずっと気分の良い休日の朝日のような明るさだった。そんな世界を肯定しているような優しい画面なのに、ドロドロの罪悪感を流しあうようなストーリーがギャップになってヒリヒリと心を焦らす。いつのまにか主人公の罪の共犯者になって、主人公と一緒に糾弾されたり罪悪感に狂ったり、必死にヒロインと心を通わせようとしてしまう。画面の前で見ている人に罪悪感を共有させるというのは、結構高度で強力ですごいことなんじゃないか。恋愛ものでは恋心に共感するし、バトルものでは正義感に共感するけど、それはあくまで理想化されがちな感情であって、等身大の恋心や正義感はみんなそれぞれバラバラだったりする。でも罪悪感は、みんな均質なものを持っているんじゃないかと思って、そこを的確に揺さぶられた気がした。その流れで言うと、けいおん!が自分に残したのは、日常への憧憬だと思う。といってもけいおん!を見た当時の自分は高校生で客観的には青春真っ盛りだったのだけど。けいおん!が描いたのは、劇的な青春ではなく、怠惰で等身大の青春だ。けいおん!の画面で思い出すのは夕暮れの風景。音楽室へ続く階段に窓から夕陽が差し込む。音楽室のドアを開けるとそこには仲間たちだけのコンフォートゾーンがある。それはなんてことのない日常への愛と肯定であって、輝かしい人生のピークを描きながら、そんなピークを過ぎ去ってしまったか、あるいはそもそも経験できなかった人たちの日常にもエールを送っていたのだと思う。とくにオチもない。angel beatsを一気見した余韻のままアニメへの愛を書き連ねました。
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕離家向
夕陽が沈む。
寺では鐘が鳴っている。私の命はきわまった。
冥府には主もなく客も来るまい。
この夕暮れに家を離れ、私はそこへと向かうのだ。
懐風藻。大津皇子辞世。六朝体の流麗な韻律を維持し乱れない。後世の仮託とされるが詩にあるとおり皇子は夕刻に連行され翌日処刑された。遺体は近江の二上山に葬られた。望まぬ争いに巻き込まれ継母によって殺される二十三歳の青年の最期の声が聞こえるだろうか。
最初に声を聞いたのは古い時代の歌人や詩人だった。いつのころからか伝承が生まれた。曰く「皇子は無実」と。沈潜する伝承に形をあたえたのは明治時代の折口信夫だった。しかしこの時代、『日本書紀』を疑うことは禁じられていた。折口は『死者の書』という不気味な小説を著わしこれを表象した。戦後の歴史学者がそれを受けた。『日本書紀』の詳細な解読が始まったのだ。暗喩に満ちた断片的な記述が発掘で得られた傍証史料とあわせて詳細に検討された。緊迫した皇位争い、持統女帝のすさまじい性格が浮かび上がっていく。考古学者は近江朝における二上山の位置と意味を検討し、それが反逆者にふさわしくない手厚い葬礼であることを指摘した。不比等のかけた封印が解かれた。皇位争いは、皇子の意志をはるかに超えた次元で、大津、草壁それぞれを擁立しようとする天智系、天武系という巨大な勢力どうしの闘争として行なわれていた。このとき国家の中枢では、ふたたび「壬申の乱」のような状況におちいることとシンボルの1人が犠牲になることの費用対効果が、非情にも計量されたのだった。皇子は政治的犠牲として殺害され、そこには後の持統天皇が関与していた可能性が高いという現代の学説はこうして築かれた。そのために費やされた時間は1000年を超えている。微細な記録の断片から何らかのメッセージを読み取り忘却の彼方に沈んだ記憶に光をあてる歴史学は、ときにはこのような作業に信じがたいほどの労力を傾注する。それを可能としたのは懐風藻なのか、それとも後世の歌人や研究者なのか。答えは両方であろう。
アーカイブはただ記録する。その声を聞けとまでは言わない。聞くかどうかは閲覧者にゆだねられる。アーカイブの価値は基本的にはその編纂手法によって決定されるのだが、より厳密には、その価値は送り手と受け手の関係性の中に存在する。アーカイブはそれを、ときには時空を越えて繋ぐ。
ついこの間の暑い日、陽炎がゆらゆらと田んぼの上を漂っている。緑色の稲が一面に広がり、その穂先は風に揺れ、波打っていた。私は、そんな景色の中を、花柄のワンピースを着て歩いていた。
そのワンピースは、母が若い頃に着ていたもので、私が小さな頃からずっと憧れていた。色とりどりの小さな花が一面に咲き誇っているようなデザインで、袖はふわりと広がり、夏の空気を軽やかに通す。初めてそのワンピースを着たのは、今年の夏だった。
「お母さん、これ、着てもいい?」と、少し気後れしながら聞いた私に、母はにっこりと微笑んで、「いいわよ。あなたにとっておきなさい」と言った。その瞬間、私は、自分が母の若い頃と繋がったような気がした。母がこのワンピースを着て、どんな風に田んぼを眺め、どんな夢を見ていたのかを知りたかったのだ。
「この道をずっと歩けば、どこまで行けるんだろう?」と私は独りごちた。田んぼの間を通る細い道は、まるでどこか遠い世界に続いているかのようだった。小さな頃から、この田んぼの風景に囲まれて育ってきたが、大人になった今も、この景色が何か特別なものに思える。自然の広がりと、人の手が作り出した風景が共存するこの場所には、何とも言えない安心感と懐かしさがあった。
風が吹き抜け、稲がさらさらと音を立てる。私は一度立ち止まり、空を見上げた。青く透き通った空に、白い雲がぽっかりと浮かんでいる。深呼吸をして、胸いっぱいに夏の空気を吸い込んだ。
「あの頃、お母さんもこうやって空を見上げていたのかな?」ふとそんなことを考えると、心が少し暖かくなった。母がこの道を歩いていた時、同じように心を揺さぶられたのだろうか。私は、母が歩んだ時間を想像し、その重みを感じた。
道の先には、小さな木造の家がぽつんと立っていた。そこは私の祖父母が住んでいた家で、今は誰も住んでいない。子どもの頃、夏休みになるとこの家に遊びに来て、祖父母と一緒に田んぼを見ながら話をしたものだった。
ワンピースの裾が風に揺れる。私は、祖父母の家の前に立ち、静かに目を閉じた。あの頃の記憶が鮮やかに蘇る。祖母が作ってくれたおにぎりの味、祖父の優しい笑顔、そして田んぼの中で遊んだあの夏の日々。すべてが今、私の心の中で生き返った。
目を開けると、田んぼの向こうに夕陽が沈みかけていた。橙色の光が、稲の穂先を優しく照らし出している。花柄のワンピースもその光に包まれて、まるで私自身が風景の一部になったかのようだった。
「お母さん、ありがとう」と私はつぶやいた。このワンピースと、この風景が、大切なものを教えてくれたような気がする。
それは、時間を超えて続く家族の絆や、変わらない自然の美しさ。そして、どれだけ時が経とうとも、心の中に刻まれる大切な記憶があるということだ。
外国人の友達から「おすすめの日本映画ある?」って聞かれる度にクレしん映画をお勧めしてる。
正直、邦画って苦手だったんだ。
暗い画面に展開も遅く、大きな動きもない陰鬱なシーンが淡々と続いてさ、このシーンの観客の解釈に任せますwみたいなのが多くてもうウンザリ。
そんなときに友人から「クレしん映画は面白いよ」って言われてさ、なんとなく観てみたんだ。
そしたらほんっとに面白かった!
展開はちょー早くて、アクション満載。普通のシーンの間にはギャグが挟まるので退屈する瞬間がない。
だいたい1本1時間半なんだけどぎゅうぎゅうに色々と詰め込んでて、それでいて詰め込み過ぎってならずとにかくテンポいいなって思わせる構造がほんとに凄い。
それでいてストーリーもいいのよ。毎度どの作品にも骨子となるテーマがちゃんとあって、それを描き切っているのも素晴らしいんだ。
この前なんか久々に夕陽のカスカベボーイズを見返したんだけど、つばきちゃんはかわいいし、しんちゃんがつばきちゃんを探す最後のシーンなんて何度見たか分からないのに今でも胸にジーンときた。
クレしん映画は邦画の悪いところを全部取り払って、邦画のいいところを詰め込んだ作品だと思ってる。
だからこれからも海外の友達からおすすめの日本映画は?って聞かれたらクレしん映画って答えるつもりだし、クレしん映画みたいな邦画が増えればいいなって願うように思ってる。
そのついでに、豊後高田市まで足を運んで昭和の町を観光して来ました。
①昭和の町
昭和30年代をテーマにした懐かしさが溢れる商店街です。各店舗では、代々伝わるお宝の展示や一品の販売が行われ、観光客や地元の買い物客で賑わっています。昭和32年式のボンネットバスによる昭和の町商店街や、桂川沿いを行く15分程度のミニ周遊は、大変な人気となっています。週末を中心に運行しており、ガイドさんの楽しい案内も話題となり、多くのリピーターが訪れています。
②長崎鼻
海に突き出た岬に位置し、キャンプ場・美術館・海水浴場・アート・海蝕洞穴・花畑(約14ヘクタール)などがあります。海を望む自然豊かな敷地内にある花畑は、春の2000万本の菜の花、夏の140万本のひまわりの時期に絶景が広がり、海水浴場では、キャンピングトレーラーをはじめ、BBQサイト、SUP、カヤック、サウナなども楽しめます。
③恋叶ロード
豊後高田市の海岸線を走る国道213号沿いには「縁結びの神様・粟嶋社」や、「夕陽の絶景スポット・真玉海岸」、「花とアートの岬・長崎鼻」など、ロマンティックなスポットがたくさん。このスポットを結ぶ、約20キロメートルのルートが“恋がかなう道”「恋叶(こいかな)ロード」です。
潮風に誘われて、海岸沿いをドライブ。恋叶ロードで過ごす時間が、素敵なご縁を引き寄せてくれますように―。
①②③全て観光した結果、私が一番印象に残ったのは、やっぱり昭和の町です。
町全体がノスタルジックで、タイムスリップして子供のころの昭和に戻った感覚になりました。
昔のままのお肉屋さんのコロッケ、喫茶店のナポリタン、全て懐かしい食べ物ばかりで感動しました。
昭和の町は、20年前から復活したそうですが、お店を維持する後継者不足で大変だそうです。
本当に楽しい思い出になりました。
細川徳生
ブラジル・リオ市で、国際レベルのサッカーの試合が行われる。その入場料とサッカーくじの売上げをせしめる計画を立てるルパン。果たしてその首尾はいかに!?
地震発生装置でピサの斜塔を破壊するという脅迫犯が現れた。イタリア政府は脅迫に応じ大金を用意するが、ルパンはそれを横取り。逆上した脅迫犯はついに…!?
油田を爆破されたくなければ1億ドルを用意しろと、アラビアの小国に脅迫が。その金に目をつけたルパンだが、人間爆弾を使う相手に手こずる。
パリ中の札束を盗む予告をしてきたルパン逮捕に、ガリマール警部の孫娘である女刑事メロンが乗り出してきた。先代が宿敵同士であった両者の対決の行方は…!?
盗まれた王冠が闇でオークションされる。ルパンは王冠と落札金の両方をいだだこうと計画。それぞれ芝居を打って巧みに進めてゆくルパンたち。その結末は!?
とりあえずPart2だけで40話までだけ見たけどこんな感じ。
https://video.unext.jp/episode/SID0013496/ED00098806
仕事の都合で某県某市に引越してはや数日、しっかりとホームシックに罹った。
これまでに住んだことがあるのは以下の3つの街。
・関東某市
・某海道某幌市
これまでに住んだ3つの街はどこも住みよい街だった。
関東某市は海あり山あり田園あり、駅前の商店街には今なお活気の衰えない老舗の店々が軒を連ね、図書館や博物館、美術館なんかの施設も充実していた。公共交通機関も発達しており、非常にバランスの取れた街であったと思う。
某政令指定都市は東京へのアクセスのしやすさは言わずもがな、街自体の魅力も十二分だった。電車で数駅とかからず商業施設の集まる街に行けるくせに、自宅近くの小高い丘に登れば、木立の向こう側に素晴らしい夕陽を眺めることができた。
某幌市についての説明は不要だろう。東京からの距離こそあれ、大抵のものはこの街で揃う。米津玄師のツアーだって来るし、ジャンプショップだってパルコにできた。新幹線はまあ…待ってればそのうち来るだろう。何より雪と氷がとにかく美しいのだ、あの街は。
話を戻そう。
現在の街に引越してきてまだ数日だが、街の雰囲気がどうも肌に合わない。なんと言おうか、人の気配というか、文化の香りが極端に薄いのだ。
戦後の人口爆発に伴って山を切り開いて開発したような、歴史の浅い街だ。人口はそれなりにいるはずなのに、公共交通機関が驚くほど発達していない。卵が先か鶏が先か分からないが、人々はみな車で移動し、道路の車線数ばかりが多い。
別に、車で移動することは構わないのだ。
何が肌に合わないかと言えば、車通りはめちゃくちゃに多いのに、それなのに、生きている人間の気配があまりにも薄いことなのだ。
延々と真っ直ぐに伸びる道路。道の脇には街路樹のひとつもなく、チェーンの飲食店やら、だだっ広い敷地のカーディーラーやら、巨大な平屋建てのドン・キホーテだのが間隔を空けて立ち並ぶ。そして店舗と店舗の隙間を埋めるような、手入れのされていない灰色の土地。
どこまで行っても誰も歩いていない。かたや、意思があるのかどうかも分からない自動車たちが片側2車線の道路をかっ飛ばしていく。どこまで行っても同じ景色。気が狂いそうだ。
先の記述を見てもらえば分かると思うが、自分は人が紡いできた文化だとか、人の手の入っていない(あるいはほどほどにきちんと手入れされた)花鳥風月だとか、そういうものが好きなのだ。
引越してきたこの土地にはそれがない。あるのかもしれないが、自分の嗅覚では知覚しきれない。
ああ、帰りたい。
どこに帰ろうか。某幌のスープカレーが食べたいなあ。
最近の私は、通勤中にフロントガラスの向こうに見える、雪を被り始めた日光連山のことが大好きだ。宇都宮は、この夏にライトレールが走り始めて、時代の最先端を謳う街だけれど、中心部から少し離れたら畑や田んぼが広がり、その向こうには山がよく見える。よく澄んだ晴れた日に、山の色と形がくっきりと現れているのも好きだし、やや曇った日に、冷たい空気の向こう側で薄ぼんやりと広がる山並みも、これはこれで素敵だなと思っている。
遠くから山を眺めるのも好きだけど、近づいてみるのも、また良い。紅葉の最終シーズンを迎える栃木では、山に近づくと、赤、橙、黄色に葉を色づかせた木々があちらこちらに散らばっている。先週は、宇都宮から那珂川町の方まで行ってきたが、山間を走れば走るほど、ああ良い季節だなと思った。日が落ちるのが早くなって、山は16時には夕陽に照らされるわけだけど、より一層赤みを増した紅葉もまた綺麗。車を降りて、そんな景色を楽しんでいるうちに足元が冷え始めて、それで冬の気配を感じるのも、好きな時間だ。
毎日の早起きは億劫だし、仕事も大変だけど、こういう「ときめき」のチャージをこまめにすることで、人生ってなんか、なんとなく愛おしいなと思い、どうにか過ごしている。