はてなキーワード: うつろいとは
日常系が好きで、推理小説とか殺伐としたものはあまり合わない。女の子たちの人間関係のうつろいを丁寧に描写するやつが好き。上の二作は偶然か必然かどちらも京アニの作品だが(というか山田尚子作品?)、その心理描写の真骨頂とも言える作品だと思う。聲の形の背景はすごく綺麗で、画面がずっと気分の良い休日の朝日のような明るさだった。そんな世界を肯定しているような優しい画面なのに、ドロドロの罪悪感を流しあうようなストーリーがギャップになってヒリヒリと心を焦らす。いつのまにか主人公の罪の共犯者になって、主人公と一緒に糾弾されたり罪悪感に狂ったり、必死にヒロインと心を通わせようとしてしまう。画面の前で見ている人に罪悪感を共有させるというのは、結構高度で強力ですごいことなんじゃないか。恋愛ものでは恋心に共感するし、バトルものでは正義感に共感するけど、それはあくまで理想化されがちな感情であって、等身大の恋心や正義感はみんなそれぞれバラバラだったりする。でも罪悪感は、みんな均質なものを持っているんじゃないかと思って、そこを的確に揺さぶられた気がした。その流れで言うと、けいおん!が自分に残したのは、日常への憧憬だと思う。といってもけいおん!を見た当時の自分は高校生で客観的には青春真っ盛りだったのだけど。けいおん!が描いたのは、劇的な青春ではなく、怠惰で等身大の青春だ。けいおん!の画面で思い出すのは夕暮れの風景。音楽室へ続く階段に窓から夕陽が差し込む。音楽室のドアを開けるとそこには仲間たちだけのコンフォートゾーンがある。それはなんてことのない日常への愛と肯定であって、輝かしい人生のピークを描きながら、そんなピークを過ぎ去ってしまったか、あるいはそもそも経験できなかった人たちの日常にもエールを送っていたのだと思う。とくにオチもない。angel beatsを一気見した余韻のままアニメへの愛を書き連ねました。
前回:https://anond.hatelabo.jp/20230328202632
前々回:https://anond.hatelabo.jp/20230208195420
宮崎県で地震が発生した翌日、震源地に近い場所にさきの冬から越して住んでいる友人と、私の地元で会うことになっていた。
地震発生から数時間は彼女と連絡が取れずに肝を冷やしていたが、「全然なんともなかったよ。明日も行けそう」という気楽なLINEの返事がきて、翌日には彼女と会うことができた。
震度6弱の揺れに見舞われたはずの彼女は、LINEの印象と違わぬあっけらかんとした調子でこう言った。
「地震の後さ、防災無線がずっときこえてるんだけど、『○○市です』っていう冒頭んとこしかききとれなくて。あとはずっと何言ってるかわかんなかったわ」
「そんな住民なら誰でも知ってるような部分しか聞き取れないのヤバくない?」
「右折待ちで停止してて。信号変わったから曲がろうってハンドル切ったけど車がびくとも動かなくて。ほんと全然動かなくて、あ、これ溝に嵌ったのかなって焦ったんだけど、周り見たら道路標識とかすっごい揺れてて、それで地震ってわかったんよね。でも歩行者も、きゃーとかわーとかなってなくて、なんかぽかんとした感じだったし、そんなひどい揺れと思ってなくて。宮崎って普段ぜんぜん地震ないから、みんな何がおこったかよくわかってなかったのかも」
「海をこよなく愛する人以外はすめないね。海をこよなく愛する人にはいいと思う」
と切って捨てた。彼女は海をこよなく愛するどころか泳げもしない。ただ私は「海をこよなく愛する人」という表現がとてもいいなと思っていた。そんな人、絶対友達になれそうにない。
話をしている場所はコメダ珈琲だった。彼女の今すむ土地ほどではないが、私の地元も田舎なので、夜遅くまであいているといえばコメダ珈琲という具合。
午後遅くに合流した私たちは、カフェや居酒屋をはしごし、話したりないからコメダ珈琲に落ち着いていた。
彼女の話がひと段落したタイミングで私は手洗いに立ち、戻ってきたら、彼女は彼女の正面の壁、つまり対面で座る私の席の背面に当たる壁を穴の空くほど見つめていた。
「あ、絵?」
と言って私も見上げる。そのリトグラフには、愛おし気な顔をして顔を寄せ合いソファに並んで座る男女の姿がイラストレーション的なタッチで描かれている。その男女の前には追いかけ合う、おそらく雌猫と雄猫。睦まじい恋人たちの風景。
それだけでは彼女がじっと見つめるには足りないはずだと、さらに注意深く眺めて、私はあることに気づいた。
「……おっぱい丸出しだね」
「そうなんよ。それで見てたわ」
描かれている男女は、ともにきっちりと洋服を着こんでいる。男性に至っては腹のあたりにカマーバンドがのぞくタキシード姿にすら見え、その傍らには山高帽。女性も丈の短い長そでワンピースに網タイツというやや煽情的な姿ではあるが、しっかり服は着ている。ただ、胸部分を丸出しにし、傍らの男性に向かって寄せていた。
「そうなんよ」
彼女はまだじっと絵を見ている。女性の胸の谷間には、ふくよかなハートのモチーフがさしこまれ、そのハートに男性の手がそっと触れている。それは男性に差し出しているものなのか、それとも男性から差し込まれたのか、彼女と私の間で意見がわかれた。いずれにせよ、いかにも愛の交歓と言った様子だが、おっぱいは丸出しである。
「そうなんよね……誰の絵かな。サインがあるけど読めないわ」
「ああそうか」
角度の問題か私の位置からはうまくいかなかったが、彼女の席からはうまくいった。
生まれてこの方寡聞を体現しつづけてここまできた私は、その画家を知らなかった。彼女もまたそうだった。調べてみると、20世紀フランス最大のポップ・アーティスト、くらいの紹介がなされており、軽井沢には画家の絵を蒐集した美術館もあるらしい。大変著名な画家のようだ。コメダに飾られていた絵のタイトルは『ハートのプレゼント』。一貫して男女間の愛を、恋人同士の姿を描き続けてきた画家と言うことらしかった。
「女がおっぱい丸出しの絵、多くない?」
女性の衣服の胸の部分が観音開きになっており、その布を小鳥が両側からついばむことでおっぱいを御開帳的に露出させていたり、おっぱいの上に小鳥がとまっていたり、まるだしにしたおっぱいの先の乳首から開いた傘が出ているように見える絵もあった。なんなら両のおっぱい自体が小鳥、という絵もあった。おっぱい露出バリエーションが豊かだし、どれも真顔だ。
私はこの画家のことが一発で好きになり、「ポストカードとか会社のデスクに飾りたいな。いちばんおっぱい丸出しのやつ。それ見て元気出しながら嫌な電話とか乗り切りたい」と言った。すると彼女は「そんなのやめなよ。何がセクハラって言われるかわからない世の中だから。増田ちゃんのことを貶めてやりたい人に、おっぱい丸出しの絵のせいで足元をすくわれるかもしれないよ。おっぱい丸出しの絵をデスクに飾って風紀を乱しているとかさ」という、令和という時代の空気感そのままのことを言ってよこし、私はなるほどそれもそうだなと思った。
「じゃあやめとくわ」
言いながら、私はこの絵、男性も好きだろうなと思った。男性とは5年前から恒常的にセックスをしている相手のことで、 https://anond.hatelabo.jp/20230208195420 この話に出てくる。
大学の頃は美術部にいたらしいので、もしかすると画家のことを知っているかもしれない。
友人は、「なんかそもそも、女ばっか恥ずかしいところ露出してるの微妙だよね。男もどっか出せばいいのに」と言った。
「出すところ限られすぎてて無理じゃない? わいせつすぎて絵の趣旨がブレない?」
と答えると
「いや、それ言ったらそもそも、おっぱい丸出しにする趣旨からよくわかんないから」
と彼女はきっぱり言った。私はそんな彼女のことをこよなく愛する人だ。
盆の帰省を終え、私は男性の家に行くと、レイモン・ペイネの話をした。概ね上に書いたようなことを告げると、彼はすぐ自分のスマホでイメージ検索をはじめ、美術をたしなんでいたことがあるとは思えないほど爆笑していた。
「ほんまにおっぱい丸出しやんか!!」
「そう、だから好きだろうと思って……」
「大好きや」
男性は臆面もなくおっぱい丸出しに受けていると宣って、おっぱい丸出しの絵をスマホで見つけ出してはげらげら笑い、しまいには「メルカリに皿が出てる、600円くらいやし欲しいかも」などと言い始めた。
「でもグッズはどれもおっぱい丸出しではないよ」
「どうせならおっぱい丸出しのグッズがほしいよな」
「ペイネ美術館にはオリジナルグッズがいっぱいあるっていってた。そこにおっぱい丸出しのグッズがあるなら行きたいね」
などと我々は知性のかけらもないことをベッドに寝ころびながら言い交わし、おっぱい丸出しのためだけにに軽井沢に行くのはどうなのか、というような結論でその話は結ばれた。
そのうち話題は別のことに移ろった。
阪神大震災のあとタクシーに乗ったら、ドライバーが、道路がこんにゃくみたいになりましたわと言っていた、ああ多分私の友達が右折できなかったのも、道路がこんにゃくみたいだったからかもね、こんにゃくの上は右折できないわと、そんな具合に。やがて雰囲気はセックスという感じにうつろい、彼は私のパジャマのボタンの一番上に手をかけた。そして不意に「ペイネの小鳥やな」と言った。
ついさきほどまで二人で見て爆笑していたおっぱい丸出し画家の名である。我々は本当に学習しない。私はもうどうしようもなくげらげら笑ってしまい、笑い上戸で釣られ笑いが多い男性ももちろん笑いだした。
つまり、セックスの雰囲気はそこで雲散霧消した。我々がセックスレスになるなら、笑いすぎて雰囲気が消失しがちなことが原因となるだろう、おそらくまれな原因なのではないか、などと真剣に言い交わしたあと、私は男性に「でもちょっとまだ勃ってるね」と言った。実際にそうだった。盆の帰省はながかったので、久々のセックスの機会だった。
男性は「ほんのり勃ってんな」と、自分の勃起状態をそう表現した。
「ほんのり」と私は笑った。ペイネの絵にも、露骨過ぎないほんのりとした色気がある、そのような評をどこかで読んだなと思ったので、私は彼に「ペイネ勃ちだね」と言った。
すると、もはやセックスの雰囲気は雲散霧消を通り越して爆発四散という様相になった。男性はひとしきり笑った後、さんざん「なんやペイネ勃ちって!!」と私を叱り、わたしはもう開き直って「そのほんのりとした勃起の状態にぴったりかなと思って」と答えた。
いつかこの男性との間に肉体関係がなくなり、会わなくなるという日がないとは言えない。先のことは誰にもわからない。
しかし私はやっぱり直一の名前と同じで、この先男性と会わなくなり、彼の名前を忘れる日がきたとしても、レイモン・ペイネという画家の名を忘れることはないと思う。
https://www.sankei.com/article/20240723-TVHT65SVYRF5TIMWLTLZN6J7KQ/
イーロンマスクの息子の話、単なる親子関係のもつれだと思ってる人が多いね。
思春期ブロッカーと呼ばれる、未成年に対するホルモン治療のお話。
また打ち続けないと更年期障害が生じることがあるし、長期的には骨粗鬆症や骨折のリスクが高くなる。
さらに寿命だって短くて、ホルモン注射をした人は50代や60代で死ぬ人が結構いる。
これって単に、後先考えない未成年のせいかというと、そうでもない。
米国の場合はリベラルに属する民主党を支持するような人がLGBTの思想を広めてるから、ホルモン注射のリスクを顧みないで「これが正しい!これが人生だ!」と自己正当化しちゃうのよ。
未成年だから「社会は社会。自分は自分」と切り分けて考えることができない。
性転換で儲けるために未成熟な人をそそのかして食い物にしてる、悪い奴の存在も大問題。
過激な表現があるけど、だいたい以下のポストで言及されてる通りだ。
https://x.com/kawananikasann/status/1815571478018228546
未成年で勢いでホルモン注射して、後悔してる人は結構いて、話がエグイ。
https://x.com/hitomi_malimi/status/1815597466508742746
私がTwitter(現在はX)をはじめたのは、2009年の11月ごろであった記憶がある。いわゆる「オタクの雑多垢」であり、その時好きなアニメやゲーム、ファッションやメイクや音楽など雑多にいろいろなものに興味を示して、毎日が楽しかった記憶がある。昔からのフォロワーが成人したり、結婚したりとライフステージが変わったり、私自身もまた結婚をしたりと年数を経るにつれて変わりゆくものを楽しんでいた。
私は興味があまりにもうつろいやすく、その時ちょうどあるブラウザゲームにはまっていた。オタクである私は当然それの二次創作をも愛していた。自分で作品を書いて合同誌に寄稿させてもらうこともあった。
その、ある年の話である。そのブラウザゲームの二次創作の作家が、ちょっと炎上したのだ。彼女が推していたキャラクター(カップリングだったので二人)は私も好きだったので、どうか界隈に迷惑をかけるようなことはやめてくれという思いでその話題を追っていた。
しかしながら炎上は止まらず、火元である彼女が火に油を注ぎ、結果同人作家としての悪名というのか、名前を出せば「ああ、あの人ね」となるような印象づけまでもされるほど有名になってしまった。
私は彼女を追っていくにつれ、いつのまにかヲチ垢になっていた。
彼女のよくないところを公開ツイートで言及し、批判しているアカウントに同調したり、彼女のツイートをリアルタイムで追ったり。
そのうちに、多くのヲチ垢には「質問箱」や「マシュマロ」があることに気づいた。それは匿名で、ユーザーに質問ができる外部サービスであり、それをご意見箱として利用しているヲチ垢というのが当時多かった。
「なんて便利なものがあるのだろう」と私もそのまま設置する運びとなり、質問箱には連日彼女の話題や、彼女の友人のこと、それから何気ない日常のことなどが投稿されるようになった。それに答えるのが楽しく、また他者にそういうはけ口、あるいは相談されることがなんとも誇らしいようになってきたのだ。もちろんこころないことを言われることもあった。すると、私の意見に同調する人が代わりに箱に批判の意を入れてくれるようになった。
今思うと完全に場外乱闘で、クソ恥ずかしいし痛いのだけど、当時は自分がご意見番のようで楽しかったのだ。
公開で箱を置きヲチ垢をしていると、ヲチ垢のフォロワーも増えていく。TLはそういったことで埋まり、いつしかかつて楽しかった、好きだった作品のことや、おいしそうなパンのことは見えなくなってしまった。それでも当時私はそれが気持ちよくて、誇らしくて、たまらなかったのだ。
終わりは案外あっけなくやってきた。飽きたのだ。飽きたというより辟易した。ある時昔からのフォロワーたちに食事に誘われ、新宿の焼き鳥やさんで串もりとうすい割もの酒をたしなみながら話す機会があった。フォロワーといえど住所も名前も知りえる、もはや腐れ縁のような人たちだった。
するとどうだろう、私だけその会話についていけないのだ。他人につきまとってああだこうだと口角泡を飛ばし合っていた自分は、いつしか自分が一番好きなジャンルの、新作が出るという会話にすらついていけなくなるほどのめりこんでいたのだ。
私は愕然とした。思えば彼女たちのツイートすら目に入ってはいなかった。ヲチに一辺倒で、質問箱に信者とアンチを集めて、それで自分の言葉はさも特別であるというように胡坐をかいていたのだ。
帰宅してTLを眺めた。いつもの通り質問箱にはたくさんのメッセージがある。TLにはやらかしたコスプレイヤーや、不潔で話題の作家などのヲチ情報であふれかえっていた。
昨日までなら「今日は何か収穫あるかな」とか、「この箱主さんの続報まってたんだ!」って思えたことが、なんだかすごくくだらなくて、無意味なことに思えてならなかった。そんなことより今すぐに、推しジャンルの新作の話のことが知りたくて仕方がなかった。
私は化け物になっていたのだ。承認欲求を満たし、よくない行いをしたものを叩き支持を集めることで、まるで自分が「オタク界隈に一家言ある人間」のように思えていたのだ。
そう気づいたとき、ひどく恥ずかしく、人生に何の関与もしない、言動と化粧がキモいレイヤーなんかに入れあげてることがしょうもなさすぎるとおもったのだ。
私は質問箱をやめた。ついでに昔からのアカウントを削除した。そこにはヲチ垢さんのFFがたくさんいたので、ブロックするのも忍びなかったのだ。
私の新しいアカウントには、昔から仲良くしてくれるフォロワーと、新規で仲良くしてくれる方ができ、楽しくやっている。
それでもオタクアカウントなので、そういったヲチで、箱をもつユーザーがRPで流れてくることはあるのだ。もちろんオタクじゃなくても箱を置いているユーザーはいる。
だけどほんとに、箱にぬくぬく虚栄心を育てられて、ご意見番になったつもりの人が多いなととみに思うのだ。私がたまたま辞めてよかったと思うタイプの稀有な人間なのかもしれない。
(前回のご報告)https://anond.hatelabo.jp/20230915214213
とてもすてきなねこと長い間ずっといっしょに暮らしてきたのですがしばらく前に亡くしてしまい、いろいろあって今は代が替わったやっぱりすてきなねこと暮らしています。最近ひんぱんに掃除をしても部屋の隅が毛だらけになるなあと思っていたところ、なんだかねこが前よりふっくらしていることに気がつきました。ねこの衣替えに季節のうつろいが追いついたことをことほぎ、ここに駄文を記します。
昨年のこのくらいの時期に話題になった、ねこの毛皮を模した毛布のシリーズがすごく欲しいと思ったもののいつも品切れで買えずくやしい思いをしていたのですが、そろそろこたつを出そうかと思案していた際にふとそのことを思い出したところ、よいタイミングでちょうどいい大きさのキルトラグを手に入れることができました。早速こたつの下に敷いてみたところ、あれ?なんかちょっとこれはねこではないのではないかと思ってしまったのが先月のこと。ですが先日ふっくらちゃんを撫でながらこたつに潜り込むと、あれ?まさにこれこそねこFeelではないですか。と今さらのように気がついてしまいました。浅薄にも短絡的に見当違いなこと思ってしまい大変申し訳ありませんでした。YESふゆげねこFeel
あんなに暑かった日々が嘘のように冬へと変わっていくと、ひともねこも暖を求めてお互いの距離が近くなります。在宅勤務中に膝にお乗せすることはこちらとしても大歓迎ではあるのですが、ひとはねこをひざに乗せることだけに集中すべきであり、キーボード操作等余計な振る舞いをすることは許さない。と増田の腕をぎゅっと抱きかかえたりされるのはちょっと困ったりしますが、まあそれもいいかとも思ったりしています。実は最近増田にとってちょっとめんどくさい仕事が増えてきたこともあって、衝動的にハンモック(スタンド付き)を購入してしまいました。部屋が猛烈に狭くなることと引き換えにコロンビアで手作りされたハンモックに包まれてゆらゆらすることでとんでもない快楽が得られるわけです。ただ、増田がハンモックにすっぽり隠れてしまって視界からいなくなることはふっくらちゃんにとってとうてい許せることではなく、増田が増田の使命を果たすことを助けるべく外側からコロンビアで織られた綿布をバリバリとなさるのでひええと飛び出るわけですが、そのうち一緒に包まれてゆらゆらできるといいなあと増田は思っています。
夜になれば前回の冬と同じようにふとんの中に潜り込んできて、前回の冬と同じように増田のわきの下で一周ぐるんとまわったあと耳のうしろを撫でてもらう体勢に入ります。でも今は増田がぐっと腕を伸ばさないと耳のうしろが撫でられなくなってしまいました。増田にはなんだかそれがとてもとてもいいことであると感じています。こちらからは以上です。
あるいは、クレヨンしんちゃんはいつまで幼児なのか(幼児だからという免罪符でセクハラや暴言が許されるのはいつまでか)問題。
グラブル時空のリリィはロリキャラのままなのかというと、もうサービス開始から10年近く経過してるわけで、リリィもそろそろロリキャラから脱してもいいと思うんだよね。
実際、サザエさん時空と表題に書いたけど、グラブルは正確にはサザエさん時空ではない。主人公のグランジータはどんどん逞しくなっていって全空最強設定の十天衆を統べし者になっちゃうし、他のキャラクターたちもそれぞれ恋愛したり戦ったり自分の課題を克服したりして精神的に成長してる。
サービス初期からいるリリィもそろそろ無垢なロリキャラから少し成長してもいい、というか、むしろ成長させてあげたい。無垢な子供をいつまでも無垢のままで閉じ込めておくほうが歪だと思うんだよね。グラブルの場合、特に中盤のシナリオテコ入れ(主人公のグラジタの内面を掘り下げるようなシナリオをぶち込んで来たり)でキャラクターをサービス開始の時点より成長させてきたし、そこにリリィもついていかせてあげるのが自然の成り行きだと思う。
まあ、これはサービス開始初期からゲームに触れて時間経過を経てきた側の理屈で、つい最近サービス開始してリリィを無垢なロリキャラとして認識したのはちょっと前みたいな人からしたらロリキャラはロリキャラだろとしか思わないだろうけどね。
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書き足しが長くなってきたので追記でまとめ
・これはリリィの設定的に、水属性>風属性という属性変更が変化、成長を示唆してるの。
氷の国のお姫様で氷使いで水属性なのが、属性が変化してる時点で既に「あれっ?」って気づくんですよ。
彼女は春を探してる。風属性はカラーが緑なので、イメージとしては春の到来と被らせてるんだろうなとわかる。
風属性への変更は思春期の到来の暗示だろうなーとプレイヤー的には察するの。
薄衣姿はそういうテーマがあって選択されたんだろうし、単に脱がせたいから脱がせたって話じゃないよってこと。
・暖かくなれば厚着を脱いで、着るものも薄くなる。
キャラクターイラストで表現しようと思えば、なるほどこうなるよなと思ってるよ。
でね、
これが認識のズレで、成長したので、もう子供じゃないんだよね。
ロリキャラをはだけさせるの許しがたい、という人たちは、リリィはロリのままでずっと無垢なおこちゃまキャラだと思ってるから許せない。
けど、その前提は違うよねと。
リリィはもう子供じゃなくなったんだなと思ってるこっちは、扱い的にはイオやクラリスぐらいの少女たちの層に移行したんだなと思ってるので、
ペドポルノは許せないって形式で叩きたい人の認識はそりゃ違うだろと思う。
むしろ、このグラフィックは、画題として春の訪れ、少女の変化を表現したいのだなと解釈できるので、なるほどと納得するわけ。
「蘭厳しめ」とはコナンの毛利蘭のヘイト創作だが、なかでも胸糞悪いのはこれらの話だ。
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-1629.html
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-2296.html
http://haruharu786.blog11.fc2.com/blog-entry-2306.html
「清純派失格編」では「性格を改悪されて露出高い格好をした毛利蘭がモブ男に貢がせて、『奢ったんだからヤらせろ』と男から下着に手を入れられる性被害を受けて空手で大怪我を負わせた蘭が、一方的に加害者扱いされ誰からも味方されず、自業自得だ奢られたならヤらせるのは当たり前と言われて発狂する」という胸糞悪い話なのだが、
コメント欄で作者達は「蘭ざまあw蘭が悪い自業自得!味方なんていませんよw」と集団で嘲笑っているのだ。
また、「園子のうつろいゆく友情」編では、新志前提で水着で痴漢にあった蘭が「あんな格好して誘ってるようなもの」と周囲からセカンドレイプを受け味方がおらず、園子もそれに同意する、という内容である。
これまた、コメント欄で作者達は蘭の自業自得wと嘲笑っている。
中年女性達が、架空の女子高生を性被害に遭わせ、集団で自業自得だと嘲笑う様は大変醜くてトラウマものだ。
蘭が好きとか嫌いとかそういう次元の問題じゃない。彼女達は、性犯罪は女が悪い自業自得だと思っているんだろうか…
「蘭厳しめ」の内容ってそもそも、よくある女叩きネタなぞってるのが多いしな…
余談だがこの雪月花桜は、引き寄せの法則だのパワーストーンだの「子供は叩かれるために生まれてきた」とほざく心屋だのに心酔しているらしい…
もともと女性一般から広くモテたいとか、誰でもいいからセックスをしたいとかさせてほしいとか、社会から魅力的な男性として認められたいといった願望はない。俺が惚れた女がたまたま俺に惚れてくれないという状況がン十年続いているだけだ。しかし世間一般ではその状況こそ恋愛弱者とされているのだろう。俺からしてみれば弱者という自覚などないしこうした現状を特に気に病んでもいないが、うるおいのない人生であることもまた事実だ。たしかに人生はパサパサだ。顔は脂でネチョネチョしているが。さて、独り身の男がうるおいのない人生に慰めを見出すとしたら? もっとも手軽な手段は読んで字のごとく自慰である。というわけで、ここから先はオナニーの話をします。恋愛弱者論は出てきません。お引き取りください。
100%イマジネーションだけで登頂できる程度にはまだ元気な私だけれど、もちろんよいおかずがあればそれに越したことはない。私の世代の男性はさまざまなおかずで食事をしてきた。うつろいゆくエロメディアの変遷をすべて経験してきた。いや、ピンク映画は経験してないか。まあいい、それはさておき、自宅の電話線に通信モデムが接続されるまでの長い長い間、私の主食は紙媒体だった。エロ本、エロ小説、エロマンガである。劇画タッチの暗くて薄汚いエロマンガに代わってアニメ調のかわいらしい絵柄の美少女エロマンガ雑誌が続々登場し、それに夢中になったりもした。アダルトビデオもすでに文化としては大輪の花を咲かせていたが市場的にはレンタル専用の位置づけで、日々の主食とするにはコストがかかりすぎるごちそうだった。どんなに気に入った作品でもレンタルは返さなければいけないし、セル用VHSともなると1本が1万円以上したのだ。
こうしたおかず環境はインターネットの登場で激変し、通信環境やパソコンの処理能力の向上でもう一度激変した。このあたりの変遷はくだくだしく振り返る必要はないだろう。かつて、何世代ものダビングを経て裏か表かすらよくわからなくなった飯島愛のビデオに目をこらしていたことを考えると、常時接続のネット回線からフルハイビジョンの無修正動画が無料でドバドバ降ってくる現代の状況は「隔世の感」などという月並みな言葉では語り尽くせない感慨がある。「この世の春」が少し近い。
もっとも、この変化はあくまでも量的な変化に過ぎない。ガビガビの飯島愛とフルハイビジョンの七沢みあの違いは、端的には解像度と入手性だけであり、メディアとしての質的な差はないと言える。どっちも同じ動画だ。そこには、かつてエロ本(静止画)に代わってエロビデオ(動画)が登場した時のようなパラダイムシフトはない。作品の内容についても同様である。80~90年代のAVに比べると現代のAVは内容がめちゃくちゃに高度化していて、とんでもない美人がとんでもなくエロいことをとんでもない演技力でやってのける時代になったが、これとても地道に連続的に向上していった結果であり、その間に何か飛躍があったわけではない。
この先もこういう線形な向上がひたすら続くんだろうな、と俺は思っていた。モデルはますます美人になり、エロ演出はますます洗練され、解像度は4K、8K、16Kとますます向上し……そのうちテレビも買い換えなきゃだな、と。この先に非線形な、飛躍をともなうパラダイムシフトが起こるとは思っていなかった。
ところが2016年になってそれは起こった。アダルトVRの登場である。
それはまさにパラダイムシフトだった。静止画が動画になったあのパラダイムシフトさえ超える革命だった。初めてアダルトVRを見たとき、「これは今までのAVとはまったく異質なものだ」と私は確信した。
VRゴーグルをかけて再生を始めた時、自分は行為の「当事者」になっていた。それまでのAVでは(一人称視点モノであっても)自分はあくまでも「傍観者」だった。見慣れたハウススタジオで繰り広げられている知らない誰かと誰かの性行為を神の視点で眺めるだけの傍観者だ。男優の求めに応じて、あるいは自発的に女優が行う行為の淫靡さ大胆さ、背徳さや不潔さ、それを傍観して興奮するのが従来のAVだ。AV嬢は裸になるのが当たり前だし、裸になるまでのチンケな三文芝居など早送りするしかない。
しかしアダルトVRはそれとはまったく違った。なぜか間取りをうっすら知っている家の中に自分はいて、目の前にはめちゃめちゃきれいな女の子がいる。冬服に変わったばかりで今タンスから出してきたようなブレザーの制服を着ている。樟脳のにおいがしてきそうだ。その子がこっちを向いて「うふふっ」と笑う。こちらもつられてつい笑ってしまう。「ンフッ」 今までAVを見ていてそんなことがあったか? 俺はなかった。画面の中で何が行われていても、握力と緩急の調整こそすれ、表情は真顔のままだったと思う。
驚くべきは女優たちの演技力だ。アダルトVRは基本的に「女優の一人芝居」である。自分役の男優はいるがただの木偶であり、ストーリー進行はすべて女優の演技に任されている。女優たちはこれを見事にしてのけるのだ。イッセー尾形とまでは言わないが、正直私はAV女優たちがここまでちゃんとしたお芝居をするとは思っていなかった。また、そのくらいアダルトVRは女優の演技力が重要なジャンルなのだった。棒読み学芸会の芝居だとまったく白けたものになってしまうのだ。結果として、ただかわいくてスタイルがいいだけの女優ではなく、きちんとお芝居のできる女優が日々発掘され、適性が見いだされ、人気を得て活躍していくようになった。
一人称AVというジャンルは古くからあるが、久しくマイナージャンルであった。しかしここへきて一人称AVは突然業界のどセンターに据えられることになったのだから世の中わからないものである。
一人称という形式により、2Dでは早送りしていたような行為前後のたわいもないドラマシーンががぜん意味を帯びてきた。この女性は下宿の美人管理人さんで、俺はしがない浪人生。この女性はかわいい妹で俺はモテない兄貴。この女性は神待ちJKで俺は一人暮らしの冴えないおっさんリーマン。2Dではわりとどうでもよかったそんな設定がいちいち重要になってきた。その設定に没入すればするほど、目の前の女性が服を脱いだ時の衝撃と興奮が大きいのだ。もし美人教師やかわいい看護婦さんが「現実に」目の前で服を脱ぎだしたら、誰だってびっくりするでしょう?
風呂上がりでバスタオルを胴に巻いただけの妹が俺のほうに上半身をのり出してきて、急にまじめな顔になって聞く。「ねえおにいちゃん、そらのおっぱい見たい?」俺はあまりのことに声も出せずただブンブンと首をタテに振るしかできなかった。「ほら!」バスタオルの前が勢いよく開かれた。椎名そらの、いつもAVで見ていたあこがれの椎名そらの、あの白くてすべすべしてふっくらとまろやかで、ぷにぷにと弾力のあるかわいい乳房が、俺の目の前でぷるんと揺れた。「あっ、あっ…!!」人は感極まるとカオナシみたいな声が出てしまうことを知った。「興奮する?」「うん…する…する!」思わず答えていた。
目の前に素敵な女の人がいて、自分を信頼して親密に身を寄せてきてくれるあの幸福感が脳を満たす。「幸せ物質」みたいなものがあるとしたらそれが体中を駆けめぐる感じ、2DのAVでは決して味わうことのないゾクゾクする感じがアダルトVRにはあった。もちろん相手が生身の女性だったらその歓喜はもっとずっと大きいはずだが(長いこと感じていないのでどのくらいか忘れてしまった)そんなことはもうどうでもいい。少なくとも2Dにはそれがなく、VRにはそれがあるのだ。
心通じ合うパートナーがいなければこの先ずっと得られないと思っていたあの歓びを、わずかでも擬似的にでも感じることができたし、ゴーグルをかければいつでも感じることができる。そしてこの先まだまだVRゴーグルの性能は向上するし、きっと動画の解像度も上がっていくだろう。素晴らしいじゃないか。コロナにおびえながらキャバクラや風俗に通わなくてもいい。俺はもう、大丈夫だ。これさえあれば、アダルトVRさえあれば大丈夫だとわかった。生きていける。
https://anond.hatelabo.jp/20201109184717
という文章を書いて400件近くブクマがついたので、それを読んで(読ませてもらって)思ったこと、考えたことについて、以下のとおり書いておく。
もはや、ほぼ愛知県知事リコール署名とは関係のない話になるので、あくまで俺個人の整理のための記述になる。
…
高須院長とその界隈を高みから見物しているつもりで、本当はこの騒動に食い気味にのめり込んじゃって、一番おかしいのはお前だろ、というブコメがいくつかあって、これは実際にその可能性がある。
俺は文中で自身の正気をちゃんと相対化できているつもりだったし、最後も、(俺にとってはもっとも合理的な理解である)愛知県知事リコールにおいては高須院長もその取り巻きも半笑いであって、仮に全てがおちゃらけに過ぎないのなら、頭から湯気立てて正気を失ってるのは俺だけだな、と書いたつもりだった。だから、お前も頭おかしいぞ、と言われれば、「だから自分でそう言ってんじゃん」という気はする。
ただ、「俺はてめえの頭がおかしくなってる自覚があるからつまり狂ってねえ!」というのは当然、矛盾している。
俺は自分のどうかしている具合について認識が甘すぎるんだろう。以前、何かの増田についたブコメで「この増田は自身の頭がおかしいことを自認しているが、おそらく増田自身が思ってるのとは違うかたちでおかしいんだと思う」というのがあって言い得て妙だな、と思った経験があるが、なんていうか、それに近いのかもしれない。
…
・お前は醜怪だ、という話
上の、俺の頭がどうかしているというブコメと似て非なるというか、印象的だったものがあった。
最初に反論しておくと、俺は誰かが真面目だったり熱心であることを理由に、おちょくられるのを無条件に免れるべきではないと思っている。
別に俺も、真面目かつ誠実に世のことを思っている人間に対して辻斬りのように悪意を浴びせるほど邪悪じゃない(とは思っている)。ただ、今回の高須院長の、86万筆という当初の目的に明らかに届かないにも関わらず、いかにも肉薄しているという空気を醸成しようとしたこと、結果として集まった43万筆の中身にも疑義がついているのにその検証を言下に否定したこと、署名活動中にリコール反対派を犯罪者呼ばわりしながら届けた工作活動の進捗を説明しないこと、ははっきり言って不誠実だし、リコールという制度を悪質にショー化する行為であって、それはおちょくられても仕方ねえよな、とは思っている。
で、ここからが少し複雑な話になる。
俺は、相手の悪口を書いたり、内容に虚偽を含めたりしない限り、不誠実で悪質な言動について相手を直接、ネット上でやり込めようとすることは許されると思っている(この考え方は本当に俺の異常性を吐露しているのかもしれない。「不誠実」で「悪質」を、ちゃんと主観を除外して判断できるつもりの上、攻撃のトリガーまで引くんだから)。今回の俺のリプライは、表面上は高須院長の味方にしか見えないものなので、(あくまで俺の中の)基準を満たしている。
一方で、俺は自分がほぼ悪意で行動していることを自覚している。義憤ではなく、私的かつ単純に「気に入らない」という感情にドライブをかけられていて、まともな人間はこんなことをそんなにしない。
つまり、高須院長の言動は真っ当な市民感覚によって非難されるべきだと思うけど、俺が従っているのはそういう倫理観ではまったくないし、取っているアクションもネジクレている。
お前は醜怪だ、という指摘はその点でこたえるものがあった。
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・俺がtwitterで捨て垢を使ってリプライを送った / 先の増田はtwitterで当該のリプライを目にしたまったく別の第三者によって書かれた、という話
皮肉ではなく、おもしれえな、と思った。
この人たちには、本垢で有名人をおちょくったり、そのことを武勇伝めかして増田で書くことは想像を絶しているらしい。どちらが真っ当な感覚かはわからないが、この人たちの方がまともな気もする。
異常でわけのわからない行為を合理的に説明しようとすると、かえって、実態と異なる推論がはじき出されてしまうということで、これは頭を働かせている側がいけないのではなく、そもそも現実に起きていることがのっけからおかしいので、そうならざるを得ない。
おもしれえな、というのは、まるで、先の増田で高須院長たちの行動を理解しようとした俺自身のようだったからだ。つまり、「まったく事実に反した異様なツイートに大量の支持が集まるって、俺の理解できる世界を完全に超えている。もしかして、院長もその支持者も、全然本気でやってなくてふざけてやってんじゃねえのか?」。こんな俺の考えも、見当違いの方向にぶっ飛んだ推測なのかもしれないな、とあらためて思った。
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・今回のリコール運動の中にもいろんな思惑があるよ / 個人の中にもマジの部分と半笑いの部分や時期があるよ、という話
言ってることはわかるんだけど、俺としては以下の1~4のどれかで断言してくれた意見の方が面白かった。
お前が面白いとかどうとか知らねえよ、という感じだと思うが、そう感じた理由はあとで書く。
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・1~4の話
2. 院長はマジだが取り巻きは半笑い、という70過ぎのジイサンを見世物にした構図
ブコメを見ると、1, 4にそれなりに割れて、2、3がちょいちょい、というように見受けられる。
俺はこれが本当に面白くて、おそらくはこれまでの印象や知識によって、あの運動が各人で全然違う見え方をしていることがわかった(もちろん先の増田にブコメをつけた人々の意見なので、世間全体ではまた違うんだろう)。
俺が1ではなく2~4を選ぶのは、あるブクマカが仰っていたハンロンのかみそり(愚かさで説明できることを悪意で解釈してはいけない)が、この場合機能するのかな? という疑念があるからで、俺にとっては悪意や冷笑のために時間と労力を割いて敵方を嘲弄することはちゃんと合理的な行為だからだ。
こうして考えると、人間は自分をモデルにしてしか他者の行動を推論できないことがよくわかる。実際は1の可能性も十分あるだろうと思う。
あと、4の中にも高須院長と取り巻きが共犯ってパターンと、院長と取り巻きの意志共有はされていなくて、結果として4が形成されてるだけってパターンがある、と指摘している方もいて、なるほど、と思った。
いずれにしても、1~4のいずれかが今回の運動のメイン層であり、グラデーションはあっても、あるいは個人内でスタンスのうつろいはあっても、コアになる部分があると思う。
俺が「色んなやつがいるよ」的な解釈にあまり乗れないのは、「巨大な運動の内部に様々な思惑があるって、そりゃそうだろうな」っていう一般論でしかないのであんまり面白くないからだが、(ここから少し大仰な話になるので、狂人に訳知り顔されるのが不快な方はすみません)、もう一つ理由がある。
ブコメを読んで色んな見方があることがわかって、その中には「◯◯に決まってるじゃん」と断言するものもあって、正直言ってこれは便利だな、と俺は思った。
これってつまり、一つの現象をめぐる解釈について、どれだけいい加減な放言を言い散らしても、誰かしらは味方してくれるし、耳を貸すということじゃんな?
もしどこかの世界線で、俺が今と同じくらい世に倦んでいて、今と比べ物にならないくらいもっと金持ちで頭が良かったら、「××について、正解は1~4のうちどれでしょう?」の中で、自分にとって一番得で、自分の憎悪で人がたくさん泡を吹いて苦しんで、みんなができるだけ不幸になる答えについて、それを信じてくれる人たちに頑張って吹き込むのにな、と割とマジで思った。
そういう悪意に対抗するには、どれもが正解に見えるうちのもっとも核心に近いものを常に求めるぐらいが関の山でほかにどうしようもなく、「色んなやつがいるよ」は答えとして絶対間違えようがない一方で、悪意の味方になり得て助かるかもな、と思うので、あんまり好きな回答じゃないな、と思った。
言い換えると、これ! という正解を常に抱えながら、科学的な証拠があれば別の正解に賛同できる柔軟性が市民には必要だ、ということになり、皆さんにはこれができるだろうか。ちなみに俺自身は絶対にできないと思う。
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・オウムの話
「ふざけきってるようであいつらはマジだぞ」という1を選んだ人の中に、オウムとの相似を見た人もいて、そういう見方もあるのか、と思った。なんとなく村上春樹の『アンダーグラウンド1・2』を思い出した。
ウヨの考えてることなんてわかるわけねーだろ、というブコメもあって、俺もまあ先の増田で高須院長の取り巻きのことを途方もないアホか、(俺と同じ)悪意の塊かの二択の後者寄りでとらえてるので、いさめる気も権利もないんだけど、仮にあいつらがマジなら、誰かが高須院長の取り巻きたちの話をマジメに聞いてやったほうがいいのだろうか、とも思った。これは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマリリン・マンソンが学校銃撃事件の主犯だった少年たちに向けた言葉から思いついたんだけど(「黙ってあいつらの言いたいことを聞いてやる。誰もそれをしなかった」)。だけども、俺には無理だ。理解できないやつとも、俺と同じくらい醜いやつとも話す気力も知性もない。善良で体力のある人に頑張って欲しい。
なお、理解の及ばない排他的な方向に加熱している、という意味でのカルトや『ボウリング・フォー・コロンバイン』の例えであって、暴力予備軍とみなしているわけではないことは言い添えておく。
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・ポコチンの皮の話
バカバカしいことだが、俺は先の増田を書くにあたって、高須クリニックで包茎手術をやっていることを確認していた。
https://www.takasu.co.jp/danseiki/
俺がお詫びしなければならないのは、他人の生業を揶揄するような文章を書いてしまったことだ。これは本当に俺の想像力が欠如していた。高須氏にも美容整形に携わる方々にもお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
案の定、新国立競技場の両案には「日本の伝統がー」「日本文化を意識したー」「日本のモノづくりパワーをー」というような文言があふれていた。
で、それに対して「A案のほうが日本の伝統を感じるな」「いやいやB案の方が」とかTwitterでドヤコメする奴らが続々登場中なわけだ。本当に日本国民てちょろいなと思う。後付けでも何でもいいから、とりあえずそういう文言を並べておけばなんとなく納得してくれるんだもんね。
建築の場合だったらとりあえず「木」を使って伝統感をアピールしておけば大体認めてもらえるし、そこに神社建築のうんちくやら日本の伝統色やら“うつろい”系のワードやらを絡めればもうほぼ完璧。一気に「文句言うやつは日本人じゃない」状態の完成なわけだ。
エンブレムの場合は「日の丸」「桜」「富士山」「絆」とかを絡めればOK。大体納得してくれるし、「反対する奴は非国民」と勝手に擁護すらしてもらえるヨ。
建築家とかデザイナーはよく、こういうベタなワードやモチーフを使わずに表現を行おうとするけど、残念ながら日本人にはそれを理解する知性も審美眼もないんだよねー。それどころか「これは日本人の感覚とは違う」とか言われネットであることないこと叩かれだす可能性が高いから、そういうチャレンジは控えたほうがいいと思う。
今回のオリンピック騒動でいい加減わかったでしょ?これからは「ちょろい国民」と割り切って、ベタベタなコンセプトで金を巻き上げていくのが建築家やデザイナーの生きる道。それが嫌なら国外脱出したほうがいいと思うヨ。
私は心のうちに形のない肉棒を欲した。扱けばなにもかも忘れられる肉棒を。眠りに落ちるように想像が現実となる世界を。生温かい泥沼に沈んでいく果てのない“抱擁”を。一方で現実の陰茎はまるで幻想の有機さとは程遠く、ただ排泄器官の一つとして働く以外断線され電子回路のように上手く繋がらなかった。不思議にも器官も私自身も全く自涜に走ろうとは思われなかった。我われは我われに何処までもついてくる影に全部身を委ねても構わなかったが影とは永遠に触れ合うこと無く、けれども数学界の微妙な誤差程度の拒絶を保って離れずに私を構成していた。謂わば私の求めているものとはこの隔たりを蕩かす運命であり、宇宙の手ほどきであった。
世界が私を拒絶するたびに私は選択を迫られた。それは間違いなく献身の自殺か傲慢な己惚れ以外になかった。私は常々正直な人間であろうとした。教育する側の言い分を信じこんだ。不良を笑った。私の綺羅びやかな将来のための穢れ無き投資であった。しかし徐々に徐々に正義はその輝きを失っていった。まるで自然世界のうつろいであった。
跳ねられて死んだ猫の死体はいつまでも道路にあった。私が道路を通る度に猫は痩せ衰えていった。枯れ葉は猫を優しく包み込み、猫は博物館にいる小さな恐竜の如きに変身していくのだった。そうして私は自分の死後に幽かな希望を期待して毎日自転車を漕ぎながらその小さな崇高な生の残り香を愉しむようになったある日、それは何処へか消えていた。車両が毒々しい粉塵をまき散らして横を通った。鬱蒼とした雑木林の中、転生し蘇った力強き“生”を、確かに私は垣間見たのだ。……
歌下手なんじゃね。なんか怖い。
よくわからないけど、怖い。
あまちゃんでの鈴鹿ひ○美に近い、不穏な音程。それに舌足らずさ。
ドラマで潮騒のメモリ○を本気で歌ってるときにもちょっと下手じゃね…?と疑いつつだったけど、今回のCMの歌で確信したね。不安定な歌。まさにうつろいやすい音程。そしてそれが完璧な下手くそではないところがまた、ね。何なのあれ。
視覚情報だけだとすごくかわいいんだけど、あの歌が入ったことで「ん?これは…」と唸ってしまう。無敵のかわいさまで相殺してしまうのではないかと思うくらいに、不安感がある。
※初め「能年玲奈の歌」のタイトルにしようかと思ったけど、それだと能年玲奈の歌っていうのを作詞作曲したのだと捉えられてしまう可能性があったので「歌声」としました。
そしてはてな匿名ダイアリーに投稿するのはこれが初めてです。至らないところがあったらすみません。
この世には情緒豊かで情熱的な方々がたくさんいらっしゃるようで、その場の激しすぎる衝動で子供を作ったり、「愛さえあればやっていける!」と高尚な感情のみを頼りにして結婚したり、惰弱な逃げ道など用意せずに「義」のため、「愛」のために金を貢いだり借金を立て替えたりする風流人を拝謁する機会が多々ある。
「そこまで激しい愛に突き動かされたんだ。さぞかし幸福ある永遠の仲になるでしょうなあ」と感心していればそうでもなくて、あんなに愛を競い合っているように見えた彼らが、数年後には憎しみを競い合っているように見える事もままあるし、子供が生まれた時は満面の笑みで祝福していた母親が、今では般若の顔を被って子供を厳しく折檻しているどころか、逆に親子間で罵り合いつつ喰らいあう場面も多々あるというのだ。
全くもって不可思議奇っ怪、花の散るよりお早いうつろい、人間というのは実に読めませんなあ、と結婚出産関連の怨嗟を覗きつつ独りごちている。
まるで梅よな。花を見る分にはいいが、漬けると途端に酸っぱくなる。単体では到底食えぬが、添え物としてなら程よい味を醸し出す。
満開の桜、松の下の鶴、満月のすすき野にも勝てず、栄えがあるのは鶯止まる満開の梅の花のみ。
頻繁に切り詰めないとすぐ枝が汚らしくなり、鬱蒼とした暗がりを作り出す。古来から親しまれてきているのに、中途半端な位置づけの一スパイスとしてしか影響が垣間見れないのも近しい物を感じる。
それでしかないのに、世の結婚や出産は必然的に人を縛り付け、無理にでも二人三脚しなければ立ちいかぬ仕組みとなっている。
「元気が二倍!」なぶん負担も疲労も二倍、いや、それ以上の重量を抱え込む事になる。特に子供は己を犠牲にせねば育ちもせず、育った後も見続けねばならない危うい存在だ。「梅のみを大切にし、他の花は疎かにせよ」などと戯けた状況だというのに、この世の思慕強き方々は若々しくそれを渇望していると来た。
子供の俺には毛程も理解できませんなあ。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。
例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガーは人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在」であるとして捉えている。
死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。
無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。
その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。
彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。
空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉の語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったからである。
“死”とは一体何であろうか。
我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。
結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。
“死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。
彼岸に存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである。
しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。
我々が様々なものを認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。
例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。
我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである。
死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである。
これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。
しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。
確かに、我々は死を内側に含んでいる。
それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである。
しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである。
死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児の存在にも喩えられる。
しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである。
季節はなんでやってくるのか
どうしてそれはうつろいでゆくのか
恒星があって、その重力があって初めて、惑星の公転運動があり、ひいては季節の移りゆきも生じてくるというわけだ
そして夏は
まちがいなく光の季節で
太陽の季節でもある
何故、時はうつろいゆくのか
かつての輝きを知っているから、新たな輝きに目をすがめることがあるのだ
たとえば、世界の一切が、同じことの繰り返しだったとしても
記憶があれば、その繰り返しごとに違った感想を抱くことができるだろう
そうやって、記憶があればこそ、僕たちは同じところに留まるのではなく、次のステップに進んでいけるのだ
全ての季節の中心に太陽があるように
でも、遠くに行けば行くほど、また新しい記憶を手にすることができるんだ